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神聖天皇主権大日本帝国政府下で初の衆院選、沖縄県は1912年にやっと法施行、1946年は選出せず

2024-05-29 15:16:52 | 選挙

 朝日新聞2021年10月19日の「天声人語」に、「明治23年に実施された初めての衆院選」について、つまり神聖天皇主権大日本帝国政府下での第1回総選挙について、近年の投票実績に比して、「投票率は93%だった。女性に参政権がなく、有権者は全人口の1%という制限選挙だったが、驚きの高さだ」とあった。ところで、私としてはこの事については、もう少し別の角度からの大切な面を伝えてもらいたいものだと思った。

 この衆院選は神聖天皇主権大日本帝国政府が1889年2月に大日本帝国憲法制定とともに公布した議員法衆議院議員選挙法に基づき1890年7月に実施したものである。帝国議会(現国会)は天皇の立法権行使の協賛機関として位置づけており、貴族院・衆議院の2院制で、両院は対等(現在は衆議院優位)とした。貴族院は公族・華族・勅選議員・多額納税者からなり、解散はない。皇室を守り、民選の議員(衆院議員)を抑える役割を担った。衆議院小選挙区制直接国税(地租・所得税・営業税)15円以上の男子納入者による制限選挙で、被選挙権は満30歳以上、選挙権は満25歳以上とした。直接国税15円以上とは、農家では2町歩(約2㌶)以上の地主(当時としてはかなりの豪農)、自家営業や勤め人では年収1000円(現在では3000万円?)以上であった。また、この衆議院議員選挙法は、全国一律に施行したのではなく、北海道は1900年になるまで、沖縄県1912年になるまで施行しなかった差別行政を行った事実を伝えるべきである。このような条件により、有権者は約45万人で、全人口の約1.1%であった。この後、このような高額の税金で選挙権を買うというような制度は、さすがに批判が起こり、財産や収入に関わりなく選挙権を得る普通選挙運動が起こる。また、候補者は立候補した事を行政機関へ届ける必要はなく、「供託金」の支払い義務も選挙費用の制限もなかったが、1928(昭和3)年の男子普通選挙制(中選挙区制)から候補者は行政機関へ届け出る立候補制が実施された。

男子普通選挙法の公布は、1925年5月、第1次加藤高明・護憲三派内閣時。

供託金制度……1925(大正14)年に男子普通選挙法が制定された際、保証金を供託する制度が導入された。「候補者の乱立防止」がその理由で、貧困な労農無産政党系の人々などが立候補の制約を受けた。今日では、衆院・参院の比例代表で600万円、衆院小選挙区・参院選挙区で300万円。没収規定は、衆院小選挙区は有効投票総数の10分の1未満の得票。参院選挙区は有効投票総数を議員定数で割った数の8分の1未満。参院・衆院の比例代表は当選者の2倍を超える立候補人数分。

米国・ドイツ・イタリア・フランスをはじめ大多数の国では制度自体なし。イギリスは約6万円、カナダは約8万円、オーストラリアは約4万円。没収点も日本より低い。

ちなみに、供託金制度は法の下の平等を定めた憲法第14条や議員と選挙人の資格を「財産や収入で差別してはならない」と定めた憲法第44条に違反しているのではないだろうか。

更に付け加えておくが、1945年12月17日幣原喜重郎内閣が衆議院議員選挙法を改正公布したが、米軍政下にあった沖縄県施行の例外扱いとした。つまり、現憲法を審議した1946年の国会には沖縄県選出議員は選出せず、現行の「平和憲法は、沖縄県民を除外したうえで成立」したのである。

(2021年10月26日投稿)

 

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地方自治法改正(指示権)案は岸田自公政権版「国家総動員法」

2024-05-26 11:12:32 | 自治体

 2024年5月14日岸田自公内閣は、「非常事態」に政府が「自治体」に対応を「指示(指示権)」(法的拘束力を有する)する事ができる地方自治法「改正案」(=改悪案)を衆議院議長に提出し衆院総務委員会が審議を始めた。この「改悪案」は一言でいえば、戦前、第1次近衛文麿内閣が1938年4月1日に公布し5月5日に施行した「国家総動員法」の岸田自公政権版であると言ってよい。「国家総動員法」第1条には「本法に於て国家総動員とは戦時(戦争に準ずべき事変の場合を含む以下之に同じ)に際し、国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様人的及び物的資源を統制運用するを謂う」とある。内容は、➀戦時における「人的及び物的資源」に対する統制運用権政府に付与した事、➁戦時規定として臣民の徴用、総動員業務への協力、労務の需給調整、労働争議の防止、物資の需給調整、輸出入の統制、総動員物資の使用もしくは収用、資金の需給調整、施設・土地工作物・鉱業権等の使用・収用、事業設備の統制、統制協定、統制組合の結成、物価統制、出版の制限又は禁止などを列挙、③平戦時規定として職業能力調査、技能者養成、物資保有、業務の計画、試験研究、事業の助成、報告徴収及び臨検検査を列挙、④政府の命令に違反した者を3年以下の懲役又は禁錮、1万円以下の罰金又は拘留もしくは科料に処すとの厳しい罰則規定を定めた。国家の全力を最大限発揮できるよう人的・物的資源を統制運用する事を目的としたものであった。国民経済国民生活のすべてを官僚の統制下におき、その国民の諸権利の統制に大幅な権限を政府に委任する事を定めるものであった。これらを必要に応じ議会の議決を必要としない勅令を以て政府が発動し得るものとした。そのため政府は、帝国議会政党軽視し、政府の権限は増強した。

 近衛内閣は当初日中戦争には「勅令」を発動しないと明言したが法施行と同時に発動し、1939年以降各種の勅令を乱発し、第2次近衛内閣では「改正案」(=改悪案)を1941年の第76回帝国議会で通過させ、統制制限を撤廃し事業統制の権限拡大等を定め、統制を社会の隅々にまで行き渡らせ、政府権力は国民の日常生活の細部に至るまで統制監視を行うようになった。

 現在は「戦時」ではないが、岸田自公政権が「非常事態」に対応するためという「改正案」(=改悪案)の「指示権」は、「総動員法」にある「戦時」を「非常事態」と読み変えれば、この「国家総動員法」とまったく同様の効力効果を有し発揮するものである事は明らかである。

 第1次近衛内閣は、1937年11月9日の閣議で立案着手を決定し、企画院(国家総動員の中枢機関で、内閣直属の総合国策企画立案機関、革新官僚親軍的ファッショ官僚の拠点)を中心に関係各省、特に陸軍省と密接に連絡を取りながら審議を進め、1938年1月に成案、2月24日第73回帝国議会に法案を提出した。内容は、国民経済と国民生活のすべてを官僚による統制とし、その統制に関する大幅な権限を政府に委任する事を定めていた。そのため憲法論からも問題があるとして斎藤隆夫(民政党)らが批判反対した。批判の第1は、「戦時又は国家事変」の際における臣民の権利の制限又は停止天皇の非常大権であるにもかかわらず、それをあらかじめ法律で決めておく事は違憲である。第2は、法律によって個々になすべき臣民の権利の制限又は停止一括して政府の自由に委ねている事は違憲である、とするものであった。これに対し近衛内閣は「日中戦争には適用しない」と明言しただけで、近衛内閣と繋がった右翼は法案反対議員に圧力を加えたり、防共護国団が反対政党本部を占拠する脅迫行為を行った。帝国議会審議過程では3月3日に佐藤賢了陸軍中佐軍務課長が、質問した議員に対し「黙れ」と怒鳴り一喝して脅す「黙れ事件」などを起こしたため、唯一の無産政党であった社会大衆党も法案に積極的に賛成し、帝国議会は軍部の圧力に屈し、3月24日には無修正で可決に至り、第1次近衛内閣は4月1日公布し、5月5日施行した。ちなみに「黙れ事件」の収拾は杉山元陸相が陳謝しただけであった。佐藤は処罰されず、1942年陸軍省軍務局長、45年陸軍中将と順調に昇進したが、敗戦後、戦犯として訴追され、極東国際軍事裁判では「終身禁固」の判決を下された。

 国家総動員法の成立は、神聖天皇主権大日本帝国政府にとって、強力な「高度国防国家」=ファッショ的行政国家に再編成し戦時体制を確立する決定的な画期であった国民にとっては神聖天皇主権大日本帝国憲法が定めていた立憲主義的側面は事実上否定され、政府の統制が隅々まで行き渡り、政府権力は国民の日常生活の細部に至るまで統制監視を行うようになったのである。

(2024年5月18日投稿)

 

 

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皇室典範内容は憲法原則違反、差別の元締め的特徴、玉音放送、東京大空襲、メディア

2024-05-26 10:59:23 | 皇室

 天皇家が最近よくメディアに登場している。天皇家の存在を国民の意識に定着させる事が目的である。また、近い将来において、日本の「元首」の地位に就く上でのムード作りである。『自民党憲法改正草案』第1章第1条には、「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とある。草案解説では、「明治憲法には、天皇が元首であるとの規定が存在していた。また、外交儀礼上でも、天皇は元首として扱われています。我が国において、天皇が元首である事は紛れもない事実ですが、……元首として規定する事の賛成論が大多数でした」とある事が背景にあり、それをメディアが翼賛化して報道しているのである。そういう視点が必要である。

◎現皇室典範に見る天皇家の差別的体質

天皇家は人権侵害(差別)の総元締めである。

皇室典範第1条「皇位継承の資格」では「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」とあり、日本国憲法の男女平等の原則に基づかない男尊女卑思想(女性差別に基づく憲法違反である。2016年3月に国連女子差別撤廃委員会勧告で女性天皇を認めない皇室典範を問題視し、見直し(改正)を求めたが、安倍自公政権は抗議をし削除させた。国会でも岸田外相は「我が国の皇室制度は歴史や伝統が背景にある。女子に対する差別目的とは全く別の事柄である」と説明。菅官房長官も「国民の支持を得て今日に至っている。女子に対する差別を目的としていない」と述べている。安倍自公政権は世界で普遍的な考え方や価値観を認めようとしないのである。この姿勢は選択的夫婦別姓制度においても同根である。

第3条「継承順序の変更」では、「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、……皇室会議の議により、前条に定める順序に従って、皇位継承の順序を変えることができる」とあり、身体障害を持つ場合には、皇位継承から除く事ができるとしている身体障害者に対する差別人権侵害であり、憲法違反である。

第22条「成年」では「天皇、皇太子及び皇太孫の成年は、18年とする」とあるが、国民の成人年齢は未だに20歳であるのはどういうことか。世界のほとんどの国が18歳となっているにもかかわらずである。天皇家は日本国民ではないのか、国民とは別格の別世界の人間である事を表している

第26条「陵墓」では「天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所を、その他の皇族を葬る所をとする」とあるが、墓所の呼び名を変えて差別化しているが、今日その必要はまったくないと思う。憲法違反である。外国ではありえない

以上のような日本国憲法の原則に反した(憲法違反)、人権を認めない内容が定められている事は問題であると思う。このような規則で天皇家を存在させておく事は問題である。

日本国憲法第1条「天皇の地位・国民主権」では「……、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とある事に基づいて、少なくとも改善すべきである。また、天皇制自体を「廃止」すべきである

 『憲法改正草案』第6条「天皇の国事行為等」5項では、「第1項及び第2項に掲げるもののほか、天皇は、国又は地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的な行為を行う」とあるが、これは「靖国神社」の国営化、天皇の靖国参拝を狙っている事をうかがわせるものであるので注意すべきである。

◎「玉音放送」

 今年8月1日付で、「玉音放送」を宮内庁が録音原盤から再生し公表した。「玉音放送」とは、1945年8月15日正午に臣民に向けてラジオ放送された、昭和天皇が自ら「大東亜戦争終結に関する詔書」を読み上げた録音の放送の事である。

 以下、天皇が臣民に訴えた言葉の抜粋(朝日新聞の記事を基にしたが、原本により近い形に修正した)と、矢印(→)以下は私の注釈である。

 「帝国臣民の平穏無事を確保し、すべての国々が共に繁栄する喜びを分かち合う事は、皇祖皇宗(歴代天皇)が大切にしてきた教えであり、朕が常々心中強く抱き続けているものである。」→臣民とは天皇皇族の家来を指し、国民の事。家来は主人の主君のために命をかけて奉公するのが原則。

 「英米2国に宣戦したのも、まさに帝国の自存と東亜(東アジア諸国)の安定とを心から願っての事であり、他国の主権を排除して領土を侵すような事は、もとより朕の本意ではない。」→満州事変以来の中国などとの戦争を日本による侵略戦争であると認識していない。戦争最高責任者である事の無自覚と責任回避。

 「敵国は新たに残虐な爆弾を使い、……」→新たな残虐な爆弾とは、原子爆弾の事でその使用を非難している。天皇制大日本帝国でも、東大と京大で原爆製造の研究が行われていた事には口を閉ざしている。

 「朕はいかなる手段で赤子を守り、歴代天皇の御霊にわびる事ができようか。」→赤子とは臣民の事で家来の意味。家来は主人のために命を捧げるのが原則。

 「東亜(アジア諸国)の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。」→1943年11月に「大東亜共栄圏」の結束を図るため開催された「大東亜会議」に参加したアジア諸国の協力にもかかわらず、アジア諸国の解放ができなかった事が残念であるとの事。「大東亜共同宣言」では「共存共栄・独立尊重・互恵提携・文化高揚などが採択された。ビルマ、満州国、中華民国、日本、タイ、フィリピン、自由インドの7カ国。

 「朕は、ここに国体を護持する事ができ、忠義で善良な臣民の真心を信頼し、常に臣民とともに過ごす事ができる。」→国体とは敗戦までの神聖天皇主権国家を指し、天皇に対する臣民の対応の在り方を護持できた事を喜び、改めて一方的に押し付けている。

 「感情の高ぶりから節度なく争い事を繰り返したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、そのために人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒めるところである」→戦争終結の御前会議では「戦争を続ける事はかえって国内治安の乱れる事が考えられる」(保科善四郎手記)との発言があり、神聖天皇主権体制そのものを脅かすような国内危機の出現を予想した。敗戦よりも敗戦によって起こる混乱と国体変革を恐れた天皇を中心とする支配階級は、国民と軍隊が起こすかも知れない動揺を抑えるために、最後の切り札として天皇の権威を利用(聖断)したのである。戦争終結が「聖断」によってもたらされたという物語をつくり最大限に活用し、翼賛体制化しているメディアは、「玉音を拝して感泣嗚咽」「朝夕詔書を奉戴して再建へ」と「天皇の慈悲深さ」を宣伝した。

 「国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、……総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、……揺るぎない志をしっかりと持ち、誓って国体の精華を発揚し……」→日本は神国であり、不滅である事を信じ、その国体の精華を発揚すべき事を誓いなさいとしている。

つまり、この詔書は、天皇を中心とする支配階級が、「天皇制護持」だけが重要事であって、それを将来の日本国においても不変のものとして臣民に対し念押しをしたものであり、それ以外は何も考えていなかったという事を示している。国民の犠牲も、アジア諸国に与えた苦難や被害や損失なども。この事は、この戦争の本質を如実に現わしている。

 朝日新聞は、記事の最後に「総力戦の行き着いた果てに防空壕で起きた事を、世代を超えて記憶し、風化に抗し語り継いでほしいとの願いを感じる」としているが、余程の「お人よし」である。手前勝手な解釈をしてはいけない。歴史は事実をきちんと押さえなければただの恣意的な作り話となり、誤った評価判断を生む。語り継ぐ価値のあるものとするために、メディアがやるべき使命は、国民が歴史の真実に、より以上近づくための正しい情報を提供する事である。

◎御文庫付属室(防空壕)と東京大空襲について

 戦争終結を決めた御前会議の場となった「御文庫付属室」も「玉音原盤」と同時に公表した。「御文庫付属室」は1943年1月から天皇皇后が生活していた場所である。1945年3月10日の「東京大空襲」時、天皇皇后はどのような行動をしていたのか。渡辺清氏『私の天皇観』によれば、

「1945年3月10日の東京大空襲で奇怪な事実がある。B29が大挙、爆撃を開始したのが午前0時8分、それから7分も経過した0時15分に空襲警報が発令された。その理由は、床の中ですでに安らかに眠っている天皇を起こすのは誠に恐れ多い、という東部軍司令部参謀の配慮から、一秒一刻を争う状況の中で、あたら7分間も空襲警報を遅らせたのである。その7分はたった一人の天皇、45万坪の広大な屋敷の中に広さ500坪余、500㌔爆弾もはね返すという厚さ3㍍のコンクリート、配電、除湿、防音装置に調理室までついていたという堅牢な大防空壕を有していた天皇一人の安眠を妨げないようにという事だったとは、心の煮える思いがする」とある。

朝日新聞1945年3月19日付では、

畏し、天皇陛下戦災地を御巡幸 焦土に立たせ給い御仁慈の大御心 九重の奥深くまで醜翼の羽搏き伝わり、高射砲の轟音響き渡る皇国の危局、朝に夕に一億国民ひとしく忠誠の心いまだ足らざるを嘆き悲しむ、今はただ伏して不忠を詫び奉り、立っては醜の御楯となり、皇国三千年の歴史を太しく護り抜かんことを、誓うのみである。ああ、しかもこの不忠の民を不忠とも思し召されず、民草哀れと思し召し、垂れさせ給う大御心の畏さよ。18日、天皇陛下は帝都の空襲戦災地の御巡幸を仰せ出だされたのである。」→天皇の本心はいかなるものであったか、翼賛体制化した新聞による、「天皇の行為を賛美する」記事はどういう効果を生んだであろうか。言をまたない。

 1964(昭和39)年には、来日した「東京大空襲」の総指揮官カーチス・ルメイ天皇や自民党日本政府は最高の栄誉「勲一等旭日大綬章」を贈った。主戦派のルメイは、太平洋戦争末期のトルーマン政権下で、都市全面爆撃に反対したハンセルに代わって司令官となり、一夜にして10数万の死者をだした「東京大空襲」を含む日本無差別爆撃の張本人である。ルメイは後にヴェトナム戦争下の米空軍参謀総長にもなった。昭和天皇や自民党日本政府が、自らが起こした侵略戦争を、米政府を、どのように位置づけていたのかが分かる。

(2017年3月14日投稿)

 

 

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台湾の「親日」とは何か?神聖天皇主権大日本帝国政府による植民地化により100年先延ばしになった台湾民主化

2024-05-23 22:05:00 | 中国

※以下は2015年12月21日に投稿したものに加筆修正したものである。

 アジア・太平洋戦争が神聖天皇主権大日本帝国政府の敗戦で終わった後、それまで50年間神聖天皇主権大日本帝国政府植民地支配してきた台湾省中華民国政府へ返還されたが、共産党と大陸で内戦を続けてきた蒋介石率いる国民党軍(外省人)が逃げ込み統治した。しかし、士気の低さや驕りのため台湾人(本省人)の人気を失う。そして、1947年に2・28事件が起こった。国民党の弾圧圧政に対する台湾人の反抗である。それに対し、蒋介石(国民党総統)により武力鎮圧(白色テロ)が行われた。かつて植民地時代に日本に抵抗した人々、農民組合の人々、民衆党など(台湾人エリート)が弾圧を受けた。1949年5月に戒厳令が出され約40年間継続した(1987年7月、金門・馬祖以外解除)。政治犯とされた人の最長収監期間は34年7カ月。20年以上は当たり前で2万人。約4500人の死刑囚を出した。反日勢力であった、当時民衆の側に立った人たちが弾圧されたため、親日分子が残っていった。

 親日分子についてであるが、日本による植民地支配は台湾と韓国では全く異なっていた。韓国では封建制度や地主階級を徹底的につぶしたが、台湾ではそれをせず、地主階級を温存し、親日派として養成した。戦後日本との経済が深まるなかで彼らは復権した。しかし、彼らは自分が親日分子だとは言えないため、看板として付け替えたのが「台湾独立派」ということである。その実態は「親日」ということである。

 李登輝氏(2020年7月30日死去)は1996年に初の総統直接選挙を実現し台湾の民主化を推し進めた、と日本のメディアが高く評価する報道をしている。しかし、今日の日本の主権者国民は、これより100年前の日清戦争後の1895年5月末、神聖天皇主権大日本帝国政府が下関条約で清国に割譲させた台湾省を植民地化する事に台湾の人々が抵抗し、独立宣言を発し、台湾民主国を成立させた事実があった事こそ忘れてはならない。そしてそのような台湾省の人々の願いに対し、神聖天皇主権大日本帝国政府があらゆる手段を使って有無を言わせず植民地化を達成しすべての人々の人権を蹂躙した台湾征服戦争を強行した過去があった事こそ忘れてはならない。

 台湾民主国独立宣言文(総統唐景崧名義)は「日本清国を欺凌し、わが国土台湾の割譲を要求す。台民朝廷(=清国政府)に嘆願を重ねるも功を奏せずして終われり。倭奴(=神聖天皇主権大日本帝国政府)不日攻めきたらん事すでに知る。われもしこれを甘受せば、わが土地、わが家郷みな夷狄の所有に帰す。しかれども我もしこれを甘受せずんば、わが防備足らざるが故、長期持続し難し。われ列強と折衝を重ねしも、いずれも援助を期さば台民まず独立せよと主張せり。それ故わが台民敵に仕うるよりは死する事を決す。また会議において台湾島を民主国とし、すべての国務を公民によって公選せられたる官吏を以て運営せん事を決定せり。この計画のため、且つ倭奴の侵略に抵抗せんがため、新政府機構の中枢たるべき人物必要ならん。……」と主張している。

 台湾征服戦争は1915(大正4)年まで続いた。その間の帝国日本陸軍の戦死者は日清戦争を上回った。日清戦争時の陸軍戦死者が1161人、病死7234人、計8395人に対し、台湾征服戦争の陸軍戦死者は1988人、病死者7604人、計9592人といわれている。

  しかし、上記の「独立宣言」に対して神聖天皇主権大日本帝国政府は、圧倒的な軍事力(初めて機関銃を使用)をもって粉砕鎮圧したのである。帝国日本政府は北白川宮能久の率いる近衛師団を急派した。動員兵力はその後の増援部隊(乃木希典率いる第2師団、伏見宮貞愛率いる混成第4師団)を含め、2個師団余の5万人、軍夫2万6000人、馬9400匹。当時の陸軍兵力の3分の1を超えるものであった。台湾省の人々の抵抗の姿は都新聞記者として従軍した大谷誠夫『台湾征討記』では「既に夜も更けたれば敵無かるべしと思わるる方の岸に沿うて300メートルばかり流れ来りたる、東天漸く白みたるを以て最早進行し難し、如何はせんと思案に暮れしが傍らに昼尚暗き迄に生茂れる森林ありて潜伏するには屈強の場所なり、3人はこれ幸いと最も鬱蒼なる中を択んで入り、朝饗を喫せり、是にて携える所の食物は既に尽きたるなり、一行は潜伏所よりひそかに敵の動静を伺うに20人或いは30人づつ此処彼処に群れを為し、中には婦女子にして銃を執るあり、老幼にして槍を携えるあり、糧餉は多く婦人の手に依りて運ばれ宛然米国13州独立のパノラマを見るが如し」と記している。

 神聖天皇主権大日本帝国政府はこの台湾征服戦争を内戦だとして戦時国際法を適用せず、捕虜も取らず兵士や住民を殺害した。

 ちなみに北白川宮能久は1895年10月に台南を陥落させた頃、マラリアで死亡したため、神聖天皇主権大日本帝国政府は官幣大社・台湾神宮及び台湾の諸神社に祀った。敗戦後は、靖国神社に合祀した。李登輝氏は、日本人として海軍に進み、フィリピンで戦死し、神聖天皇主権大日本帝国政府は靖国神社に祀り、敗戦後もそのまま今日に至っている。

また、1930年には霧社で植民地支配に対する抗日反乱事件(霧社事件)が起きた。台湾総督府は飛行機・毒ガス(1928年ジュネーブ議定書発効で使用禁止)を使用する大規模な討伐を行い鎮圧し、敗戦まで植民地支配を続けた。

 上記のような歴史こそ、日本のメディアは主権者国民に伝えるべきであろう。また今日、岸田自公政府が「台湾有事」と称し防衛費を驚異的に増額する問題の発生原因の淵源は、かつて神聖天皇主権大日本帝国政府が中国(当時清国)台湾省を日清戦争の講和条約下関条約により割譲させ植民地支配したという歴史に存在する事を明確にし国民に伝えるべきであろう。この視点は今日の北朝鮮問題南北分断問題においても同様で、神聖天皇主権大日本帝国政府が大韓帝国に韓国併合条約を押し付け日本領土とした歴史がその発生原因の淵源である事を明確にし国民に伝えるべきであろう。つまり、どちらの問題もそもそも神聖天皇主権大日本帝国政府の侵略行為が原因であるという視点に立つ認識が必要なのである。

 米国政府またそれに追従する日本政府が、台湾独立派(反中国)を利用し、習近平政権を危険な悪人視して、習近平政権が中台統一政策達成のために軍事行動を起こすと決めつけ、「台湾有事」なる言葉を吹聴し、日米両国それぞれの国民や台湾省の人々に理不尽との印象を広める事を狙い、危機意識を煽る姿勢をとる事は、日米両政府が習近平政権の中国の国力を抑え込み、世界秩序の主導権において優位に立とうとするための「中国封じ込め政策」を正当化するためのものであり、日米両政府の偽善者による「内政干渉」以外の何物でもないとみなすべきである(日本政府は過去の侵略行為の報復を受けるかもしれないという恐怖感もあるかもしれないが)。つまり真相は、世界秩序に関する、現勢力である米日と新興勢力である中国との主導権争いなのである。しかし残念ながら、すべてのメディアは、主権者国民に対して、神聖天皇主権大日本帝国政府の価値観歴史認識を引き継ぐ歴代政権(自公政権)側に立ち、偏向偏狭な報道を行っており歴史の全貌を報道しようとしていないのが現状である。 

尚、神聖天皇主権大日本帝国政府による台湾の植民地支配がどのようなものであったのかについてはこれとは別に投稿します。

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原爆投下の損害賠償をアメリカ政府に訴えさせなかった吉田茂

2024-05-21 23:02:00 | 核兵器

 原爆投下の犯罪性について法廷で初めて提起されたのは、極東国際軍事裁判(東京裁判。1946年5月~48年11月)においてであった。A級戦犯の弁護人であったアメリカ人弁護士ブレークニーが「真珠湾攻撃が殺人罪に問われるならば、原子爆弾での殺人はどうなるのか」と提起したのであった。しかし、極東委員会を構成していた11カ国から各一人が任命されていた裁判官たちは合議の結果、却下している。

 原爆投下による被害に対する損害賠償請求訴訟の動きは、1952年4月28日のサンフランシスコ講和(平和)条約発効後に起ってきた。それを提唱したのは岡本尚一という弁護士であった。彼は『原爆民訴惑問』というパンフレットを発行し、「原爆投下は国際法違反であり、被爆者やその遺族はアメリカ政府に対し損害賠償請求訴訟を起こすべきである。そして、悲惨な状態に置かれている被爆者を救済し、今後原爆の使用を禁止させよう」と訴えた。しかし、日本政府が講和条約の第19条で「日本国及び日本国民被爆者を含む)による連合国及び連合国民(アメリカ国及びその国民)への賠償請求権を放棄」したという事で、アメリカ政府を訴える事ができないと理解した。そこで1955年4月に、広島、長崎の被爆者5人が後遺障害や家族を失った被害の賠償を日本政府に求めるため東京地裁に提訴した。判決(裁判長古閑敏正、三淵嘉子、高桑昭)は1963年12月に下った。内容は「残虐な爆弾を投下した行為は、不必要な苦痛を与えてはならないという国際法の基本原則に違反している」事を詳細に指摘して認定した。しかし、現行国際法の下では被害を受けた個人には賠償請求の権利は認められない」と賠償請求は棄却した。この時訴訟代理人の一人であった岡本弁護士はすでに亡くなっていた。判決は、今日まで世界で「唯一」原爆投下を違法としたものとなり、この後訴訟の原告の名前から「シモダ・ケース」と呼ばれ海外でも知られていった。

 1996年に国際司法裁判所が示した「核兵器の威嚇使用は一般的には国際法に違反する」という勧告にも影響を与えたといわれている。

(2024年5月21日投稿)

  

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