あげちうのブロマガ

要求と要求の狭間にある混沌

「ゲームが期待通りじゃない」という、それは良くある話ではあって。

一流?の格闘家による戦いじゃ無かったのか?という、それはまあ正論。

 

やっぱりというか、CAPCOMの新作「ストリートファイター6」体感での評価は微妙、というのは有る、様だ。意識的には解る、ぶっちゃけ自分が想定するようなガンプラバトル、”それ”を対戦格闘ゲームで、というのはまず筆頭に近い衝動、ではあり。ただ、SF2には私見では、その為の素養というか、要求?そう言うのが、無い。

結果、このゲームは「遊び」その領域から出る事無く、今に至っている訳で。

「それ以上である必要って有るの?」それは、正論として重い。ただコンピューターゲームの衝動みたいなものだ、「戦争がしたい」その衝動の昇華をどうしても要求される現実。問題の本質?は、”それ”をゲーム業界自身が?実際は否定し続けているという状況があって、そのストレスの中和をどうしても、「あとちょっと」なこのゲームに期待されてしまう、それはまあ、重い。

”現実”のパワーは、その紛争解決機構としての需要ではなく、単に独裁者、「送り手」側の優秀、それしか認めない、という…そんな事態はまあある。

世界は、違和感の中で軋んでいる、そう言う絵はあって。

重い正論がある、「戦争は仮想現実で行おう」現実と大差ない仮想環境、”そこ”で決着に出来れば、実際の戦争は無意味に成る筈。その時、そこに独裁者は居ない、そして戦争も起きない。あるのは違法を罰するという「当たり前」それだけだ。その時、世界からは戦争が消える。

か?というと、中々現状もまだ、難しい訳で。

「(仮想現実で)戦争がしたい」という衝動が解決しないと、今までの作品も再評価、に成らない。対戦ゲームが登場して、ゲームセンターはそれ一色になった、結果それ以外はほぼ駆逐される様な事態になる訳だが、理由としても「意味がない」そのゲームで如何に努力してスコアを伸ばしても、現実にはフィードバックしない、”それ”に至ってしまうっていう感覚は重く有り、故に「その努力が昇華する場所」として、或いは紛争解決機構、そう言うのが求められる。対戦ゲームはそれへの可能性を見せてしまった、のだが。

無茶な絵ではある。ほぼアニメのネタ、だ。対戦ゲームではない他のゲーム、”それ”の習熟度によって「顕現する”スタンド”」それが現れるしパワーアップする。”それ”を駆使して他の敵とストリートファイトをする、結果で世界の行く末は決まっていく、様な。対戦格闘ゲームに求められるのは”こんな感じ”だとしても、それを今再現するのは…ちょっとルートが見えない、というのは、ある。

SEGAが、ゲームを萌えキャラ化して戦わせる様なゲームを考えたり、衝動を汲み上げきれない、そんなもどかしさは重い。

ともかく今は、「こんなもんだ」そこ以上には踏み込めない、ゲーム業界ではある。

「戦争」を境に、推奨と否定、それがせめぎ合っている。

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