実感の様なモノは必要なのだろう。
「ゲームを創れば、50万円位で売れます」
ともかく、「利益は出ます」”これ”に実感出来ないと、「その先の話」は出来ない。
そして、「売れない人」には、その話は出来ないのだ。
本来は、或いは官僚、”そこ”に売れる人、それが必要だった、と言うのはあるが。
それはそこに居なかった、そもそも昭和の頃、「売れる創作者」それは実は、昭和天皇一人しか居ない訳で。
”その”環境で、そこに居る人々の多くは「創作は利益に成る」それを実感できない。
原価20円程度が、一万円前後の値に成るのである。
「売れる作品を創れれば」だ。
”これ”をあらゆる場面で適用し得れば?100万円消費は120万円とかになって返ってくる。税収は上がり、経済は膨らみ、環境は改善され、人々の生活は良くなる。昭和の頃は一部、それは実践されていた、そう言う物だと思っていて。
そう言う物を創って貰いたい。
それを、当時も、いや現在も、官僚は言えない。
「どうやって?」それに返答を持てないからだ、紫綬褒章を受章しようとも。
立場的に、ひしひしと感じた、そう言うのは有ったのかもしれない。
「売れる創作を創れなければ、税収を上げる事は無理だ」
本来はその辺で、「どうすれば?」を真摯に研究すべきだった、のかもしれないが。
研究して居なかったか?それは愚問だろうか、ともかく答えは出ていなかった。
それは今更の話、だ。
ともかく研究し実践したそれは、全く客の興味を引かなかった、そう言う結果はある。
不思議な位に、これには激昂するモノだ。
客への失望の後に暴言が始まり、敵意に変わっていく。
もちろん、第三者的には愚かな様ではある。
とは言え切実さと結果は、余りにも何というか、神は無情過ぎる。
主観でしかないのだけど。
今の状況は、果たして”それ”がまだ残る様か、それとも、自身の想定する様か。微妙に今も判断出来てない。カウンタ制御、その存在は不景気、その原理の様なモノだ。それによる数値の操作は、そのまま「創作は利益に成らない」その理解を助長する。例外的な条件も多い、王の権威、独裁性、市場管理者の否定、嬬魔の影響?今の「”雅”市場」であっても、計算通りには行かない、それは道理としては設定されているのだけど。
創った自分にも、なんで?はちょっと断言できなかったりはする。
誰が意識すると言うのだろう。
「けものフレンズ」は、韓国社会への、或いは”水商売”的な産業の改善を求めて創案されたが、実際の原理としては「売春婦は買ってもいいんだよ、彼らは人間じゃないから」そこには繋がっていて。権力側の現実と”それ”に対して立ち向かう必要はあり、しかしその結果として「社会は財源を失う」事もまた、その反発として現れそれに対して、対案を提示出来なければ、この作品は納得を得られない、そんな「奇妙な高度さ」を抱えてはいて。
”それ”に対して返答出来る人は、実際は「かなり限られる」のだ。
そしてその人は、「王の権威」の様な特殊さを持たない、そんな必要もあって、じゃないと「朝鮮王朝の末裔」それが、再び台頭してしまう。
人間には差がある、神に産まれたら神だが、豚に産まれたら豚なんだよ。
”これ”が正当性を持つ時?経済の発展は止まる…過去の、朝鮮社会の様に。
それでも、”そこ”に、希望は有るだろうか?
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