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日本歴史紀行

歴史紀行リバイバル 16 (歴史紀行 特別編 37 日越外交樹立50周年〜浅羽佐喜太郎 記念碑)

この記事は9月に掲載したものです。


浅羽佐喜太郎公記念碑


天皇皇后両陛下行幸啓記念碑


浅羽佐喜太郎 公記念碑、 
天皇皇后両陛下行幸啓記念碑
静岡県袋井市梅山 常林寺

今月、日本とベトナムは、外交関係樹立50周年の節目を迎えます。

個人的に、ぼくの職場には、数十人のベトナム人実習生が毎年来日し、技術の習得、語学勉強と、一生懸命頑張る姿がとても印象的で、こうした彼等の直向き(ひたむき)な姿を見ていると、彼らの成功を応援したくなります。


上皇、上皇后両陛下は、御譲位される前、最後のご旅行先として静岡県を選ばれ、浜松市、袋井市、掛川市と、県西部のいくつかをご訪問なされ、東京へお戻りになられました。

そのうち、2018年当時、記念碑建立100周年を迎えた浅羽佐喜太郎公記念碑のある袋井市の常林寺を御訪問なされました。


日本とベトナムの友好の関わりは、一人の医者とベトナムの独立を夢見る青年との出会いから始まりました。



記念碑に記されている浅羽佐喜太郎は、1867年 慶応3年3月、遠江国磐田郡東浅羽村(現在の静岡県袋井市梅山)で生まれました。

浅羽佐喜太郎は東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業後、神奈川県小田原市国府津町と故郷の東浅羽村にて医院を開業しました。



佐喜太郎は困っている人を見ると助けずにはいられない性格で、貧しい患者からは決して治療費を取ろうとせず、むしろ金銭を施した程で、慈善活動にも熱心で、神奈川県立第二中学校(現在の神奈川県立小田原高等学校)や前羽村(神奈川県足柄下郡にあった村。現在の小田原市)の消防団設立に当たって多大な寄付をしたり、前羽村や国府津町の小学校で校医を務め、前羽村小学校に風琴(オルガン)を贈呈するなど地域発展にも度々尽力して住民達からはとても尊敬された医者でした。





浅羽佐喜太郎とベトナム独立運動の指導者、ファン・ボイ・チャウとの出会い



20世紀初頭、東遊(ドンズー)運動と呼ばれる日本を舞台にしたベトナムの革命運動がありました。



【東遊(ドンズー)運動】
日本の明治時代にあたる 十九世紀アジアの各国は欧米列強の侵略を受け、植民地化が進んでいました。ベトナムもフランス統治政府の厳しい圧制に民衆は苦しんでいました。



1905年(明治38)、日露戦争における日本の戦勝を聞いたベトナム革命組織・維新会代表のだったファン・ボイ・チャウらは、ベトナムの窮状を訴えて武器援助を求めるため、密出国をして来日します。



ファン・ボイ・チャウは野党 立憲改進党のリーダー大隈重信や大陸事情に理解の深い犬養毅を紹介されます。大隈や犬養らは、日本政府がベトナム革命闘争の為に武器援助をすることは無く、それより人材育成が先であることや、運動の象徴であるベトナム皇族のクォンデ候を早く日本に迎えるよう促します。筆談ながら、国の未来を賭けたで誠心誠意な議論に、同席した柏原文太郎は三国志の話を聞くようであったと、チャウの人柄に大きな魅力を感じています。

犬養は陸軍参謀次長の福島安正や東京同文書院々長の根津一らと相談し、最初の留学生4人を中国人の為の軍人養成校「振武学校」と東亜同文会の運営する中国人のための学校「東京同文書院」へ入学させます。
 

日本の実情が解るに従い、ベトナム民衆との意識の格差に愕然としていたファン・ボイ・チャウは、(ベトナム亡国史)、(遊学を勧むる文)、(海外血書)などを次々と書き上げベトナムに送り込みます。

これを読んだベトナム青年達が、続々と日本留学のため来日してきます。東京同文書院はこれらの留学生のために教室や寮を増設し、軍事教練も組み込んだ特別科をつくってベトナム留学生を受け入れました。



最盛期の1908年 明治41年には、200名に及ぶベトナム青年が日本で学びました。

ベトナム本国では、維新会が宣伝文書の配布や資金集め、留学生の送り出しを組織的に担当しました。

 このような反仏の動きに危機感を持った仏統治政府は、この時期留学生の親族や支援者に対し摘発を進めていました。

日仏同盟の締結で仏政府の強い要請を受けた日本政府は、1908年 明治41年の秋、留学生に解散命令を出します。この為、多くの留学生は日本を離れますが、残った留学生を抱えたチャウは、資金も底をつき生活は困窮を極めていました。



1907年 明治40年、故郷・東浅羽村に帰っていた浅羽は、道端で行き倒れになっていた、フランス領インドシナの民主化運動家だったグエン・フォン・ディ(Nguyễn Thái Bạt)を助けます。

そしてグエンに対して東京同文書院(後の東亜同文書院大学)への入学手続きや学費まで支払い、金銭的な援助をします。このことからやがて、同じフランス領インドシナの民主主義運動家、ファン・ボイ・チャウの耳に入り、2人の交流が始まることになります。


2に続きます。



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