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3・11の記憶<前編> 東北新幹線内での被災と避難

2024年02月04日 | 記録・観察ノート

3・11、東北新幹線内での被災と避難の記憶

平成23(2011)年3月11日 14:46

東日本大震災

東北新幹線仙台駅通過後の第4三本木トンネル内での被災と避難


 

前編


 東日本大震災から今年で13年経過しようとしている。毎年薄れていく自らの記憶を補完するために、あらためて文書として記録し残しておこうと思う。あの時の被災経験談は今後誰かの役に立つかも知れない。


<2011年3月11日14:46・発災>

 あの日。12:56東京発、15:22盛岡着の東北新幹線「はやて27号」に乗車し、新しくできる博物館の打合せに出席するため盛岡に向かう。東京駅で購入した駅弁を頬張り、至っていつも通りの旅の始まりだった。翌日は土曜日なので関係者との会議終了後とんぼ返りする予定で宿泊するつもりはなかった。

 定刻通り東京駅を発車した新幹線は予定通り仙台駅へ到着し、14:38さらに北へと走りはじめた。しばらくすると列車は突然左右に激しく揺れそのまま第4三本木トンネル内で停車した。三人掛け指定席の窓際の席に座り資料チェックをしていたが、この揺れのせいで右肘が窓枠に何度か強く当たり随分荒っぽい運転をするとJRに対して憤慨した。地震発生など考えることもなく、もしかしたら車輪やブレーキの故障かも知れないと思った。しかしほどなく車内は停電した。一車両ごとに前方・後方二か所の非常灯が点灯し、車内放送で地震発生を伝えるアナウンスが入った。詳しい情報を得るため携帯電話を確認したがトンネル内で電波は圏外になっていた。常備しているFM放送ラジオのスイッチも入れてみたがやはり受信できない。その後車内放送が震源地は宮城県沖であることを伝え、安全確認のためしばらく停車すると5分おきにアナウンスし続けた。


<2011年3月11日16:00頃・混乱>

 停車後約1時間経過した頃、地震でこの先の古川駅の電柱が倒れ線路を塞ぎ架線も断線したと放送があった。乗客の安全な救済を第一と考えておりこのままの状態で待機するよう伝えられた。

 「大変なことになってしまった…。」ひとつ隣の席に座っていた中年女性がつぶやいた。声をかけて励ましたいと思ったが、ゆっくりと頷くのが精一杯だった。

 この近くに住んでいるという男性が通路に立って「いつまで待たせるんだ、この近くに住んでいるからここら辺のことはよくわかっている、ここで降ろせ」と強い口調で車掌に喰ってかかった。また酔っ払った男性が「JRは何をしているんだ」と繰り返し騒ぎ立てながら車内をうろつき、仕舞いに他の乗客から「うるさいぞ」と怒鳴られた。こうして車内が不穏になり始めた頃、AMラジオを携帯した乗客がノイズ混じりのニュースを流しはじめ、弱い電波に皆が聞き耳をたてた。細かい状況は聞き取れないが、大きな津波が押し寄せているという。三陸のリアス式海岸はもとより、宮城、福島の海岸線を津波が襲っているようだった。内陸を通る新幹線のトンネル内まで津波が来るとは考えられなかったが、エリア全体が危険な状態にあると感じ不安にかられた。

 気持ちを沈めようとトイレに立ったが、水が流れず停電のため暗闇で不衛生であり安心できるものではなかった。その後、乗務員が大学受験生の人数を確認し始めた。試験を受けられない状況に配慮したようだ。高校生や浪人生らしい若者に声をかけてゆく。自分の周りにも受験生が複数人おり意外と多いことが判明した。また、車内放送からは被災状況を伝えるラジオ放送がしばらく流れてくる。先ほどの携帯ラジオの所有者が乗務員に協力し、車内のマイクで音声を拾い放送を流し始めたようだ。しかしトンネル内のため電波が弱く雑音も多くて聴き取りにくかった。


<2011年3月11日18:00頃・暗闇>

 午後6時を過ぎ、車両のバッテリーが消耗したので非常灯を消す旨の放送が入り、暖房も効かないので各自で窓のカーテンを閉め少しでも寒さを防ぐよう指示があった。真っ暗闇が続いた後、カンテラの灯りを乗務員が一車両にひとつ配置した。暗闇ではすることもなく、新たな情報も入ってこないため静かに目を閉じていた。頭の芯の方で、今起こっている事態を一つひとつ反芻し、これから起こる可能性があることを考えてみた。しかし電波が飛ばないことには家族や会社に連絡を取ることができず、トンネルから出られ電波が繋がったらすぐにこの状況をメールで伝えられるよう送信ボックスに仕込んだ。宛先は、家族と会社、そして博物館の責任者になる予定で盛岡へ引越し作業を進めているはずの自社の大泉さん(仮)の3者にした。どれか一つでも届けば次に繋がると考えた。


<2011年3月11日21:00頃・救済>

 午後9時前、最寄り駅から旅客係が到着し乗客の救済に向け相談するという放送が入り、車内の非常灯が再度点灯した。暗闇で様子は分からないが車外で何かが動いている気配を感じた。

 しばらくして救済方法について車内放送があった。妊婦、足の悪い人、身体の具合のよくない人を乗務員が声をかけ捜している。降車方法として、列車から線路に降りて10分ほど歩き、その後バスに乗って避難所に行くと説明された。

 午後10時頃、連結している「こまち号」から乗客の救済を開始していると放送があり、一時間後の午後11時頃「はやて号」の乗客は8・9号車間のデッキから線路に降りてもらう旨の説明があった。その30分後、そろそろ自分の乗車する6号車の順番になると保線作業員が伝えに来た。

 午後11時45分頃、6号車の乗客は整列して8号車へ移動を開始した。その後、1人ずつデッキから特別に設置された階段を使用して線路に降り立つ。そして6号車全員が降車・整列後、複数の保線作業員に足元を懐中電灯で照らされコンクリートで出来た枕木を踏みながらトンネル内を移動した。


<2011年3月12日00:00過ぎ頃・脱出>

 夜のため暗闇でトンネル内と外の違いに気づくのに一瞬遅れた。頭の上がポッカリ開き空気が流れたと思ったらトンネルの外に出ていた。手元の携帯電話を確認するとちょうどメールが送信されるところだった。

 新幹線の高架線路をそのまま歩き続けた。闇の中でも線路の両脇に雪が積もっているのがわかった。しばらく行くと線路点検用の出口があり、線路の外壁を跨いで外側に移動し階段を降りるようになっていた。階段は想像以上に高い位置にあり雪が固まった状態でツルツル滑り暗い中で慎重に足を進めた。

 その時、携帯電話が鳴り着信を見ると会社の専務からだった。どうやら会社宛に送信したメールが専務まで行ったようだ。

「大丈夫か?心配したぞ、助かったか?」

「はい。今ちょうどトンネルの外に出ることができました。」

 心配してくれていると思うと、足元が滑って転落すると危険なので後で折り返しますとは言えなかった。

「俺の電話は衛星対応だからいつでも繋がる。何かあったら連絡をくれ。お前はお前のできることをそこでしっかりやってくれ。」

「わかりました。ありがとうございます。」

 陸地へ到着した。

 準備されていたマイクロバスに分乗し避難所へ移動した。


<2011年3月12日00:45頃・避難所到着>

 大崎市三本木にある子育て支援総合施設「ひまわり園」に到着した。ここが新幹線に乗っていた人たちの急拵えの避難所になっていた。施設の外でタバコを吸っている人が見えて何故か安心した。

 施設内は自家発電によって電灯が灯っており、到着と同時に入口で手指のアルコール消毒、マスクの配布と靴を入れるビニール袋の配布がテキパキと行われた。また、500ml入りペットボトルが段ボールに無造作に入れてあり自由にもらうことが出来た。(炭酸飲料が中心にお茶も含めて20本くらいあった。)別の段ボールには菓子パンが20個ほどあって自由に持っていってくださいと言われた。こうした避難所内のシステマチックな対応を何名かの人たちが行っていた。彼らが誰なのか分からなかったが、とても有り難く頭が下がった。


<2011年3月12日01:15頃・避難所の様子①>

 すでに先に到着した新幹線の乗車の多くが施設内の床に腰を下ろし、いくつかある保育園の教室のような部屋で雑魚寝していた。廊下にはパイプ椅子が無造作に並んで置かれており空いているところを見つけて座ることにし、靴を脱いで楽になった。室内は冷えていたが、厚手のロングコートを着ていたので毛布のように体に纏うことで暖をとることができた。ひと段落していると段ボールに箱詰めされた使い捨てカイロが運び込まれ、目の前に置かれたのでふたつもらい、もうひとつは後で使用するためにとっておくことにした。

 携帯電話はアンテナが表示されメールを使えた。しかし通話は出来なかった。自宅とやりとりしたがもどかしい思いだった。自家発電機につながっている延長ケーブルのソケットに携帯電話の充電器を無断でつなぐ人がいて、ときどきドンっと音がして発電が止まり暗闇になったが、すぐに誰かが元に戻し明かりが灯ることを何度か繰り返した。みんなが携帯電話を使っているのだ。

 少し間をおいて疲れた顔をした人たちの一団が自分たちと同じように到着した。館内の状況を知るために玄関とトイレ、部屋の間を移動してみたがまだ空き部屋がいくつかあった。入口付近でおにぎりやバナナ、毛布を配布している女性たちがおり、首から下げたストラップをよく見るとこの施設の職員だとわかった。トイレは暗闇の先にあり施設の人が懐中電灯を灯して位置を教えてくれた。トイレでは水を運び続ける若者がいた。暗くてわかりづらいがどうやら建物の裏手にある池の方から水を汲みバケツで運んできているようだった。用を足した後、自らタンクからバケツに水を移し替えて直接便器に流すよう説明された。

 余震が続く中、施設で働く人たちは自分たちの住まいや家族の安否など心配なこともあるはずなのに、真夜中まで避難の人たちのために疲れを厭わずに面倒を見てくれており、申し訳ない気持ちになった。


<2011年3月12日02:00頃・避難所の様子②>

 午前2時過ぎにラジカセが廊下に設置され、緊急放送を流し始めた。これまでわかっている被災状況や津波による被害、余震などについて、暗い施設内にノイズ混じりの放送が淡々と響く。

 カロリーメイトが段ボールごと運び込まれ自由に持っていっていいと言われた。食べ物は次々と届いた。しかし、たまたま自分の前に置かれてはいるが自分が貰えるだけ貰ってしまったら、この場で食糧が配布されていることを知らない人たちには公平に行き渡らない。遠慮することにした。みんな少なからず空腹だったが地震と避難の緊張から食欲がわかない。目の前に食糧があっても今は手を出す元気もないのだ。

 現在この施設には785名が収容されていると玄関のほうから報告があった。またこの施設の正式名称や住所が大きく書かれた貼り紙がイーゼルに立てかけられた。避難者が自分の居場所を、家族や勤め先に知らせる際に不可欠な情報なのだ。この先のことはまだ分からない状態だが、少なくとも今は安全でありそれを誰かに知らせることには意味があった。


<2011年3月12日05:00頃・避難所の様子③>

 結局ほとんど眠らずに夜が明けようとしていた。トイレに長い列が出来始めており、とくに女性用トイレは2か所を利用していたが、暖房器具が不足しておりトイレや通路は冷えて寒かった。薄っすらと明るくなった外の様子を窓から見ると雪が降っており積もり始めていた。

 朝方、施設の外で電話が一時的に通じたが、午前7時頃には徐々に繋がらなくなってしまった。電波の利用が増えたからなのか、基地局が停電してしまったのか分からないが、携帯電話が繋がらない状態はなんらかの不具合によるものと思え不安に駆られる。日帰り出張のつもりで携帯電話の充電器を所持してこなかったため、やがて電池も切れると思い後悔した。しかし、車内に同乗していた受験生と思われる元気な若い人たちが、ボランティアで携帯電話の充電を引き受けるコーナーを開設してくれた。自分の携帯と会社携帯の二つを持っていたが、順番が混み合っているので一度に二つは対応できないと言われ已む無く自分の携帯だけ頼むことにした。


<2011年3月12日07:00頃・避難所の様子④>

 朝食としていちごジャムを塗った食パンが配給された。しかし、皆あまり食べなかった。「ミカンもありますよ」と進められたが食べる気が起こらなかった。配られていた500mlのペットボトル飲料はすでに在庫がなくなり、飲料水の配給は2Lボトルから紙コップに移して飲むことになった。

 午前8時頃、JR職員からここにいる人たちをバスで青森や秋田、仙台へ搬送すると説明があった。しかし、東京や関東エリアに戻るための説明はなく、何度か質問が繰り返されたが要領をえない応答しか返ってこなかった。青森方面のバスに乗車を希望する人たちは、急いで列を作り準備を始めたが、しばらくしてバスが3台しか用意できていないのでまだ搬送できないとメガフォンで告げられた。――1時間後、青森行きのバスが運行開始され、道が危険で何時につくかわからないという。その後、仙台行きの普通バスが来ているので、乗車を希望する人は乗るよう声がけがあったようだが、入口付近はバスに乗ろうとする人たちでごった返していたため聞き逃してしまいバスは出発した後だった。そのバスはJRが用意したバスとは別の定期車両で、普通に運行が行われている様子に多くの人たちは案外交通事情が良いと状況を読み間違える要因になった。バスの運行状況を見るため外に出てみるとタクシーが一台停車しており、このタクシーも仙台まで通常の運賃で行けると言う。仙台まで移動してもその場から行く宛がないので迷っていると乗車希望者が相乗りし走り去ってしまった。その後タクシーは一台も現れなかった。

 状況を共有するため会社にメールすると、人事役員から新青森経由で函館に行き、飛行機で帰るよう指示があった。JR職員に青森行きのバスの運行について確認すると、青森行きはもう来ないと言われた。さらに青森までの道も危険だと再び言われた。


<2011年3月12日09:30頃・避難所の様子⑤>

 秋田行きや三八地区行きのバスも出てしまい、施設の人が掃除をはじめた。この避難所は一時的な避難の場で、これで避難所の機能は終わりだという。行くところがなくなってしまい途方に暮れてしまった。東京方面に戻ることを希望する何人かが「旅行業が着地できないなら発地に戻るのは当然だろう」とJRの職員に詰め寄り、その場にいた人たちも巻き込んで糾弾するような形に展開した。殺気だっている。

 気がつくとメールが届いていた。大泉さんからで引越しを中断し盛岡から自宅(福島県相馬郡新地町)に戻ることにしたので、帰る途中で三本木の避難所まで迎えに行くと書かれていた。

 午前10時過ぎ、仙台行きのバスが来るということになった。先ほど騒いでいた人たちが仙台に行ったあとはどうなるのかと問い、JR側はそこで終わりだと説明したため、責任を問うような同じような問答が繰り返された。仙台は停電しており危険で、避難場所も用意されていないと誰かがいう。仙台行のバスがすぐに来たが、このバスに乗らないよう何人かの人たちが阻止しようとした。しかし仙台行きのバスは発車し、ほとんどの人が避難所を去り100名ほどが残った。関東エリアに戻ろうとする人と、近隣エリアから家族が車で迎えに来るのを待つ人たちだ。再度、一部の人が東京の近くまで搬送するのが旅行業だと騒ぎ、JRは検討すると回答した。


<2011年3月12日11:30頃・避難所の様子⑥>

 外にはバスが3台止まっており動く気配がない。今朝の雪は随分前に止んで空も晴れて静かな長閑な時間が過ぎる。

 東京行きを望む50名程度が一つの部屋に集められたが、JRからの回答はない。たまたま隣りに座った受験生とその母親と話をする。

「盛岡出張の予定でしたが、地震で打ち合わせもなくなり自宅に帰ろうと思っています。」

「……受験のために神奈川から秋田にいく予定でしたが、家に戻るつもりです。この後どうなるんでしょう。」

「JRもこのままにはしないと思います。」

「そうですよね…。」

 避難所からこれが最後の食事ですと、朝食のジャム付き食パンを二つ重ねでラップに包み、お盆に乗せて配給して回ってくれた。この先食糧が手に入るのか分からなかいので一つもらったが、すぐに食べる気にはなれなかった。 


(前編終了。後編へと続く)


 



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