阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

二つ折り

2024-01-03 15:11:36 | 郷土史
母が見ていたテレビ番組で三津浜焼なるものを紹介していた。
三津浜といえば、広島から松山行フェリーに乗ると、昔はそのあたりに着いていた。

さて、三津浜焼はお好み焼の一種で、広島のような生地の上に先に炒めた麺をのせて、キャベツはその次、裏返した後二つ折りにして供されるところが、番組でも広島とは似て非なるものと紹介されていた。

ところが、私には、この三津浜の焼き方は昔の広島と全く同じに見えた。もちろん、具材は三津浜特有の紅白ちくわなどが入っていたが、出来上がりは昔の広島と同じだった。

先に麺をのせるのは、我々はオールドスタイルと呼んでいて、うどん派の私はわざわざこの焼き方のお店を探して食べている。今はそばを後から乗せて裏返し、そばをパリッとさせるのが主流だが、オールドスタイルだと卵と野菜が絡みやすい利点もあり、うどん入りはこちらの方がうまいと私は思っている。

また、出来上がってソースを塗った後、二つ折りにしてトトントンと大きなへらで切れ目を入れて、持って行った皿に入れてテイクアウト、というのが近所のお好み焼き屋さんでは当たり前の光景だった。いまでも、呉市や島しょ部では二つ折りが普通に行われている。広島市内では、他地方のお好み焼きの影響だろうか、昭和50年代ごろから鉄板でへらで食べる人が増えてきて、変容していったように思われる。

前にも書いたが、お好み、なのだから好きに焼いて食えばいい。ただ、番組に出ていた広島出身のタレントも広島とは違うと言っていて、昔の記憶が失われていくのは残念なことだと思って、書いてみた。子供のころ、祖父がバスで広島市内に出かけたらお土産は旧バスセンターの、にしき堂の生地にカレーが入った細長いまんじゅう(名前はしらない)、芸備線で出かけたら麗ちゃんのお好みと決まっていた。包んだ新聞紙にソースが染み出していたものだ。私にとってのソウルフードは、二つ折りで皿に入ったうどん入り、ということになる。


近況

2023-01-24 14:18:03 | 日記
また60日の広告が出ているようなので、ちょっとだけ近況を。

ヤフオクで狂歌「寝さめの花」を落札したのですが(とても高かった)、最近は母も病気がちであまり読書も進んでいません。暖かくなったら、山口の図書館にも出かけて、ぼちぼち進めたいと思っています。

米粉

2022-09-17 16:37:33 | 狂歌鑑賞
今回は、由縁斎貞柳詠「続家つと」(1731刊)、夏の部より一首。


     瑞龍寺雪巣和尚へ暑気御見廻申ける折
     ふし黄檗山より米粉まいりけるを相伴仕りて

  切麦やうとんげよりも珍しきべいふんたりけ空にじゃくする



詞書と歌でページをまたぐので画像は二枚だが、私が持っているのは手書きの写本で、元の木版本には米粉(ヘイフン)、空(クウ)とルビがふってある。




(ブログ主蔵「(写本)続家土産」)


この米粉は切麦やうどんと比べていることから、今のビーフンのような麺であったと思われる。ビーフンの由来については正確に書いてあるものが見つからない。レシピのサイトなどによると、鎌倉時代に日本に伝わったが禅寺の精進料理などに限られ、1960年にケンミンが焼きビーフンを発売するまでは一部の人だけが知っているマイナーな存在だったようだ。ここでも貞柳が珍しきと詠んでいて、禅寺であっても本山の万福寺からもらわないと食べられないものだったようだ。どのような料理であったか、これも現代の禅寺のレシピだと精進の具で炒めたものが出てくるのだけど、ここでは暑気見舞いとあり、暑い時分であるから素麺のように食べたのではないかと想像しておこう。

「珍しき」のあとは、「べいふんたりけ」これは米粉と分陀利華(ふんだりけ)をつなげている。分陀利華は親鸞の正信偈に出てくる言葉で、元は極楽浄土に咲く白蓮、転じてすぐれた念仏行者を指すという。貞柳は東本願寺門徒で、そちらではおなじみの言葉だったかもしれないが、黄檗宗との関連は調べても出てこなかった。そのあとの「空にじゃくする」は、黄檗宗の開祖隠元の遺偈「一切空寂 万法無相」を「 空に寂する」と七文字におさめたのではないかと思われる。上の句のうどんを優曇華としたのも、もちろん仏教の縁語である。

ここで貞柳は「珍しき」だけで味の感想は言っていない。もしかすると、素麺の方が良かった、おいしくなかったということで、下の句は仏教用語で埋めたのかもしれない。

貞柳の「続家つと」には、雑の部にもう一首黄檗宗の歌がある。ついでに紹介しよう。


         東山にて

  南無おみは黄檗のみと思ひしに南禅寺にもとうふ有けり




(同上)

これも元の木版本には、黄檗(ワウバク)、禅(ゼン)とルビがある。

黄檗宗では「南無阿弥陀仏」を唐音で「なむおみとーふー」と唱えるそうで、それで「南禅寺にも豆腐ありけり」という落ちになった。万福寺といえば普茶料理が有名であるが、二首とも黄檗と食べ物を絡めた仕上がりになっている。







なんぼほど

2022-09-10 14:05:32 | 狂歌鑑賞
一本亭芙蓉花撰、由縁斎貞柳詠「狂歌拾遺家土産」(1758刊)、春の部から一首。


         春のはしめのうた

  なんほほと愚かなる身も楽しみをたのしみとしるけさの初春




(ブログ主蔵、「狂歌拾遺家土産 巻上」乙ウ・1丁オ)

立春に紹介した一茶の還暦の句「春立や愚の上にまた愚にかへる 」と同じような趣向ながら、「なんぼほど」という口語が効いていて「楽しみを楽しみと知る」と続ける貞柳一流の味わいのある一首に仕上がっている。

さて今回はこの「なんぼほど」について考えてみたいのだが、まずネットで引くと、「万一其身にもしもの事が有たらば、跡に残ったててごの身では、なんぼ程悲しからふぞ」 という浄瑠璃・夏祭浪花鑑の用例が出てくる。そして、ツイッターのツイート検索でも、

「なんぼほど煙草吸うんや」
「村上選手なんぼほど打つんや」
「なんぼほど走らすんや」
「なんぼほどゲッツーしますねん 」

などと現代でも使われている。しかし見比べてみると、現代の用例は回数・量をカウントできるものが多く、江戸時代の「愚かなり」「悲し」のような程度の甚だしさにはあまり使わないようだ。

さらに書籍検索で昭和の用例を調べてみると、

「手数料の話だすけど、あんたは、なんぼほど取ってはりますねん」 
「オーバーてなんぼ程するのやろか 」
「なんぼほどか聞いとこかい 」
「前にはなんぼほど持っていたのや?」 

などと、ハウマッチと尋ねる場面が圧倒的に多い。今の若者が使っているような回数が甚だしいというのは無いことはなく、

「お母はん、あんた、なんぼほど飲みなはるねん」 

などと出てくるが、ハウマッチに比べるとわずかと言っていいだろう。逆に今は、ハウマッチの場面では「なんぼほど」とは中々言わないようだ。

そして興味深いのは、ヤフー知恵袋で、「なんぼほど」は昔は言わなかった、最近出てきた言葉ではないか、という質問があった。これは以前書いた「ほっこり」でも同じような指摘があった。確かに、私が関西に住んだ40年前に「なんぼほど」は聞いたことがなかった。回数・量が甚だしいという意味での「なんぼほど」の用例は今世紀に集中していて、昭和には少ない。今の使われ方は、最近のものと言って良いのかもしれない。

「ほっこり」は、江戸時代の用例は物理的に加熱した場合、特に蒸気湯気を伴う暖かさであったのに対し、今世紀の用例は心あたたまるがほとんどである。そして、京ことばに意味の違う「ほっこり」はあったものの昭和の頃はほとんど用例がなく、私の国語辞典にはのっていない。

「なんぼほど」も上述のように江戸時代の用例は程度の甚だしさであったのに現代の若者は回数、量の甚だしさと少し使い方が違うようだ。そして、昭和の「なんぼほど」はハウマッチがほどんどであった。ということは、江戸時代の意味を掘り起こしたというよりは、昭和の「なんぼほど」に違うニュアンスが加わったと評価すべきだろうか。古い用例をもう少し探してみたいものだ。

うどん入りを皿で

2022-08-31 15:13:49 | 郷土史
 昔からお好み焼きとはあまり言わなくて、お好みと言うことが多い、今回はそのお好みの話。

もう五十年以上前になるけれど、今の家(当時は安佐郡)で過ごした幼少期、祖父が広島駅で買ってきてくれるお好みは楽しみなものの一つだった。二つ折りにしてあって、包んだ新聞紙にタレが染み出ているのが常であった。タコヤキは移動販売が時々来ていたけれど、近所にお好みのお店は無く、祖父が帰ってきてソースの匂いがするとうれしかったものだ。店の名前は知らなかったが、これはもう舌が覚えている味、おそらく麗ちゃんだと思う。今公式サイトを見たら、私が生まれる数年前の創業と出ていた。

その後、広島市内に引っ越すと、近所のお店には皿を持って買いに行った。やはり二つ折りにして鉄板の上で切れ目を入れてから皿に乗った。もちろん店にはエアコンもなく、夏はかき氷の旗が出て、今度はかき氷を買いに行った。広島のお好みの起源は一銭洋食、テイクアウトが基本であった。そして住宅地のお店には皿を持って買いに行くのが一般的だった。店にはイカ天焼いて昼間からビール飲んでるオヤジはいたけれど、あまりお店で食べた記憶はない。広島で人口当たりのお好み焼きの店が多いのは、住宅地のお店の存在が大きいと思う。

焼き方も、昔は生地の上に魚粉を敷いたら、まず炒めた麺を載せるのが普通だった。今はソバをあとからパリッと焼くのが主流であるが、昔の焼き方も卵とキャベツがからみやすい利点があった。ホットプレートで自分で焼くときは、いつもオールドスタイルである。

鉄板でヘラを使って食べる人が増えたのはカープが初優勝した昭和五十年前後からではないかと思うのだけど、これ以前には食べるときに使う小さいヘラは広島では徳川という関西風のお店以外ではあまり見かけなくて、需要がないから作ってもいなくて、住宅地のお店では小さいヘラを手に入れるのに苦労したとも聞いた。ヘラを使って食べるスタイルは、やはり関西の影響だろうか。某総本店に伝わる屋台の隅で食べさせたのが鉄板で食べる起源という話も、まさかお好みをひっくり返す大きなヘラではないだろう。おそらくは箸で食べていたのではないかと思う。

時代の流れで、近年はパリッと焼いたソバ入りを鉄板の上でヘラで食べるのが普通なのかもしれない。お好みだから好きなように焼けばよい。それで結構だと思う。私はというと昔のままに、うどん入りを皿に入れてもらっている。ところが、ソバ入り、鉄板、ヘラを三種の神器のように考えている人たちがいて、うどん入りを皿で食っていたらケチをつけられることがあるのだ。

流川にFちゃんという店があって、この店のソバは生麵をゆでている。そこでうどん入りを食っていたら、この店の生麺を食わずしてうどん入りとは愚かな事よと常連さん?から言われたことがある。私に言わせれば、うどん入りは魚粉との相性が重要であって、Fちゃんの魚粉は香りが良くて美味であったから通っていたのだが、それからFちゃんには行っていない。そして、他所から来た人にうどん入りを食わせたら、うどん入りもうまいじゃないかと言われるから、うどん入りは邪道と観光ガイドブックに書いてあるのかもしれない。ハラペーニョ入りで知られる横川のロベズの店長は「うどんは甘い」と言う。外国出身者の味覚からするとそうなのだろう。広島人の味付けといえば、酒でも寿司でもオタフクソースでも鮮烈な味とはいえなくて、ぼんやり甘ったるいのがその特徴だ。その甘さゆえに、うどん入りは今でも一定の需要がある。メニューにあるものを頼んで他の客からぶつぶつ言われるのは困ったものだ。まあ、広島ではちょっと歩けばお好み屋に当たる。昔と違って我が家のまわりにも徒歩圏内に数店あり、配達もしてくれる。変な常連がいる有名店に行かなくても困ることはない。

文化史という観点からいえば、上記のようにテイクアウト又はお皿で食べるのが伝統的であってヘラは関西のパクリと反論することはできる。しかし、何度も言うがお好みだから好きなように焼いて食えばよいと思う。お皿でテイクアウトする文化があったことは知っていただいて、人の食い方にケチをつけるのはやめていただきたいものだ。