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鼓曲萬来

Rock’nRoll My Way  ④ 村八分2


少し解って来た

それから何日か経って、俺が居る此処はいわゆるコミューンという奴で、
色んな人間が次々と現れて、泊まって、寝て、そして出て行く、
そんな所だと解って来たんだ。
 
本当に色んな人間が出入りしていた、男も女もだ、時には何日もいる、
そしていわゆる俺と加藤さんは此処の常時宿泊人だという事だ。
 
結構贅沢は出来なかったんだけど、空腹という事はなかった、
誰かが食べ物を差し入れてくれる、金持ってる奴が持ってない奴を食わす、
そんなルールだったかな。
 
ヨッちゃん、エディー、洋子さん、そんな所がいつも顔を出していた、
夜にバンドの方は何度か練習したのさ、チャー坊がオリジナルを何曲か作ってね、
確か「誰が神を見たと言うのか~」って歌詞だったような?
 
富士夫ちゃんがこう行こうぜ、なんてコード作ってね、
でも水谷君は練習には来なかった、あの人は本当に不思議な人でね、
時々ニヤッとするんだけど、後はどっか別の所にいる,そんな感じの人だった、
おとなしくてね...。それから何回かバチバチでも演奏したけど、
水谷君はいたり、いなかったりだったよ。
 
いまでも水谷君は裸のラリーズやってんだろ..
それって俺からしてみるとそりゃ凄い事だと思うよ。
 
基本的には変わってないんだろうな、いつも長い髪の毛を手で触っててね、
サングラスはずすとどこかの教授みたいな顔してるんだ..、
学者のような人だったな。
 
それから数カ月の間に、俺は色んな所へ連れてって貰った、
見るの聞くのも初めてだよ、関西...。
 
軽いカルチャーショックの連続だった。
寒月峡なんて所にチャー坊に連れてってもらってね、
真夜中にそこで練習したのを覚えているよ、数カ月間は何もしなかったような..
いや時々練習したな、いろんな話が出て、色んな人に会って、色んな所へ行った、
その間に少しずつ俺は、東京の生活とは違う..又、普通の人とも違う、
そんなサイクルの中に毎日を過ごして行ったんだ。
 
そんな或日、バンドは始めて大きなステージに立つ、ロックインハイランド...。
 
富士ROCK鮮烈デヴュー

山口冨士夫グループだったか、裸のラリーズだったか?
バンドの名前は覚えてなかったんだけど、
俺達は始めて70年代日本のROCKシーンに登場したんだ、
京都からトラックの荷台に全員乗っかってね、
 
会場に着いたら、もうチャー坊の様子は変だった、
ミッドナイトランブラーやってた時、それまでステージの脇で踊ってたチャー坊が
いきなり舞台に乗って来たカメラマンを蹴飛ばしたのさ、
そいつは血を流してころげ落ちて行ったよ。
 

 
愛と平和どころか、かなりセンセーショナルだよね、
やってる俺は内心ビックリしてたんだ、
だけどその噂は瞬く間に流れていった、
当時にしては鮮烈なデヴューだったんだな。
 
当時はさ、PAなんかもあまりいい状態ではなかった、勿論モニターなんてのもさ、
自分の音をでかく出す、それが精一杯さ、終わりゃ手は血豆だらけ、
その時も何が起こってるか本当に理解出来なかった、
何かステージの右の方が騒がしいなぐらいさ、
 
何かの雑誌にその時の写真が掲載されたよね確か、
それ撮った奴だったんじゃないかな...?。だとしたら凄い写真だよね。
 
そしてMOJO WEST

おまけにその次は円山公園でのMOJO WESTでの出来事さ...
ステージに乗って、さあという時、チャー坊がこうアナウンスしたんだ、
「今日はのらんから、やめるわ...」、そういって全員を引き上げさせたんだ...。
 
本当に乗らなかったのか、それとも演奏出来る状態ではなかったのか、
計算した演出なのか?
そこんとこは解らないけど、これがね.....案に反して...受けたんだよ。
 
引っ込む時大歓声が俺達の耳に聞こえて来たんだ。
70年代、...不思議な時代だったよ、そんなの今迄タブーじゃん、
これも又俺達の噂を別の方向に作り上げて行く事になる。
 
終わってフリーゲートにいたら、フラワーズの石間さん達が来てね、
何曲か演奏したんだ、
富士夫ちゃんと石間さんの演奏は良かったよ。



チャー坊が....
そんな訳でさ、これからオリジナル作って、
レコード出してそれから..なんて思ってたんだけど、
突然あの事件が起こったのさ、例の鹿沼でのあれさ.....、
麻袋に詰め込んでたのを通報されて、チャー坊が逮捕されたんだよ。
 
そして水谷君はその頃もういなかった、残された俺達は
どうなるのかな?なんて状態になってね、それで一旦東京に戻る事になったんだ。
 
ヒッチハイクで東京に戻った俺達は
水谷君の代わりにヤードバーズの染谷君を入れて、
吉祥寺にある幻想というDISCOにハコバンとして入ってね、
なんとか喰い繋いで行く事になる。どんな曲やってたかって?....
ブラインドフェイス、マウンテン、ストーンズそこらへんさ...。
 
後にダウンタウン.ブギウギ.バンドのギターになる蜂谷が毎晩のように来てね、
録音して行くんだ、カセットテープにね..
後になって奴が「あの演奏凄いぜ」なんてよく言ってたから、
「今度聞かしてくれよ」って頼んだんだけどさ、
冨士夫ちゃんのギターに本当にまいっていたんだろうな...。
 
そんな頃、俺達の噂は京都では更に拍車をかけてたようだ、
「ヴォーカルの奴が今、つかまってるそうだ、
富士ROCKでカメラマン蹴飛ばしたらしい、
出た途端客が乗らないから怒って帰っちゃったそうだぜ、
どんなバンドなのかな?」ってね。
 
待っていよう
 
チャー坊が収監されてたとき.バンドは富士夫を中心として
当時のディスコやクラブで活動してた
 
それからチャー坊が戻って来てバンドは村八分になるんだけれど
それまでの半年位の記録レパートリーはこんな感じだったんだ。
 
THE ROLLING STONES
Gimmi Shelter ,  Love in vain  , Mona  , What a shame  .Carol  , Route66
Confessin te blues  , Its all over now  , Singer not the song  ,Mercy Mercy
Honky Tonk women  , Satisfaction  ,Last time   etc
 
まあストーンズのレパートりーが多かったのは当然かもしれないけれど
富士夫が其のときにやろうと言い出して、自ら歌も歌ったのも良かったぜ
例えば
 
THE MOUNTAIN
Mississippi Queen  ,Imaginary Western  ,Never in my life
BLIND FAITH
Sea of Joy  ,Well Allright
Traffic
Gimmi Some Lovin  , Mr Fantasy  , All Join with in ,Pearly Queen
 
あとちょっと変わったところでこんなのも
Better by you Better than me (spooky tooth)
Plading my time (bob dylan)
後は即興でBLUES物を演奏してたんだ。
 
まあ、勿論村八分以降の鬼気迫る富士夫のギターも良いんだけれど
この頃はね、富士夫のギターも俺にしてみたら
最高の音出していたと思うよ
チャー坊が京都の人間にこだわって
主導権握るまでのホンの僅かな期間なんだけど
富士夫が責任もってバンドの音を作っていこうとした時期
 
もともとは純粋で真面目な人だからね
こういうところから音を作っていこうと思ったんだろうね、きっと。
 
一度、京都へ

日比谷の野音にもそのまま山口冨士夫グループとして出演した、
そろそろチャー坊が出て来るという噂が出たのもこの頃だった、
そこで俺達は又ヒッチハイクで京都に戻る事にしたんだ、
今度は仕事の宛もあった、金閣寺にあるキャッアイというDISCOでね...
スラッシュというバンドと交代交代で5ステージ位ずつ、
チャー坊が戻って来る迄そこで待っていよう、
そんな感じだったんじゃなかったかな。
 
ただこの東京にいた期間、俺は色んなミュージシャンと知り合いになってた。
東京の方では又、俺達は別のイメージで捉えられてたんだ..
「いっとる..」「決める」「いえてる」その言葉はね,断言してもいい、
此れはチャー坊が初めに使ってた言葉なんだ。
 
噂ばかりで、姿が見えない京都の危険なバンド、
カリスマのような悪魔的魅力を持ったヴォーカリスト、
そしてあの.山口冨士夫、俺はそのバンドのドラマー、
周りに訳の解らん連中が増えて来てね、見た事もないバンドの話を聞きたがったんだ。
 
そうこうしているうちに、チャー坊がキャッアイにフラッと現れたのさ。
 
「シャバはいいで」ってね。
その晩、俺は初めてチャー坊の完全にリードヴォーカルの曲を一曲演奏したんだ、
フーン、チャー坊の唄ってこういう声なんだ...って解ったよ、
 
曲はさ...勿論STONESさ、「What a Shame」!なんちゅうこった! 
練習してたんだろうな、ハーモニカも吹いてね、最後迄いけたよ。
 
なんか俺、嬉しくなっちゃってね、いいじゃん!いいじゃん!なんて言ったらさ....
チャー坊は照れてたよ、
そしたらポケットから英語の歌詞が書いてあるくしゃくしゃの紙を出して来た。
 
村八分誕生


戻って来て、チャー坊はその事(鹿沼)には何も触れずに、
レコードデヴューの話を持ち込んで来たんだ、
オランダのレーヴェルが俺達のレコードを出したがってる、
木村さんがマネージメントしたがってる、そんな話しだったんだが、
何よりもこのバンドの名前は、「村八分にする!」
そう此の時にはじめてバンドネームが決まったんだ。
冨士夫ちゃんは喜んでたよ、オーッ!なんてね。

だけどさ....

だけど、ただ俺はちょっと心にね、不満がたまっていたんだ、
何故なら..俺は一番年下だったからね、
あまり皆とは対等に話が出来るそんな立場ではなかったんだ、
お前はだまってついてくればいい..
何かチャー坊にいつもそう言われてるような気がしてね、
此の件だって、俺には何の話もなかった、
チャー坊が戻って来る迄、俺は俺なりにバンドの為に頑張ったのに..なんてね。
 
冨士夫ちゃんのギターは尊敬するよ、
でも正直言ってチャー坊の唄にはあまり素直には慣れなかったのも事実さ、
それに...金も無かった。
 
そんな事をちらっと青木君にグチを溢したんだ、
「言ってる事は確かに凄いけどさー、唄もうちょっとうまくなって欲しいよな~」ってね。
 
それから或時チャー坊にはこう聞かれたよ、
「恒田はストーンズ好きやないやろ?」ってね、
だから本当の事をいったのさ、
「ウーン、俺ねチャー坊、ドラムがもっとうまくなりたいんだ、
此れで喰って行きたいんだよ、此のバンドだけで通用するだけじゃなくて、
どこでも通用するようなさ、だからもっと色々勉強したい、色んな曲やってみたい、
ストーンズは嫌いじゃないけど、他にも好きなバンドは沢山有る」ってね、
 
生意気な若造、なんも解っちゃいないガキのダダッコさ、
その時チャー坊はなんか寂しそうな顔してたよ。
 
それからもう一つ、俺はちょっとホームシックにかかってたんだ、
何故なら友達は皆、東京にいるしね、
周りにいる人は皆、このバンドにいる俺しか知らない、
チャー坊や加藤さんを通しての俺さ、やっぱり...東京に帰りたいな、そう思ってた....。

誰だろう?...

そんなある朝、事件がフリーゲートで起こったんだ、
青木君のお金が無くなったのさ...、
あっちゃならない事だよ、そこには何人かしかいなかったからね..
当然俺も疑われた、でも真相は解らない...。
 
そんな話が青木君の口からチャー坊に入ったのかな?
そして何よりチャー坊は此の頃本当に精神的に落ち込んでた時期だったんだ、
ステファニーがね(チャー坊の奥さんさ)...、
 
そんな事も重なったんだろう。或晩俺が寝てたら
チャー坊がドカドカって土足のまま入って来てね、
寝ていた俺の髪の毛を掴んだんだ、
慌てて加藤さんが間に入ってくれてね、
「どうしたん..何があったん?乱暴はいかんで、チャー坊」ってね、
 
けれどチャー坊はかなり興奮してたよ..
だけどさ、俺は「もういいや...」って急に何か冷めちゃったんだ、急にだよ...
何故だか解らない、
青木君と冨士夫ちゃんも来たけどさ、俺はもう何も言わなかった、
その夜はそれで終わったんだけど、次の日加藤さんに相談してね、
それから2日後にヒッチハイクで東京に戻って行った、
 
山科のインターからトラックに乗せて貰って........ね、それが真相さ。

去るものは追わずさ...

東京へ帰って、少しの間はボケーッとしてた、
この一年半はなんだったんだろうってね、
でも俺は決してあれが夢だったなんて思っていないよ、
何故なら、ともかく俺にとって初めてのプロバンドなんだよ、
俺が居たのは裸/(ぶん)分の村八分、この生活のスタートを切った場所なんだ、
 
それから幾つものバンドをやって、今も演奏は続いている。
 
その、なんというかな...、前に進むっていうのかな、
それを今でも伝説なんていわれるバンドでスタートする事が出来た。
つまりさ微々たるもんかも知れないけど、
俺もその伝説の一部なんだって事なんだよ。
 
誰でも持てるもんじゃないもんな...そんなキャリア、
俺又やってみよう、どんな状態の時でも、そんな気持ちがフツフツ沸いて来るような、
そんなものを貰ったような気がするよ、あの一年半で。
 
だからさ、俺は村八分のステージは、やめてから一回も見た事が無いんだ、
レコードも聞いた事がない、曲も知らない、新しいメンバーの名前も......、
でもさ..それでいいじゃん.......、「後ろは見ない事やな、去る者は追わずやで」、
チャー坊がそう言ってる、そんな気がするからさ。
 
そして.....、1994/4/25 チャー坊は永眠したんだ.....。


追記


ROLLING STONESのLIVEアルバムに
奇妙な日本語の叫び声が入っているのをご存知だろうか,

「GET YER YA-YA'S OUT!」と言う72年頃のアルバム、
これのミッドナイトランブラーのブレイク後になんと「かっちょいー!!」と
遠くで叫んでいるのが聞こえて来る。

まあ今と違って外国でのROCKコンサートに
日本人が簡単に行けるという時代でもなかったし
、日本でもようやくROCKコンサートがぼちぼちという感じの頃だったから、
この叫び声は一種のステータスシンボルとも言うべき位置を獲得した。
えっ!なんで?とお思いの方もいらっしゃるとは思いますが、
その位情報量は乏しかった訳ですわ、
特に外国盤のLP等はまさにバイブル!
その音の向こうにあるアメリカやイギリスの音楽シーンを垣間みようと
詰まった音を本当に隅々迄聞きこんだ訳です。

特に我々ミュージシャンは必死になって演奏方法やテクニック、
ステージングを想像したりしておりました。
 
当然楽屋での話もあのアルバムのあの音聞いた?等が話の中心になる訳で、、
で、ある時こんな噂が持ち上がった訳です、

噂は「あのカッちょい~!の叫び声、、
あれは村八分のチャー坊の声だぜ」と言うもので
もう行く先々のコンサートでそんな話を聞かされました。

インタヴュー等もそれに関する物が多々有りまして、正直僕等もなんでと?
特にヴォーカルを担当していたチャー坊は相当辟易していたみたいで
最後の頃は否定もしていませんでした。

いや、噂、それもガセってのは広まるのが早いもんですな、それに息も長い(笑)
あれから30年未だにそう思っていらっしゃるファンの方々もおられるとか、
まあ、もう否定してもなんの意味もございませんが、
 
実はあれはチャー坊ではございません、本人もよく僕にそう言っておりました、
それにあれ、、東海岸でのLIVEですよね、
奴は東には行ったことはございませんのですわ。
まあともあれ、一度あの不思議な叫び声、聞いてみるのも一興かもしれませんな。
 
 

2013年8月14日、山口富士夫氏が亡くなりました
村八分創設期のメンバーとして深く哀悼の意を表します
                     恒田義見
 

8月も後半...
残暑なんていう言葉が似合う時期だ
しかし、今年のこの暑さ....残暑どころか、更に盛夏なんていう言葉も浮かんでくる。
昔、伝言ゲームってのがあった、....
一人が一人に伝えて、最後の人に伝わった時には
全然違う言葉になってた、という、あれ。
先日の旧友の死からの各社の報道...まさに「伝言ゲーム」
いや、非難するつもりは毛頭無い、....想像するに、
おそらく何らかの報道規制が掛かったか、
あるいは発表自体、取材自体も曖昧だったか、......
しかし思いもよらぬ沢山の哀悼とコメント....。
色々な問題も絡んだのだろう、...こちらも推測せずにはおられない
その各社のPageにも図らずも「伝言ゲームがなされているようですが、
米兵ではなく、米大学生です」なんて注釈や、
米国籍の男、死因は肺炎、意識は一時持ち直した、とか....
もうこうなると、我々にとっては「事実はどうだったんですか」?と聞きたくもなる。
更に家族や近親の者にとっては、更にその悲しみを逆撫でするようなものだ。
 
昔、そんな伝言ゲームに悩まされた事がある、しかも何年も何年も....
それは地中に埋もれ静かに長く呼吸を始めるものだ。
 
TVのスクリーンには「村八分、ギタリスト....」のテロップが
彼はこの3文字をテレビの画面に移すまで40年も掛かったのだ。
知りたいのは真実、そして真実だけがその思いを昇華させる
 

2014,12,20


村八分の青木真一が亡くなったという訃報
青木君の冥福を祈らせて頂きます。
 
さよなら青ちゃん、向こうでチャー坊や富士夫に会ったら、
俺はまだ元気にしていると
伝えて下さい。
 

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