Being on the Road 2

日常の中に旅があり、旅の中に日常がある。僕たちは、旅の途上。
Being on the Roadから順次移行開始

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/下野探訪記 第16回

2024-05-26 17:25:07 | 旅行

2024年の記録
1月~3月、下野市の自宅への帰省途中、あるいは、週末の買い出しに訪れた旧日光市、旧今市市散策の記録



雲一つない青空に映えるカトリック日光教会



日光市、今市市、藤原町、足尾町、栗山村が合併し、新・日光市となった。栃木県の約4分の1を占める、全国でも3番目の広さである。



以前のブログでも紹介、度々訪問している日本聖公会日光真光教会。
1914年(大正3年)にガーディナーの設計で現在の教会堂が完成し、1916年(大正5年)に「日光真光教会」として聖別・献堂された。

建物は切妻屋根に天然スレート葺、主棟は長方形の礼拝堂で西南端に玄関があり、東南隅に鐘塔をもつロマネスクに近いゴシック様式の石造建築である。 外壁は近くの大谷川(だいやがわ)、稲荷川から採取された暗赤色の安山岩を用いた乱石積で、こぶ出し仕上げの石の表面が外観に一層の荘重感を与えている。内壁は日光の板橋石(白色滑面)を用いた平張りである。開口部は曲線を採用するが、華美な意匠がほとんどなく、ステンドグラスが礼拝堂の荘厳な雰囲気を作りだしている。
1982年(昭和57年)栃木県指定有形文化財指定



日光新生教会(バプテスト日光キリスト教会)は、日光市清滝の市街地にひっそりと建っている。インターネット上の情報が少ない。日本バプテスト同盟に所属、設立は1948年(昭和23年)と古いものの現在の信徒数は7名と少ない。



東武日光駅から神橋、東照宮へ至る商店街の左側億手の小高い山腹にカトリック日光教会はある。現在の礼拝堂は、1950年(昭和25年)献堂。



日光市の中心街は、旧日光ではなく、旧今市。現・日光市役所は、旧・今市市役所である。5市町村の今市市への吸収合併というのが実態。但し、国際的にも知名度の高い日光市の“名”を残し、“実”を今市市が取った英断。何しろ、「イマイチ」といった音は、良くないしね。

そんな今市市の中心駅・東武下今市駅から鬼怒川温泉駅と東武日光駅へ蒸気機関車が走っている。今市の旧市街は、国道119号線沿いであるが、大規模小売店のある新市街は、東武日光線の北側、東武鬼怒川線沿いに拡がる。

大規模小売店街を抜けた先の大桑駅付近で、眺めたのが写真の蒸気機関車。

 

旅は続く

過去記事は、
https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen/0


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/鉱都足尾・冬物語 その2

2024-05-12 22:02:39 | 旅行

2024年の記録
1月から3月までの旧足尾町「冬」の散策記録。



1889年~1920年まで稼働していた小滝選鉱場の写真。(出所:足尾まちなか写真館)



備前楯山の地底にある足尾銅山には、三つの坑口(通洞坑、本山坑、小滝坑)があるが、内部はアリの巣のように複雑に繋がっている。また、南北に流れる渡良瀬川沿いに発電所、製錬所、機械工場、幹部社宅などの施設があった。



国鉄足尾線開通後、交通の要所となった足尾駅は、貨物の入換用線路がならび、小荷物積み込み用の屋根付きのホームもあった。現在は、JR時代に活躍した気動車が係留されている。
ホーム先端に信号所、駅前にはお決まりの赤い円筒型ポストがある。



足尾キリスト教会は、1908年(明治41年)竣工、木造平屋建、鉄板葺の国指定の登録有形文化財となっている。正直なところ、そこまでの歴史的建造物には見えない。

18世紀末の英国の鉱山王 グリン・ビビアンの「自己の遺産を以て全世界の一国に一教会を」との意思により、日本では国内屈指の足尾銅山が選ばれ、現在の教会堂が建立された。現在は、福音伝道教団に活動が受け継がれている。



重機械系の製造業がそうであるように鉱山で使う機械は、欧州からの輸入に始まり、その整備を自社で、さらに技術を蓄積して自社で製造するようになった。その原点となっている工場である。



足尾町掛水は、足尾谷の中で最も日あたりの良い一等地である。足尾鉱業所事務所(2025年5月復元予定)、掛水倶楽部(貴賓客の接待や宿泊施設として使用された国指定登録有形文化財、冬季閉鎖)、そして、写真の幹部社宅(現在も居住者がいる)がある。

幹部社宅街は、有名無名の映画のロケ地として、しばしば利用されている。



足尾には、水力発電所があり(旧足尾町内の発電所は閉鎖され、旧日光市内に中禅寺湖の水を利用した水力発電所がある。) 、最近まで、電気は無料だった。そのため、暖房も煮炊きなど熱源は、すべて電気だった。ちなみに僕の居宅も、すべて電気である。



国道122号線を外れ、銀山平にある「かじか荘」に向かう山道の途中に小滝坑や鉱山設備、集落があった。その中で、現存しているのが、1926年(大正15年)架設の小滝橋である。現在は、錆に覆われ、ほとんどスクラップ状態だ。

その小滝集落の人口は、最盛期の大正年間に1万人となったと記されている。まさに「つわものどもの夢のあと」である。

 

 


四季の彩りに風薫る足尾の宿 かじか(旧 国民宿舎かじか荘)でのお薦めは、温泉と食事。

庚申温泉(アルカリ単純泉)は、身体かつるつるする泉質もさることながら、露天風呂から見る雪景色は絶景。僕のお薦めの食事メニューは、写真の通りです。
写真左:岩魚のひつまぶし丼、写真手前:頂鱒(イタダキマス)、写真奥:岩魚の唐揚げ(骨まで食べられる)



【メモ】
今、日本は、値上ラッシュだ。取引先が、「来社したい」と言って来れば、十中八、九は、値上の話だ。それどころか、発注側から「価格転嫁(値上)しなくて大丈夫ですか?」と声を掛けろ、というのが、政府のご指導だ。好景気ならともかく、僕の業界の景気は悪い。稀にある増産、短納期にも、働き方改革、時間外規制で、瞬発力もなくなった。バイヤーにとっては、「国内の取引先は、面倒臭い」が本音だ。

日本企業の9割以上が、中小零細企業だから取引の価格交渉と無関係の多数の一般社員には、政府主導の“値上振興”は、ウケが良いのかもしれない。

ただ、発注側も指を咥えて見ている訳じゃない。モデルチェンジを機に発注先を海外にシフトするケースは増える。円安が続いていても、不景気な中国は、安値攻勢を掛けてきている。

日本の製造業の空洞化は、残念だけど、必至だと思う。日本は、益々貧しくなるんじゃないだろうか。


旅は続く

過去記事は、
https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen/0


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/鉱都足尾・冬物語

2024-05-06 17:55:14 | 旅行

2024年の記録
赴任準備のため2023年12月の訪問時と2024年1月から3月までの旧足尾町「冬」の散策記録。



冬は寒く、交通アクセスも悪い過疎地だが、「住めば都」だ。



足尾銅山、足尾鉱毒事件の舞台となった旧足尾町は、旧今市市、旧日光市ほか町村との合併により、現在は日光市足尾地区となっている。
20世紀初頭、日本の銅産出量の40%ほどを占める世界有数の大銅山は、東京から意外に近いところにある。(現在でも、埋蔵量は世界上位に位置するものの、鉱石の品位が悲しいほど低く、採掘されていない。)



旧足尾町は、群馬県みどり市、桐生市とわたらせ渓谷鐡道(旧JR足尾線)で結ばれているにも関わらず、行政区画は、(細尾峠を越えた)栃木県となっている。奇異に思い調べてみた。

旧国鉄足尾線開通以前の群馬県側へのアクセスは、細尾峠越え以上に悪かったようで、廃藩置県以前から下野国(現栃木県)に属している。群馬県側へ流れる渡良瀬川は、海運に利用できる河川ではなく、足尾銅山で採掘された銅鉱石は、足尾で粗銅(純度約99%)に製錬され、馬で細尾峠を越えて、日光市清滝にある精錬所に運ばれ、電気銅(純度約99.5%)に精錬されていた。

旧国鉄足尾線が開通すると、足尾で製錬された粗銅は、旧国鉄足尾線経由で、出荷されるようになった。その後の足尾銅山閉山後は、旧国鉄足尾線で、輸入銅鉱石を足尾製錬所へ搬入していた。そんな関係で、群馬県との関係が深まり、旧足尾町の市外局番は、群馬県の局番となっていた。

その一方で、群馬県庁との確執もあった。旧足尾町は、栃木県に属していたので、足尾の税収は、栃木県に納税されるが、重金属を含んだ鉱廃水は、渡良瀬川を流れ、群馬県側に公害被害をもたらした。群馬県庁が、面白くないのも、理解できる。

銅山閉山、輸入銅鉱石の製錬休止で、旧国鉄足尾線の輸送量は、激減する。一方で、旧日光市と繋ぐ日足トンネルが開通すると、再び栃木県側との関係が深まり、市街局番は、栃木県上都賀地区の「0288」に変更された。



鉱都と呼ばれている足尾は、閉山以降衰退の一途を辿る。製錬所休止、警察署閉署、銀行の支店閉店、県立高校廃校となった。商店街のほとんどが閉店。日足トンネル近くに奇跡的にコンビニがあるものの夜になると棚はガラ空き。

そんな訳で、近隣にスーパーマーケット、ドラックストア、コンビニ、ガソリンスタンドのある日光市七里の物件を見に行った。リゾート感のある街なみ、ペット可の物件だったのだが、職場まで峠を越えて30~40分と遠いいことが唯一の難点。

僕は二番札で、僕のあとに内覧した一番札の人が、即決してしまったので、結果的に悩むこともなく、旧足尾町にある社宅に入居することになった。



着任の朝は、雪掻きから始まった。降雪は10日に1回ほどで、晴天になれば、嘘のように道路上の雪は消える。もちろん、除雪で積みあげられた雪と山肌の雪は残る。



社宅は、駅前の一等地にある、と言っても、足尾駅は、無人駅。島式ホーム、線路が複数あり、かつての繁栄が偲ばれる。



足尾駅構内の留置線には、JR足尾線時代の気動車、ディーゼル機関車、貨車が保存されている。


社宅から徒歩圏内唯一の萬屋・北村商店。足尾駅前にあり、ひと通りのものは揃うが、品揃え、価格は、それなりである。1週間分の食料品を旧今市市で、調達することが、日課となった。



足尾の街の中心は、足尾駅ではなく通洞駅となる。かつての商店街も通洞駅周辺に広がり、足尾町役場(現・日光市役所足尾支所)も通洞駅近くにある。

駅舎は、柱や梁が外に出ている北方ヨーロッパの木造建築技法であるハーフティンバー様式である。駅舎及びプラットホームが登録有形文化財として登録されている。



わたらせ渓谷鉄道の終着駅となる間藤駅。旧JR足尾線時代は1.9km先の足尾本山駅まで貨物専用線が伸びていた。

わたらせ渓谷鉄道の駅舎は、冬季はイルミネーションで飾られる。



間藤駅頭上の岩壁、かつては、煙害で岩肌が剝きだしていたが、30年に及ぶ植林事業で、少しずつであるが、植生が蘇ってきている。



渡良瀬川上流の松木川沿いに北進し、半月峠を越えた山の向う側は、中禅寺湖である。



15時をすぎると急激に寒くなる。山に囲まれた谷に位置するので、日没は早く、再び厚い雲に覆われると、明朝は、雪掻きか?



田元交差点から足尾市街に向かう旧道は、渡良瀬川上流の松木川と神子内川に挟まれて進む。僅か1㎞ほどの僕の通勤路でもある。



足尾は、ほぼ南北に延びた谷あいの街なので、夕焼けを見ることが、ほとんどない。夕焼けを映した山肌が、紅く染まった。


【メモ】
「鉱都足尾・冬物語」の投稿が、1ヶ月以上も滞ってしまい、季節は冬から春へ、さらに初夏へと移ろうとしている。この1ヶ月、色々なことがあった。
仕事が、想定以上に繁忙を極めたこともあったし、愛犬の具合が悪くなり(脳梗塞か何かで痙攣を2度発症し、動物病院に1泊した)、退院後も視力を失い、真っ直ぐ歩けなくなり、1日中右旋回を繰り返し日々が続いた。(お陰様で、痙攣前の8、9割まで回復した。) そんな訳で、毎週帰省していたため、執筆する精神的な余裕も無くなっていた。それに加え、決定的だったのは、ブログのログインができなくなり、ログイン状態を維持しているPCが唯一のアクセス危機になってしまったことだ。事務局へ連絡しても、解決の糸口を見つけられず、やむなく新しくBeing on the Road2 (https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen2)を立ちあげた。当面の投稿は、両サイトにアップしていく予定です。


旅は続く

過去記事は、
https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen/0


自己紹介

2024-04-06 18:00:50 | 日記
はじめまして!
zhenと申します。

このブログは旅行記として活用したいです。

Being on the Roadの続編です。宜しくお願い致します!