活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

ええっ!読書ゼロ? 

2024-02-19 11:03:02 | Weblog

 先日、東京新聞に最近の高校生や中学生のなかには、読書ゼロのケースが少なくないとありました。この場合の読書とは紙に印刷がしてある「本」を指していることはいうまでもありませんし、なんとなく、そうかも知れないなと思ってしまいます。

 実は、私は、昨年、ある雑誌で印刷文化史に触れた中で、「私的印刷文化史」を披露してしまいました。園児のときの『キンダーブック』に始まって『小学一年生』から『小学六年生』までの学年別雑誌を皮切りに、姉や父の書棚の単行本に手を伸ばすようになるまで時間はかからず、吉屋信子の「あの道、この道」、「紅雀」など少女小説から、総ルビで難しい漢字も読めた夏目漱石の「吾輩は猫である」「道草」など読書入門を振り返りました。

 あれは、小学校の三年生だったと思いますが、母のとっていた『婦人倶楽部』の付録で菊池寛の「第二の接吻」、久米正雄の「破船」、吉屋信子の「地の果てまで」を読んだときのことを思い出します。男と女、恋愛感情みたいのものが,おぼろげながらわかった気がしたのです。

 もちろん、漫画の「のらくろ」や「ふくちゃん」とも親しみましたが、江戸川乱歩や小酒井不木の探偵小説から、海野十三の「見えない飛行機」や題名は忘れましたが「西住戦車長」や野口英世の伝記などにも夢中になりました。

 脱線しましたが、なにが言いたいかといいますと、書籍をはじめ紙に印刷をしたものが私たちにもたらすものの貢献度はあまりにも大きいのではないでしょうか。こうしたひとり、ひとりの人の印刷文化史は別としても時代、時代に、その国に「印刷」がもたらしてきた「文化」にもっと注目したい、とりわけ、「印刷」が大きく、その姿を変えつつある今こそ、日本の印刷文化の歩みを辿ってみることが求められるのではないか、私は、そう、考えることにしてこのブログを続けることにします。

 

 

 

 

 

 

 

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正月の新聞から「シール」の話

2024-01-14 17:49:04 | Weblog

 2024年の幕開き。元旦に能登半島の大地震と津波と大火災。そして翌2日には羽田空港の大事故。なんとなく先行きが思いやられる年の初めでしたが、今年は少しマメにこのブログ《活版印刷紀行》と向き合うことにしました。どうぞ、よろしく、おねがいいたします。 

 さて、1月9日の日経新聞朝刊の文化欄、「封緘紙」のあせない魅力に大変興味を抱きました。封緘紙とは包装紙や袋などの閉じ口を留める小さなシール

のことです。執筆者の上ケ島オサムさんはこの「封緘紙」の蒐集歴20年、色やジャンル別にコレクションの数は1万枚に及ぶといいます。

 

 私がとくに興味を持ったのは上ケ島さんが文中で大正から昭和へ封緘紙のデザインや形、色などが大きく変わってきたのは印刷技術ほ発展-向上と深いかかわりがあるとかいておられる点でした。(以下は次回)

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アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

2020-11-30 11:25:36 | Weblog

 ザビエルはご存じでも、ヴァリニャーノって?

そうゆう方が意外に多いのですが、ザビエルに遅れること30年、イエズス会の巡察師として島原半島の口之津に上陸したのが彼です。

今、口之津の浜辺に彼の胸像があります。 彼の生地、イタリアのキエーティ市から姉妹都市になっている南島原市に寄贈された貴重なものです。 ヴァリニャーノは地元では伊東ミゲルはじめ4人の「天正遣欧少年使節」のローマ派遣で知られています。

しかし、私はグーテンベルグの活版印刷術を導入して、金属活字を使った出版物を初めて日本にもたらしたいわば、日本の印刷の祖としてのヴァリニャーノを皆さんに知っていただきたいのです。 日本の印刷史のなかで活字印刷というと明治初期の本木昌造や平野富二の名前が挙げられますが、ヴァリニャーノを印刷史の神話にしてほしくないのです。

 たまたま、ヴァリニャーノが耶蘇で、キリシタン版が禁断の書で、印刷術が南蛮渡来の魔術扱いで徹底的に消滅させられたのが不幸でした。

それはそれとして、今、紙に印刷する情報処理はデジタル化で大幅に姿を消しつつあります。 さらにAIなどの進展でこれからますます形を変えようとしております。 活字印刷が文化遺産になってしまうかも知れません。 だからこそ、私は今から430年前に日本に上陸したグーテンベルグの印刷とヴァリニャーノの奮闘をたずねるべきかと考え、これからこのブログで彼.を追いかけることにします。

なお、この胸像の写真は加津佐の松藤幸利さんによるものです。 口之津の隣町、加津佐はヴァリニャーノがキリシタン版を印刷した最初の工房のあった土地、いわb日本の印刷の聖地です。 同町の教育委員会におられた松藤さんに20数年来、ご指導を頂いております。

 

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感動した二つの書物展

2018-11-01 14:47:40 | Weblog

 今年になって印刷技術が誕生したてのころの「本」についての著作を2冊読みました。

一つは青土社から出ているラウラ・レプリの『書物の夢、印刷の旅』で、もう一つは、

作品社から出ている『ヴェネツィアの出版人』でした。

 どちらにもルネッサン期のヴェネツィア出版人アルド・マヌツィオが出てきて小説風の

記述で訳文も優れていて夢中で読みました。

 

 たまたま、これは私にとってたまたまですが、9月に上野の森美術館でやっていた「世界

を変えた」書物展でコペルニクスやニュートン、ウィンナーダーウィンなど、まさに、世界

を変えた人たちの稀覯本をじっくり見ることができました。いずれも、金沢工業大学のコレ

クションからで、会場構成も展示デザインもグッドでした。

 

 そして次にみたのが、これは現在始まったばかりの東京の印刷博物館の「天文学と印刷」展

です。コペルニクス本人が死んだ年に出版されたそうですから、あるいは本人は目に出来なった

かも知れない地動説を唱えた『天球の回転』などが、マサカ手にはとれませんが、1543年の

稀覯本をしっかり拝むことができます。また、上の2著に登場するアルドの印刷したアリステレス

の著作集や自身天文学者だったレギオモンタヌスの『アルマゲスト』も見られました。もちろん、

天文学以外の興味ぶかい動物や植物、地図など展示が豊富です。来年、1月20までです。

 

 

 

 

 

 

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東京港で給水船

2015-08-06 14:24:34 | Weblog

今年の暑さは異常、東京も今日で1週間猛暑日、生来、暑さには強いつもりでいましたが、完全にバテバテ。

ちょっと前、海の記念日に東京港埠頭株式会社というお堅い名前の会社の招待で東京港見学会に参加しました。

東京港クルーズの前に、有明客船ターミナルで船舶給水船の実演を見ました。図体は小さいし、見た目は地味な船ですがこれで東京港に出入りする船に水を供給するのだそうです。

写真は船の中央あたりから吐水していますが、これはデモンストレーション、実際の給水のときは船の前部からガッチリ給水する相手の船にホースをつないで、1時間当たり130トンぐらい呑ませる?ことが出来ると聞きました。

わずか5.6人の乗組員でこなす作業はさぞかし大変でしょうし、黒子というか裏方の仕事についつい見入ってしまいました。

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床屋さんの思い出

2015-04-24 10:25:30 | Weblog

 暇を見つけて気取ったフランス語名前の理容店に行って来ました。鏡に映るわが老け顔と対面しているうちに子どのころの「床屋さん」の記憶が蘇って来ました。戦前の小さな田舎町での話です。 

 町の真ん中をゆったりと川が流れていて、そこに架かる橋には市電の軌道と自動車用の車線があり、一段高い歩行者道路がそのわきにあるという当時としてはかなりのものでした。私の行きつけの「床屋さん」はその橋を渡った先にありました。遠くからでも目に入る三色のサインポールは入り口が横手の露地からだったからでしょうか。天気さえ良ければその入り口のガラス戸の横に籐で編んだ乳母車が出してあって嬰児がゴムの乳首を吸っていました。

 使用人はいない夫婦床屋でした。小学4年生頃まではいつも父といっしょでした。父が親方にやってもらう隣で私はおかみさんにやってもらうのでした。おかみさんはときどき赤ん坊を見に外へ飛び出して行って、手をふきふき戻ってきては散髪をつづけるのでした。その間、私は鏡越しに親方の手の動きに見入っていました。親方の白衣の袖から出ている腕から手首まで黒い剛毛が生えていました。毛深いからこわいかというとズングリムックリの体型と笑顔で少しもこわくありませんでした。その手で散髪が終わると私には10銭銅貨のお駄賃をにぎらせてくれるのでした。

 あれは、たまたま一人で行くようになってからのことでした。家に帰るとすぐに母が呼ぶので玄関に行ってみると頬っぺたを真っ赤にして床屋のおかみさんが立っていました。しかも白衣の裾が泥だらけでした。「坊ちゃん、仕上げを忘れたので、父ちゃんに叱られて追っかけたんだけど坂の下で転んじゃって」仕上げは ほんの4~5秒、櫛と鋏を動かしたら終わってしまったのですが、おかみさんの荒い呼吸が首筋にかかって熱かったことをおぼえています。

 私が親方に最後に会ったのはそれから1年も経たないうちでした。いつものように店に入って行くとおかみさんがお客さんの髭を剃っていて、奥から親方の「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」という軍人勅諭暗誦の声が聞こえました。小学生の私でもたちどころに事態は理解できました。親方に召集令状が来たのです。それからも何回かおかみさんだけの床屋さんに行きましたが子どもでしたから親方の消息は聞けませんでした。

 町が米軍機の焼夷弾にやられた翌日でした。床屋さんの前を通ると焼け落ちた店の瓦礫の中に乳母車の台車の金属だけが焼けたdれているのが目に入りました。それっきり、戦争が終わっても「床屋さん」は二度と私の前には現れませんでした。

 

 

 

 

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あたらしい印刷をめざすカレッジを

2013-02-19 22:27:25 | Weblog

 駿河台界わいのことを書いたら友人から須田町や岩本町はとりあげないのかといわれてしまいました。たしかにそうですが、それはまたにします。

 と、ここまで書いたらテレビが神田の「藪そば」の火事の実況を始めたではありませんか。ちょっとショックです。「蕎麦せいろいちまーい」などと注文を通す女の人の声が耳に残っていますが、明治13年創業の、これぞ名代の蕎麦屋という感じのあの店が燃えてしまうとは残念です。

 さて、私の手の届くところに置いているのが『印刷雑誌とその時代』という800ページもある本です。サブタイトルに実況・印刷の近現代史とありますが、明治24年の創刊から大正7年の再創刊を経て平成の今日までつねに印刷の今を見つめ続けたという『印刷雑誌』から興味深い記事を拾い上げたのが内容です。

 硬軟いろいろの記事があって拾い読みするのが楽しい本です。きょう読んだのは印刷教育に関連するところでした。古くは近代印刷の黎明期に秀英舎(大日本印刷)や博文館印刷(共同印刷)が働きながら印刷を学べる企業内学校がありました。

 私は思うのですが、印刷産業がIT化に伴って大きく舵を切り替え、「印刷」そのものがこれからどのような道を辿るかわからない今、印刷企業なり、産業連合会なりが、独自のカレッジをつくるべきではないかと。大学や高専で学んで来た学生を採用して印刷産業に適合させるのではなくて、みずからの手で変革期の印刷を支える人材養成をすべきときだと思うのですが。

 

 

  

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ニコライ堂

2013-02-18 15:51:58 | Weblog

 駿河台のつづき。

 このところ駿河台にご無沙汰したのはカザルスホールが閉館してしまったことが大きいように思えます。いい音にめぐりあった夕べ、山の上ホテルでワインかシェリーをちょっぴりというのが至福の時でしたのに残念です。

 駿河台で忘れていたのがニコライ堂。ゆっくり歩いてみて気がついたことはむかし、あれほど駿河台の象徴だったニコライ堂が高層ビルの谷間に埋没したような存在になって」しまっていることです。出版社づとめのころ、昼休みに行ってよく見上げていたドームや鐘楼が心もち低く、小さくなった気がしました。

 正式な名称は「東京ハリストス復活大聖堂」だそうですが、やはり、ニコライ堂でないとピンと来ません。ハリストスというのはキリストのロシア読みだと聞いたことがありますが、ニコライ堂はギリシア正教の教会堂だそうです。私はあそこではいつもロシア人の信徒を見ていましたし、ロシア正教とばかり思っているのですが、どちらが正しいのでしょうか。

 しかし、久しぶりに近くで見るニコライ堂の建物の風格は少しも変わっていませんでした。駿河台といえばニコライ堂、失礼いたしました。そうそう、1891年(明治24)生まれ、たしかビザンチン様式でした。

 

 

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さくら紀行3 五万石でも岡崎様は

2012-04-12 15:06:13 | Weblog
 岡崎の町の真ん中を流れているのが一級河川乙川(おとがわ)です。たしかに
そうかも知れませんが「五万石でも岡崎様はお城下まで船が着く」、あの岡崎城の
下まで舟で行けた川の名前は土地っ子には菅生川(すごうがわ)として親しまれて
来たはずです。その証拠に家康の産土神の菅生神社が川っぷちにあります。
 そしてこの川こそ、もうちょっと下流では、幼い日の秀吉(日吉丸)が蜂須賀小六
に拾われた矢作川(やはぎがわ)に名前を変えるのです。

 岡崎は多少知っているつもりなので、こんな川の名前の講釈から始めてすいません。
薄暮の中を桜の名所岡崎公園の隣のグランドホテルにチェックインしました。
 
 ホテルの前の道は桜が満開、ちょっと先の堤防の砂州から公園まで屋台のテントが
延々とつづいています。
 ホテルの窓からはライトアップされた岡崎城がくっきり白い天主閣を夜空に浮かべ
ておりましたが、夜桜見物に入って行った公園の中では花枝を伸ばした桜やほかの樹
がじゃまして城が見えません。

 夜桜といっても酔っ払いや底抜けの喧噪が伝わって来ませんでした。おとなしい花見
客です。岡崎という町は今川や織田に囚われの身になっていた家康をひたすら忍従とい
った形で待ち続けた先祖の生真面目さ、我慢強さ、悪く言えば覇気のなさが今に伝わっ
ているのでしょうか。 東海道線も新幹線も町中を走らせなかった、人口や経済力でも
豊田市や一宮市に追い抜かれてしまった岡崎の大人しさに少し歯がゆい思いをした夜で
した。
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気になるヴァリニャーノとハビアン 4

2011-10-20 13:54:50 | Weblog
私が不干斎ハビアンの名前を知ってからかなりになります。
当時、勤務先が名古屋で隔週くらいに新幹線で名古屋と東京を行き来していました。
その車中で読んだのが山本七平の『受容と排除の軌跡』という堅いタイトルの本でした。

確か表紙に踏み絵の写真があったと記憶しています。
「受容」とはキリスト教を受け入れる、「排除」とはキリスト教を否定することを意味
していて、その象徴的人物としてほとんどのベージをしめてい たのがハビアンでした。

そのハビアンと二度目に出会ったのはドラードを書くためにキリシタン版を勉強し始めた
ときでした。
幼児のときに寺に入れられ禅僧として教育されたハビアンは18歳のときキリシタンになり、
セミナリヨを出てイエズス会に入り、27歳で天草のコレジオの日本語教師になります。
そこでキリシタン版の『平家物語』*『伊曽保物語』・『金句集』の編纂にかかわります。

秀才の名をほしいままにした彼は32歳で長崎に移り、6年後に京都に移ります。
 ちょうど家康が江戸に幕府を開いた年のことです。
そして40歳になったときに彼自身の「受容」の総まとめともいうべき『妙貞問答』を書きます。
自由に教会に足を運べない上流婦人のための伝道のための問答集でした。翌年の林羅山と論争も
有名ですが、キリシタンとしてバリバリのときでした。

しかし、思わぬ展開が待ち受けておりました。
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