活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

加津佐から天草河浦へ

2006-11-28 13:24:24 | Weblog
 日本最初の金属活字による活版印刷がなされた加津佐の「天辺の丘」。私は何度もこの丘を訪ね、周辺を歩きました。周辺は最初、草むらの多い畑だったのに、最近は車と出会ったり、ピアノの音が漏れてくるような住宅が建ち、畑地は青いビニールのかぶさったジャガイモ畑にと、どんどん変貌しています。

 これでは、先行きが心配になります。この界隈を辿っているときに、自民党の大幹部のお宅があることを発見して、驚くと同時に、「だったら、もっと、加津佐のPRをしていただきたい」と思ったものでした
 
 400余年前、ヨーロッパでルネッサンスの空気にじかにふれ、印刷技術を持ち帰り、この加津佐を日本の印刷文化の嚆矢スポットとした人たちがいたはずのに。
 私は、今度で5回目の嚆矢スポットの訪問でした。今回は諫早から口之津に向かったのですが、路線バスコースではなく、広域農道を走りました。途中、農道建設の記念碑のあるところから、斜め下に「天辺の丘」を発見したときのうれしかったこと。 いままで、権田公園から、あるいは口之津の海辺からといろいろなところから見ましたが、ここが、いちばんの好ポイント、推薦ポイントです。

 さて、いよいよ、加津佐とお別れ、次は、口之津から島鉄フェリーで天草鬼池へ向かいます。1592年(文禄元)キリシタン版の印刷所が、加津佐から天草の河内浦に移ったからです。
 フェリーは毎時1便はあり、車は20台、人間様は350人は乗れますし、運がよければ船上から、イルカとご対面もできます。
 天草へは熊本からもっとデラックスなフェリーがありますが、私はこちらの航路と、ちょっぴりひなびた船内の雰囲気が好きです。
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キリシタン版の印刷人は何人いたのだろうか

2006-11-19 14:03:46 | Weblog
 加津佐の「天辺の丘」に佇んで、私が考えたことはいっぱいあります。まず、前に述べたように、こんな断崖の上に、どこから、どうして印刷機材を運んだのだろうかという疑問でした。
 
そして、もっと突き止めたいことがありました。
 それは、仮に1590年(天正18)年の終わりごろから、印刷場の建設にかかったとしても、1年足らずの短時日に、活字を鋳込んだり、文字を拾ったり、組んだり、印刷や製本の実作業に従事してキリシタン版第1号を送り出したチーム構成はどうなっていたのかという疑問です。
 
「印刷」は、つい、近年まで労働集約型の産業でした。キリシタン版の印刷は、400年以上も前の話です。それなのに、1年足らずでローマ字綴りの日本文の聖人物語『サントスの後作業の内抜書き』が仕上ったことになっているのです。1592年の夏過ぎ天草に引っ越す以前に、2巻で1000ページを超す本をモノにしたというのが定説ですが、私には作業量からいって信じられません。最低でも20人以上必要です。
 
 親玉はイタリア人のジョアン・パプチスタ・ペッセ、それに、リスボンで印刷修行をしてきた日本人ドラードやアゴスティニョ、メスキータ神父やマルチのが手伝ったとしても数人でこなせる量ではありません。ペッセが子分を連れてきた、帰国途中マカオで手につけていた、いろいろ考えられますが、いままでの研究ではそのあたりの考察が不足しています。
 それと、付け加えておきますが、印刷場の所在についても、福田八郎さんは天辺の丘ではなく、永年、加津佐古城跡説を主張しておられます。



 
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加津佐図書館の印刷機も、ドラードも

2006-11-10 18:59:59 | Weblog
 ブログならブログらしくリアルタイムで、というわけでもないのですが、ちょっと横道にそれて、私が昨日、じっくり見てきました展覧会、すなわち、2006年10月21日から12月13日まで開催されている長崎歴史文化博物館開館1周年記念特別展をご紹介することにします。

《ローマを夢みた美少年 天正遣欧使節と天草四郎》
 これが今回の特別展のテーマです。ポスターにもリーフレットにも昨年、ローマで発見された伊東マンショの肖像画とメスキータ神父の肖像画、ともに、1585年に描かれたものが大きく配されていますが、この肖像画の現物展示こそ、今回の「見もの」であり、「売り」と見ました。
 これは使節たちが謁見をはたしたローマ教皇グレゴリウス13世の子孫の家から発見されたと聞きましたが、教皇にも若かりしころ、秘められたロマンがあったのでしょうか。

 使節たちが持ち帰った「活版印刷」がらみでは、いろいろ展示がありますが、加津佐の図書館所蔵のキリシタン版を印刷したブドウ絞り機型印刷機のレプリカ、諫早のところで紹介したドラード像、ただ、二つとも上記の肖像画と違って、想像上の産物というのが、難ではありますが。
 もっとも、めったに拝めない本物もありました。私たちが「スピリツアル修行」と呼んでいる1607年(慶長12)に長崎で印刷されたキリシタン版がそれです。国の重要文化財に指定されていて、長崎大司教区の所蔵になるものです。
 
 また、天理大学図書館所蔵でドラードたちが1590年(天正18)、帰途、マカオで印刷した「天正遣欧使節対話録」も出品されていました。
 キリシタンの世紀やそのあとにつづく禁教の時代、南蛮文化に興味をお持ちの方には、見逃せない展覧会で、構成も順序だててわかりやすいと思いました。
 


 
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活版印刷と最初に出会った土地「加津佐」

2006-11-01 13:47:18 | Weblog
 口之津から加津佐に向かいます。島鉄のかわいい電車でも、海岸線を走る路線バスでもあっという間です。
 この加津佐こそ、日本ではじめて、金属活字を使った「活版印刷」が行われた土地であり、日本の印刷文化史の上では、いわば、「聖地」といっていいところです。
 長崎で本木昇造が金属活字の鋳造に成功した1870年(明治3)に先き立つこと279年、1591年(天正19)に、ここで「サントスの御作業の内抜き書」、ポルトガル風ローマ字つづりの日本文ですから、[Sanctos No Gosagveno Vchi Nuqigaqi]が印刷されたのです。

 ところが、いまとなると、400年以上昔のことですから、加津佐の町の人でも、この史実を知らない人が多いようです。
 目標は「天辺の丘」、円通寺跡を抜け、教育委員会がたてた「セミナリヨ、コレジョ跡」の説明板を読んで、さらに坂道を登ります。やがて、視界が開けて、頂上らしきところにたどり着きます。
 まわりは、じゃがいも畑ですが、眼下に橘湾、右手に男島と呼ばれる岩戸山、左手に女島山と呼ばれる海に突き出た二つの島が目に飛び込んできます。
 おそらく、400年前はうっそうと樹木に取り囲まれて、海からそそりたつ崖の上であったことは容易に想像できます。ここに、ひっそりと、世間の目を忍んで、
ドラードたちが作業をする印刷場があったのです。
 
 じゃがいも畑に踏み込まないようにして、私は日本で活版印刷と最初に出会った土地に、いつまでも佇んでいました。

 
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