活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

キリシタン版のころの雰囲気が残る土地

2007-01-29 11:51:17 | Weblog
私は遠藤周作文学館から角力灘を見ていました。
 
かたわらに、金属製の展望者用ガイド・プレートがありました。青い海と紺碧の空、遠く、かすかに見えるのは五島の島々でしょうか。
 その昔、長崎を出て五島の島々を横目にしながら、マカオへ向かう南蛮船が、あるいは、この沖を通ったのかもしれません。
 1590年(天正18)マカオから印刷機や欧文活字など印刷機材を積んだジャンクが南蛮船を追うようにして辿ったのもこの沖かも知れないなと思ったりしました。

 ここは、外海(そとめ)町。ジュリアンのふるさとから西彼杵半島の海岸線を南下した長崎寄りのところです。
 いまは、長崎市に入っておりますし、事実、長崎から「桜の里」行きのバスに乗り桜の里で「瀬戸・板浦」に乗れば、簡単に外海に連れて来てくれます。
 遠藤周作文学館、出津(しつ)文化村、歴史民族資料館、ド・ロ神父記念館、「沈黙」の碑、黒崎カトリック教会などなど、この一帯は紀行先としては、ゼッタイおすすめです。
 
 たしかに、キリシタン版の印刷と直接、結びつくものは少ないかも知れません。しかし、ここは、キリシタン弾圧で印刷が姿を消してから、つまり、1570年代から、ずっと隠れキリシタンが信仰を守りぬいたキリシタンの里です。
 正直にいいますと、キリシタン版印刷の聖地ともいうべき島原半島の加津佐あたりには残っていません。
 なんといいますか、外海には、キリシタン版のころの雰囲気があるような気がしてならないのです。また、寄り道といわれそうですが、私は、このあたりのことをお伝えしたいのです。



 
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ジュリアンも読んだ?活版印刷本

2007-01-28 12:38:40 | Weblog
 「中浦ジュリアン記念公園」が西海町中浦南郷にあります。
 ここはジュリアンが生まれたであろう「中浦ジュリアン居館跡」のすぐ隣です。
 2002年(平成14)2月の公園完成のときに、前出の小佐々さんがジュリアンゆかりの古書を寄贈されました。

 書名は、『アンジェロ・ポリツィアーノ書簡集』で、1546年刊行、ラテン語で縦16センチ、横11センチ、644ページの本です。著者ポリツィアーノはイタリア・ルネッサンス期の文化人の一人です。
 さて、この古書とジュリアンたちとのつながりの糸はといいますと、こうです。
 ジュリアンたち少年使節は1584年末に、スペインのムルシア市郊外のイエズス
会のセミナリヨに1ヶ月滞在しました。
 この本はその図書館に代々、所蔵されつづけて来ました。
 だから、滞在中に、あるいは、ジュリアンたちが手にして、ルネッサンス期の人生論や文学論の中身に触れたかも知れないのです。
 
 記念公園の展望台内の資料展示室ではジュリアンの生涯をモルタルレリーフ彩色壁画で見ることができます。もちろん、左手で海の向こうを指差す彼の像もありました。

 そのほか、紀行先としては、多比良川の川沿いにある小佐々氏の墓所、五島灘を一望できる城山、七釜港などがあります。なお、2007年11月、ヴァチカンから枢機卿が長崎にきて、ジュリアンやベトロ岐部ら、新たにローマ法王が「福者」に列することにした188人の列福式が行われる予定だと聞いております。
 


 
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ジュリアンのふるさとは

2007-01-28 11:25:20 | Weblog
 長崎の西彼杵半島に西海市があります。ここの多比良や中浦あたりが中浦ジュリアンのふるさとです。大村湾を挟んで反対側の佐賀寄りが原マルチノの生地波佐見でした。
 ただ、訪ねてみると、両者の環境は大違い、海のない波佐見と違ってジュリアンのふるさとは五島灘に面した海沿いでした。ひょっとして、五島灘よりも角力灘の方が正しいのかな、地図によって表記がちがうのは困りものです。

 その地図で海岸線をたどって見て行くと、「七釜」という港があります。350年ほど前にオランダ人が編んだ地図にNagaetsgammaと出て来ますから、当時は大陸からの大きな船が入港するたいした存在でした。
 おもしろいことに、この七釜を拠点にして戦国時代から江戸時代まであたりの水域を舞台に大活躍した「小佐々水軍」のボス、中浦城主の小佐々甚五郎純吉の息子、小佐々甚吾こそが、後の中浦ジュリアンその人だったというのです。

 世が世なら、水軍のボスになって暴れまわったかも知れないのに、セミナリヨに入学し、天正少年使節の一人に選ばれ、たまたま、ヴァチカンでは、一人だけでローマ教皇に抱きしめられたという奇しき彼の運命。それだけではありません。1614年(慶長19)のバテレン国外追放のときは、莞爾として潜伏の道を選び、1633年(寛永10)長崎の西坂で穴吊りの刑で殉教した、さしづめ、いまならTVのドキュメント番組になるような彼の生涯は、なぜ、どこから、どうして来たのでありましょうか。 埼玉在住でジュリアンの末裔の獣医学博士小佐々学先生が、もう、30年もコツコツと調べておられますから、そのあたりはもっと究明されるにちがいありません。
 
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原マルチノと活版印刷

2007-01-27 11:01:45 | Weblog
 「有田焼なら知っているが、波佐見焼は知らない」とおっしゃる人がいらっしゃるかもしれません。
 私も原マルチののふるさと波佐見を訪ねるまでは同類でした。
もっとも、波佐見焼がインドネシアなど東南アジアに盛んに輸出されるようになったのは江戸時代ですから、マルチノが生まれたころの波佐見は、大村領で人々は山と田畑にはりついて暮らす山村だったでありましょう。

 マルチノは武家の出で、原 中務(なかつかさ)の子とされていますが、出自は
いまひとつ、はっきりしていません。
 
私は彼が、使節四人のなかでは、いちばん、活版印刷と近かったと思います。
 なぜなら、使節たちの帰国途中、マルチのがインドのゴアでラテン語で、師、ヴァリニャーノに感謝の演説をし、それをコンスタンチノ・ドラードが16ページの印刷物に仕立てました。
 もし、それが、今から420年前の「日本人による最初の活版印刷物」ならば、
マルチノは、「日本で最初に自分の著作が活版印刷物」になった男といえます。
 おそらく、ドラードはマルチノの生原稿を見ながら、リスボンで積み込んだ欧文
活字から文選作業をしたはずです。

 マルチノとドラードが額を寄せ合って、活字を用意している光景がめに浮かびますね。
 それだけではありません、1614年(慶長19)ドラードとともに、マカオへ追放されてからも、二人で出版物の制作に取り組みましたし、天草でも長崎でもキリシタン版の編集にいちばん手を貸したのがマルチノだったはずです。
 
 マルチノの像は町のほぼ、中央、町役場のそばにありました。波佐見はJRの有田駅からタクシーで15分ほどです。




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「活版印刷紀行」はアシが大変

2007-01-24 11:57:43 | Weblog
 私は「キリシタン版」ゆかりの地を訪ねて、内外各地を歩きました。海外の場合は下調べも綿密にして出かけますし、あらかじめ、心構えもをしていますから、意外にスムーズに廻れました。
 
 ところが、アニハカランヤ、日本国内の方が大変でした。おおざっぱにいいますと、主たる紀行先は「長崎県」と「熊本県」、あとは「大分」を少しということにしましたが、同じ長崎県でも、長崎市内は別にして、加津佐や有馬のような島原半島の土地、土地と、これから訪ねる原マルチノや中原ジュリアンゆかりの西彼杵半島とでは、場所がかなり、あっちこっちしております。

 やっぱり、欲ばって、いっきょにという計画は無理です。
1日にバスが4,5本という辺鄙なところもありますから、前もってバス会社の時刻表をインターネットで調べて行動するのがよいと思います。
 タクシーは不経済ですし、おすすめとしてはレンタカーを使う手もあります。

 私はノー・ハンドルですから、もっぱら、バスや電車でオッチラ、オッチラ動きましたが、そのほうが自然や人情や思わぬ「拾いもの」に接することができます。

 あとは、団体でという手があります。
 写真は2005年6月に、私が属する印刷文化史の研究サークル「大曲塾」で「印刷文化のふるさと探訪、キリシタン印刷街道を歩く天草・島原・長崎」というツアーを催したときのバスの横っ腹です。
 東京から25人で2泊3日でしたが、効率的で楽しく、ワイワイと歩きました。あちこちで、現地の役場や教育委員会や図書館の方々にご案内いただいて忘れがたい勉強会になりました。


 
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釜蓋城でミゲルは生まれたという

2007-01-21 13:28:49 | Weblog
 ミゲルの像に別れを告げて、ふたたび、橘公園に足を踏み入れることにしました。あたりにサクラの木が多いので、花見の季節には屋台が出て、にぎやかになります。数年前、私が、当時千々石の教育長、坂 憲章先生にご案内いただいたときがちょうど、その季節でした。
 釜蓋城は山城でしたから、いまでも、高台に向かって歩かねばなりません。
そこには、小さな天守閣が作ってあって、そばに、かなり、古色蒼然たる「清左衛門之碑」があります。
 
 千々石ミゲルは帰国後、ほかの三人とノビシャード(セミナリヨとコレジヨの
間にある、短大みたいな神父養成の学校)までは一緒でしたが、コレジヨには進学せずに、千々石清左衛門として、親戚である大村や有馬の禄をはんだことになっております。四人の使節のなかでとりわけ、認められていたはずのミゲルがなぜ、ドロップアウトしてしまったかは謎です。
 彼は生れ落ちてまもなく、父の戦死によって、釜蓋城を落ちのびなくてはなりませんでした。セミナリヨ入学、そしてヨーロッパへの旅、やがて、落魄の身となるにいたるまで、いっいたい、何があったのでしょう。
 
 二年ほどまえに、大村湾沿いの多良見町で千々石ミゲルの墓ではないかという巨石が発見され、地元で大きな反響を呼びました。
 私はコンスタンチノ・ドラードのことを調べましたが、あちこちに顔を出すミゲルに興味を覚えました。おそらく、ミゲルはこころやさしい少年でしたから、なにかとドラードと親しくし、あるいは、印刷にも手を貸したかも知れません。

 そんなミゲルなのに、顕彰碑が清左衛門であったり、なにかと、橘中佐の陰に隠れてしまっているようで寂しい気がしました。
  
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千々石ミゲルのふるさと訪問

2007-01-20 11:56:18 | Weblog
 天草から定宿のある諫早にもどって、今度は少年使節のゆかりの地を訪問することにしました。
 そのトップバッターは千々石ミゲル。
 四人の中でいちばん謎が多く、いつ、どこで、亡くなったかさえ不明です。
 それでいて、帰国途中、マカオで印刷された『遣欧使節対話録』では、話の進行役、舞台回し役をつとめさせられていますから、ヴァリニャーノに、相当、かわれていたとみることができます。
 車窓右手に橘湾、左手の山の上に風力発電の塔が見えてくると、いよいよ、ミゲルの生地「千々石町」です。ここも、ご他聞に漏れず、町村合併で雲仙市になってしまいましたが、たしかに、東に雲仙普賢岳、西に橘湾と、絶好な自然環境です。
 橘湾の橘とは、橘 周太中佐によるもので、千々石湾とも呼ばれています。
 橘公園前で下車して、ちょっと戻ると、町役場の庁舎がありますが、その手前に
千々石ミゲルの像がありました。
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「天草切支丹館」や「天草ロザリオ館」

2007-01-17 13:41:08 | Weblog
 天草の寄り道お薦めベストワンが公私のミュージアムにあることは論をまちません。「活版印刷紀行」がテーマである以上、河浦のコレジヨ館は寄り道どころか、本命ですが、印刷と直接の結びつきはないものの、絶対に寄りたいミュージアムを
訪ねましょう。

 そのひとつが、本渡にある「市立天草切支丹館」です。いまは、市町村合併で天草市になってしまいましたが、本渡は天草きっての町です。天草空港から車で10分の地の利、熊本新港とを結ぶマリンビューの本渡港の存在、産交バスの本渡バスセンターは鉄道のターミナル代わりで、天草の交通の要衝です。

 切支丹館をめざして坂を昇っていくと、途中に「殉教公園」があります。ここで、ルイス・デ・アルメイダをはじめキリシタンの墓に詣で、島原の乱の戦没者をまつった千人塚をカメラにおさめ、緑の木陰を散策しましょう。
 島原の乱と書きましたが、天草では「天草島原の乱」といわないと、気分を害されます。原城の攻防でも、本渡合戦でも天草出身の戦士が多数活躍したからです。

 さて、天草四郎像に迎えられた天草切支丹館では、天草のキリシタンの歴史を
数多い展示から知ることができます。天草島原の乱で天草四郎が使ったという陣中旗、踏み絵、メダルやロザリオなどが目をひきます。

 かくれキリシタンといえば、大江天主堂の近くの「市立天草ロザリオ館」では、禁教時代のマリア観音像や信者たちが、かくれ部屋で祈りをあげる光景の再現ジオラマなど興味ぶかいものに接することができます。
 また、場所は天草上島の有明になりますが、浜崎さんという個人運営の「サンタ・マリア館」も、展示品の多さとユニークな徳利館でお薦めです。
 
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寄り道も楽しい

2007-01-16 13:57:40 | Weblog
 宇宙の営みからみると、400年は一瞬かもしれません。しかし、私の活版印刷紀行では、口惜しいほど、あらゆるものの形を変え、痕跡を消し去っています。
 河浦のコレジヨ跡が確定できないのももどかしい1例です。
しかし、たとえば、こんな考え方はいかがでしょう。片岡弥吉先生はコレジヨがあった河内浦、一町田あたりまで、海水が入り込んでいたとも、崎津教会の主任神父が、「一町田川の曲流するあたりにキリシタン屋敷があった」と1930年代に記しているとも、著書の中で述べておられます。

 前にも書いたかもしれませんが、私は、はじめて河浦を訪ねたときに、その遠さに、加津佐から河浦へ印刷所の引越し手段はどうしたのだろうと、考え込みました。
 しかし、近くの崎津教会を訪ねたときに、「海上交通を使ったのでは」と思い、
さらに、思いをめぐらせば、加津佐から海伝いに来て、そこから一町田川をさかのぼったのではないかとヒラメキいた次第です。私の河浦説賛成の理由。

 崎津教会といえば、いまは、隠れキリシタンの話や建築美によって観光先になっていますが、1569年といいますから、少年使節たちが生まれたころに、アルメイダ神父によって建てられ、早くから天草の信仰の中心になって来た歴史があります。
 河浦を訪ねるときに、この崎津の教会やお隣の大江天主堂に寄り道されることを薦めます。あるいは、健脚の持ち主だったら崎津教会のところから、山の上のチァペルの鐘展望台まで登って行って、天草灘から東シナ会海につづく眺望に南蛮船を重ねられることもよろしいかと思います。



 
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天草の印刷所はここにあった

2007-01-16 12:54:18 | Weblog
 コレジヨ館に別れを告げて、いよいよ、天草本の印刷所があったであろう場所の探索に移らねばなりません。
 前の加津佐の天辺の丘では、思わずなにもモニュメントがないことを悔しがりましたが、、ここ、河浦では、ありがたいことにコレジヨ跡が史跡になっています。
  目標は何年か前に訪ねたときは河浦中学校だったのですが、こんどは町の庁舎です。庁舎の横手といいますか、回り込んだところに葛河内川の堤防があります。
 
 ヨッコラショとその堤防にのぼると、サクラ並木の道で、川っぷちはツツジの植え込みが続いていて、「ふれあい橋」という小さな橋がかけられていました。
 ちょうどツツジの満開で川べりが赤く染まって、葉桜のサクラと絶妙なプロムナードの雰囲気をかもしだしておりました。
 
 川に沿って歩いていくと、その葛河内川が一町田川に合流します。
 そこに、コレジヨ跡のモニュメントが作られていました。ベンチが置いてあり、
ゆるやかなカーブを持つ石壁がありますが、その壁面にヴァリニャーノの肖像を真ん中に、右に少年使節、左に印刷所の状景がポルトガルのアズレージョ(青のタイル画)で表現されていました。
 ベンチに腰をかけて、「そうか、あの町役場のあたりにコレジヨの校舎や教会があって、この辺に印刷所があったのか」と、400年前を夢想するひとときは、悪くないものです。
 
 ただ、ここでも蛇足が必要です。コレジヨが河内浦ではなく、本渡城のあったいまの本渡だという人もいることをです。
 
 
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