活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

南蛮船が商店街に

2007-03-20 13:02:53 | Weblog
 大友宗麟の町、府内、いまの大分市は私のような南蛮党にとってはうれしい町といえます。
 なぜかって、訪問初日の夜、ホテルを出てJRの駅の近くの商店街でぶっかったのが「南蛮船」のミニチュアだったのです。
 ポルトガルの「ナウ船」です。
 ナウは船体の長さは40メートル近くあって、トン数でいえば800トンくらい、400から500人は乗れました。

 ナウ船よりももっと大型で武装度合いの強いのが「ガレオン船」です。支倉の使節が乗ったのはガレオンだったと思いますが、ややスペイン色が強いはずです。

 いずれにしても、ナウ船は帆船ですから航海はすべて風頼み。リスボンを3月の終わりごろ出て喜望峰を迂回して9月ごろにインドのゴアに着くのですが、その間、貿易風やモンスーンの追い風のご厄介にならねば、進むことが出来ません。
 さらにゴアで西風が吹き始めるまで半年以上も待って、マラッカ、マカオ経由で日本に到着するのは8月ごろ。マカオからの便の都合もありますが、最低でも2年
は必要としました。

 遊歩公園の彫刻群にしろ、この南蛮船モニュメントにしろ先祖たちが果たしたヨーロッパ文化との出会いをヴィジュアライズしてくれているのは、市民にとってもうれしいはずです。

 私は藤沢周平ファンとして、山形県の鶴岡を訪ねたことがあります。鶴岡駅の観光パンフレットに周平特集めいたものが何種かありましたし、市内の周平の作品ゆかりの場所に案内板があるのには感心しました。虚構の作品のモデル地を「ここではなかろうか」と教えてくれているのです。
 
 大分の場合は正真正銘の郷土の文化史です。それを大事にしている気配りを感じました。さらに、翌日、お隣の臼杵を訪ねるに及んで、いっそう文化史上の遺物、遺跡への配慮が自治体行政には大事だと思った次第です。

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遊歩公園で出会った400年前

2007-03-19 13:37:54 | Weblog
 大分駅のインフオメーションで聞いた名店で関アジ・関サバを堪能し、不謹慎にも少々、麦焼酎まできこしめして、探索を開始したのです。
 まず、失礼ながら、府内のお城にお尻を向けて遊歩公園でブロンズの彫刻とご対面。もちろん、出会いの最初は伊東ドン・マンショ像です。

 馬に乗った凛々しいマンショ。教皇グレゴリウス13世に拝謁するためヴァチカン
宮殿に向かって行進したときも、こんなポーズを決めていたのでしょうか。日向の都於郡城で伊東裕益として日を送った幼少時代に覚えた馬術かも知れません。

 2005年にグレゴリウスの陪臣の子孫宅でマンショと使節の引率者メスキータの肖像画が出てきて、新聞紙上をにぎあわせたことは記憶に新しいですし、私も、
長崎歴史博物館の特別展で現物を拝みました。
 あのとき、マンショの父、伊東裕青がお寺に奉納した天井板も出品されていて、かすかに墨書されたマンショの幼名裕益も見てきました。あまり、よく、見えませんでしたが、よく残っていたものですね。

 遊歩公園の彫刻の中で印象的だったのは、かわいらしい童子が大きな口をあけて神父の奏するビオラにあわせて聖歌を歌っている「西洋音楽発祥記念碑」。アルメイダが日本人の助手と外科手術をしている「西洋医術発祥記念碑」の2つでした。

 いずれにしても、21歳の若い領主だった大友義鎮、のちの宗麟は、ザビエルから
直接、教えを説かれた最初のキリシタン大名です。
 彼が教会やコレジヨ、病院建設まで積極的にヨーロッパを取り入れたのに、「印刷」に興味を示したという文献がないのが残念です。 
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大友宗麟とマンショ

2007-03-18 23:36:15 | Weblog
 8:30分の便で羽田を発ち、大分空港からホーバークラフトとバスを乗りついで、なんと、11時には大分駅前で大友宗麟の出迎えを受けることが出来ました。

 この宗麟、私が抱いているイメージより恰幅が良すぎる気がしました。
なぜなら、彼は家督相続のときから「大友二階崩れの変」に遭遇し、日本最初のキリシタン大名になった当座も、家中に反乱が起きて辛酸をなめています。
 さらに、南蛮貿易で利益をあげるため、織田信長やヴァリニャーノまでこの府内の地から遠隔操作をしたという経歴から、もっと痩身で神経質っぽくってもいいかと思ったのです。

 ところで、日本最初の活版印刷キリシタン版ゆかりの地、長崎各地を訪ね歩く私にたびたび去来したのは、「今から400年も前、いまでも都会とはいえないこの土地土地が、ルネッサンス期のヨーロッパとつながっていたとは」という単純な驚きと、それをもたらした人への賞賛でありました。

 それに登場人物として主役をはった4人の遣欧少年使節も12、3歳で出発し、いまでいうなら成人式直後に帰国した若者だったではありませんか。
 4人のうち3人までは、長崎でその生地を訪問出来ましたが、例外は、ただひとり日向、いまの宮崎県西都市出身の伊東マンショでした。

 マンショは母が大友宗麟の係累というので、正使に任じられたことになっています。ユニークな県知事登場で話題の宮崎をあとまわしにして、今回、豊後の大友宗麟ゆかりの地を訪ねることにしました。
 
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二十六聖人記念館つづき

2007-03-09 20:14:12 | Weblog
 日本二十六聖人記念館といえば、どなたも、つい、さきほどまで館長をつとめておられた結城了悟先生のお名前を思い浮かべることでしょう。
 1922年にスペインに生まれ、ディエゴ・バチェコとおっしゃった先生は、17歳でイエズス会に入会、戦後すぐの1948年に来日、50年に司祭になられ、78年に帰化されております。
 長崎に来られた3年目の1961年から2004年まで多年にわたって館長としてご活躍になられましたが、その間、著された著書や発表された研究は数限りがありません。

 とくに、印刷と関係のある天正少年使節に関する著書も多く、私も結城先生と松田毅一先生にはいろいろ教えていただきました。
 1998年でしたか、はじめてお会いしたときに「長年にわたって、あちこちキリシタンゆかりの地を訪ねていらっしゃって、どこかでキリシタン版の金属活字をごらんになりませんでしたか」と、単刀直入にお尋ねしたことがありました。
 しばらく考えておられて、「1度だけ、活字をつぶして作ったというメダイを見せてもらったことがありますが、活字は見たことがありません」とのことでした。

 最近は、『ロレンソ了斎』、信長や秀吉にもキリスト教の話をした平戸の琵琶法師、日本人のイルマンについての本も出されました。
 私が、ドラード、ドラードといいましたら「帰国途中、マカオで亡くなった同じ諫早出身のロヨラのことをもっと伝えてほしいと、ロヨラに関するご自分の文献を送ってくださいました。

 多年のご活躍にポルトガル政府やヴァチカンから、あるいは県や市からたびたび受賞されております。現在、館長としてはデ・ルカ・レンゾさんがあとをついでおられますが、結城先生もあいかわらずご精励です。
 なお、写真の左上の本は二十六聖人記念館に展示されている「デ・サンデの遣欧使節記」です。
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京都から長崎まで1000キロの道を

2007-03-09 13:26:59 | Weblog
 1597年(慶長元)、秀吉の命により、京都一条戻り橋で左耳たぶをそがれた信徒24人が大坂を経由して厳冬の1000キロを1ヶ月かけて長崎まで歩かされたのです。途中で二人が加えられ、長崎、西坂の丘で二十六人の胸を槍が貫いたのは、2月5日でした。これが、日本の殉教の最初でした。

 ローマ教皇ビオ9世は1862年(文久2)6月10日、この二十六人を聖人に列聖しましたが、その百周年に当たる1967年(昭和37)に、西坂に建ったのが本日の訪問先、「日本二十六聖人記念館」です。
 JR長崎駅から歩いて10分、小さな坂を登り、聖フィリッポ教会のガルディふう尖塔を右に広場をつっきると、合掌する二十六人の像が目に飛び込んできます。最年少で12歳だったという聖ルビドス・茨木、最高齢だったという聖ディエゴ喜斎64歳、二十六人それぞれの表情、だれしもがしばらく、その場に釘付けになってしまいそうな雰囲気を秘めています。

 館内に歩を進めまると、まさに、「日本のキリシタンの世紀」がつまっております。日本の活版印刷のさきがけ、キリシタン版を知るためにも、ここをスタート地点にすべきだったかも知れないなと思わされました。
 フランシスコ・ザビエルの自筆の書簡があります。少年使節のひとり、中浦ジュリアンが1612年9月21日に書いた「わが敬愛するイエズス会総長顧問ヌノ・マスカレニヤス神父さま」で始まる自筆のポルトガルの手紙もあります。
 
 そのほか、1593年刊のアントニオ・ポセヴィンの「ビビリオテカ・セレクタ」、1600年代そうそうに南蛮絵師とよばれる日本人の手になった「サンタ・マリア」の絵、羊皮紙に聖歌の五線譜など興味深いものがたくさんありました。
 

 
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古井戸はなにを見ていたか

2007-03-04 15:01:21 | Weblog
 キリシタン版印刷の旧跡を訪ねる旅はどうしても、否応なくある種のもどかしさをもたらします。400年以上も前に日本に取り入れられ、活動した活版印刷のシッポぐらいギュッと掴まえたいのに。
 つい、愚痴をお聞かせしましたが、きょうも、めげずに、ゴーです。

 当時の長崎村、大村純忠配下の長崎甚左衛門純景が治めていたから「長崎」?、彼がアルメイダに提供した土地に長崎で最初に教会が建てられたのは1569年(永禄12)のことで、トードス・オス・サントスといいました。、ポルトガル語でいえば、「諸聖人教会」となりますか。仏寺を改造したといいますから、ひなびた
廃寺ふうだったでしょう。

 それから30年近く経ちました。おそらく、かなり、りっぱになったトードス・オス・サントス教会に天草河浦からセミナリヨやコレジヨが引っ越して来ました。1597年(慶長2)のことです。秀吉は、この1年後に亡くなりますが、この年は例の西坂の26人の殉教事件が起きた年ですから、キリシタンにとっては緊張せざるを得ない年でもありました。
 印刷所もコレジヨといっしょに一時的にここへ移りました。わずか1年ぐらいで
また、岬の教会の方に移りましたが。いま、天理図書館にある「ばうちすもの授け
やう」という国字本はここで印刷されたと思われます。

 実は、ここでは、印刷工房は短かったものの、あとで、コレジヨの下にあたるノビシャード(修練院)も来校しますし、有馬に戻ったセミナリヨも再度、登場し、禁教令後も建物はしぶとく1619(元和5)まで残ったといいますから、キリシタン時代の重要ポイントでした。

 ならば、現在はといいますと、1651年からつづく華嶽山「春徳寺」になっています。新大工町から近く、参詣客や観光客が多いお寺になっています。山門の横に、「トードス・オス・サントス教会コレジヨセミナリオ跡」の碑があります。
興味ぶかいのは、本堂の隣にある「切支丹井戸」で、これが唯一、教会時代のものです。この古井戸だけが、印刷所在りし頃を知っていてくれるのかも知れません。
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