活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

キリシタン版の活字の話

2007-04-25 18:59:00 | 活版印刷のふるさと紀行
 高野山で、改めて考えたことがありました。
霊宝館で貴重な版木もたくさん見せてもらいましたが、もっとも私が興味ぶかく拝見したのが、木活字でした。
 「活版印刷紀行」で訪ね歩いておりますのは、天正時代に日本に入ってきたキリシタン版をメインに、あとは、明治初年からほぼ、昭和の終わりまで日本の印刷文化史を支えて来た本木昌造らから始まった金属活字、主として鉛活字を使った活版印刷であります。

 さて、ここで疑問があります。
 キリシタン版と同時代の秀吉は朝鮮から銅活字を持ち帰らせました。家康は駿河版銅活字を鋳造させました。彼ら二人ともが、印刷に心を寄せ、開版事業をしているのに、キリシタン版は家康の禁令や追放令ととも消滅させられてしまいました。
 秀吉はともかく、家康は本当に、キリシタン版の印刷技術をむざむざと、追放してしまったのでしょうか。 私が家康だったら、先進技術にあたるはずのキリシタン版の印刷術を盗ませます。はたして、キリシタン版とその後の日本の活字印刷は無縁だったのでしょうか。
 
 理由はわかりませんが、たしかに、せっかく銅活字を鋳造したのに、家康の金属活字を使う印刷はかれの没後、途絶えてしまいます。
 ですから、家康はキリシタン版の価値がわからなかったのだという説が、まかり通っております。

 さらに、朝鮮からもたらされた李朝の活字技術で、「文禄勅版」や「慶長勅版」など秀吉関連の出版物、さらに家康関連の「伏見版」や「駿河版」、あるいは「五山版」なども作られたことになっていて、日本の古活字版のいっさいがキリシタン版と無関係という説も、なかば、常識のように語られて来ました。

 まだ、ここで多くは申し上げませんが、今度の研修旅行でレクチュアをしてくださった近畿大学の森上 修先生のご研究で、「初期の古活字版にキリシタン版の活版技法の影響がある」ことを知り、「そうか」と感激し、翌日、高野山で古活字を目の当たりにし、もっと、活字のことを勉強したいなと思いながら、山を降りた次第です。


 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高野山の印刷文化

2007-04-25 13:06:50 | 活版印刷のふるさと紀行
 高野山へのケーブルカーは春霞の中を登って行きました。
 大曲塾の研修旅行の2日目は、高野山の霊宝館でとくべつに用意してくださったコーナー、「高野山の印刷文化」を拝見するのが、第一の目的でした。
 日本の印刷史の上では、平安時代の「春日版」についで、鎌倉・南北朝・室町時代に、興福寺や東大寺、西大寺、法隆寺などの奈良の寺院での印刷、この高野山では「高野版」、五山の禅寺では「五山版」と、経典がつぎつぎに開版されたことがよく知られています。
 
 いまさら、いうのもおかしいのですが、日本の「百万塔陀羅尼」にしても、韓国の「無垢浄光大陀羅尼経」にしても、グーテンベルクの「四十二聖書」にしても宗教と印刷文化は密接につながっております。
 
 比叡山は信長に焼かれてしまっておりますから、高野山が古書の宝庫、とくに仏書の印刷研究や木版印刷研究でも、まさに、大本山なのです。
 重要文化財の「大日経疏巻第二」の版木や桃山時代、朝鮮から学んだ技術と活字で刷られたという「光明真言抄」など貴重な展示物を拝見できたことは〝眼福〟の二字に尽きる思いでした。
 
 今夜は宿坊でやっかいになり、明朝は勤行。そういえば、霊宝館の後、大使教会であずかった「お受戒」は厳かでした。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近畿大学の中央図書館で貴重書を

2007-04-04 12:45:11 | 活版印刷のふるさと紀行
 印刷文化懇話会神田川大曲塾ーちょっぴり長ったらしいので恐縮ですが、これが
私が所属している「印刷文化史」のサークルの名前です。
 メンバーには印刷博物館関係の方もいらっしゃいますが、編集者、カメラマン、
グラフィックデザイナー、主婦、外国人の大学教授、探検家と職種は多彩、年齢はいまのところミドルエイジがやや多しですが、なかなかの異色サークルです。

 さて、このたび、その大曲塾で、近畿大学の中央図書館にご無理をお願いして、ご所蔵の貴重書を拝観する機会が持てました。どこの大学図書館でも、学外の人間では滅多に望めないことなので、近畿大学に心から感謝と敬意を持った次第です。

 さて、そこで私が対面したすばらしい本の1冊が、この『天正遣欧少年使節対話録』です。1590年、少年使節たちはマカオまで帰って来ます。この本はインドで彼らを出迎え、いっしょに日本に赴くことになったヴァリニャーノの企画です。彼らからヨーロッパでの見聞を聞きとり、対話形式でまとめたスペイン語の著作をデ・サンデにラテン語訳させ、それをドラードたちが印刷しました。リスボンで積み込んだ印刷機、活字などを使って本格的な「本の印刷」に挑戦したわけで、場所はマカオでも、日本人がはじめてグーテンベルク方式の「活版印刷」に取り組んだものといえます。

 おそらく、製本はあとで手を加えたものでしょうが、本文の印刷はしっかり見ることができました。もちろん、マスクをし、手袋をして、ケースごしに拝むわけですから手触りまではわかりませんが、「1590年に、これを印刷したのだ」と感動していると、メガネが曇って‥‥

 大曲塾に入塾したい方、歓迎です。

 
 
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アズレイジョはヨカね

2007-04-03 22:22:22 | 活版印刷のふるさと紀行
 ポルトガルの町を歩いていると、ビルや家、家の外壁のブルーの絵タイルが目をひきます。アベイロ駅やポルト駅でうっとり見入ったのも思い出のひとつです。
 そのアズレイジョには、こんどの紀行でも天草の河浦のコレジヨ跡でおめにかかりました(既述)。臼杵ではサーラ・デ・うすきにもありましたが、今日、臼杵で見たのはもっと本格モンでした。

 たまたま、野上弥生子文学記念館から、おいしい味噌せんべいにひかれて長居した醸造店を出て、角を曲がったら、なんと、4~5間はある白壁一面がアズレイジョで埋め尽くされておりました。
 中ほどに大友宗麟さんが鎮座ましましていますのは、土地柄、当然ですが、少年使節の肖像やヴァチカンにあるシスト五世の戴冠式に向かう少年使節が馬に乗った有名な行列図、日本からリスボンまでの彼らの旅程地図などがところ狭しと青一色のタイルで表現されているではありませんか。

 うれしかったな。嬉々として大友宗麟とツー・ショットしたのでしたが、それは部外秘、NO IMAGEとさせていただいて、ごくごく一部を掲載しておきましょう。

 このAzuleejo,アズレイジョはちょうど、天正使節がポルトガルに行っていた頃から製作されはじめたといいますから、彼らの目にも間違いなくとまったことでしょう。もっとも、そのころの絵タイルの値打ちモンは国立タイル博物館入りしているでしょうが。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臼杵で「南蛮時代」と対面

2007-04-03 17:38:30 | 活版印刷のふるさと紀行
翌週、府内(大分)と並んで豊後でキリシタンとゆかりの深い臼杵を訪ねることにしました。ルイス・デ・アルメイダが大友宗麟に交渉をもって、ここに教会堂を建てたのは 1567年(永禄10)だったといわれております。
 宗麟は1580年になると、こんどは来日したばかりのイエズス会の巡察師ヴァリニャーノの願いをいれて臼杵にノビシャード(修練院)、府内にコレジヨの開校を許します。
 しかし、教会堂も修練院も1586年(天正14)に、島津軍に焼き払われてしまいます。もちろん、再建はされましたが、くわしい経過はわかりません。

 さて、その臼杵ですがすばらしい町です。
サーラ・デ・うすきという和風と南蛮風をつき混ぜたような建物に飛び込んで驚きました。南蛮屏風・ナウ船の模型・大砲・クルス刻印瓦などとならんでエヴォラ文書のレプリカが陳列されているではありませんか。

 16世紀の後半、臼杵のノビシャードのキリスト教講義録が南蛮屏風の裏打ちの下貼りに使われて、ポルトガルにもたらされたものだといいます。
係りの方の説明によると、屏風は京都でつくられたもの、してみると、文書は臼杵から京都、京都で下貼りに使われて、長崎へ、長崎から南蛮船でリスボン、リスボンからエヴォラという行程をたどったにちがいないと。

 ぜひ、機会があれば、サーラ・デ・うすきで「南蛮コーナー」の展示資料と映像資料を見てください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする