高野山で、改めて考えたことがありました。
霊宝館で貴重な版木もたくさん見せてもらいましたが、もっとも私が興味ぶかく拝見したのが、木活字でした。
「活版印刷紀行」で訪ね歩いておりますのは、天正時代に日本に入ってきたキリシタン版をメインに、あとは、明治初年からほぼ、昭和の終わりまで日本の印刷文化史を支えて来た本木昌造らから始まった金属活字、主として鉛活字を使った活版印刷であります。
さて、ここで疑問があります。
キリシタン版と同時代の秀吉は朝鮮から銅活字を持ち帰らせました。家康は駿河版銅活字を鋳造させました。彼ら二人ともが、印刷に心を寄せ、開版事業をしているのに、キリシタン版は家康の禁令や追放令ととも消滅させられてしまいました。
秀吉はともかく、家康は本当に、キリシタン版の印刷技術をむざむざと、追放してしまったのでしょうか。 私が家康だったら、先進技術にあたるはずのキリシタン版の印刷術を盗ませます。はたして、キリシタン版とその後の日本の活字印刷は無縁だったのでしょうか。
理由はわかりませんが、たしかに、せっかく銅活字を鋳造したのに、家康の金属活字を使う印刷はかれの没後、途絶えてしまいます。
ですから、家康はキリシタン版の価値がわからなかったのだという説が、まかり通っております。
さらに、朝鮮からもたらされた李朝の活字技術で、「文禄勅版」や「慶長勅版」など秀吉関連の出版物、さらに家康関連の「伏見版」や「駿河版」、あるいは「五山版」なども作られたことになっていて、日本の古活字版のいっさいがキリシタン版と無関係という説も、なかば、常識のように語られて来ました。
まだ、ここで多くは申し上げませんが、今度の研修旅行でレクチュアをしてくださった近畿大学の森上 修先生のご研究で、「初期の古活字版にキリシタン版の活版技法の影響がある」ことを知り、「そうか」と感激し、翌日、高野山で古活字を目の当たりにし、もっと、活字のことを勉強したいなと思いながら、山を降りた次第です。
霊宝館で貴重な版木もたくさん見せてもらいましたが、もっとも私が興味ぶかく拝見したのが、木活字でした。
「活版印刷紀行」で訪ね歩いておりますのは、天正時代に日本に入ってきたキリシタン版をメインに、あとは、明治初年からほぼ、昭和の終わりまで日本の印刷文化史を支えて来た本木昌造らから始まった金属活字、主として鉛活字を使った活版印刷であります。
さて、ここで疑問があります。
キリシタン版と同時代の秀吉は朝鮮から銅活字を持ち帰らせました。家康は駿河版銅活字を鋳造させました。彼ら二人ともが、印刷に心を寄せ、開版事業をしているのに、キリシタン版は家康の禁令や追放令ととも消滅させられてしまいました。
秀吉はともかく、家康は本当に、キリシタン版の印刷技術をむざむざと、追放してしまったのでしょうか。 私が家康だったら、先進技術にあたるはずのキリシタン版の印刷術を盗ませます。はたして、キリシタン版とその後の日本の活字印刷は無縁だったのでしょうか。
理由はわかりませんが、たしかに、せっかく銅活字を鋳造したのに、家康の金属活字を使う印刷はかれの没後、途絶えてしまいます。
ですから、家康はキリシタン版の価値がわからなかったのだという説が、まかり通っております。
さらに、朝鮮からもたらされた李朝の活字技術で、「文禄勅版」や「慶長勅版」など秀吉関連の出版物、さらに家康関連の「伏見版」や「駿河版」、あるいは「五山版」なども作られたことになっていて、日本の古活字版のいっさいがキリシタン版と無関係という説も、なかば、常識のように語られて来ました。
まだ、ここで多くは申し上げませんが、今度の研修旅行でレクチュアをしてくださった近畿大学の森上 修先生のご研究で、「初期の古活字版にキリシタン版の活版技法の影響がある」ことを知り、「そうか」と感激し、翌日、高野山で古活字を目の当たりにし、もっと、活字のことを勉強したいなと思いながら、山を降りた次第です。