活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

ハングル文字と漢字

2007-05-28 11:10:36 | 活版印刷のふるさと紀行
 これが、韓国の清洲古印刷博物館の項で触れた「直指」です。
 実は私は韓国がはじめてでした。ソウルの町に佇んで最初に受けた印象が「看板がハングル一色だ」ということでした。

 今まで、歩いた中国や台湾はもちろんのこと、香港でもマカオでも、漢字の看板が私の町歩きをずいぶん助けてくれました。「韓国では、そうは行かないぞ」と到着早々、身構えてしまったほどです。

 いまさら、「直指」や「無垢浄光大陀羅尼経」や「高麗八万大蔵経」を引き合いに出すまでもなく、漢字印刷のパイオニアの国で、仏教経典の宝庫、漢字圏の韓国で、まさか、ハングルがこんなに幅をきかせているとは思いませんでした。

 ハングルを作らせた世宗大王は喜んでおられるかもしれませんが、今回、訪問先
各所で拝観した新羅から李氏朝鮮にいたる連綿たる韓国の輝かしい印刷史の研究には漢字の知識が不可欠のはずです。大袈裟にいえば、漢字教育の消長が、韓国の印刷史研究を左右する局面がないとはいえません。

 つい、心配になって、身近な来日韓国人15人にご本人の漢字学習体験、漢字観をアンケートしてみました。漢字教育は小学校から受けたが5人、中学から8人、高校から2人。これからは、漢字も勉強すべきが8人、ハングルだけで十分が5人、「日本へ来てから漢字も読めた方が便利と思った」といった人もいました。

 ちなみに「直指」を知っていた人が15人中13人でした。
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韓国の清州古印刷博物館

2007-05-27 14:17:14 | 活版印刷のふるさと紀行
 写真を見てください。小さくて判りにくいかもしれませんが。
僧侶姿の三人が、折りしも「直指」とある印刷物の表紙を印刷中です。
もちろん、人形ですが。

 ここは韓国の忠清北道、清州市にある清州古印刷博物館、高麗時代の印刷術や朝鮮時代の木版印刷や金属活字をはじめ、古活字や古書、古い印刷道具を一堂に集めたユニークな博物館で、人形を使って「直指」の印刷プロセスの工房を再現している1コマです。
 
 神田川大曲塾の「印刷文化のふるさと探訪」で訪ねました。
 博物館もぜひみていただきたいのですが、ここで、私が紹介させていただきたいのは、韓国が誇る世界最古の金属活字本の「直指」、これは、略称で、「白雲和尚
抄録仏祖直指心体要説」であります。
 
 誤解があるといけませんが、前々回の「無垢浄光大陀羅尼経」は、木版印刷でした。「直指」は金属活字で1377年に印刷されているので、1455年のグーテンベルクの「四十二行聖書」よりも78年も早いというわけです。

 もっとも、この本を発見したのは朝鮮時代の末に、ソウルに勤務していたフランス大使で帰国の際持ち帰ってしまったそうです。1972年になって本の歴史展に出展されて、「オヤッ」ということになったのです。

 もう一つ、この印刷博物館のある場所こそ、「直指」を1377年に印刷した興徳寺の跡地だそうで、韓国の印刷文化遺産、遺物に対する真摯な取り組みぶりに敬意を表したいものです。
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韓国、海印寺の世界遺産

2007-05-27 12:59:37 | 活版印刷のふるさと紀行
 韓国の印刷の話の続きです。
 海印寺、ヘインサの版木のことは、前に本で読んだことがありますので、期待に胸を膨らませて慶尚南道の山里へ向いました。その前に昼食をというので、日本でいうなら山菜料理を味わったのですが、その辛かったこと、つい、咳き込んで涙までこぼした始末。

 さて、きれいな山門のところまで出迎えのお坊さんが来て下さって、恐縮しましたが、境内は広く、あちこち、参拝してようやく、本堂裏の八万大蔵経の版木が収められている板庫に案内してもらいました。

 大蔵経というのは仏教の経典の集大成で、海印寺に納められている八万の版木は1236年に高麗の高宗が元の侵略から国を守る祈願から製作を命じ、1251年、当時の都の所在地江華島で完成、1398年にここに納められたと聞きました。

 1995年に建築を含めてユネスコの世界遺産になりました。
さいわい、板庫内部を一巡できましたが、正直いって、隙間風やひょっとしたら、陽光も入ってくださいという、なんとも自然任せの構造にビックリでした。
 静謐な山里で、風の流れまで計算したつくりが版木を守っているのでしょう。

 版木の材料はホウノキで海水に数年漬けてから彫ったと聞きました。
 何度も火事にあっいているので、版木にオリジナルと復刻とがあります。
韓国に行ったらぜひ、訪ねたいところです。
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世界最古の印刷物はどちら

2007-05-26 13:27:02 | 活版印刷のふるさと紀行
 昨年、神田川大曲塾の「印刷文化のふるさと探訪」で韓国を訪問しました。金浦空港から真っ先きに目指したのはソウルの国立中央博物館でした。オープン時から印刷ブースの充実ぶりがすばらしいと、耳にしておりましたから楽しみでした。

 学芸員の方がVIPのバッジを胸にした私たちをいの一番に案内して下さったのが、
『無垢浄光大陀羅尼経』の展示ケースの前でした。「これが、韓国が誇る世界最古の印刷物です」と。

 1966年に慶州仏国寺でこの「無垢‥」が発見されるまでは、日本の『百万塔陀羅尼』(770年)が世界最古とされておりました。
 「無垢‥」が新羅時代(8世紀初めから751年以前のもの)だというのでした。たしか、韓国の学者の中にはは、600年代の終りから705年まで使われていた則天文字が入っているから、770年の「百万塔‥」より古いと主張する人もいました。

 ところが、最近に至って、雲行きが怪しくなってきたのです。
 朝鮮日報の慎亨浚(シン・ヒョンジュン)記者が「無垢‥」が、新羅時代ではなく、高麗時代初期(11世紀)のものであることがわかった。世界最古は日本の「百万塔‥」の可能性が高まったという特ダネを書きました。

 なんでも、仏国寺で同時に見つかっていた『釈迦塔重修記』の判読が進んで、1024年ごろの塔修理のときに舎利や香や金製品とともに、『無垢浄光大陀羅尼経』を2点収めたとあるから、751年の塔創建のときから、収まっていたものではないというのです。ほかにも、史料が出たようです。

 いずれにしても『続日本紀』で年代が確定できる「百万塔‥」にくらべて、「無垢‥」の方は、年代が確認できないので断定は出来ません。



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第12代大村藩主大村純熈(すみひろ)のヘリオトロープ

2007-05-25 13:48:31 | 活版印刷のふるさと紀行
 昨日、東京大村会の方からうかがった話が、独占しては勿体ないので、紹介することにします。
 私は、活版印刷をもたらした天正少年使節の件で、かねてから、大村の方々にはいろいろと、昔の話は取材させていただきましたが、これは、ごく、最近の話。
 
 ちょうど、去年の今頃、大村家の末裔の方々が東京の青山霊園にあったお墓を、長崎県大村市の本経寺に移すことされたそうです。
 そこに埋葬されているいちばん古いご遺体が、大村純熈ご夫妻で、土葬で葬られたのは120年前とのことでした。
 作業員が5メートル近くも掘り進んで八層にも積まれた石板をやっとの思いで取り除いた瞬間、地底からえもいわれぬ芳香が立ちあがってきたといいます。
 「ヘリオトロープ!」年輩のご遺族の方々がいっせいに声をあげられたのです。

 なぜなら、第12代大村藩主の純熈が、この香水を洋行土産にたくさん買い求めてきて、奥方や娘さんたちが愛用したエピソードが伝わっていたからです。
 棺内からは、メガネや銀の煙管や硯や印鑑など、たくさんの副葬品は出たそうですが、お骨はみんな土に還っていたと聞きました。
 
 ヘリオトロープの小瓶は9個あったそうで、純熈さんを葬るときに、夫人やお嬢さんたちがめいめい、お別れに振りかけたにちがいないと、一族のみなさんで想像されたとのこと。なにはとあれ、地中で密封されていた香りが、120年の歳月を経てご子孫の前に馥郁と香りだし、顔を知らないご先祖を身近に感じたとは、いい話ではありませんか。私の記憶では、ヘリオトロープは夏目漱石の作品にしばしば登場していたと思いますが、いま、香水名としては、あまり耳にしません。

 純熈は、みずから蘭学を学び、近代化の先頭に立った人だったと聞きますから、
「お棺の中に印刷物はなかったのですか」と、つい、質問してしまいましたが、ノンでした。。 


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ルルドめぐり

2007-05-22 18:54:20 | 活版印刷のふるさと紀行
 五島の玉之浦町で思いがけない体験をしました。
 あなたは「ルルド」はご存知と思います。

 1858年といいますから、日本では安政5年、福沢諭吉が蘭学塾を発足させた明治チョイ前のことです。
 ピレーネー山脈のフランス寄りのルルドという洞窟で、14歳のフランス人少女ベルナデッダの前に、白衣にロザリオを携えた麗わしい貴婦人が現れて、「われこそ、聖母マリア、洞窟の前に井戸を掘るように」と告げたといいます。

 それも、つづけて、その貴婦人(ノートルダム)は18回も現れたといいます。それから半世紀ぐらいの間に、霊泉が湧く泉が掘られ、霊水が多くの病人を癒すようになり、ベルナデッダの陳述どおりの聖母像が安置され、巡礼が押しかけるので聖母マリア出現の場所には小聖堂や大聖堂が出来たことは申すまでもありません。これがルルドの由来です。

 1891年、教皇レオ13世が2月11日をルルドの祝日にさだめ、ヴァチカン宮殿の庭園のルルドを模して作って以来、世界各地にルルドが出来たのです。

 さて、井持浦にルルドがつくられたのは、1899年、明治32年のこと、五島全島から美しい石が小舟で運び込まれ、フランスから求めた聖母像をおき、本場の霊水を注いで泉を完成させたそうです。当時の神父さんはアルベルト・ペルーというフランス人でした。

 五島にはたくさんの教会にルルドがあります。福江、水ノ浦、三井楽、浜脇、奈留、慈恵院、鯛ノ浦などなど。
 実は、この井持浦のルルドでルルドめぐりをしているフランス人の老婦人に会いました。「日本で最初に出来たというルルド」を訪ねてきたらしいのです。
 思いがけないところで、本場の人と出会ったまではよかったのですが、不覚にもフランス語が錆びついていて、われながら、情けない体験でした。


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若松島のキリシタン像

2007-05-17 13:12:17 | 活版印刷のふるさと紀行
 五島2日目、海から若松島を訪ねました。
 島の西南に奥行き50メートルの洞窟があり、その入り口に土井ノ浦の信者さんたちが先祖を偲んで建てたキリスト像があるというのです。
 
 ありました。船の上からでもよく見えました。
  五島の場合、寺請制度反対に端を発していちだんと隠れキリシタン取締りが厳しくなったのです。といっても、すでに、長崎、大浦天主堂の献堂式があったころの話です。
 踏み込みを恐れて、洞窟に隠れていたキリシタンが飯炊きの煙を漏らしたばっかりに、捕らえられ犠牲になりました。

 五島を訪ねますと、どうしても、教会めぐりがしたくなります。
 ただ、このキリシタン像の話ではありませんが、建造時期は、明治、あるいは、明治近くが多くなってしまいます。隠れキリシタンが隠し持っていた血染めのオラショの紙切れなどを見せられますと、印刷された経文は、どこに消えたのかと、寂しくなります。
 

 日本最初の活版印刷が消滅したのは、キリシタンの迫害によるもので、1615年ごろでしたが、なんと、それから200年以上たってもそれは続いたわけです。実にシツコイ弾圧でした。これでは、「印刷」のあらゆる痕跡がかき消されていても当然かと思ってしまいました。

○印刷文化懇話 会神田川大曲塾 入塾ご希望の方は下記へ
〒106-0032 東京都港区六本木7-5-11-401
      電話03-3401-7310 
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五島列島に足をのばしますと

2007-05-06 12:35:08 | 活版印刷のふるさと紀行
 連休は取材旅行におあつらえ向きです。
 五島列島は上と下にわかれていて、上は中通島と若松島、下は福江島、久賀島、奈留島を指し、単に五島といいますと福江島を指すのだそうです。
 残念ながら、五島列島とキリシタン版の印刷とは関係がありません。
 
 島民とキリスト教との関係は、1562年に領主宇久純定の病気治療のため、トーレス神父に医者の派遣を頼んだのが最初とされています。その4年のちには、有名なアルメイダが布教のために來島、翌年、純定の息子、純堯が洗礼を受けております。

 しかし、幕府によるキリシタン弾圧が激しくなり、禁教令がいったんは、五島から信徒を壊滅状態にさせてしまいます。

 ところが、「五島へ、五島へとみな行きたがる 五島やさしや土地までも」
1700年代の終わりに大村や外海から隠れキリシタンが次々に移住させられ、ふたたび、キリシタンが五島で苦難の信仰生活をするようになります。

 その五島での紀行のハイライトは、なんといっても教会めぐり。上、下あわせて教会の数が50近くあるのですからハンパではありません。
 到着2日目朝から、タクシーを頼んで有川町の鯛ノ浦教会、上五島町の青砂ヶ浦教会、有川の頭ヶ島教会と回る。拷問石が残されていた頭ヶ島教会の入り口で、
 「腰を痛めて、天主堂の掃除が毎朝できなくなった」と、過疎になった町を嘆くおばあさんにめぐりあったのでした。

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