活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

クアトロ・ラガッツィ賛歌

2007-10-05 13:36:07 | 活版印刷のふるさと紀行
 昨日2007年10月4日、各紙の朝刊は、若桑みどりさんの大きな訃報で埋まっておりました。あまりに突然の逝去に驚き、どのように、弔意を表現したらいいのか、言葉を」知りません。どうぞ、やすらかに、お眠りください。

 若桑さんが集英社からお出しになった『クァトロ・ラガッツィ』は、名著でした、大著でした、こんなときに、「賛歌」などというタイトルはお叱りを受けるかもしれませんが、私は本文中に自著をとりあげていただいたこともあって感激のあまり、何度も繰り返し拝読した次第です。そして、そのつど、大変な文献調査の上で史家らしい緻密さと正確さ、加えて、そこはかとないエスプリに「参った」の連発でした。

 さて、少年使節の話になると、どうしてもヴァリニャーノということになりがちですが、もう一人、忘れてはならないのが、ディエゴ・メスキータ神父です。
 メスキータはヴァリニャーノがインドにとどまってしまったあとを引き受けて
クアトロ・ラガッツィを率いて使節の旅を成功させました。

 それだけではありません。おそらく、ドラードたちの「印刷修行」にもつきあったでしょうし、『マルチノの演説』の印刷・出版にも陰でかなり、力を貸していることは間違いありません。

 若桑さんは、使節四人の中では千々石ミゲル、それとメスキータにも関心をお持ちでした。ミゲルのお墓のことでは、お手紙をもらいましたが、もっとお元気で、
かれらのことで健筆をふるって頂きたかったと思います。


 
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ドラードの万歳

2007-10-05 12:12:35 | 活版印刷のふるさと紀行
 ドラードたちは1587年5月、やっとの思いでゴアに到着します。
 炎暑地獄のモザンビク島で進退きわまっていたところへ、ヴァリニャーノが寄越した迎えの船に助けられたというわけです。
 
 ゴアで3年半ぶりのヴァリニャーノとの再会、そして、イエズス会会員、学生、市民たちを前にして原マルチノがヴァリニャーノに対して、長い感謝の演説をラテン語でやったのです。

 多少、身内ぼめ、ヤラセの感がなくもないですが、それは置いといて、このマルチノの演説をヴァリニャーノに命ぜられてドラードが印刷したのです。
 つまり、日本人最初の印刷者ドラードが、最初に印刷したのは、なんと、この、ゴアでの『マルチノの演説』だったのです。
 
 現物を私は見ておりませんが、ヴァチカンのスペイン大使館とイエズス会本部にあるそうですが、18ページほどの小冊子だと聞いております。

 しかし、はじめて「印刷」をモノにしたドラードの喜びはいかばかりであったでしょうか。写真が小さくてわかりにくいかもしれませんが、イエズス会のマークの上に、ORATIO HABITA A' FARAD MARTINOなる表題があり、マークの下に、CVMC
VLTATEで始まるところには、「巡察使師及び上長使節のご允許の下に、ゴアにおけるイエズス会の館にて 日本人コンスタンチノ・ドラードこれを版に刻するものなり。ご生誕以来1588年」と記されています。

 日本人コンスタンチノ・ドラードとあるところに、ドラードの万感の思いを読み取るのは私一人ではないと思います。



 
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『印刷修行』の期間が短すぎるぞ!

2007-10-04 12:23:41 | 活版印刷のふるさと紀行
 ヴァリニャーノの思惑どおり、コンスタンチノ・ドラードたちはポルトガルのリスボンで印刷工場へ通って実習を受けました。

 実習期間は、ギリギリ幅をとっても、1585年の10月から、帰国の船が出た翌年の4月そうそうまで、半年あるかないかです。

 日本人最初の活版印刷人になったドラードがいくら優秀でも、この間に、活字の鋳造から、版の組み方、印刷機の扱い、製本のしかた、この、いろいろな工程のすべてを身につけることが出来たでしょうか。

 しかも、教える人はポルトガルの印刷職人、使う言葉はポルトガル語、扱う活字はすべてローマ字。

 どう考えても答えはノンです。
 
私はこう考えます。ポルトガルでは「概論」を習っただけだと。ドラードとともに日本に来たイタリア人で「印刷」に強いジョアン・パプチスタ・ペッセという名前が文献に出てきますが、彼を職長格にして少なくとも数人の印刷工が同道したはずです。あるいは、寄港地ゴアからも乗り込んだとみます。

 南蛮船は揺れましたから、まさか、船の中で学習はできなかったでしょうが、ゴアで1年、マカオで2年も逗留しましたから、その間が絶好の修行期間になったのでありましょう。

 
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ポートワインが好きだったわけじゃない

2007-10-01 17:06:49 | 活版印刷のふるさと紀行
 ヴァリニャーノがポルトガルを選んだ理由は、
①イエズス会を応援してくれている最大勢力がポルトガル国王だったから、
また、リスボンには、イエズス会もあるからなにかと便利だと考えて

②旅程として最終地だったから印刷機や器具の積み込みがしやすい

③印刷研修要員のドラードやロヨラがポルトガル語がいちばん得意だったから
教えを受けるのにいい。
 ざっと、こんなことだったのでしょう。
  
 逆に、ヴァリニャーノにはパードヴァ大学時代に女性と口論の挙句、疵つけてしまった過去がありました。
 いくら、イタリアが「印刷」の先進国とはいえ、その苦い思い出の地でドラードたちに印刷修行をさせるには、ためらいがありました。
 まして、本来なら大司教にもなっても不思議ではない人が、ポートワインを連想してのことであるはずがありません。おっと、これは、冗談。
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