活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

「おすわさん」の種字

2008-01-24 19:10:04 | 活版印刷のふるさと紀行
本木昌造といえば、つい、「おすわさん」を連想してしまいます。
 理由は二つ、ひとつは彼が生まれたのが、長崎くんちで有名な諏訪神社のお膝もと、新大工町だったからであり、もう一つは、その「おすわさん」に本木昌造のつくった木製活字、いわゆる「種字」と呼ばれるものが3300本も収蔵されているからです。

 種字は、蝋型電胎法で活字をつくるときに、欠かせないもので、昌造は上海美華書館のW・ガンブルに製作方法を習いました。
 グーテンベルクたちヨーロッパでは、パンチ式母型で、あくまで、金属オンリーですから木製の種字は使いません。

 もう、かれこれ10年ぐらいになりますが、㈱モリサワ会長の森澤嘉昭さんの呼びかけで、その「おすわさん」の種字をもとに、本木活字を復元するプロジェクトが組まれ、私も立ち上げのとき参加させてもらいました。

 一口で復元といっても、史料調査・検証から始まって、種字の彫刻はもちろん、いまや消失してしまった蝋型電胎法で母型を再現することは並大抵なことではありません。
 さいわい、数年がかりで、多くの方のご苦労で復元が実現し、印刷博物館で、その一部が展示されたり、『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』という関連書籍がNPO法人近代印刷活字文化保存会(長崎県印刷工業組合内)が出されたりしました。あれから、4年ほど経ちましたが、まだ、研究は続いているようです。
 
 

 
 

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本木昌造が「鼻祖」になったのは

2008-01-19 12:31:15 | 活版印刷のふるさと紀行
大阪、四天王寺に、本木昌造の顕彰碑があります。陣笠をかぶり、筒袖の着物に陣羽織、、腰に大小、右手に杖というスタイルは一見、壮士ふうでさえあって、とても金属活字の開発者には見えません。

 台座には大きく縦に「大木氏 昌造翁 紀年碑」とあります。こんなとき、記念と紀念の使い分けをさぐりたくなるのは編集者アガリの悲しい性と思いつつ、さらにその上に目をやると、「日本鋳造活字始祖」とあります。

 私は、かつて、どこかで、本木昌造が鋳造活字の「鼻祖」とあるのを見て、わざわざ広辞苑で鼻祖をしらべたことがありました。胎生の動物は鼻から形が出来るとされているから、一番、最初に、手をつけた人を指すと説明があったように記憶します。

 実は、本木が鋳造活字の鼻祖というのは、当たっています。なぜなら、同じ頃、動機こそ違え、活字鋳造に取り組んでいた人は他にもおりました。

 大鳥圭介(1860)・木村嘉平(1864)・島 霞谷(1870)で、括弧内がそれぞれが活字をモノにした年です。そのほか、時代的には後になりますが、熊谷金次郎、天野芳次郎、神崎正誼などの名を挙げることもできます。

 つまり、本木の場合、正確にいうと鋳造活字を完成させたのは、1870年で大鳥や木村より遅いのです。しかし、彼が、後年、長崎の新街活版製造所から大阪に大阪活版所、京都、横浜、東京と印刷の事業化を進め、有名になったから1851年の流し込み活字がスタート点にとりあげられ、「鼻祖」や「始祖」と喧伝されるようになったのです。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鍋冠山から長崎港を見る

2008-01-18 13:19:09 | 活版印刷のふるさと紀行
 行きつ、戻りつで申し訳ありません。この11月末に、長崎でグラーバー園の裏手からエスカレータとエレベータを乗り継いで長崎港を見下ろせる鍋冠山コースを辿ったことは、前々回の「本木昌造と平野富二」の項でお話いたしました。
 
 あの日も長崎港を見下ろして、ここに出入りした南蛮船や紅毛船が、日本に活版印刷をもたらすヒキガネになったのだなあという感慨にふけりました。天正時代のキリシタン版も本木から始まった明治の活版印刷も、デビューの舞台はこの港につながる「長崎」でした。

 さて、天正時代に日本に伝わった金属活字を使う活版印刷は、キリシタン版消滅の1612年ごろから1851年本木が流し込み活字の鋳造に成功するまで、実に240年もの間、途絶えてしまいました。
 
 そうはいっても、本木昌造はキリシタン版のことは知らなかったはずです。彼はオランダ語通詞時代にオランダ渡来の美しい印刷本の釘付けになり、オランダ船が積んできた「蘭書植字判」を通詞仲間と金を出し合って求めて活字と取り組むようになりました。それは、当時の金で120両もしたといいますから、大変な金額ですが、欧文活字1セット、パンチ(種字)の父型と母型、インテル、スペースなどからなっていたようです。
 
 とにかく、このセットでいろいろ試しているうちに、字母に溶けた鉛を流し込んで活字にする流し込み活字の製法を思いついたのです。28歳、1851年といいますから寛永4年になりますが、実はこの1851年という年数が本木の名を挙げたのでした。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平野富二のハンドプレス

2008-01-14 18:15:30 | 活版印刷のふるさと紀行
 今年の正月にいただいた年賀状のなかで、私がひときわ興味をおぼえたのは、ミズノプリテック株式会社の水野雅生社長から頂いた写真入り賀状でした。

 それには、「機械遺産に認定された平野富二ハンドプレス」という見出しのもとに、平野富二が製作したハンドプレスの写真が掲載されておりました。

 この水野社長が公開していらっしゃるミズノ・プリンテイング・ミュジアムのことは、かなりの方がご存知と思います。
 ミュンヘン工業大学で印刷を学びマイスターでもあられる社長は、印刷会社の経営の傍ら、早くから社会貢献の一つとして個人で,印刷のミュージアムを運営しておられます。

 百万塔陀羅尼はもちろん、グーテンベルクの「四十二行聖書」の原葉はじめ印刷の源流を彩った数々の収蔵品、「チョーサー著作集」・「ダンテ著作集」・「英訳聖書」の世界三大美本のホンモノ、和洋の古印刷本、活字や版材など超一級品に目が釘付けにされます。

 とくに感動するのはスタンホープやアルビオン・プレスなど三十点にも及ぶ印刷機械の展示です。この中に賀状の平野富二が1876年(明治9)のフィラデルフィアの万博に出品した本邦唯一のハンドプレスもあります。それが、機械遺産の認定を受けたというのですから、おめでとうです。

 なお、この東京都中央区入船にあるミュージアムについて知りたい方はWebで、ミズノ・プリンティングミュージアムを検索してください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本木昌造と平野富二

2008-01-12 13:24:25 | 活版印刷のふるさと紀行
 これが長崎造船所の史料館です。レンガ造りの建物は、明治・大正・昭和と、時代とともに風雪の道をくぐり抜けて来た厚みがあります。
 その日、私は史料館を出てかねてから気になっていた場所の探訪をしました。

 一昨年公開の映画「7月24日通りのクリスマス」で大沢たかおと中谷美紀が辿った長崎港や造船所を俯瞰できる道をどうしても探したかったのです。
 多分、映画はイイとこどりですからここに間違いはないと思いながら、グラーバー園の裏手でエスカレータカラエレベータに乗り継いで、「鍋冠山展望台」目指して、息もタエダエで坂道を登っていきました。

 ふたたび、本木昌造と平野富二の話ですが、二人の接点は製鉄所の前に、本木が船長、平野が機関手として乗り込んでいたヴィクトリア号の時代があったのです。

 とにかく、平野富二は本木からバトン・タッチした活版印刷事業を大きくして、
東京に進出、やがて神田佐久間町にあった「長崎新塾出張活版所」を築地に移し「平野活版所」から「東京築地活版製造所」まで発展させるのです。

 それだけではありません、彼は「印刷」よりも、いまの石川島播磨の前身、平野造船所、東海汽船の前身も興しています。印刷機械の製造も手がけていますし、「築地体」の完成にも貢献しています。それでいて、没年が47歳とは、いまのわれわれには、信じがたい生き方ではありませんか。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎造船所と活版印刷

2008-01-11 21:09:42 | 活版印刷のふるさと紀行
 元旦、谷中の七福神、谷中墓地、平野富二ときて、いきなり、長崎造船所ではびっくりされてしまうかも知れません。

 なんだか「連想ブログ」みたいで、当方も落ち着きませんが、まだ、きょうはお正月気分が少しは残っている鏡開きの日、なんとか、おゆるしのほど。

 そして、話はいきなり、昨年の11月に戻ります。
長崎の純心女子大であった古典籍研究会で「ドラードとキリシタン版」について、つたない話をしてから、訪ねて行った先が三菱重工株式会社長崎造船所の資料館でした。

 1857年といいますから安政4年に幕府が建設に着手したのが、この造船所の前称、
長崎鎔鉄所でした。実は、後に1871年、明治4年から本木昌造を助けて、日本の活版印刷事業化に献身する平野富二は長崎鎔鉄所が長崎製鉄所になったころに、機関方を勤めていたときがあります。
 
 もともと、本木昌造が海軍伝習所から製鉄所の頭取役についたのが、富二の製鉄所入りのきっかけになったといいます。残念ながら史料館には、この二人の足跡は見出せませんでしたが、本木と平野についての話を続けようと思います。

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元旦に谷中を歩く

2008-01-02 19:50:45 | 活版印刷のふるさと紀行
 おめでとうございます。
年頭にあたって「日々是好日」とムシのいいことを考えたり、「日々新た」と若ぶったりしておりますが、なにとぞ、よろしくお願いいたします。

 さて、2008年元旦の東京は快晴。生来、朝の弱い小生としましては初日の出とはまったく無縁、屠蘇と賀状読みを済ませると、はや、昼過ぎ。やおら、腰を上げて根津から谷中への道を辿ることにしました。

 谷中の長安寺で寿老人、天王寺で毘沙門天にご対面、ご朱印をいただいてから、
谷中墓地の中村正直サンの墓前へ。彼は明治初年にサミュエル・スマイルズの
Self-Helpを翻訳出版、木版分冊ものでベストセラーにした人です。それを明治10年に活版印刷で『改正西国立志編』として、四六判、838ページ、背皮クロースの上製本にしたのが開業間もない秀英舎で、それで経営が軌道に乗ったのは有名な話。
 
 中村サンが活版印刷黎明期のコンシュマーとしての恩人なら、谷中墓地には活版印刷業サイドの恩人、平野富二の墓地もあります。本木昌造からバトンタッチを受け、築地活版を興したことで有名です。

 中村サンには花がたくさん供えられていたのに、平野サンのほうはさみしかったのが残念でした。谷中を後にして、西日暮里の修性院で布袋尊、同じく青雲寺で恵比寿神、田端の東覚寺で福禄寿にご対面しているうちに日暮れ。七福神めぐりは、
ここで打ち切り、1月7日の大曲塾の「江戸を歩く」にゆだねることにして帰宅しました。元旦8000歩のウォーキングでもありました。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする