活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

『学問ノススメ』とジョン万次郎

2008-07-21 18:44:48 | 活版印刷のふるさと紀行
 話はジョン万次郎が10年も世話になったフェアヘーブンのホイットフィールド船長の家が壊れそうになっているのを買い上げて、修復計画をたてられたのが聖路加の日野原院長であるところから、ふたたび福沢諭吉に戻っていきました。

 水野館長は1872年(明治5)初編の『学問ノススメ』全17冊のページをくりながら
「私は天の上に人をつくらず…あの平等思想の根源も「人倫の大本は夫婦なり」の
一夫多妻や妾を廃する女性尊重思想もこの咸臨丸の船の中で、諭吉がジョン万次郎から学んだことが大きいのではないか」
と話されるのでした。

 どうやら、「学問のススメ」の慶応の活字版とは?などとそちらの方ばかりを
追求するのではなく、こういった「見方や思考」も必要だと思わされたのでした。
 たしかに万次郎が影響を与えたのは、福沢諭吉や勝海舟にとどまらず、中江兆民
坂本竜馬、板垣退助、岩崎弥太郎、渋沢栄一など枚挙に暇がありません。
もっと、クローズアップされて良いといえましょう。
ご研究の進むことを祈ります。

 なお、万次郎の家、(ホイットフィールド船長の家)の写真は万次郎の出身地、土佐清水市によるものです。
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諭吉とジョン万次郎 水野館長の話の続き

2008-07-21 17:46:57 | 活版印刷のふるさと紀行
 あっ、忘れておりました。
 これが福沢諭吉の「西航手帳」の本文ページです。
水野館長は最近、ジョン万次郎のことを調べておられるようです。

 福沢諭吉とジョン万次郎とくれば、日米修好通商条約批准のために幕府が派遣した咸臨丸に通訳、事実上は船長役をつとめたことで有名ですが、その船の本物の船長は木村摂津守で、福沢諭吉はその従者として乗船しておりました。

 たしか、勝海舟が司令官だったはずです。
 最初、水野館長のお話は万次郎が遭難してアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号のウィリアム・ホイットフィールド船長に助けられ、船長の家に寄宿させられて英語から数学、測量、航海術まで勉強した話からはじまりました。

 鳥島の海亀の卵の話に気をとられていると、さりげなく話は別の方向に向かいます。
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福沢の慶応にグーテンベルクの聖書が

2008-07-21 17:06:22 | 活版印刷のふるさと紀行
 「福沢諭吉といえば、私にとって偶然とは思いたくないことがあるのです」
水野館長の話はつづきました。

 「福沢諭吉がペテルスブルグでグーテンベルグの聖書を見たのが1862年の
8月なら、ちょうどその100年後、1962年の8月に私はドイツマインツのグーテンベルク博物館に日本から来た使節団を案内しておりました」

 ドイツにグラフィック・アーツの研究で留学、マイスターの資格をとられた館長の若かりしころの話です。「『日本の百万塔陀羅尼』が陳列が展示されているのを見て感激しました」。どうやら、それがのちのミズノプリンティングミュージアムを手がけるヒキガネになったとうかがいました。

 「偶然」といいますか、たくまずしての「符合」といいますか、そういううことはときどきあるものです。
 福沢諭吉の創立した慶応義塾に、諭吉が創業にかかわった日本の株式会社第1号の丸善から1989年でしたかグーテンベルクの42行聖書が移ったのもその1例として興味ぶかく思われます。

 水野館長、ごめんなさい。熱心に話してくださるところを、つい、撮影させていただきました。


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グーテンベルクの聖書を最初に見た日本人は

2008-07-21 12:14:07 | 活版印刷のふるさと紀行
 ミズノプリンティングミュージアムの水野館長は印刷万般に造詣が深く、
いつお会いしても話術というよりも豊富で新鮮な話題に引き込まれてしまうのがつねです。

 きょうの話題の中心は福沢諭吉でした。
手元に見返しがマーブル模様で印刷された黒表紙、紐つきの手帳をお持ちでした。
 「日本人でいちばん最初にグーテンベルクの42行聖書を見た人が誰だかわかりますか?」
 一同「ン、?」
 
 「これが、福沢諭吉の「西航手帳」といわれるものです。1862年8月12日
の記述に、1440年ドイツにおけるラテン語の書にして欧州における第一の版本なりとあります。慶応義塾の高宮利行教授と話したのですが、これがグーテンベル
クの聖書であることはまちがいありません。
 高宮教授が諭吉がその日訪ねたペテルスブルグ(サンクトペテルスブルグ)の図書館の訪問署名録から、諭吉のサインを、ほら、このとおり」

 たしかに、日本人4名の署名の筆頭に諭吉の名前があるではありませんか。
 はじめて耳にする興味ぶかい話でした。なんでも、この諭吉が見た聖書はいまはスイスに移っているとかです。

 私としては、天正遣欧使節に同道して日本に最初に「活版印刷」をもたらした
コンスタンチノ・ドラードがおそらく、それよりも370年も前に、日本人としてローマでグーテンベルクの聖書と最初に対面していると思いたいのですが、残念ながら「証拠」がありません。
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印刷図書館からミズノプリンティンングミュージアムへ

2008-07-21 11:22:49 | 活版印刷のふるさと紀行
梅雨明けが明日にでもという日の午後、ひさしぶりに築地に足を向けました。
聖路加のツインタワーを結ぶ橋の上の青空は、すでに梅雨との別れを告げているようでした。

 その日は、印刷会館で「印刷図書館」をのぞいて、館長と司書嬢にご無沙汰をわびてから、そこで落ち合った神田川大曲塾の方々と入船町のミズノプリンティングミュージアムをお訪ねすることにしておりました。

 水野館長ともおひさしぶりでした。
神田川大曲塾については、ときどき、本ブログにも登場させているので、説明の必要はないと思いますが、今年で開塾4年目を迎える「印刷文化」の研究会とでも言っておきましょうか。

 この塾活動のひとつとして来月後半にミズノプリンティングミュージアムで水野館長のレクチャーを受けて、じっくり館内を見学させていただく計画がありますので、その事前打ち合わせが目的でした。

 ところが、水野館長から興味ぶかいお話をうかがえたので、ついつい、ルンルン気分でその話題と関係の深い築地に足が向いてしまったといった方がよいのかもしれません。その話を次回に。




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幕末と明治の博物館で

2008-07-06 10:53:48 | 活版印刷のふるさと紀行
大洗にある「幕末と明治の博物館」は、明治天皇のときに宮内大臣をつとめた田中光顕が創立、1929年(昭和4)からの歴史を持つ博物館でした。
その性格上、明治・大正・昭和の三代にわたる皇族ゆかりの展示品が多いのは当然ですが、土地柄でしょうか、徳川慶喜の書をはじめ、幕末から明治期に勤皇の血をたぎらした志士たちの書画・遺品がたくさん展示されておりました。

 印刷物では幕末の木版ものや時代がずっとさがった明治・大正以降の国定教科書がみられましたが、残念なことに活版初期のものは見当たりませんでした。

 幕末から明治といえば、日本の活版印刷の揺籃期であります。「お宝」を期待したのですが、残念。

 ここで思い出したことがあります。
 秀英舎(いまの大日本印刷)を1876年(明治9)に興したひとり、佐久間貞一は
幕臣でした。彼は起業する前、水戸弘道館の至善堂にに蟄居していた徳川慶喜を
駿府に送る一隊のひとりであったという言い伝えです。

 話は、その水戸の弘道館に戻りますが、あそこが天狗党による弘道館の変で焼き討ちにあったのは、1868(明治元)でした。その十年ほどあとに起こった西南戦争のころには、活版印刷で「東京日日」や「郵便報知」が戦況を詳報したといいます。

 もし、弘道館の戦いで焼き討ちにあわなければ、水戸学で名高い学問の地ですから、弘道館にしろ、大洗の幕末と明治の博物館にしろ、われわれ大曲塾の研究課題のひとつ、「印刷文化史」に役立つ素材がもっとたくさん見つけられただろうと残念に思いました。

 
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神田川大曲塾の大洗紀行

2008-07-05 18:19:31 | 活版印刷のふるさと紀行
 磯で名所は大洗さまよ
       松が見えますほのぼのと

 ご存知、本場磯節(いそぶし)です。この磯節のつぎの歌詞が
 
「水戸を離れて東へ三里
       浪の花散る大洗」ですが、神田川大曲塾の一行は水戸から大洗へ足を向けたのです。

 ご案内いただいたのは、元大洗町助役の大久保景明先生。
まず、訪ねたのが、大洗磯前神社、ここで、本殿参拝をし、玉串奉奠をしてから、宮司さんからご祭神やご由緒についてうかがいました。
 驚いたことがふたつ、ひとつはこの神社、めずらしいことに創建年がわかっているのです。856年(斉衡三年)創建で、今年で1152年目を迎えているという話、
 もうひとつが、東京の神田明神に分霊をした神社としては大先輩格だという話。

ですが、私がもっと驚いたのは、磯前神社の鳥居越しに望む太平洋の大パノラマでした。 岩を噛む波濤、そして地球は丸いを実感させずにはおかない水平線の眺望でした。

 その絶景を丸がかえにした小林楼でいただいた魚の味も絶品でした。
西条八十がしるしたという「磯節発祥の碑」の前で松風と碑から流れる磯節のテープに耳を澄ませたひとときも一興でした。

 さて、見て、食べてだけでは大曲塾の研究会になりません。
幕末と明治の記念館で往時の印刷を見るのも予定に組んでおりました。
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拓本も一種の「印刷」か

2008-07-04 08:48:44 | 活版印刷のふるさと紀行
 梅雨の晴れ間、茨城県の水戸と大洗を訪ねました。
 例によって、あの、ながーい名前「印刷懇話会 神田川大曲塾」の歴史探訪でした。

 水戸での訪問先は現在放映中のNHKドラマ『篤姫』ともゆかりの深い水戸藩校
「弘道館」です。
 明治維新を目前に揺れる日本の中で、徳川斉昭(なりあき)が描いた教育・学問構想に、あらためて感心させられたことはいうまでもありません。

 モチロン、館内に版木の展示もありますが、それはさておいて、私が関心をもったのは、館を出たところにあった売店の数多くの「拓本」でした。

 実は、私が知らなかっただけで、『水戸拓(みとたく)』といい、有名だったのです。
 
「主人がここで、ひとりでずっと刷り続けて水戸拓を守り続けてきたのですが
ある朝、起きてこなかったのです」
 ご主人の名は北澤彦一さん。明治になって弘道館内で版元だった北澤家には光圀や斉昭、藤田東湖の遺墨ともいうべき版木が百点以上もあったといい、1928年生まれの彦一さんは15歳から水戸拓作りに励んで来られたのでしたが、さきごろ急逝されたそうです。。

 わたしたちが館内でレクチャーを受けた弘道館の設立構想趣意書ともいうべき「弘道館記」や斉昭の「巧詐不如拙誠(こうさはせつせいにしかず)」が多くの来店客をひきつけるとのことでした。


 私自身、かつて西安などで拓本には多く接しましたが、ふっと訪ねたこの売店で
奥さんの澄江が控えめに、涙混じりに話してくださったご主人と「水戸拓」の話から、そうか、拓本の刷りも「印刷」ではないかと考えたものでした。
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校正刷りに1万円札がペタッ

2008-07-03 04:18:05 | 活版印刷のふるさと紀行
 校正には、エピソードがつきものです。
 神田錦町のある印刷会社の廊下でした。Yシャツの腕まくりをした紳士が、職長に校正刷りの束を押し付けるようにして頭をさげている光景にぶつかりました。

 見るともなしに見ると引き出し線や吹き出し囲みのなかに、赤字が踊っている上にペタッと1万円札がはってあり、
 「なんとか、あんばいよう差し替えてや」「ハアッ」というふたりの会話が耳に入りました。

 しかも、次に、後ろ手に持っていた日本酒の一升ビンを職長に押しつけています。なにしろ、校了日にわれわれが口に出来るのは梅割りやブドウ割の焼酎がやっとでしたし、1万円札なんてめったに拝めないときでした。

 活版印刷時代、「校正」で赤字が入ったところを訂正する「差し替え」作業は大変でした。編集者も真っ赤になった校正刷りを「要再校」などと書き入れてもどすときは、ある種のウシロメタサを感じたものです。

 件の紳士がある「経済誌」の社主であり、主筆であることをあとで知りました。
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