活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

難船栄寿丸の13人

2009-03-11 14:38:29 | 活版印刷のふるさと紀行
 きょうは楽しいことがありました。
 神田川大曲塾の塾友、モリサワの池田さんから大きな荷物が届いたのです。「先日前触れのあったアレだろう」と見当はつけたものの、開梱してみてびっくり。

 左右27センチ、天地38センチ、B4相当の上製本で、カバーの鎖国日本(ハポン)→異国MEXICO(メヒコ)と肉筆文字が目に飛び込んできました。、その下に難船栄寿丸の13人とサブタイトルにあたる書名があり、波に揉まれる和船が描かれています。

 どうやら、池田さんは私のブログのジョン万次郎の項を見て、「栄寿丸のことを知っているか?」というのと、「メキシコでこんな日本語の印刷ができるんだ」という2つから送ってくださったようでした。

 栄寿丸のことは全く知りませんでした。ジョン万次郎を乗せた土佐、中浜村のカツオ船が遭難して鳥島でアメリカの捕鯨船に救助されたのが1841年、栄寿丸がマニラ近海で漂流中にエンサーヨ号に救助されたのは、その翌年でした。

 しかし、エンサーヨ号はスペインの密輸船でしたから、栄寿丸の13人は酷使された上、6ヶ月後にメキシコで太平洋岸の陸に追いやられます。
 この本は13人がその後、メキシコでメキシコ人に親切にされ、帰国するまでの暮らしを絵で表現しています。

 さて、話を「印刷」に移します。この大部な本の製版・印刷・製本工程すべてがメキシコで進められております。香港やシンガポールなどなら驚きませんが、なかなかの出来で驚かされました。ただし、カラーはフィルム分解によっています。


 

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キヨッソーネという名の男

2009-03-11 12:17:29 | 活版印刷のふるさと紀行
 「米欧回覧実記」の岩波文庫版をゴソゴソ探していましたら、書架の奥から1枚の展覧会チケットが飛び出しました。見ると1990年8月に日本橋高島屋で催された「キヨッソーネと近世日本画里帰り展」のものでした。

 ジェノヴァ生まれのイタリア人エドアルド・キヨッソーネが雇われ外人技師として当時の総理大臣なみ月給450円余で大蔵省紙幣寮に着任したのが明治24年、1891年でした。
 「米欧回覧実記」の使節団がドイツやアメリカで紙幣の印刷工場を見学したのは、おそらく、両から円への新貨条例が実施になってから日本の紙幣印刷のことを考慮に入れてのことでしたし、また、キヨッソーネに来日要請をしたのも彼らでした。

 明治5年に新政府によってはじめて出された新紙幣の明治通宝はゲルマン紙幣と呼ばれドイツで印刷されたものですし、その後、紙幣印刷でアメリカの印刷技術の力を借りたこともあったようですから、日本の紙幣が当時の印刷印刷先進国の力を借りてのスタートだったことは事実です。現在の世界に冠たる日本の技術からは想像できませんね。

 キヨッソーネは着任するや腐食法を採用していた日本の紙幣印刷を直接、銅版や鋼版に図柄を彫刻する「エングレービング」を採用したことで評価されています。
 私が不思議に思うのは、ビュランを使って彫刻する技術は1596年に九州、有家で、同じころ志岐のセミナリヨでも行われていた技術のはず。これもキリシタン
弾圧でそれっきり途絶えたのでしょうか。

 キヨッソーネは結局、明治31年亡くなるまで滞日し、本業の印刷ほか、1万数千点の絵画・彫刻・工芸分野の日本美術の蒐集でも有名です。生涯独身を通したといいますがお雇い外人の高給を日本の美術品につぎ込んだ点でもキヨッソーネという名の男、たいしたものでした。

 

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「米欧回覧実記」のヴァチカン・ヴェネッィア

2009-03-09 16:51:30 | 活版印刷のふるさと紀行
日本に活版印刷をもたらした天正少年使節がマドリッドでフェリーペ2世(肖像画)に会い、ヴァチカンでグレゴリヨ十三世やシクスト五世の謁見を受けたことを
岩倉使節団はまったく知らなかったのでしょうか。

 たしかに、287年もの歳月が経過しています。特命全権大使の一行でありながら時の法王ピオ9世には会えず、当然、所蔵されていたに違いない天正少年使節ゆかりの品にも対面していません。

 ヴァチカン訪問の前に、ヴェネッィアの文書館で日本文字の署名があるラテン語の書簡を見せられて「大友氏が遣わした使節の書簡」と断じています。しかし、これは伊達政宗の命を受けて、天正少年使節におくれること30年にローマ教皇パウルス5世に謁見した慶長遣欧使節の支倉常長のものと取り違えています。

 このことから政府高官になるような当時としては知識人といえども、キリシタンがらみのことはまったく知ろうとしていなかったし、わきまえてはいなかったのでしょう。印刷関連記事の少なさとともに、このことでもなんとなく物足りない感じを受けたわたくしです。
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活字は卑金属の解説がおもしろい

2009-03-09 13:38:22 | 活版印刷のふるさと紀行
 「米欧回覧実記」に出てくる訪問国にはポルトガルとスペインがありません。
日本がグーテンベルク式の活版印刷術 を最初に学んだのはポルトガルのリスボンであったし、天正少年使節の足跡がたくさん残っているはずのスペインが政情不安からネグられているのは誠に残念。

 使節団の一行が訪ねた印刷所は1.アメリカ編の第12章のワシントンの印刷局で、書籍印刷を見学しています。そのくだりでおもしろい記述を見つけました。
 活字を「銅版」と呼ぶのは日本の俗称である―と、決めつけておいて、事実は鉛とアンチモニーあるいはビスマス(蒼鉛)を使う。そのふたつは、金や銀のたぐいの貴金属に対して卑金属だと解説しています。

 なるほど、安いから卑金属かと妙な感心をしたわけですが、印刷の発明はコロンブスのアメリカ発見にも匹敵するもので、アメリカでは、建国以来書籍の印刷に力をいれ、それが一般的な学問を民衆に普及させる原因になっているという指摘は印刷の持つ力を正当に評価してくれていました。

 3.ヨーロッパ大陸編上のベルリン市の項では、王立印刷所を訪ねています。
国債、証券、紙幣、郵便切手など。かなり、精巧な凹版印刷を見学しています。
使節団が出発したのは明治4年11月でしたが、当時、日本の印刷界は本木昌造から平野富二が長崎の活版製造所の経営を引き受けた直後で、一般の人は印刷に対してまだ、ほとんど知識がないときだけに、工程をよく理解しているのにはおどろかされます。

 

 

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水澤 周が現代語訳した『米欧回覧実記』

2009-03-09 11:11:52 | 活版印刷のふるさと紀行
 いま、手元に現代語訳 特命全権大使『米欧回覧実記』(全5巻)があります。
2005年に慶応義塾大学出版会から出たものですが、底本は明治11年、久米邦武の編著で 刊行されたものです。
 この本や全権大使岩倉具視を団長とする使節団の二年近い米欧視察の旅はあまりにも有名ですから説明の必要はありません。

 それじゃなぜ、私がこの『米欧回覧実記』を引っ張り出したかですが、理由は二つあります。
一つは、岩波文庫に入っている原著は、漢文調でとても私の手に負えませんでした。現代語訳でなら、使節団が見た海外印刷事情などがよくわかるのではないかという期待がありました。
 もう一つは、この本の現代語訳と注に全力を傾注した水澤 周が学友で、発刊時、早々に買い求めたというイワクがあるからでもあります。残念なことに、彼はこの仕事を最後に病没してしまいました。

 前置きが長くなってしまいました。誕生したての日本の明治政府から総勢五十人近い人たちが、米欧を駆け巡ったことで日本のその後に大きな影響を与えたことは
よく知られております。
 次回、岩倉使節団が見た海外印刷事情について述べることにして、今回は現代語訳 特命全権大使「米欧回覧実記」と水澤 周の紹介にとどめます。


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渋沢史料館の「渋沢家の雛祭り」

2009-03-04 16:05:07 | 活版印刷のふるさと紀行
 3月3日だというのに、前夜から天気予報は「積雪5センチになる」とおどかしていた。なーに、大丈夫と出かけた先が東京都北区西ヶ原「渋沢史料館」、飛鳥山公園の一角、あの王子の「紙の博物館」のお隣です。

 お目当てはここで開催中の企画展「渋沢家の雛祭り」拝観です。
 展示されている雛人形の持ち主だったのが渋沢栄一のひ孫、渋沢敬三の長女、佐々木紀子さんと、次女、服部黎子さんのお二人。たまたま、私は紀子さんからご招待の栄に浴したという次第。

 お二人それぞれの「お印」を染め抜いた垂れ幕の下に端然と展示されている
雛人形、雛道具は名工の手になった1品であり、逸品で思わず息を飲む。
 大実業家、渋沢栄一を囲んでの渋沢家の雛祭りをほうふつさせられる雰囲気と
格調がこころよい展示でした。そういえばブースの構成もポスターやリーフレット
も館員の優しい心づかいが行き届いていました。


 同時に見学した「青淵文庫」(栄一の図書室だった)「晩香蘆」(客間だった)も大正期の、日本人建築技術者が腕を振るった秀作で照明器具、暖炉、天井など内装が見ごたえがありました。

 ところで渋沢栄一[1840~1931]は大実業家、関連の企業は400とも500ともいわれます。常設展示に「東京印刷株式会社」の社屋写真がありましたが、1896年にアメリカでコロタイプ写真製版を学んで帰国した星野 錫を社長に据えて栄一が創業して、一時期、日本の印刷産業のリーダーをつとめた会社です。彼は王子製紙をはじめ、いまの日経新聞など製紙・印刷・出版にも大きな経営サポートをしています。

なお、飛鳥山公園の桜はこれからです。「渋沢家の雛祭り」の会期は5月5日までですから、あなたも渋沢史料館をぜひ、おたずねください

 
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