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活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

絵にみる当時の活字鋳造器

2009-06-29 13:59:14 | 活版印刷のふるさと紀行
 私自身、印刷会社に籍を置き、活版印刷の現場をたくさん目にして来ました。
 活字の鋳造職場のにおいも懐かしく思い出すことが出来ますが、いかにせん、私が見たのは、活字鋳造機、自動鋳造機が活躍する現場でありました。母型仕上機なんかもあったように思います。そうそう、大正初期の手回し鋳造機を保存史料にしたきおくもあります。この絵のような道具が使われたドラードの時代は想像もつきません。

 しかし、おかげさまで印刷機に活字鋳造器が付属していると考えたり、「西欧印刷機」の印刷機能は横組みで、この印刷機での縦組みはだれもが経験を持ち得なかった技法とまでは言い切ることはしません。
 それよりも、父型づくりのために彫刻刀で左向きの文字を刻むのがいかに大変だっただろうという方に思いをいたしてしまいます。

 ところで、この絵についてですが、一番右が漏斗(じょうご)で中央が鋳型、左が出来上がった活字とあります。これも、グーテンベルクが使ったものを模写したらしく、「砂鋳造型」と呼ばれる手持ちの活字鋳造器具です。


中央の箱型の底の部分に母型をはめ込むところと余分な地金の流出口とがついています。ヒシャクを使って右の漏斗に熔かした地金を中央の鋳造型の上の口へ注ぎ込むのです。注ぎ込んだ地金が底の母型に完全に入るようにするには、地金を注ぎながら鋳型を揺すり上げるのがコツだとありますが、はたしてどんなものでしょうか。

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一大プロジェクトだったキリスト版の印刷

2009-06-29 10:37:32 | 活版印刷のふるさと紀行
 これはアマンという人が描いた1568年ごろ活字をつくっている工場の有名な絵です。活字工の前に薪を燃やす竈(かまど)があり、浅い鍋で地金を熔かしています。
ドラードたちのときもやり方はそんなに変わっていなかったでしょう。

 ふつう活字の地金は鉛80パーセントにアンチモン18パーセントと錫2パーセントを加えたものですが、活字の大小で配合率が変わります。母型を傷めない程度の熱で熔け、母型の字面の隅々や細い線にも入り込むようにするためには、勘を頼りのドラードの時代は大変でした。配合方法の大変さ以外にもアンチモンや錫を集めるのもさぞかし、荷が重かったことでしょう。

 私は、活字鋳造・印刷工房・父型づくりのための版下工房は別々の場所にあったと思います。父型のための版下は加津佐のコレジヨで養方軒パウロや息子のヴィセンテ法印などの監督の下に学生はもとより明国人なども加えて書き進められたのではと想像します。鋳造と印刷現場には技術指導役の外人修道士が配され、その下で近隣の信者やコレジヨヤセミナリオの生徒も働いていました。

 『サントス』の表紙の絵の下に「肥前国高来郡イエズスのコンパニアのコレジヨ、加津佐においてスピリオレスのお許しのもと版となすものである。御出世以151591年とあります。 
 日本文字を使うキリシタン版の印刷は、かなり、おおがかりで、手間暇のかかる一大プロジェクトであったはずです。 

 
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当初から決まっていた『どちりいな・きりしたん』の刊行

2009-06-28 13:14:19 | 活版印刷のふるさと紀行
はたして、ドラードは帰国したとき、これからの自分に課せられている日本での印刷についてどのように考えていたのでしょうか。おそらく、不安だらけであったと思われます。

 けれども、帰国時点のドラードはグーテンベルク方式の金属活字を使う「活版印刷」にいちばん通じている日本人でした。身分はまだ、「同宿」に毛が生えたくらいですが、一応、印刷工房の職長的立場でした。
 
 先輩ロヨラはマカオで亡くなりました。4人の使節の中ではいちばん「印刷」に興味をもっていたマルチノも帰国してからは手を貸してもらうわけにはいきません。悩んだことでしょう。帰国当初、各種資料に名前が残っている印刷スタッフは彼と弟分のアグスティニョ、それにドラードの技術顧問役のバプティスタ・ペスティエ(ペッセ)だけで、天草に移ってからの名簿にある市来ミゲルなど数人を加えても印刷担当は10人にもなりません。
私はそんなはずはなかったといいたいのです。

 大内田先生がおっしゃっている「10名の日本人神弟」が加わっても総勢で20名ほど、それに加わった10名にもドラードを凌駕するほどの金属活字に関する知識や経験があろうはずががありません。
 私はバブティスタ以外にもドラードを助けられる印刷経験のある技術者を何人か乗船させて来たとみます。そのなかには修道士もいたでしょうし、ポルトガル人もいたでありましょう。 でも、彼らの手には『どちりいな』の日本文字は手に負えません。私が前に「いつ、だれが国字活字を作ったのか」でも書きましたようにマカオで漢字圏の能筆家を乗船させたでしょう。国字印刷の企画は降ってわいてきたのではなく渡欧以前からのものです。
 
 そして帰国直後に加津佐のセミナリオやコレジヨから教師やアルバイトの生徒をかなり集めて印刷工房をスタートさせたとみるべきです。どうみても70~80人規模でないと短時日にきりしたん版を印刷することはできなかったと見ます。

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父型から母型、そして活字づくりの大作業

2009-06-27 11:35:35 | 活版印刷のふるさと紀行
 さて、『どちりいな・きりしたん』は信者にキリスト教の教義をわかりやすい問答形式で説く本です。日本人の信者獲得には必要欠くべからざるものですから、かなり前から、刊行順序の最初の方にあげられてたはずです。

 それは、写真に見られるように、「印刷」以前に信者たちが一生懸命に書き写した書写本に似ていて、1字が1cm角の大きめな日本文字の活字が使われております。
 
 私は、この『どちりな』の日本文字活字がそう簡単にできるものではないと申しあげます。 ドラードたちがリスボンで習ってきた活字の作り方はこうです。
 まず、硬い鋼材にハンコと同じような凸字を彫って焼き入れした「父型」をつくります。次にこの凸型の「父型」を柔らかめの銅材に打ち込んで「母型」にします。この「母型」こそ活字の字面のもとになる原型で凹型に仕上がっています。つぎにその母型に活字のボディになる部材を加えて、鉛・アンチモン・錫を配合した活字の地金にあたる液体を流し込むと1本の活字ができあがるというわけです。

 『どちりな』は漢字と仮名がまじっています。日本文字の活字作りはそれぞれの文字の版下を作るところから始めねばなりません。これには文字書きの達者な人がかなりの人数必要ですし、あとにつづく父型、母型づくり、活字の流し込みと各工程を考えると大内田先生の「書物の編纂、出版にも関係ある古くて経験ある」肩書きをもった「十名の日本人神弟」なる技術集団ぐらいではとても収まりそうにありません。


 
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推理ドラマ仕立てで考える活字印刷

2009-06-26 13:46:10 | 活版印刷のふるさと紀行
1590(天正18)年、8年半ぶりに故国の土を踏んだドラードは、神と共にあるこれからの自分に「日本での印刷人としての使命」を重ねていたはずです。
ゴア滞在中に手がけた小冊子『マルチノの演説』やマカオで取り組んだ本格的な『キリスト教子弟の教育』や『遣欧使節対話録』が彼に自信を植え付けてくれていたからです。

 しかし、この時点では印刷所をどこに置くか、どんな印刷物を、どういう刊行順序で印刷するかは決まっていませんでした。すべては、師、ヴァリニャーノの胸のうちにあり、その師自身が同じ船で着いたばかりですから無理はありません。

 ヴァリニャーノがコレジヨのある加津佐で在日の神父を集めてイエズス会の評議会を開催し、ドラードに印刷のゴーがかかったのは、早く見てもその年の夏すぎではなかったでしょうか。ともかく、1591年には加津佐で『サントス』が出て、翌92年には印刷所が引っ越した先、天草で『どちりな・きりしたん』が本になっています。

 DTPで本作りしたわけではありません。いまから400年以上も前、日本で初めての金属活字を使った印刷です。おまけに、『どちりいな』の方の活字は日本文字です。ドラードの意気込みだけでは可能なはずはありませんし、ドラードと同道した
アウグスチィーノや向こうから連れて来たペッセなどの印刷熟達の士を入れても
とても短時日で出来る作業量ではないのです。それこそ、推理ドラマもどきで解明せねばなりません。

 

 

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ドラードが日本文字に手を出さなかったとは?

2009-06-25 17:35:11 | 活版印刷のふるさと紀行
 『活字印刷の文化史』に提起されている内容で、私にとってもっとも衝撃的だったのは、著者の<ドゥラードの「日本文字」印刷への関わりは否定されるべきではないかとの疑問>という箇所でした。
 
 正直にいって『活版印刷人ドラードの生涯』(印刷学会出版部)を書いているときに私もキリシタン版に使われた日本文字の活字を誰が、いつ、鋳造したのだろうかという疑問は持ちました。
 ドラードたちが帰国早々の1591(天正18)年に、ローマ字本の『サントスの御作業のうち抜書き』が刊行されました。これはローマ字ですから、リスボンから持ち帰った活字を主体に、足りない活字が出れば、母型も持ち帰っていますから鋳込むことは容易だったでしょう。
 ところが、その『サントス』から程なく、国字本の『どちりいなきりしたん』が平仮名交じりの活字版でおくり出されております。日本文字の活字は持ち帰っていないのにです。どうして、いつ、だれがモノにしたのでしょう。
 
 それにルイス・フロイスの『日本年報』によれば、この2冊以外にも国字で教会暦などを印刷したふしもあります。
 何しろ帰国早々です。ローマ字であれ、国字であれプロジェクトチームの長とも言うべきドラードが関わっていないはずはありませんが、この時期にどういう形で、誰の助けを借りて活字を鋳込み、印刷機をまわしたか、謎がかくされていることは事実です。
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ひとりがたり「ふたたびドラードへ」

2009-06-24 13:25:23 | 活版印刷のふるさと紀行
 私は日本に初めて「活版印刷」をもたらした男、コンスタンチノ・ドラードのことを書き、しゃべって来ました。
ですから、もし『日本の活版印刷文化史』みたいな本が出るとしたら、「キリシタン版」と「コンスタンチノ・ドラード」の紹介から始まると考えておりました。

 それが、出たのです。先月、2009年5月、版元は勉精出版です。
 『活字印刷の文化史』サブタイトルは-きりしたん版・古活字版から新常用漢字表まで-と、あります。うれしかったです。

 そして、大内田貞郎先生の「きりしたん版」に「古活字版」のルーツを探るに
飛びつきました。

 このブログで私もかつて、「いつ、だれが国字活字をつくったか」だとか、「印刷修行の期間が短すぎるぞ」とかかいたことがありました。

 そういったことを大内田先生が別の視点から丁寧に論じておられます。
以前に『本と活字の歴史事典』を柏書房からお出しになっていますが、今度の著作であらたな研究成果を披露しておられるのです。

 書誌学の権威、天理図書館で「きりしたん版」を手にとって綿密に研究されている先生の論旨に反駁はできませんが、私自身、もう一度、ドラードの身辺に立ち戻って次回から「私は、こう思うのですが」と、ひとりがたりをさせていただこうと思います。

 コンスタンチノ・ドラードはどんな顔をしてくれることやら。

 
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