活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

活字の持つ強みを活かしたメディア開発は

2009-07-25 14:08:17 | 活版印刷のふるさと紀行
 今日は隅田川花火大会の日。昨日までの戻り梅雨が嘘のように、朝から強い日射しが照りつけています。つい、2,3日前の「日食」の日がこんなだったらなあと恨めしく思っている人もいらっしゃることでしょう。

 新聞博物館に明治の新聞配達員の像がありました。映画に出てくる幕末の飛脚便か郵便配達員に似ている感じであります。
 江戸の中期以降、我が国は全体としては農業社会であったかも知れませんが、京都、大坂、江戸の三都をはじめ開港によって発展しはじめた横浜や神戸などに都市文化が生まれ始めました。

 明治になって新聞が作られるようになり、印刷方法が木版から活版に変わると、
いっそう報道の速報性が増してきます。というよりも、黒船来航、明治維新、文明開化、めざましい社会のうつり変わりが新聞や出版物の台頭を促し、世の中の動きを人々はより早く、知りたがったのでしょう。
 アーカイブ尊重に加えて、本木昌造や平野富二に代表される幕末から明治にいたる日本の印刷文化の歩みがもっと研究されなくてはなりません。

 昨日(2009・7・24)の日経の朝刊の投資・財務1のページに中堅印刷、収益底上げ、ITに期待 という囲み記事がありました。
 「印刷産業の出荷額が1991年度の8兆9000億をピークに08年度には7兆円を割ってしまい、情報媒体の広がりや景気低迷で印刷受注が減っている。いま、中堅印刷は本業の画像処理技術を活かしてIT関連分野に進出をはかっている」という内容でした。

 印刷業界の統計数字には情報処理やエレクトロニクス関連が入っていないので一概には論じられませんが、紙メディアの減少によって印刷業界が苦境にあることは事実です。「活字」のもつ強みを活かした媒体の開発が待たれるゆえんです。
印刷技術を核にした新しい情報メディアに、明治の印刷人が「活版印刷」にチャレンジしたようにチャレンジするのは夢でしょうか。
 
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新聞が、木版から活字、活版になるのに

2009-07-25 10:35:31 | 活版印刷のふるさと紀行
 神田川大曲塾の研究会のあと、みんなで横浜開港資料館に立ち寄りました。
 三連休でしかも開港150周年イベントの最中とあって館内は大変な人でした。ここにも、幕末・明治のメディアがたくさん収蔵・展示されています。


『横浜毎日新聞』を明治5年(1872)に出した横浜活版社は県下郡部の農村に新聞を普及させるために、飛脚を使って配達することを県に願い出たようです。
 おもしろいことに、購読料は村持ちでした。それでも月銀24匁の負担が苦しい村もあったようです。

 ところで、新聞博物館や開港資料館では、日本の黎明期の新聞をたくさん目にすることが出来ました。
 文久2年(1862)1月に洋書調所においてジャワから来たオランダ語の新聞を日本語になおして木活字で印刷したのが『バタビヤ新聞』です。この印刷にオランダ政府から幕府に贈られたスタンホープの手引き印刷機が使われたことをはじめて知りました。

 このような翻訳新聞ではなく、日本人の手で作られた新聞としては、京都の『太政官日誌』冊子体で木版、江戸の『中外新聞』冊子体、木版の2つをあげることができます。
 ジョセフ・ヒコの『海外新聞』は日本最初の民間新聞とされていますが、元治元年に『新聞誌』として手書きでスタートし、題号を海外新聞に改めてから木版になりました。

 木版から活字になったのはブラックの『日新真事誌』が明治6年に木活字、『朝野新聞』明治12年が4号活字、読売新聞の明治7年が5号活字、東京朝日新聞、明治12年が5号活字といった具合の展開でした。
瓦版時代からはじまって新聞が木版から活字になるまで、意外に時間がかかっております。



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活字をかたどった椅子があった。そして放送ライブラリーへ。

2009-07-20 10:17:21 | 活版印刷のふるさと紀行
 活版印刷や鉛活字を愛する人種にとってうれしいのは、それを象徴する彫像にめぐりあったときです。DNPの五反田では玄関前に大きな活字があったっけ。
 
横浜の日本新聞博物館では、休憩用の木製の椅子が「活字」をかたどって作られていました。小さなお子さんが「これは、なんじゃらほい」といった態で遊んでいましたが。この博物館、3階の歴史ゾーンには、活版時代の印刷工程がていねいに説明されていますし、売店で「活字」まで売っていると知れば、活字ファンとしては、思わずニッコリです。

 さて、神田川大曲塾の勉強会としては、次に、新聞博物館と同じ情報文化センター内の「放送ライブラリー」を訪ねました。ここでは、財団法人 放送番組センターの斎藤香子さんがいろいろ解説してくださいました。

 申し訳ない限りですが、今度の勉強会で私ははじめて放送番組専門のアーカイブライブラリーの存在を知りました。
 この施設は横浜市やNHKはじめ全国180の放送会社の運営支援のもと活動していると聞きましたが、サスガという感じを受けました。

 塾員の一人がNHKの朝ドラのアーカイブコーナーを歩きながら「印刷のアーカイブでもあるね」ともらしたのが印象的でした。

 といいますのは、そのコーナー、ケースの中には、「娘と私」からはじまる台本が近作まで何十冊も展示され、壁面いっぱいに連ドラのポスターがところ狭しと何枚も展示されていたからです。
 しかし、放送ライブラリーですから、台本のページは開かれていません。
おそらくずっと「謄写盤印刷」であった台本が、「謄写オフ」にかわり、やがて「ワープロ出力」に変わったのだろうなと想像をめぎうらした次第です。

 斎藤さんのレクチュアーの中で、ビデオテープが貴重であった時代の番組アーカイブが残りにくかったための苦労話がありました。
 印刷の場合、国会図書館や大学図書館、印刷博物館とアーカイブ施設は数多いのですが、はたして万全でしょうか。おそらくNoでありましょう。

 

 
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日本の開港と新聞と印刷

2009-07-19 12:28:12 | 活版印刷のふるさと紀行
 まるで「三題噺」のようなタイトルですいません。予定通り昨日、横浜の日本新聞博物館に神田川大曲塾の面々と『開港5港と新聞』の企画展に行ってきました。

 印刷の発生や進化が「宗教」、経典や聖書と深いかかわりを持っていることは知られておりますが、開港に伴っての新聞の発行、それに付随しての「印刷」とくれば見落とすわけにいきませんので会期ギリギリの見学会でした。

 新聞博物館の1階ホールから2階、3階を吹き抜けにして、静岡新聞提供の新聞印刷用輪転機がシンボルモニュメントとして来館者の目を奪います。
 そこで、はからずも思い出したのは一般の方に「印刷」のイメージをうかがうと、かなりの人が新聞社の輪転機を思い浮かべるという一事です。

 さて、「開港5港と新聞」の企画展示についてレクチュアーしていただいたのは、同館の企画部長、藤高伊都さん。1858年(安政5)日米修好通商条約により開港した横浜、長崎、函館、神戸、新潟で誕生した各地の新聞資料を順路にしたがって観ることができました。木版もあれば、初期の活版もありました。

 企画展は撮影禁止でご紹介できませんが、ここに掲載の写真は3階の常設展示の歴史ゾーンです。ここには印刷博物館提供の本木昌造がらみの新聞創生期の蝋型電胎法による母型製造の資料をはじめ新聞成立期の印刷文化史料が展示されていて
印刷人必見です。

 ところで、私が藤高さんに「日刊新聞発祥の地」の碑のことをうかがったら、一部壊れたために廃棄処分になって、2000年に出来た博物館には引き継がれなかったとのこと。残念なことでした。

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きょうは神田川大曲塾の広報活動

2009-07-17 10:26:34 | 活版印刷のふるさと紀行
梅雨が明けて急に暑くなった東京。ところが、今日は「戻り梅雨」。
朝から太陽こそ顔は出しませんが、蒸し暑さは相当なものです。
 
 暑さしのぎにはなりませんが、今日は「神田川大曲塾」の広報活動をさせていただきます。
 本当は神田川大曲塾のあたまに印刷文化懇話会という冠がのっかっておりますが、名称はとにかく、塾設立の目的は、ともすれば見過ごされがちの「印刷文化」の研究普及につとめ、なろうことならば、 大学に「印刷文化学」の講座が生まれるようにしたいという遠大なところに置いております。

 塾長は印刷博物館館長の樺山紘一先生、事務所は六本木、塾員は現在60名、編集者、グラフィックデザイナー、カメラマン、印刷会社関係者、主婦など幅広い層にわたっております。
 スタート以来5年目を迎えておりますが、国内外の印刷文化の発信、発祥の地を訪ねたり、講師をお招きして勉強会をもったり、いろいろな活動を重ねてまいりました。

 さて、ここで暑さの話に戻りますが、明日は酷暑の中、横浜の日本新聞博物館と横浜開港資料館の見学会を催します。
 いま、横浜は開港150周年で賑わっていますが、横浜活版社が創立されたのが
が1870年(明治3)で、その年の12月に日本最初の日刊新聞『横浜毎日新聞』が誕生しているから、横浜と印刷のかかわりも150年近いといえます。

 そういえば、10年前、私が旧著『活版印刷紀行』の中で無残な姿になっているのを嘆いた「日刊新聞発祥の地」の記念碑はどうなっているでしょうか。
 
 最後に、神田川大曲塾入塾希望者はご連絡をください。



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神田川大曲塾のマークと粟津潔さん

2009-07-11 12:06:11 | 活版印刷のふるさと紀行
 サヨナラ粟津潔 これが、 昨夕、(2009・7・10)代官山のヒルサイドテラスとヒルサイドプラザを使って行われたお別れの催しのタイトルでした。
 粟津さんはグラフィックデザイナーでしたが、建築・映画・音楽から環境・福祉…各界に大きな足跡を残された偉大な方でした。あらゆる分野から数百名近い方々が集まってのお別れの会は当然でした。

 とりわけ、次々に立たれて粟津さんの生涯をたたえ、惜しむみなさんのスピーチが参加者の心を打ちました。なかでも美術評論家の中原佑介さんの「粟津さんの関心が線を引くというこだわりから象形文字やアメリカ先住民の岩絵につながった」お話とか、針生一郎さんの5つのポイントにしぼりこんだ粟津さんの足跡には、知らなかったことも多くて私はおおいに感銘を受けたのでした。

 ところで、私たちの「神田川大曲塾」のマークは粟津さんのデザインです。
ここに掲げた写真の赤いところ、これも象形文字につながります。

 粟津さんなどと気安く呼んではお叱りを受けそうですが、先生とは、1970年代にカレンダー展でお世話になったのがはじまりで、印刷博物館の館長時代に、著書を読んでくださって励まされたときのことなどいろいろありました。
サヨナラ会場で、一柳 慧さんの「鳥の歌」ピアノ演奏を聴きながら走馬灯のように思い出し、ご冥福を祈った次第です。
 
 


 
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「映画ポー川のひかり」を観て

2009-07-09 11:11:46 | 活版印刷のふるさと紀行
昨晩、イタリア映画『ポー川のひかり』の試写を観ました。カンヌ国際映画祭の招待作品で監督は名匠エルマンノ・オルミさんです。写真は作品紹介のリーフレットの一部を掲載させていただきます。

驚いたのは導入部でした。古都、ボーローニャの大学図書館で夏休みのある朝、守衛が見たのは、図書館の床一面に散らばされた蔵書のどれにも太い犬釘が打ち込まれ、まるで閲覧室全体が書籍の処刑場のような恐ろしい光景でした。

大活字と装飾画でグーテンベルク時代の聖書かと見てとれる大型本、分厚い哲学書、どれをとっても貴重な稀こう本であることには間違いありません。すぐさま、パトカーが呼ばれ、大学図書館内が蜂の巣をつついたような大騒ぎにまきこまれます。

この図書館蔵書の処刑は書物に詰め込まれた知識、学問、真理追究の否定を意味するものでしょうか。
あるいは、「宗教」、「神」の存在そのものへの抵抗でしょうか。

映画はその導入部を背景に、本の処刑をおこなった大学の哲学教授がポー川のほとりの廃屋で、「キリストさん」と呼ばれ村民に親しまれ、助けられて対人でも対自然でもいきいきとして「生」と向かい合う……それが主題ですが、割愛します。

 オルミ監督のテーマは、現世的な人間の欲望と己の中の神との対決、ポー川の自然とそこで暮らす素朴な村人の人生観にあるのでしょう。宗教観を異にする私たち日本人にはなかなか理解できない奥深いものを含んでいる気がしました。

 おそらく、この映画は自然の持つ美しさや人間の営みと自然破壊の角度から論じられるでしょうが、私は「ドラードたちは450年前、西欧生まれの神と出会い、ヨーロッパを知り、帰国後、キリシタン版を印刷しながら、日本最初の活版印刷人として、神とは?人間の知識とは?」と、悩んだのではなかろうかと、そんなことも考えさせられたのでした。深さをたたえたいい映画です。



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コレジヨに動員をかけた印刷工房

2009-07-06 15:12:26 | 活版印刷のふるさと紀行
ここは島原半島の西南端の加津佐。ドラードたちの帰国した1590(天正18)にイエズス会のコレジヨが出来、そのそばに印刷工房が現われたのです。その2年前に秀吉の伴天連追放令が出ておりますから役人の目が届かない恰好のロケーションといえます。

 ここに印刷工房を構えたのはヴァリニャーノの知恵だったかも知れませんが、コレジヨのそばという理由が大きかったように思います。その印刷工房に一歩、足を踏み入れますと、まず、目にするのがこれから印刷機にかける「和紙」の干し場でした。 ちょうど脱穀前に稲束を干すあの光景に似通っていたはずです。

 では、その印刷用紙の和紙はどこから来たものでしたでしょうか。九州にも古くから和紙の産地はありましたが、筑後和紙の八女にしても肥前和紙の名尾にしてももっと後年、元禄になってからですから、おそらく都のイエズス会を通じて、京都あたりから調達したものと想像できます。

 しかし、450年前の製造や流通を考えると、「サントス」や「どちりいな」に
使われた用紙の調達時期や手段については、これまた時間からいって謎がありすぎです。恐らく当時、和紙は一工房で一日百枚もできればいいところでしたから。す
 まさか、加津佐での和紙づくりは無理でしょうが、私は紙干し、紙運び、紙数え、刷り上りチェックなどの作業にコレジヨからかなりの労働力が提供されたのではないかと見ます。日本にかぎらず、天正遣欧使節が寝泊まりしたローマやポルトガルでもコレジヨや修道院のそばに、印刷所がありましたから印刷工房の立地もそれに倣ったのではないでしょうか。

 活字鋳造や印刷用和紙の下準備だけでもかなりの下働きが必要です。キリシタン版の印刷現場については規模・人数・時間などなどもっと知りたいことがたくさんあります。



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なぜ、和紙に飛びついたのか

2009-07-05 17:29:50 | 活版印刷のふるさと紀行
 1586年、帰国の船にリスボンで印刷機や活字や器具類を積みこんだときに、印刷用の洋紙も積み込んでいます。長い航海に備えて樽(たる)に入っていたようです。

 そして1590年、日本に着きました。
 当然グーテンベルク直系の印刷機にその舶載してきた洋紙で印刷を開始したものと誰しもが思います。
 ところが、あにはからんや、キリシタン版でいままで見つかっているものは、洋紙ではなく「和紙」に印刷されております。

 日本の和紙は楮(こうぞ)の樹皮を原料にした楮紙(ちょし)、雁皮(がんぴ)を原料にした雁皮紙(斐紙ともいう)、それと三椏(みつまた)を原料に使った椏紙(あし)とがありますが、当時は椏紙はあまりありませんでしたので、キリシタン版の場合、楮斐紙が用紙として使われています。

 和紙は湿気を嫌いますし、金属活字でジカ刷りをすれば、シワも寄りやすいし、かならずしも印刷適性があったとは思えません。それに、ドラードたちはリスボンで洋紙を使う印刷を習ったはずです。
 なぜ、和紙を選んだのか、不思議とは思いませんか。日本に来た宣教師たちはみんな「鳥の子紙」を愛好したといいますから、入手しやすい和紙を推薦したのでしょうか。それとも、前にご紹介しましたが、帰国途中、マカオで印刷した「遣欧使節対話録」は現地調達の竹葉紙に印刷されていますから、あるいは航海途中に樽紙を海に投げ込むような事態があってマカオ滞在中から、既に手元に洋紙はなかったのかもしれません。
 
 とすると、加津佐で印刷にかかる前から、和紙の印刷適性を調べたり、和紙をどこから調達するかというような問題がドラードたちを悩ませたはずです。




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キリシタン版と『逝きし世の面影』

2009-07-05 10:39:31 | 活版印刷のふるさと紀行
 ちょっと前 渡辺京二さんの『江戸という幻景』を興味ぶかく読みました。
 和辻哲郎文化賞受賞の『逝きし世の面影』以来、渡辺さんファンである私にとって、この本でも登場人物の誰彼を通じて江戸時代という逝きし世を眼前にすることができました。同じ著者の『日本近世の起源』でも日本の近代について目を開かれた気がしたものです。


 渡辺さんは雑誌『選択』の2006年4月号から今日まで既に40回も『追想 バテレンの世紀』を連載されています。私にとって毎月、手にするのが待ち遠しい読み物の一つですし、完結したらぜひ、単行本にしてほしいと思います。

 膨大な史料・資料を読みこなし、まるで日本の中世社会を目の前にするような筆致で読者を引きずりこんで行き、「そうか」、「そうか」と納得させてしまうあたり、敬服を通り越して尊敬してしまいます。


 なぜ、渡辺さんをひっぱりだしたかといいますと、渡辺さんの百分の一でも、自分に勉強量と想像力があったらなと思っているからです。私にはキリシタン版の生まれた「逝きし世」がなかなか見えてきません。島原の加津佐に据え付けられたグーテンベルク直系の印刷機がどのようにしてキリシタン版を生み出していったのか、まだ、想像でしか描きだせないのが、もどかしくてたまりません。

 ところで、この2~3回、活字鋳造について考えてみました。1字1字の版下起しから、父型彫刻、母型づくり、鉛流しこみの活字作成まで、1本の金属活字を鋳込むのにも大きく分けて三工程もありました。その活字を原稿に沿って拾って、組んで版に仕上げ、次の印刷工程へ。

 そこで、登場するのが「紙」です。キリシタン版の紙はどこで、だれの手で漉かれ、ドラードたちの工房にいつ運ばれてきたのか。ここにも謎があるのです。

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