活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

想説/活版印刷人あれこれ19

2009-08-28 09:28:05 | 活版印刷のふるさと紀行
 なにしろ、わからないことばかりです。活字になる文字を書くとしても、活字の大きさがわかりません。ポルトガル人修道士だけがたよりですが、細かいことまでは伝わりません。
 「この仕事、尊師が帰国されるまでにやりとげたいが、どうなることやら」
 「たしかに、この分では、なるべくゆっくり帰って来られないと困りますな」
 養方軒親子は手さぐりの活版印刷調べに限界を感じるたびに、ついつい、ぼやきあうのでした。

 「寺の木版印刷も南北朝のころにくらべると、さほど、盛んではないからあまり、話が聞けなんだ」
 パウロのぼやきの通り、「内典」と呼ばれる禅宗の仏典が盛んに印刷されたのは鎌倉時代でした。室町も終わりに近い今は「外典」と呼ばれる文集・詩集・史書・医書の一般書の類がミヤコの禅寺で印刷されているという状況でした。

 そんなわけで、京での養方軒パウロには、開版されている書籍の中身は参考になりましたが、印刷技術面ではほとんど収穫がありませんでした。せめて木版印刷の版下づくりの職人を連れて帰ろうとしましたが、キリシタンに改宗して、しかも九州住まいになることを受けてくれる人があろうはずがありません。

 「漢文や漢詩がもてはやされているのに、明から渡ってくるご仁がいないので、聞きたくても聞けませんな」ヴィセンテも負けずにぼやきます。
 たら、ればでモノをいってはいけませんが、これが、あと、四,五十年あとだったら長崎に中国僧が大勢来ましたから、彼らから得るところがあったに違いありません。ひょっとして、隠元のような能書家の教えが受けられたかも知れません。  
 あるいは、この当時、朝鮮と接触があれば、高麗の金属活字を目にしたり、李朝に大躍進をとげた組版技術を学ぶことができたかも知れません。皮肉なことに、秀吉がまるで奪取するような形で朝鮮の印刷技術をもちこんだのは、キリシタン版が姿を消す寸前でした。
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想説/活版印刷人あれこれ18

2009-08-27 07:58:49 | 活版印刷のふるさと紀行
 祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。…
 ご存知、『平家物語』です。
 ヴィセンテの朗々とした張りのある声が教室に響きます。そのかたわらで、筆に墨をふくませては短冊に文字を書いているのが父の養方軒です。

 これが、ロドリゲスの進言を容れて親子で文字調べが始まった日の風景です。場所は臼杵の修練院の一室、大友宗麟の蔵書から古写本の『平家物語』12巻を借り出して始めました。
 当時、『平家物語』は読む読み本だけではなく、琵琶法師が琵琶の調べに乗せて語り歩くための語り本も多く、多くの人の目に触れていることからいえば、いまのベストセラーでした。
 このベストセラーの中に出てくる漢字を一字ずつ拾って短冊に記録する。手間暇のかかる手法ですが、どんな文字が使われているのか、頻出度の多い字にどんな字があるかを調べるのには、最適と考えてのことでした。
 事実、一日だけで、「者」とか「天」とか、「人」とかいう文字を記した短冊は紙縒りで綴じるほどになりました。養方軒は拾い出した数の多い文字から版下を作ることに決めました。

 しかし、あまりにも単調な作業で果たしていつ仕上がるかと心配しましたが、ほどなく、興味を持った修練院の日本人神学生が何人も加わってくれることになりました。彼らも活版印刷人予備軍といってもいいでしょう。
 ホッとした養方軒は字体とか書体とか、実際に国字の版下を書くための調査にかかりました。ミヤコでさんざん聞かされてきた彫字のことを考えると、これも版下づくり以前に解決しておきたい重要な問題でした。
 


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想説/活版印刷人あれこれ17

2009-08-26 10:22:46 | 活版印刷のふるさと紀行
 ヴィセンテ法印-ヴァリニャーノに国字版下の作成を頼まれた養方軒パウロの息子です。僧侶からイエズス会入りした父と同じ道を歩き、父と同じように能筆で文章家でした。
 彼は、高齢にもかかわらず、自らを鼓舞してあれこれ奔走している父を見ているのが辛くなりました。父を手伝う決心をして動きだしていました。
 
 その彼に手をさしのべてくれた修練院仲間がいます。 
ジョアン・ロドリゲスです。この1577(天正5)に来日した22歳のポルトガル人は、短い間に日本語をマスターし、修道士に任じられる直前でした。
 「日本の木版とヨーロッパの金属活字を使う印刷はまったく違う。二人してフロイス様のお許しをいただいて、実際に向こうの印刷を知っている者を仲間にしよう」
 活版印刷の工房をみたこともないパウロ様とヴィセンテ、あなたがいくら頑張っても限界がある」
 ロドリゲスとヴィセンテ二人が同じようにルイス・フロイスに目をかけられているのが幸いでした。

 有難い申し出でした。さっそく、ロドリゲスはアブレウ、ゴンザレス、カラコスといった同じポルトガル人で気心の知れた何人かを集めてくれました。いまでいう
プロジェクト・チームの編成ができたわけで、ミヤコから帰った養方軒の喜びようったらありませんでした。
 彼らから聞く向こうの印刷と、ミヤコで見聞きしてきた整版方式の木版とは大違いでした。それに、木活字の話と鉛でつくるという金属の活字の話とは噛み合いません。養方軒は頭を抱え込みました。

 ロドリゲスは自らが日頃、日本の文字の多さに辟易していましたから、文字数の多い活字づくりの大変さを見抜いていました。
 「私に提案がある。ヴァリニャーノ様がヴィセンテのおやじ様におっしゃった国字の版下をつくるには、まず、たくさん使われるであろう文字を選び出すことが必要だ。こればっかりはわれわれポルトガル人の手には負えないので、あなた方親子で始めてほしい」 これも、もっともでした。


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想説/活版印刷人あれこれ16

2009-08-25 11:53:01 | 活版印刷のふるさと紀行
 そうはいっても養方軒パウロが事を進めるのには次々と障害が立ちはだかるのでした。
 ミヤコ行きも仏教寺との対立がはげしい九州よりも信長の保護があるだけ寺僧との接触が容易だろうと考えてのことでした。
 ところが、「伴天連法師がぬけぬけと山門をくぐって来るとは」と、力づくで追い出されることがしばしばでした。

 しかし、幸運にも唐がえりの僧から多少の知識を得ることができました。
 「長安でも我が国と同じで書写が尊ばれているが、書物を板印することも多い。書写だと一冊だが、板印だと何冊もできるし、再版も容易だからな」

 「私がうかがったところですと、かのエーウロッパには文字を一字ずつ、金属に刻んで、紙に押し付けて書写と同じに仕上げる方法があるとききますが」
 「唐にもあるある、ただ、金属ではなく、文字を板木に刻んで、それを一面に植えて刷るのじゃ。あれは木版とは違う」

 「ほれ、ほれ、これじゃ」、  僧は木版本と木活字本の両方をを持って来て見せてくれました。
  「このどちらも高麗本じゃ。唐で発明されたんじゃが、朝鮮にわたって朝鮮でも盛んでなぁ」
 
 養方軒はその寺を辞しながらこれから先を思いやるのでした。
 《金属であろうと木であろうと一字の大きさはさほど違うまい、まず、あの大きさで文字の版下をつくるとなると、難儀なことこの上もない》
 ヴァリニャーノとの約束をはたすためには、かなりの人の助けが必要です。長崎の来て、版下作業を共にしてくれる人材探しも加わりました。



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想説/活版印刷人あれこれ15

2009-08-24 09:50:53 | 活版印刷のふるさと紀行
 かくして日本最初の活版印刷人ドラードたちは東シナ海に乗り出して行きました。
 ならば、8年半後の彼らの帰国まで、日本では「印刷」に関してなにもなかったのか。ひたすら、彼らが帰って来るまで待つだけだったのか。
 答えはノンです。

 ヨーロッパに派遣された印刷研修生を一軍とするならば、二軍というか裏メンバーがおりました。
 この裏メンバーはヨーロッパのグーテンベルク方式の印刷についてはなにも知りません。なにもかもが手探りで始めなければなりませんでした。
 しかし、彼らがいたからこそ、8年半後、加津佐でのキリシタン版の印刷が軌道に乗ったのです。

 裏メンバーのキャップは養方軒パウロでした。
 ヴァリニャーノから金属活字を使った活版印刷の日本導入計画を聞き、版下作りを委嘱されたそのときから「よし、おのが生涯、最後のご奉公だ」と、積極的にかかわることにしたのでした。

 彼が最初に動いたのは京、ミヤコへ上ることでした。
 目的は二つありました。ひとつはイエズス会のミヤコの管区をとりしきるオルガンティーノ司祭に会ってヨーロッパの印刷について教えを乞うことでした。在日期間が長く日本語を理解出来るところから、ヴァリニャーノよりもくわしい話が聞けると思いました。それと、彼の下にいる来日したばかりの修道士たちから新しい情報を得ることが出来るからです。
 もうひとつは木版印刷にくわしい僧侶時代の知己を訪ねることでした。漠然と木版とヨーロッパの印刷との違いはわかってはいるものの、禅寺の小坊主時代から
キリシタンに転じてからも、「書写」だけを経験して来た身に、大事なことは
木版でもいい、少しでも「印刷」に近づくことだと考えたからです。

 「尊師は活字のもとになる版下を書け」とおっしゃった。
  印刷をまったく知らずしてそんなことが出来るわけがない、それが養方軒パウロの老成した智恵でしたし、事実、京行きは多くの成果をもたらしてくれました。


 
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想説/活版印刷人あれこれ14

2009-08-22 10:23:07 | 活版印刷のふるさと紀行
 
 ヴァリニャーノは頭を抱え込みました。
 まさか、遣欧使節の計画にこれほどの関心が寄せられるとは想像していなかったからです。
 そんな中で選ばれたのが伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの四人でした。
 
 思えばイエズス会の協議会で使節派遣を発表し、人選の相談を持ちかけたばっかりに、これが外に洩れ、大村や有馬では表敬使節の話題で持ちきりになったというのが真相でした。
 結果として生じたのは選んだ四少年にだけ光が当たり、せっかくの「印刷プロジェクト構想」はキリシタンのだれにも理解されず、「印刷研修生」として選んだドラードたちの名前は表に出ないで、まるで影のような存在に押しやられてしまったことでした。

 あえて意に介さない顔をしてはいたものの、ヴァリニャーノにはこたえました。
 メスキータやロヨラ、ときにはドラードまで自室に呼び込んで「印刷プロジェクト」の中身を懇切に説明するのでした。
 しかし、出立の日が近づけば、近づくほど四少年は時の人になりました。
 当然といえば当然です。だれも活版印刷の有用性など知らないのですから。
 それにしても、あとあと使節がヨーロッパに着いてからも、いや、四百年後の今日までも主役は彼等四少年で、活版印刷術の導入のための遣欧が天正使節派遣のきっかけだったなどとは信じてもらえそうにありません。
まさに、主客転倒といってもよい成り行きでした。

 こうして、表敬使節四人と、日本最初の活版印刷人を乗せて、イグナシオ・デ・リーマの定航船が長崎港をあとにしたのが、1582(天正10)年2月20日のことでした。
 四少年は栄えある大村・有馬・大友三候の名代、ドラードたちは印刷研修生でありながら、四少年の従者。形としてはこうなっておりました。
これはヴァリニャーノがおかした小さな蹉跌が生んだやむをえない処置だったのでしょうか。あるいは、ヴァリニャーノが空気を読んでのことだったのでしょうか。
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想説/活版印刷人あれこれ13

2009-08-21 11:28:31 | 活版印刷のふるさと紀行
 ところがヴァリニャーノにとって意外な成り行きになってしまいました。
 ことの次第というのはこうでした。
 
 印刷要員も決めた、実習の候補地も決めた。イエズス会本部への要請文を書こう、研修生が日本に持ち帰る印刷機の手配もしなくてはならぬ。そうだ、養方軒に国字の版下作りが進んでいるか確かめよう。彼がつぎつぎと手を打とうとしているときに思わぬ事態がおきたのです。

 そうはいっても、それはヴァリニャーノ自身が蒔いたタネでした。
 ドラードやアゴスティニョを印刷研修生と選んでいるときに、《そうだ、表敬使節も若者にしよう》と、ひらめいたのです。
 もともとは有馬や大村から敬虔なキリシタン武士を推薦してもらう心積もりでした。
 ところが、長い航海を乗り切る体力、帰国してからの余命、何にもまして教皇や国王、有力諸侯に「地球の東の果ての国に、こんなに立派なキリシタンがいるのか」と感心させるためには、成人よりも少年武士の方がよいと考えを変えたのでした。

 ヴァリニャーノがその考えを協議会で述べ、各地区の神父代表に人選を相談したからたまりません。誰しも自分の教区から名誉の使節を出したいものですから、まるで蜂の巣をつついたようになってしまいました。
 かくしてあっという間に、シモじゅうに噂が飛び交いました。
 「パッパ様(教皇)に会いにダレソレが行くそうな」、「まさか」
 あれほどヴァリニャーノが力を入れているのに、実体の想像できない「印刷要員」の方はすっかり吹き飛んでしまったのでした。

 ヴァリニャーノは表敬使節をキリシタン大名有馬・大村の名代として出す案に賛成し、豊後の大友の名代を加えることにしました。
それに、出発まで日が無いので正使も副使も開校二年目の有馬セミナリオ在校生から選ぶことで押し切りました。 
 

 
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想説/活版印刷人あれこれ12

2009-08-20 11:00:19 | 活版印刷のふるさと紀行
 大村の三城城で降誕祭のミサをあげた夜、ヴァリニャーノは眠れないまま、障子ごしに昨日から降り続いている雪を見ていました。
 知らず知らずのうちに三日がかりで決めたヨーロッパに派遣する「印刷要員」の顔ぶれ再確認を彼はしていました。

 彼が選んだ洋行させる日本最初の活版印刷人は、
 まとめ役というか監督にディオゴ・メスキータ。神父昇格を目前にしたポルトガル人修道士。こんどの五畿内巡察ではじめて出会い、有馬セミナリオの教師に抜擢したばかりでしたが豊富な学識と誠実な人柄にほれ込んでのことでした。

 印刷研修生のトップとしては日本人修道士のジョルジ・ロヨラ。日本文を書かせると、文章の巧みさ、文字のうまさでは彼の右に出る者はいないという評判が決め手でした。メスキータの意をくんで積極的に動いてくれるだろうという期待がありました。

 研修生の次席は日本人の同宿コンスタンチノ・ドラード。口之津上陸以来、身の回りの世話から日常のちょっとした通訳までこなしてくれているこの少年は最初から念頭にありました。

 あと一人、日本人の同宿のアゴスティニョ。ロヨラとドラードを助ける補助役として選びました。

 実は要員の人選に先立ってヴァリニャーノが悩んだのはローマかヴェネツィア
か、どこで印刷の実習を受けさせるかの問題でした。
 彼は、そのどちらも選ばず、ポルトガルに決めました。
 「日本のイエズス会が世話になっているのはポルトガル国王です。師がイタリアご出身だけに、何事もイタリア優先は避けたほうが無難でしょう」
 いつか大友宗麟から忠告された日本的な配慮を活かしたことも手伝ってのことでしたし、イエズス会本部のお膝元では、面倒を見るほうも、見られるほうも気詰まりではということもありました。
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想説/活版印刷人あれこれ11

2009-08-19 09:10:36 | 活版印刷のふるさと紀行
 その思いつきは船旅の間じゅうふくらみ続けました。
 どうやらヴァリニャーノという頭のきれる巡察師の内面には、慎重さ、用心深さとこれぞと思ったら没頭し、突き進む相反する性癖があったようです。いったい、血液型は何型だったのでしょうか。

 五幾内巡察からふたたび豊後に立ち寄った彼は敬愛する大友宗麟になにもかもぶつけて協力を依頼するこころづもりでした。織田信長が「印刷」に興味を示した話から
使節派遣のアイデアまで全部を打ち明けたかったのです。
 ところが、宗麟は日本イエズス会のしくみやありようといった基本問題と信長篭絡について論じるものですから、そちらが中心になって歯がゆい思いでした。

 その反動ではありませんが、薩摩・天草経由で一年ぶりに長崎に戻ったそのときから、遮二無二に印刷導入と使節派遣の実現に向って奔走し始めました。
 宗麟はやや煙たい存在でしたが、肥前には有馬鎮貴と大村純忠ともっと年若で扱いやすい応援団がいました。
 《ふたりの力を借りてコトを早く進めよう。はやくしないと、船が出てしまう》
 今、長崎で風待ちしている定航船は来年二月には出航してしまいますから使節を乗せることが不可能になってしまいます。

 シモ、下の教区に所属する全司祭を集めたヴァリニャーノは協議会を開き、次々に二十もの議題を片付けた後におもむろに口を開きました。それは、協議というよりも宣言でした。
 「私は日本のイエズス会会員のために、日本の全キリシタンのために、日本に活版印刷を持ってくる。そのための要員と使節をこの下の教区から選出する」
 参加者は耳を疑いました。顔を見合わせました。
 天正遣欧使節の計画が公表された瞬間でした。1581年の降誕祭が迫っていました。





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想説/活版印刷人あれこれ10

2009-08-18 10:22:53 | 活版印刷のふるさと紀行
 翌年の九月初旬、ヴァリニャーノは堺から土佐沖を迂回して豊後に向かう船上にいました。海は凪いでいました。
船べりに舞い降りるカモメに目を奪われながら彼は久しぶりに充実感を味わっておりました。
 
豊後の府内を振り出しに、高槻や岡山、安土、堺と、今回の五畿内の旅は重苦しい九州とは違い、日本での布教の未来に明るい希望をもたらしてくれたからでした。
 とりわけ安土での日々は彼を力づけてくれました。
 さきほどから、信長との謁見の場を思い出していました。信長がいかにも喜びそうな進物の数々を披露したあと、大判の聖書と地図と図鑑を恐る恐る供したあのときのことを。
 「これらの書物は手書きではありません。貴国の木版とも違います。
 ヨーロッパでは今から百年も前から、このような文字や絵を機械で紙に写す「活版印刷」をおこなっております。ごらんいただけますでしょうか」
 驚いたことに信長は長いこと見入っていたのです。「印刷の普及がいかにヨーロッパに学問を広め、多くの人の知識をふやしたか、それは、いまお手元に供しました秤(はかり)でも計ることはかないません」

 信長は通訳のフロイスに向かって白い歯を見せました。それに勇気を得たのでしょうか、
 「私はこの国に必ず「活版印刷」を持って参ります」ヴァリニャーノはついつい大見得をきってしまいました。
 
 めずらしく船がグラッと揺れました。
 
 そのときです。ヴァリニャーノにひらめいたものがありました。
 《この海はローマやポルトガルにつづいている。そうだ、臆することはない。ローマ教皇庁やポルトガル国王のもとに日本から使節を送り、かの地で印刷を習わせよう》

 まさに、これがヴァリニャーノが遣欧使節を思いついた瞬間でした。
 みなさんは、ここで、私が言いたいことがわかっていただけますでしょうか。

 天正遣欧少年使節の派遣に付随して印刷術の導入があったのではなく、実は
グーテンベルク方式の印刷術を日本に取り入れるアイデアの方が先きにあったのです。
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