活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

想説/活版印刷人あれこれ24

2009-09-29 10:07:59 | 活版印刷のふるさと紀行
 想説/活版印刷人あれこれ19のつづきです。
復習になりますが、「想説」のテーマは、私の抱いている疑問の解明にあります。
 その疑問の最たるものは、天正少年使節が帰国して、島原半島の先端、加津佐で
キリシタン版の印刷を始めたのが、1591年で、『サントスの御作業の内抜書』が最初でした。これはローマ字本ですからリスボンから持ち帰ったローマ字活字で組版、印刷と進行できたのですが、その翌年、移転した天草で国字本『どちりいな・きりしたん』が刊行されています。

 舶載したローマ字ならイザ知らず帰国2年目にして、だれが漢字やひらがなの国字の活字を作ったのか、それが大きな疑問の一つなのです。 それも木活字ではなくて製造工程が複雑な鉛活字であるから余計です。

 私が考えたのは、使節の出発時点からヴァリニャーノは日本文字によるキリシタン版の発行が念頭にありましたから、使節たちには「なんとかヨーロッパで国字の活字を調達してこられないか」と願い、留守組には活字作成用の版下づくりを手がけるよう頼んで船に乗ったと考えられます。

 実際に渡航組はヨーロッパで日本文字の活字を入手できようはずがありませんでした。
それなら留守組はといいますと、グーテンベルク方式の活版印刷そのものがわかりませんので、文字の版下づくりといっても簡単に手をつけるわけにはいかなかったと想像できます。

 いったいそこにはどんなストリーが想像できるでしょうか。
 文字版下を書く紙は?文字の大きさは?文字を書く筆記具は?
恐らく手に入れられる和紙はすべてテストしたでしょうし、筆記具だって、あらゆる筆をためしたと思われます。
 そんなとき、いちばん相談相手になったのは、来日前にローマやポルトガルで活版印刷と接触のあった修道士や神父に教えを乞うことでした。 
コメント (4)
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想説/活版印刷人あれこれ23

2009-09-27 09:41:29 | 活版印刷のふるさと紀行
 話しを天正遣欧使節と「世界地図」について戻します。
 私の想説としては出発時点で彼らは「世界地図」を見ていたと思います。それはあくまでヴァリニャーノが持っていた地図でということですが。

 それがどんな地図であったかというと、アブラハム・オルテリウスが出した3ヶ国版のどれかであったであろうと考えるのが一番、順当ではないでしょうか。
 
 われわれがよく目にするルイス・ティセラの日本図(1595)というのがあります。あれは、ヴァリニャーノが日本で手に入れた行基図によったといわれていますが、ひょっとしてローマ教皇に献上した地図と同じ版のものだったかも知れません。ヴァリニャーノという人、意外に「地図」とも縁が深いのですね。

 また、戻します。もし、ヴァリニャーノが親しかったマテオ・リッチから譲り受けた地図だったとしたら、往路、マカオで『坤輿万国地図』の原型になった企画段階の地図を受け取った可能性はないでしょうか。
 それに、ひょっとしてヴァリニャーノが使節たちに愛弟子マテオ・リッチをひきあわせ地図について使節一行みんなで講義を受けたなんて想像したらもっと楽しいではありませんか。

 残念ですが記録がないので、この世界地図と天正遣欧使節のかかわりについて確定的なことは申せません。
 このことを前述、神田川大曲塾の勉強会で質問したところ、金子先生は「持っていなかった、帰国のときに世界地図を持ってきたことはたしかですが」という回答でした。

 わたくしも自信が持てなかったので、自著『千々石ミゲル』のなかでは、「ヴァリニャーノは最近、愛用している美濃紙を手箱から取り出すと、墨をたっぷり含ませた筆でいっきに地図らしき絵型を描いた。
 「ここが日本、船が出る長崎、この東シナ海を抜けてマカオに着く。マカオの次はマラッカ…」などと書きました。
案外、マカオでマテオ・リッチとの交流を描いた方がおもしろかったかも知れません。 みなさんはいかがお考えでしょうか。

 

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想説/活版印刷人あれこれ22

2009-09-26 13:12:03 | 活版印刷のふるさと紀行
 ここで一つ考えられることがあります。天正遣欧使節の派遣を企画し、長崎を共に旅立ったアレサンドロ・ヴァリニャーノの存在です。彼はイエズス会東インド巡察師として1579年7月25日、島原半島口之津に第一歩を記しております。

 そのヴァリニャーノが「世界地図」を携えて来ていたことは十分考えられます。
それがマテオ・リッチの「坤輿万国全図」だったといいたいところですが、リッチの世界地図の刊行は1583年に宣教師として渡った中国、当時は明ででした。
天正遣欧使節の出発はその前年1582年の2月です。勘定が合いません。

 しかし、紛らわしいことをいって恐縮ですが、ヴァリニャーノとマテオ・リッチとはおおいなる接点があるのです。ヴァリニャーノが1570年司祭に任じられた翌年、ローマで修練士の指導にあたりましたが、そのとき、生徒の修道士の中にマテオ・リッチがいたのです。それどころか、マテオが中国布教の第一歩を印したマカオへはヴァリニャーノの招きによるともいわれております。事実、日本に来る前にマカオでいろいろ準備に当たっていた経緯があります。しかし、マテオ・リッチがマカオに着いたときにはヴァリニャーノは行き違いで日本です。

 金子レクチュアに登場したベルギー、アントワープの地図製作者アブラハム・オルテリウスは1564年の8枚組みの世界地図を皮切りに、世界最初の近代的地図『Thearum Orubis Terrarum 世界の舞台』を1570年に出版しております。
ちなみに、このオルテリウスの地図はわずか2年足らずの間にオランダ語・フランス語・ドイツ語の3版が出たといいますし、彼の死んだ1598年までに25種類の版がでたといいますからすごい売れ行きでした。


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想説/活版印刷人あれこれ21

2009-09-26 10:45:59 | 活版印刷のふるさと紀行
 神田川大曲塾の9月勉強会は18日、印刷博物館のグーテンベルクルームが会場でした。
金子栄輔講師のレクチュアは日本人やヨーロッパ人のアジア認識から、中世にヨーロッパ人が描いた地理書や地図に及んで、やがて「大航海時代」に入って行きました。

 私としては「待っていました」です。以前にコンスタンチノ・ドラードや千々石ミゲルの著作を書くときに、私は一応、当時、どのような世界地図が日本に存在していて、彼ら天正遣欧使節はどんな地図を持って行ったのかを調べてみたことがありました。 結果はノンでした。当時、まだ、世界地図が日本に入っている確証は持てませんでした。

 フィレンッェの国立文書館1585年にローマ教皇グレゴリオ13世に使節たちが贈ったと日本地図が所蔵されています。行基図を賑やかにしたような稚拙なものですが、彼らが「地図」そのものは知っていたことはこのことからわかります。
 問題は自分たちがこれから辿るであろう行程がひとめでわかる「世界地図」を彼らが持っていたであろうか、「世界」の認識はあったであろうかでした。

 そこで金子レクチュアでも多くの時間がさかれたマテオ・リッチの『坤與万国全図』の登場となります。写真はその模写図で金子講師の著作からお借りしました。

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想説/活版印刷人あれこれ20

2009-09-25 11:22:06 | 活版印刷のふるさと紀行
 神田川大曲塾の9月の勉強会は塾生でもある金子栄輔さんの『日本人の東アジア認識』というタイトルのレクチュアでした。
 タイトルを見ると、いかにも今日的な東アジア諸国提携論みたいですが、さにあらず、「地理書から読み解く」というサブタイトルがついています。
 
 金子栄輔さんは塾生のなかでも異色の人で、株式会社カネコの社長として印刷企業の経営にあたるかたわら、日本大学大学院の総合社会情報研究科で国際情報を専攻されました。その博士論文がそのまま今回の勉強会のタイトルになったわけですが、パワーポイントを駆使した大変興味ぶかい内容でした。

 「いったい、日本にもたらされた世界地図や地理書が日本人の世界観にどのような影響や変化をもたらしたのか」がレクチュアのテーマでありました。
 とりわけマテオ・リッチの『坤與万国全図(こんよばんこくぜんず)』が日本人に与えた衝撃について詳説されたのが、印象的でした。

 ここでお断り、「想説/活版印刷人あれこれ」から、若干、逸脱した内容ではないかと疑念をお持ちになるかもしれませんが、かねてから私は日本に活版印刷をもたらした天正遣欧使節と地図の存在の有無、あるいは彼らがどのような世界観を持っていたのか、彼らの頭のなかに世界地図はあったのかについて知りたいと思っておりました。

 1590年に帰国した彼らが翌年、豊臣秀吉にローマ土産として献上した品物の中に、アブラハム・オルテリウスの世界地図があったことは知られていますが、1582年日本をあとに出航したとき、彼らの手元に、はたして、世界地図はあったであろうか、彼らの世界観は?と疑問に思っていたからです。
金子さんのレクチュアにからめてそのことについて次回触れたいのです。
 
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