活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

大道芸から『天正遣欧使節対話録』のこと1

2010-01-31 14:31:24 | 活版印刷のふるさと紀行
ながいこと天正遣欧使節と彼らが日本にもたらした日本最初の活版印刷と
つきあってきましたが、深みにはまればはまるほど、解明出来ないこと
だらけでもどかしい思いをしております。

 いきなり話が飛びますが、お休みでお台場散歩としゃれこみました。
大きなアウトレットが出来たと聞いて新しさみたさの好奇心もありました。

 東京テレポートの駅前広場で大道芸人が火を使った演目を披露していまし
て、取り囲んだ観衆が「おーっ、おーっ」と喚声ををあげ、拍手で広場が
揺れていました。

 そこで思い出したのが、以前のインド取材で見た同じような大道芸と
それを取り囲む群衆でした。もっとも、もっと猥雑で、もっとにぎにぎしく、
もっとミステリアスで思わずひきこまれましたが。

 天正少年使節の調査で大いに参考になったのが彼らが帰国途中にマカオで
本にした『遣欧使節対話録』でしたが、この本の中には「印刷」のことはも
ちろんですが恐らく彼らも目にしたであろうこういった大道芸のような大衆に
根をおろした光景に目を見張ったような記述もありません。

 そこで、『遣欧使節対話録』について、ちょっと寄り道したくなりました。




コメント (3)
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ヴィシェグラードと「解読不明」の話

2010-01-22 12:53:04 | 活版印刷のふるさと紀行
 昨年の暮、印刷産業連合会のY夫妻とボスニア・ヘルツェゴヴィナを
訪ねました。そのときの話。

 サラエボで冬季オリンピックのあったのは1984年でした。しかし、
1992年から96年までボスニア・ヘルツェゴビナ紛争があったせい
でしょうか、日本人にとってサラエボは遠くなってしまいました。
サラエボのビール工場の直営レストランで「日本人客は領事館の人ぐら
い」と珍しがられたくらいです。

 そのサラエボから車で3時間、ヴィシェグラードに行ってみました。
ボスニア生まれのノーベル賞作家アンドリッチの『ドリナの橋』で有名
で世界遺産の「メフメット・パシャ・ソコロヴィッチ橋」が目的でした。

 ボスニア紛争のとき、ドリナ川にかかるこの11連の美しい橋がムス
リム人虐殺の舞台になったとは信じがたいような景色でした。

 それはさておき、ボスニア語・クロアチア語・セルビア語の飛び交う
地に足を踏み入れてみて知りたいことがありました。
 それは、このあたり、いわゆるスラブ世界の言語と書物については
「キリル文字」による読み書きが残っているように思っておりました
から目を皿のようにして印刷物や看板に見入ったのでありました。

 しかし、私の目ではまったく確認できませんでした。せっかく求めた
のに、写真の文字も解読できません。いや、はやです。
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うれしかった年賀状

2010-01-15 11:50:20 | 活版印刷のふるさと紀行
 これは厳密にいうと年賀状ではなくて寒中見舞状でした。
今は南島原市になってしまった島原、加津佐町の松藤幸利さんのお便りに
うれしいことが書かれておりましたので紹介します。
 
 もう5年前になりますが、神田川大曲塾で「印刷のふるさと」をたずねたとき
当時加津佐町の教育委員会におられた松藤さんがドラードたちが日本ではじめて
活版印刷機を設置した天辺の丘をにご案内くださいました。
 個人的には私が『活版印刷紀行』を出版する時からのお知り合いですから
10年前からのおつきあいですが、もともと日本で活版印刷が最初に行われた
土地としては、加津佐以外にもいくつか「ここではなかったか」という説もあり
ました。松藤さんは当時から天辺を強く主張されておりました。

 「印刷の地も認知されるようになってきました。南島原市のホームページを
ごらんください」
 文面は控え目ですが長年の松藤さんのご苦労が報われた喜びが私にもそのまま
伝わってきてうれしく思いました。同じところに松藤さんたちが加津佐観光
ガイドの会「さんとすの会」を立ち上げられたともありました。
恐らく天辺の丘をひろくご紹介いただけるに違いありませんから日本の印刷文化
の聖地がこれからを多くの方に知ってもらえることになりそうです。
 写真左端が松藤さん、右手前が神田川大曲塾塾長の樺山紘一先生です。


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人車鉄道の話

2010-01-10 17:31:09 | 活版印刷のふるさと紀行
 神田川大曲塾の初詣は欲が深い。というよりも、編集者、カメラマン、デザイナー、大学教授、印刷関係者と塾生の職業も年齢も幅が広いので初詣ついでに寄りたいところ、見たいものもマチマチになるのですが、さすがに、柴又とくれば、「矢切の渡し」、「寅さん記念館」が上位を占めました。

 実は私は寅さん記念館ははじめて。寅さんには申し訳ないのですがそこで私が一番興味をもったのは、ミニチュア模型で展示されていた「帝釈人車軌道」という名の人車鉄道でした。明治32年から大正はじめまで現在の東京葛飾区の金町~柴又
間を走ったという人車鉄道でありました。

 最盛時には6人乗りの客車?が64両もあって、かなり利益をあげていたといいます。運賃は片道5銭、往復9銭、あんパン1個が1銭の時代ですから、わずか1.5キロの区間にしては高かったのではないでしょうか。

 明治5(1872)年に新橋~横浜間に蒸気機関車の引っ張る本格的な鉄道が開通しているのですから車丁がうしろから人力で押すのが珍しくなかば、遊園地気分で受けていたのでしょう。かつて鉄道開通時の切符の印刷を調べたことがありますが、柴又行きが赤,金町行きが白、往復が青だったという乗車券は活版だったはずですが現物を見ることはできませんでした。
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新年を迎えて

2010-01-10 15:47:01 | 活版印刷のふるさと紀行
 すでにご存じの方が多いと思いますが、いまから5年前に発足した印刷文化の研究グループに「神田川大曲塾」があります。
なぜ神田川大曲かといいますと、大曲にある「印刷博物館」を活動拠点としてスタートしたからです。発足の時、塾長の樺山紘一先生がおっしゃったことで私の記憶に残るのは、「活版印刷の始祖グーテンベルクとゆかりの深いドイツ、ライン川左岸のマインツと神田川のほとりの大曲とは流域の印刷文化や博物館の所在、そして大きく曲折している類似点があります」というくだりでした。

 塾活動を励まそうという諧謔まじりのご発言であったことはいうまでもありませんが、その神田川大曲塾がまがりなりにも5年目の新年を迎えたことは塾生一同にとって実によろこばしいことです。
 そこで、時間がとれた塾生20人ほどで「柴又七福神めぐり」と「帝釈天初詣」を
しました。

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