活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

渋沢栄一と平野富二

2010-11-15 09:21:22 | 活版印刷のふるさと紀行
 最近、ちょっとした渋沢栄一のブームです。
 上海万博に行ったとき、通訳についてくれた中国人の青年が日本留学中、埼玉深谷の渋沢さんのところでご厄介になった話から「渋沢栄一礼賛論」を語り始め、驚かされた記憶が蘇ってきました。
 
 たまたま、先月(2010・10・15)文芸春秋から出た『祖父・渋沢栄一に学んだこと』を読みました。表題通り祖父渋沢栄一が名付け親のお孫さん鮫島純子さんのエッセイで、「お金持ちの暮らしはそうだったのか」とわが身にひきかえ、感心しながら読みました。
 また、幻冬舎からも『渋沢栄一』が出ています。サブタイトルに人こそ力なりとあります。『祖父・渋沢栄一』の方の帯には「500余の事業を興しながら財閥を作らず人を育て助けることを楽しんだ…」とあります。
 
 実は平野富二も渋沢栄一に助けられ、育てられた一人です。第一国立銀行創業当初の渋沢に、海運や造船が国家にとっていかに大事かを説きながら懸命に融資を依頼したのが平野でした。渋沢は第一国立銀行としての融資とは別に、鍋島・伊達家を説得して
当時の金で10万円、別に匿名組合をつくって20万円と多額の融資で石川島平野造船所を助けました。平野は石川島造船所の生みの親、渋沢は育ての親だったといえます。

 ところで、いかにも平野が平野らしい、渋沢が渋沢らしい逸話が残っています。
 平野富二の死は突然でした。東京市の水道鉄管を外国から輸入するか、国産品を製造するか二派に別れての大論争のなか、国産で行くべしの演説中に倒れたのです。渋沢は
輸入派でした。平野は臆することなく恩人であり、自社の筆頭株主を向こうに回して論陣をはりました。 いっぽう、渋沢は平野をおくったのち、みずから石川島造船所の取締役会長に就任して会社発展に力を尽します。

 忘れられていた追悼碑が落ち着き場所を得たり、忘れられないで、遺徳が本になったりするのは日本文化を見直す意味でもうれしいことです。 
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平野富二と明治人の骨格

2010-11-14 15:06:12 | 活版印刷のふるさと紀行
 平野富二の肖像写真をじっと見ていると、平成の現在にあっても、町中でも電車の中でもごく普通に見られる日本人の顔で、明治の人という感じはしません。
そうお思いになりませんか。

 ところが彼の生涯を辿ってみますと、あきらかに明治人の太くてたくましい骨格を感じずにはいられません。
 奇しくもふたつとも司馬遼太郎が味付けをしたものですが、近々第2部が始まるNHKのテレビドラマ『坂の上の雲』にしても、今年の連ドラ『龍馬伝』にしても、主人公には一様にはっきりしたものが備わっております。

 私はその正体は「志」だと考えます。
 明治という時代を動かした人、明治という時代に傑出した人に共通するものは、ゆるぎない彼ら自身の「志」だったと思うのです。秋山好古、真之兄弟も坂本龍馬も。

 平野富二が本木昌造からひきついだ印刷事業を大成させ、平野造船所を興し、現在のIHIにつながる重工業の企業を切り開いたのも彼の志のなせるところだったと言えるでしょう。

 まったく余分なことですが、平成の時代の若者には「志」と呼ばれるものがないように思います。「夢」というような言葉に置きかえられているようですが、かなり個人的な願望に過ぎず、時代を動かし、時代を創るという気宇壮大さはありません。

 これも余分なことですが、徳川幕府が目の前で崩壊したとき、多くの幕臣たちは駿府に移り、沼津兵学校で勉強を始めます。彼らの志の探究に、神田川大曲塾では来週、沼津に勉強にいくことになっております。明治人の骨格調査とでもいいましょうか。



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築地活版製造所の運命

2010-11-13 15:12:42 | 活版印刷のふるさと紀行
 企業には消長がつきものです。山一証券や日航など、「まさかあの会社が」と、みんなが驚くようなケースを私たちも見てきました。たぶん、平野富二創業の築地活版製造所も「まさか」の例だったようです。

 ここに掲げた築地活版製造所の社屋写真がいちばんポピュラーですが、正確な撮影年月日はわかりません。おそらく、明治25年に死去した平野はこの建物は目にしていないと思われます。

 号数活字で評判になり、ポイント活字の野村宗十郎時代に黄金時代を迎えたころの雄姿ではないでしょうか。明治末期の築地活版製造所の所有地所は851,13坪とありますから写真で見るほどの大きさではなかったようです。

 それにしても運命を狂わせたのは関東大震災の被災によるものでした。
 大正12年4月、大正11年後期株主総会で「頗ル繁盛ヲ極メ前期ニ比シ大差ナキ収利ヲ得タリ」と最高利益に胸を張ったのに、9月1日、建てたばかりの築地の本社工場と月島工場を焼失、150万円以上の損失を出してしまいました。

その焼けた本社工場は鉄筋4階建て、外から見ると屋上が柔かいウエーブを描いていました。
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長者になった平野富二

2010-11-03 09:35:22 | 活版印刷のふるさと紀行
 いうまでもないことですが平野富二という男にはとてつもなく経営の才がありました。
時の権力に迎合したりしない反骨の人といわれながら、時代の潮流を見抜き、機敏に行動する人でありました。
 
東京に出てきたのが明治5年、神田から築地に移転してからわずか2年、明治8年30歳のときに出資者からの借金を完済しています。
「よし、これで己の希望した道へ踏み出せる」と、思ったかどうかわかりませんが、翌、明治9年石川島平野造船所を創業します。

 驚くのはそれから3年目に福澤諭吉を招いて小型蒸気船第一通快丸の進水式を行っています。小型船が多かったにせよ、これが創業以来7隻目といいますから口アングリです。

 片や活字の開発・製造にも力をいれますし、営業面でも中国に支店を出したり積極的でした。ここに明治22年(1889)の「現今長者鑑」、長者番付があります。
東前頭5枚目、年収300万円、『富二奔る』の中でこのことを紹介しておられる片塩二朗さんによると、現在の物価水準になおすと、1250億円になるそうです。
「たとえ、話半分としても625億円というとんでもなく膨大な年収があったようです」と
片塩さんも驚いておられます。18年前、長崎から1000円を握りしめて出てきた男が1250億円、明治という時代、志に向かってまっしぐらの明治の男の典型でしょうか。
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