活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

多摩美美術館で唐招提寺金堂荘厳展をみる

2011-01-31 14:54:18 | 活版印刷のふるさと紀行
 1月の終わりの寒い日にわが印刷文化の研究グループ「神田川大曲塾」の塾生有志で多摩美術大学美術館へ「唐招提寺金堂荘厳展」の拝観にでかけました。
昨年12月4日から本年1月30日まででしたからギリギリもいいところでした。

 例の「平成の大修理」で全解体された1250年以上の歴史を刻む唐招提寺の金堂装飾の調査研究の成果が伝わってくる珠玉の展覧会でした。とくに金堂装飾の文様を白描図やコンピュータグラフィツクを駆使した鮮やかな彩色復元図への再現、展覧会場に設置されたパソコンで入館者がCG映像で天平の金堂を目前にできる展覧会のタイトルどおりの荘厳(しょうごんと読む)の世界でした。

 それに当日はこの展覧会のためにCGから文化財にアプローチされた東洋大学と多摩美大で教鞭をとっておられる多田光利先生と学芸員の淵田雄先生のレクチュアがありましたのもこの日にした理由でした。それに装飾の描かれていた部材(国宝)のわずかな痕跡から白描図を起こし、文様の彩色までつきとめるワークに数年以上携わられた山田さんから直接、苦心談をうかがえたのも大収穫でした。

 ひるがえって考えますと、古くは『百万塔陀羅尼』をはじめ『古活字本』など、印刷文化史の上でももっと新しいテクノロジーを使ったおおがかりな調査研究が望まれる次第です。

 
 


 
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年賀状と印刷2

2011-01-28 15:58:35 | 活版印刷のふるさと紀行
 36億5500枚 これが平成23年お年玉つき年賀はがきの印刷部数です。さらに、増刷があって実際は38億20245万枚にも及んだというから驚きです。

 お年玉つき年賀状がはじめて発売されたのが昭和24年(1949)ですから郵便年賀状の歴史も60年近くなるわけです。
 しかし、多くの人が年賀状に自分の絵柄を「印刷」するようになったのは、まだ、近年のことです。

 最初のころは「印刷」でも、町の印刷屋さんの既成雛型から選ぶ、あるいは自分でデザインした原稿を印刷屋さんに渡して印刷してもらうのが普通でした。
 もっとも当時でも自分で活字を組んで卓上ベビー印刷機で印刷しているゼイタクな趣味人も友人におりましたが、それは例外にしましょう。

 ところが平成10年代になると、パソコンの普及とプリンターの操作性の向上で自分のオリジナル賀状を自分で印刷する人が急激に増えるようになりました。
 手もとにデータがありませんからわかりませんが、私宛ての本年の年賀状でみますと30パーセント近い数字です。ただし、まず、 インクジェット紙のはがきを選び出し、あとは目視で絵柄から判断をするというきわめて原始的手法を使ってのことですから確実とはいえませんが。

 最近はメロデー入りのメール賀状も増えてきました。年賀状はがきの発売枚数も、はがきに「印刷」する年賀状もこれからは下降線を辿ることは必至です。ただし、自分のオリジナルデザインを自分で印刷する人の割合は増えると予想できます。
あれこれ考えていると、「年賀状と印刷」も身近な日本の印刷文化史研究のテーマのひとつになりそうだと思いました。いかがでしょうか。
 

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年賀状と印刷1

2011-01-28 14:09:29 | 活版印刷のふるさと紀行
 新年、新年といっておりましたのに早くも1月も終わり近く、大雪と噴火、鳥インフルエンザに加えて政局の混迷と実にあわただしい幕開けです。
 
 今年はウサギ年、私は賀状の絵柄に上海万博のついでに中国で求めた恵山泥人形を使いました。
 ウサギはおとなしい動物なので、さぞや2011年は穏やかな年でピョンピョン飛躍する年になりそうだと期待しましたが、年初めで早くもアテがはずれてしまいました。
 
 もっとも神職にある友人の賀状に「辛卯という年は大変厳しく辛いことがある」とありました。うれしくないご託宣でしたが、どうやらハズレではないようです。
 
 さて、年賀状ですが、意外に歴史は古いのです。
 郵便以前は別にして、日本で郵便制度が出来たのが明治4年、明治6年に郵便はがきが登場しますが、はやくも明治14年ごろには郵便局が年賀状事務で大忙しになったといいます。
 このころから一部で「木版」の賀状作りが現れたようですが、元旦の年始周りを終えてから、肉筆でゆっくり書く人が圧倒的に多かったといえます。
 木版の賀状が増えるのは明治33年(1900)に私製はがきが出せるようになってからです。ですから、それからでも100年以上になるわけです。
 木版から活版印刷で賀状を刷る人が多くなるのは戦後のこと、それも商店や会社が出す場合でした。


 
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明朝体という活字書体

2011-01-24 13:50:05 | 活版印刷のふるさと紀行
 GGGの「秀英体100」の会場で地下1階に下りると秀・英・体という3本の活字の大きなレプリカが置いてありました。(写真)デジタルもさることながら、やっぱり「秀英体」というと活字書体や金属活字を連想しがちなアナログ世代にとってはこれで、ほっと安心した次第です。

 活字の美しさはなんといっても明朝体です。毛筆でひとつの文字を書き始めた時、書き終わったときの筆運びが再現されていて、縦線と横線の幅のコントラスト、あるいは撥ねの部分の美しい曲線は読む眼に親しみやすい書体です。

 上海の美華書館の書体を模したといわれる本木の長崎新町活版所の明朝体から始まって
五度ほど改刻されて明治末年に完成されたという平野富二の東京築地活版製造所の明朝体、それに遅れることほぼ十年でおいついたという秀英体、明朝体に限っても書体づくりの歩みには興味深いものがあります。

 築地書体というと種字彫刻師の竹口芳五郎、秀英体の種字彫刻というと沢畑次郎の名前が知られておりますが、私が「秀英体100」で知ったことは平成の大改刻に挑んでいる
現代のアーティストのチャレンジです。恐らく常用漢字だけではとても足りないでしょうから漢字だけでも1万字、それにカタカナ、ひらがなを加えたら大変なかずになります。
明朝体を礼賛しましたが、もちろんゴシックもあります。フレー、フレーと、今後の大改刻活動に声援をおくります。

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書体とデザイン

2011-01-22 10:22:16 | 活版印刷のふるさと紀行
  秀英体100の案内リーフに杉浦康平さんが寄せている文章をひかせていただくと、
「秀英体明朝には、他の書体に例をみない、きっぱりと冴えた勇気がある。黒々と太い一点一画が、この書体を特徴づける。…」ではじまり、「四十年前、この書体に出会い、一目で惚れ込み、使い始めた」とあり、会場で季刊銀花のポスターをじっくり拝見できました。
 
 また、会場に入って平野甲賀さんの本の奥付を題材にしたポスターの前に立ったとき、私の頭の中をひとつの疑問が走りました。
私は本を買うとき、まず、奥付を見る癖があります。「初版だろうか」「何刷りだろうか」「印刷会社はどこだろうか」と。
 もっと以前、検印時代には、著者の検印のデザイン趣向まで確かめたものでした。
 いま、電子書籍の奥付がどうなっているのだろうか、ペラペラと確認できるのだろうか。平野さんはデジタル書体をどのように受けとめておられるだろうか。
 平野さんのすっきりしたそれでいて格調高く、ちょっぴりクラシックな奥付デザインに活字や書体への愛情をずっしりと感じるだけに。

 その平野さんのお隣に浅葉克己さんのポスターがありました。写真の夏の文字が読み取れる作品です。さすがタイポグラフィの大御所のデザインです。また、会場中ほどには
勝井三雄さんのポスターがありました。浅葉さんといい、勝井さんといい、私の知る限りつねに、デザインワークの中で書体の選択に驚くほどの神経をつかっているデザイナーです。こうしたみなさんに「書体と私のデザイン」といったレクチュアーをうかがう機会があればと思います。写真はいずれもGGGの展示からです。 
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加藤美方さんを偲ぶ

2011-01-21 10:04:19 | 活版印刷のふるさと紀行
 前出の片塩二朗著の『秀英体研究』を読み進んでいるとき、終りの方で「加藤美方」という懐かしい名前が目に留まりました。大日本印刷の取締役でCDCや造本企画室を見ておられ、晩年はリョービで「アステ」の刊行など活字文化のために活躍された方です。
 
 その項には加藤さんが造本企画室にあって秀英舎時代の秀英体明朝活字の父型保存に心を配られた話以外に、癌に侵されて余命を察知されたときに片塩さんに活字見本帳を送って来られたエピソードが書かれておりました。同じころ、私のところにも加藤さんから宅急便で印刷文化史資料がたくさん送られてきたことがありましたので思わず加藤さんを偲びました。

 さて、平成の大改刻のトークでデジタル化拡大にあわせた改刻の歩みを聞き、GGGの会場で改刻されたおびただしい漢字の一覧掲示をみたとき、心の揺れを感じずには居られませんでした。加藤さんが愛された父型・母型工程を伴なう金属活字の秀英体からデジタル秀英体への転換、改革、われわれはその開発の歩みを注視していかねばなりません。

 ところで加藤さんの時代、グラフィックデザイナーでフォントに神経を使っていた方がたくさんおられました。杉浦康平さん、亀倉雄策さん、田中一光さん、枚挙にいとまがありません。グラフィックデザインと秀英体、それをテーマにしたのが、こんどのGGGの
「秀英体100}ですから次回はそのことに。 
 
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秀英体の改刻の話

2011-01-20 11:17:24 | 活版印刷のふるさと紀行
 前回のトークショー『平成の大改刻の道のり』のつづきです。
パネラーのチーフは株式会社朗文堂の代表の片塩二朗さん。写真の『秀英体』(大日本印刷)の著者ですが、活字についてはもちろん、洋の東西の印刷史に通じておられ、私自身も本木昌造や平野富二など明治の印刷人について教えられたことがたくさんあります。
 その片塩さんはトークショーでは秀英体概論を話されましたが、実際には平成の大改刻の
プロジェクトの監修をつとめられました。

 では、ほかのパネラーはといいますと、実際に秀英明朝L・M・Bと丸ゴシックの開発を担当された字游工房代表の鳥海 修さん、秀英初号明朝と角ゴシックの開発を担当されたリョービイマジクスの石岡俊明さんのおふたりに、大日本印刷で改刻のディレクションをされた伊藤正樹が進行役で、全体の道のりを説明すると同時に3人からトークを引き出す役をつとめておられました。

 平成の大改刻なんて大げさなとおもっていたのですが、漢字だけで既に7000字も改刻されたと聞きました。書体の種類、ひらがな・かたかなを加えてその数と作業量を考えるといまさらながらに頭がさがります。

 かつて金属活字の全盛期の「秀英四号明朝」、あるいは「秀英初号」を基本資料に徹底的な検証をはかり、これからの100年、デジタル環境をにらんで新字体開発が進められたようです。




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秀英体と本文活字

2011-01-19 23:59:30 | 活版印刷のふるさと紀行

GGGの1階会場に秀英体を使った書籍が並んでいました。そのなかに『田辺聖子全集』もありました。
あれはいつだったでしょう。2~3年前でしたか集英社の文芸の編集長の村田登志江さんと秀英体について話し合ったことがありました。
 ちょうど村田さんが『田辺聖子全集』にかかったときで、本文はゼッタイ、秀英体でゆくと秀英体の座りの良さを論じられました。
「集英社ですものね」とマゼッかえしたものの同感ですから、チョッピリうれしかったし、彼女のように若い編集者で活字書体に関心が強く、造詣の深い人に会うと心強くなった記憶があります。

 昨晩DNP五反田ビルで秀英体100の関連企画トークショー「平成の大改刻の道のり」を聴講してきました。
 今年、100年目を迎えた秀英体は2005年から改刻、つまり、リニューアルにかかっているそうですが、つぎの100年めざしての改刻である以上、トークの中身が電子書籍対応のデジタルにおかれるのは当然ですが、書籍の本文活字としての美しさ、たとえば、岩波の『広辞苑』などにふれてほしいと思うのは私だけでしょうか。
 ちなみに村田さんは神田川大曲塾のメンバーのひとりです。
写真はGGGの会場で書籍のところを撮らせてもらいました。
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秀英体は銀座生まれ、銀座育ち

2011-01-14 17:30:43 | 活版印刷のふるさと紀行
 秀英舎、現在の大日本印刷創業の地はいまの数寄屋橋交差点の近くです。交差点から
築地に向かう晴海通りのとっかかり左手、いまの不二家やその隣のヒューリック数寄屋橋ビル
あたりです。
 秀英体の製造にあたっていたのは道路隔ててその反対側、いまのソニービルの横、
ヘルメスや赤レンガのあるあたりにあった活字製造部門としの製文堂でした。(写真のところ)

 ところで「秀英舎」という社名を考えついたのは2代目舎長になった保田久成で、初代社長の
佐久間貞一が勝海舟に看板の文字を書いてもらったといいます。ウガッタ話としては勝の
看板用の活字っぽい書風が秀英体のモトになったというのがありますが、マサカ。保田は
活字の自家鋳造に熱心でした。

 秀英体初号から七号まで号数活字を整備し、ポイント活字もそろって一応、秀英体が
完結を見たのは大正年代です。日清・日露の戦争を経て近代化に向かって始動しはじめた
国情を背景に出版活動が盛んになるにつれ、活字鋳造や改刻に追い回される時期が続いた
と思われます。秀英舎もいまは埋め立てられて沿う想像もつきませんが、数寄屋橋の運河
ぎりぎりまで三階建て鉄骨赤レンガ造りの大工場になっていました。

 秀英舎の前の道路ぞいに二本の日の丸を交差してたてた旗飾りが何箇所かつくられて
行進してくる日露戦争の凱旋兵士を出迎えた話をしてくれた方がおりました。
関東大震災の被害を受けて、秀英舎は市ヶ谷に移ることになるわけですが、
秀英体は銀座生まれ、銀座育ちというお話。 

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懐かしい活字のある光景

2011-01-14 12:05:29 | 活版印刷のふるさと紀行
 『秀英体100』の会場でちよっとおもしろく感じたことがありました。まず、
そのことから紹介しましょう。
 GGGは1階と地下1階が展示に当てられておりましたが、1階の左手奥に活字
の詰まったケースが置いてあり、そばに、親指大の秀英活字のレプリカでスタンピ
ングができる「お遊びコーナー」がありました。見ていますと活版の印刷現場を知
っているような年配の人は入場するや、まず、活字ケースに引き寄せられていきま
した。若い人はスタンピングを楽しんでいるのです。

 大曲の印刷博物館にあるもっと実体験的な印刷工房でもよく見かける光景ですが
鉛の活字の持つ手触り感は人間的であったかいものです。
 ブラックボックスのなかでデジタル処理される近頃の印刷とは大違いですね。

 ところで秀英体100の100は100年でしょうが、どこを起点にしているの
でしょうか。
 秀英舎の創業は1876年、明治9年です。本木昌造に端を発する平野富二の築地
活版製造所については前にとりあげておりますが、創業当初の秀英舎はもっぱら活
字はその築地活版から購入しておりました。日に何度も銀座から築地まで秀英舎の見習工
は活字を階に買いに走らされことでしょう。

 「ウチで活字を鋳造しよう」と、秀英舎が自家鋳造に踏み切ったのは、1881年
明治14年とされています。もちろん、いっきょに達成できるような仕事ではありま
せん。それから考えますと、おそらく100の起点は1912年明治45年に秀英体の
初号から8号までが完成して、胸を張って見本帖(活字のカタログ)が出せる段階に
なってからに置いているように思われれます。



 
 



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