活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

金属活字から木活字に舞い戻る

2011-03-30 17:43:02 | 活版印刷のふるさと紀行
版木之衆 (はんぎのしゅう)、家康に呼ばれて京から駿府城に向った印刷技術者の集団は記録によると字彫り(彫刻工)2人と植手(植字工)3人・木切1人(活字コマ仕上げ工)・摺り手(印刷工)2人・校合(校正マン)1人あわせて9人の編成だったようです。

 おもしろいのは1615年、慶長20年の3月21日から毎日、1人、1升の扶持米を与えるとあり、「版木之衆上下18人」とありますから人数が倍増していることがわかります。

 家康は『大蔵一覧』についで『群書治要』の出版を進めさせますが、『群書治要』の方は手にとることなく亡くなっています。この家康の出版企画のための駿河版銅活字の製造責任者は唐人林五官であったとされています。彼は京にいたわけではなく、福建出身で暴風に見舞われて遭難、日本に上陸して家康に認められて浜松に居住していたとされています。

 この林五官が家康の依頼で、京から呼んだ版木之衆を配下に置いて仕事を進めたのでしょう。当然、配下には唐人がいたと思われます。駿河版活字の鋳造は1606年から1616年の10年間に三次にわたって11万余字がつくられました。しかし、駿府や和歌山でほとんどが火事などで罹災、消滅してしまい、現在、重要文化財ととして凸版印刷の印刷博物館に3万8千字(一部木活字をふくむ)が『群書治要』41巻とともに収蔵されています。

 家康の死がせっかく日本に生まれた「銅活字」を絶やすことになります。以後、銅活字が鋳造されることはありませんでした。また、同じころ、キリシタン版を印刷した「鉛活字」もキリシタン弾圧で日本から姿を消してしまいます。グーテンベルクに遅れること150年ほどで日本でも金属活字による印刷出版が陽の目を見たのに、ここでポツンと切れてしまい、ふたたび、木活字や木版印刷に舞い戻ってしまったのです。
 これは日本の印刷技術史上、大きなポイントです。そして、まるで、金属活字の衰退を予見してそれを埋め合わせるかのように「嵯峨本」が登場したのです。

 
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嵯峨本の話から

2011-03-30 11:57:24 | 活版印刷のふるさと紀行
 3/11の大震災の前夜でした。六本木の神田川大曲塾の集まりの席で、その日の日経朝刊に掲載された≪「嵯峨本」の謎≫がひとしきり話題になりました。

 それは、近畿大学中央図書館に所蔵されている嵯峨本『伊勢物語』を例に、「いまから400年前の日本の印刷史上、有数の美しさといわれる「嵯峨本」こそ、活字を芸術にしたものであった。しかも手書きの写本を思わせる美しさなのに実は活字を使った活版印刷なのである」というアートレビューと題した紙面にふさわしい構成でありました。

 とくに奈良女子大の鈴木広光教授が監修され、津田光弘さんが複製した『伊勢物語』の2ページ見開きの活字版のカラー写真が目をひきました。『伊勢物語』に使われている活字が1字ずつではなくて、2文字とか3文字のひらがなの連字が彫られていて文中に効果的に使われていることを見せてくれていました。

 近大中央図書館は前に神田川大曲塾で見学させていただきましたし、鈴木広光教授は塾の
上部研究団体「印刷懇話会」のメンバーであられるので話題になるのは当然です。

 ここで話題を日本の古い活字に戻しますと、3回ほど前、私はこのブログで駿河版活字についておしゃべりをしておりました。厳密にいいますと、駿河版活字は李朝の銅活字で『大蔵一覧集』を組むとき、不足した文字を日本で新鋳した、その活字からを指すべきだと考えます。

 大坂冬の陣から駿府へ帰った家康が軍装を解いて、まずやったのが京から印刷技術者を駿府に呼び寄せることでした。印刷技術者は「版木之衆」(はんぎのしゅう)と呼ばれていたらしいのです。この駿河版活字の製造は1606年から1616年ぐらいまでの10年間とされておりますが、嵯峨本にかかわったのは、版木之衆とは別派だったのでしょうか。





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印刷技術の進展と高度消費社会が生んだポスター

2011-03-28 10:25:02 | 活版印刷のふるさと紀行
 東京都庭園美術館の「タイポグラフィ展」のつづきです。
 
 第3部は躍動する文字と図像:大衆社会とタイポグラフィの連結と題して、1960年代から
70年代のポスター展示です。このコーナーでは個人的ににも好みのウェス・ウィルソンの
数点の作品にくぎ付けでした。そして横尾忠則作品であの高度成長時代の鮮烈な印象が蘇
ってくるのでした。

 第4部は電子時代のタイポグラフィ:ポストモダンとDTP革命です。
ここにはお世話になったり、なっている日本の高名なデザイナーの作品がズラリと並んで
いてうれしく、懐かしいコーナーでした。
 印刷技術のめざましい進展と高度消費社会がすばらしいタイポグラフィのポスターを生
みだしたのです。

 しかし、庭園美術館をあとにしながら考えたことがあります。
底なしの閉塞感というか、3・11の地震以来の日本にあって、タイポグラフィを含む
ポスター表現がどのように変革していくのか予測できません。

 今回の展覧会の作品は竹尾ポスターコレクションからが大部分と聞いておりますが、
コレクションがますます充実し、21世紀のポスター展が催されるときはどんな経過を
辿るのでしょうか。私には想像できません。

 



 
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20世紀のポスター[タイポグラフィ]

2011-03-28 09:18:18 | 活版印刷のふるさと紀行
 「タイポグラフィ展」の会場構成は1900年から1990年までを4部にわけていました。
 サンセリフとよばれるヒゲのないシンプルな書体の出現で文字で見せるポスターが出始
めた1900年代の初めから、パソコンを使った新しい表現や印刷手法のポスターが続出しだ
した1990年代までを20世紀のポスターの時代としてくくった展覧会というわけです。

 ≪「タイポグラフィ」は活版印刷技術との関係の中からうまれたものである≫ 第1部の
アプローチ壁面にある解説は庭園美術館の浜崎加織さんの思想でしょう。蓋し名言。

 第1部「読む文字から見る文字へ:タイポグラフィの革新で目に飛び込んで来たのが、
エル・リシッキーの「ソヴィエット連邦展」やA.Mカッサンドルの「キナ入り食前酒デュ
ポネ」力感あふれるポスターであり、とても1930年前後の作品とは思えない新鮮さです。
さらに、エルンスト・ケラーやテオ・パルマーの文字だけのポスターは「読む文字から
見る文字へ」が納得できます。

 第2部がタイポグラフィの国際化:モダンデザインの展開と商業広告の拡大です。
山城隆一さんの「森・林」や亀倉雄策さんの「ニコンSP」、原 弘さんの「日本タイポグ
ラフィ」の有名作品も登場します。

 

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タイポグラフィ展と佐藤晃一さん

2011-03-27 12:00:56 | 活版印刷のふるさと紀行
 東京都庭園美術館の「タイポグラフィ展」にようやく行ってきました。
 それも閉幕3日前、東北巨大地震でついつい外出を控えていてこんなにギリギリになって
しまったというわけです。

 「来てよかった、じっくり観られてよかった、いい展覧会だった」
 
 庭園美術館の玄関、車寄せの左側に佐藤晃一さんデザインの催事告知パネルがポツンと
置かれていた。そのデザインがすばらしい。 計算され尽された白地の効いたスペースに、
大きくTの文字が置かれ、その横に三原色の三つの円、さらに、Tの横棒の上ぎりりぎりに
横にTYPOGRAPHIC POSTERSとレイアウトされ、Tの縦棒の右ぎりぎりにOF THE 20TH CENTURY
がいずれも白抜きで置かれていて、しかも3つのOが白でつぶされていた。

 確かに、二〇世紀のポスター[タイポグラフィ]─デザインのちから・文字のちからが今回
の「タイポグラフィ展」のタイトルです。
 この佐藤さんのデザインの狙いを私流に考えてみました。こんどのポスター展にかぎらず、
いつも内外の作品が並んでいる会場で思うことはアルファベット文字の処理のしやすさで、
逆に漢字・ひらがな・カタカナと縦組み、横組みの混在する日本のタイポグラフィの処理は
デザイナー泣かせだと同情してしまうのです。

 ところが、この佐藤さんのデザインでは横文字をヨコとタテにごく自然にあしらって調和
させています。
 実は図録の中の「あなたにとってタイポグラフィとは?」という質問に、佐藤さんがアメ
リカ人デザイナーから日本人は文字を縦にも横にも組めるし、レイアウトの可能性が横文字
の倍もあるといわれて妙な気がしたエピソードを紹介しておられます。案外、それへの回答
ではないでしょうか。違っていたりして。
 きょうは入り口だけで終わってしまいました。
 
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奇しくも日本の金属活字印刷が1614年に

2011-03-25 22:41:28 | 活版印刷のふるさと紀行
 “始めの終わり”だなんてはいいませんが、『大蔵一覧集』が始めての駿河版銅活字で
印刷されたのが1614年、その同じ年の11月にひっそりと姿を消して行ったのが日本の
金属活字を使った印刷では先輩格、いや文字通り日本の活版印刷第一号キリシタン版
印刷でした。

 島原半島の先端、加津佐を振り出しに河内浦、長崎と転々と場所を移しながら、キリシタ
ン版を刷り続けた印刷機や活字製造の工具などが、どのようにして日本を脱出させられたの
でしょうか。
 私は自著『活版印刷人ドラードの生涯』には、その時の情景をこんなふうに書きました。
 ≪右近に快く承知してもらって、印刷機は波止場に運ばれ、夜陰に乗じて信者の小船でマ
カオ行きの船に持ち込まれた。鋳型のような小物は南蛮人ばーどれやいるまんの荷物にひと
つずつ潜ませてもらった…≫ 
 右近とは高山右近のことで、同じときにマニラに追われています。
はたして、実際は如何だったでしょうか。

 持ち出しを見逃すとはなんと寛容な、と思われるかも知れません。
 しかし、事実、印刷機はマカオに着いてます。恐らくキリシタンが多く、バテテレンに
同情的だった「長崎」という土地柄と、波止場の警護に当たっていたのも地元の兵士で
ワザと厳しく取り締まらなかったのでしょう。

 それにしてもこれでキリシタン版がらみの印刷技術が根絶やしになったとは思いたくあり
ません。近畿大学の森上 修先生が早くからその後の木活字にキリシタン版の影響を認める
論考を発表しておられることも大変力強いことです。
 こんなことから、私は苦手ですが古活字についても勉強したいものです。




 
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駿河版銅活字のはじまり

2011-03-24 11:23:14 | 活版印刷のふるさと紀行
 






家康というと私たちは駿河版銅活字を真っ先に思い浮かべます。
 ところが実際は伏見版木活字を手掛けてからだったというのは納得できます。いくら
李朝活字がお手本としてあっても、そうそう問屋は卸しません。金属活字を後回しにし
て、木を彫って活字を作ることから始めるのは当然の成り行きだったといえます。

 それならばそのとき、日本には金属活字はまったく存在していなかったかというと、
地理的には離れていましたが、九州の島原や天草にはちゃーんとありました。
 伏見版木活字の『古文孝経』が印刷されたのが1593年、その前々年の1591年
に日本最初の金属活字によるキリシタン版『サントスの御作業の内抜き書』が、その翌
年には『どちりいな・きりしたん』が印刷されています。しかも『どちりいな』は漢字
とひらがなの「国字」です。

 名護屋が朝鮮への足場でしたから、九州といっても意外に交流があった時期ですから
あるいは現地派遣軍の中にキリシタン版の金属活字に接してもその情報を上にあげるほ
どの目利きがいなかったために家康に届かなかったのでしょう。

 家康が木活字から銅活字への移行をはたし、はじめて『大蔵一覧集』なる銅活字本を
印刷したのが、1614年、慶長19年、天下分け目の大坂夏の陣の年でした。


  
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伏見版木活字の話

2011-03-22 14:26:35 | 活版印刷のふるさと紀行
日本にもたらされた李朝活字がどうなったのかは、比較的はっきりしています。
加藤清正によって熊本城の書庫の奥深く収蔵されたという説もありますが、15
93文禄2年に秀吉が御陽成天皇にゴッソリ献上されている証拠が残っています
からそんな筈がありません。

 天皇の陪臣、西桐院時慶卿(にしのとういんときよしきょう)が天皇の命令で
9月から李朝活字を使った『古文孝経』の印刷にかかり、年末には刷り終えたと
いう記録を残しています。ところが、この現物は残っていないし、その後、李朝
活字の行方もつかめません。ひょっとして熊本城の方がアトかも知れません。

 そして、ここで登場するのが、本好きで活字を使った印刷に興味しんしんの家
康です。彼は行方不明の李朝活字を追うことなく、自分に「活字開発」を課し、
自分で「出版」をすることを考えたフシがあります。彼は活字だけではなく、朝
鮮本、つまり、李朝の活字本を精力的に収集します。それも関ヶ原の戦い前後の
ことです。

 出版にあたって家康はいきなり金属活字には行かずに、「木活字」から入ります。
足利学校のの校長にあたる三要元佶を京都伏見に呼び、『孔子家語』を1599、
慶長4年に刊行させます。同じ年『三略』、翌年、有名な『貞観政要』10巻8冊
という具合で、いずれも伏見版木活字が使われております。


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李朝活字も行方知らず

2011-03-22 10:14:02 | 活版印刷のふるさと紀行
前々回とその前で秀吉、家康と活版印刷について書きました。秀吉と家康で
は印刷への取り組み方が違う、秀吉はたまたま、朝鮮から李朝活字や活字版
がもたらされたときに太閤だった。みずから「印刷」に関心を持ち、印刷」
に取り組んだのは、家康だったのではないか、と。
 秀吉にしろ、家康にしろ、時代のトップが印刷文化史に名前が出てくるのは
日本人としては誇るべきことですし、この二人を日本の活版印刷のことはじめ
に結びつけて研究していらっしゃる方の多いことも心強いかぎりです。
 私が李朝活字を持ち帰ったのは小西行長と決めつけたのはどうか、「第二軍
として同時期に首都、漢城(ハンソン、いまのソウル)に入城した加藤清正、
その人である」という指摘もいただきました。

 秀吉軍が入城したとき、李朝の王、宣祖は脱出していましたが、歴代の王は
金属活字の鋳造を推進し、活版印刷を国家的事業に位置付けていました。
 神田川大曲塾でソウルの国立中央博物館を見学したときも「グーテンベルク
よりも三〇〇年も前に朝鮮半島では金属の活字印刷をしていた」と学芸員は
鼻たかだかでした。

 しかし、日本のキリシタン版の活字の行方が杳(よう)として知られぬように、
李朝活字も現存していません。まさか、「秀吉が全部持ち出した」わけではあ
りません。たしか、博物館に一字だけあると聞ましたが、私たちは見ておりま
せん。
 凸版印刷の駿河版活字の中に李朝活字が混じってはいないかと、韓国から
調査団が来たこともあったようです。

 

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立花文穂さんのデザイン

2011-03-12 15:19:53 | 活版印刷のふるさと紀行
 あの不幸な訪問者「東北・関東大地震」のたった1日前でした。本来なら月初めに催される
ことが多いGGG、ギンザ・グラフィック・ギャラリーのオープニング・パーティに参加しました。
 DNP銀座ビルの前で思わず足を止めてしまいました。

 催事告知フラッグが戦国時代、足軽が背中に背負った旗差し物よろしく「た」の字1字でした。
肉太で力強いひらがなですが、どことなく感じるおさなさがいいのです。

 申しわけない話ですが立花文穂さんは、名前を存じ上げている程度で面識も作品も知りません。
いきなり、展覧会でその人と向き合うのは素敵な初見になることがあります。

 で、どうだった。私は気に入ったのです。
あっ、この人は文字を愛している、印刷が好きらしいぞ。犬がクンクンと嗅いでまわるように会場
を一巡して思ったのです。

 最近、デザインというとコンピュータ。デザイン、デザインしているデジタルが幅をきかせてお
ります。それが立花さんのはアナログっぽさがあって、あったかくて、なんとなく日本人ぽくって、
身近かというか、日常性があるのです。

 たとえば、作品の説明プレートにしてもブルーの万年筆でカリカリと書いたみたいで、あの気ど
ったルーペで拡大して読みたくなるような細ゴジ書体ではないのです。
《これまで印刷した紙紙。頁にしたもの、ペラのもの、小さいもの、ちいさいもの。いろいろな
べました。みてください。》というご当人の呼びかけが素直に納得出来ました。

 デザイン表現と文字表現、それをつなげる「印刷」。こういった展覧会をもっと見てもらいたい
ものです。あっ、今、気がつきました。GGGのリーフレットのおもて面の{た」の字の横に、
「ひとみ幼稚園之印」とあり、ふみおの署名が読みとれるところを見ると、ひょっとして?


 
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