活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

「大学東校官版」という名の書物

2011-04-30 12:42:00 | 活版印刷のふるさと紀行
 島 霞谷の活字を使って大学東校で教科書として印刷された書物が
「大学東校官版」とか「東校活版書目」と呼ばれていますが、結構、
多数出版されております。 
 ところで、私がいつも感心するのは、この時代の人は早世のくせに

掛けた仕事の幅が広いのです。本木も平野もそうでした。
島 霞谷も椿椿山について絵を学んだかと思うと、蕃書調所ができる
と即刻そこへ飛び込んで翻訳業務に打ち込みます。24歳のときです
から、若くしてイッパシ翻訳が出来る語学力をどこでしこんだのでし
ょうか。

 そうかと思うと外国人に写真術を習い、江戸下谷で写真館を興しま
す。そして死ぬ1年前、明治2年にいまの東京大学の前身、大学東校
の書記官となります。
 これが彼をして「活字づくり」に巻き込んだきっかけになったわけ
ですが、彼は学生の教科書を活版印刷で刊行させたいと思ったのです。
しかもわずかな時間に父型や母型の材料を吟味し、鉛との合金でも実
験を重ねています。

 島 霞谷というとかならず『化学訓蒙』や『虎烈刺論』など大学
東官版の活字本が引き合いに出されます。どちらも大学東校の石黒忠
悳(ただのり)の訳著です。ただ、島も早世でしたので、これらが印
刷され本になったものを目にはできないでしまいました。
 霞谷と石黒とのつながりは大学東校の結びつきだけなのか、翻訳と
か画業を通じてもあったのかわかりませんが、この石黒忠悳も大変な
男です。もっとも96歳という長寿でしたから早世組と比較は出来ま
せんが、森鴎外の上司で軍医総監をつとめましたが、子爵で、日赤の
理事長ですとか数々の要職にあった人です。

 
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島 霞谷の活字づくり

2011-04-29 17:07:32 | 活版印刷のふるさと紀行
島 霞谷(しま かこく1827~1870)この名前をご存知でしょうか。
本木昌造や木村嘉平の名前は知っていても知らないという人が意外に多いので
す。その理由はご本人が画家であり、写真家であり、しかも活字を開発したと
いう多方面で活躍した人であったこと、女流写真家第1号島 隆(りゅう)さ
んが奥さんで有名だったことであったかも知れません。
 男たるもの、あまりあちこち手を出すな、有能な奥さんを持つな。というこ
とでしょうか。

 冗談はともかく、本木や木村嘉平と島との違いは、島は金属ではなく、父型
や母型に木を使ったことです。
 彼が活字製造に成功したのは1870年(明治3)ですから、奇しくも本木
昌造が鋳造活字をつくって「新町活版所」をスタートさせた年と重なっていま
す。霞谷のやり方はこうでした。かわやなぎやドロヤナギのような柳材の小口
に黄楊材に彫った種字を金づちで打ち込んだパンチ母型に鉛、アンチモン合金
を流し込むという方法で三号大の楷書体漢字、カタカナ、欧文の活字をつくっ
たのです。

 島活字は印刷博物館に現存しているし、これからさらに研究が進むものと期
待されるが、彼にとって残念なことは彼のつくった活字で『虎烈刺論』などの
刊行を待たずに亡くなってしまったことです。
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企画展『空海からのおくりもの』の図録

2011-04-27 13:43:16 | 活版印刷のふるさと紀行
 印刷博物館の『空海からのおくりもの』の高野版紹介のところに
おもしろい試みがされていました。
 無地のカード状の紙が置いてあって、その何枚かを説明に従って
半分に折って重ね揃え、折り目の外側にそばにある糊をつけて、
『粘葉装』という高野版独自の製本のしかたを入館者が実際に理解
できるようにしてありました。

 高野紙をつかった高野版には、装丁スタイルとして巻子や折本と
並んで、この『粘葉装』があります。解説によりますと、中国から
来た「胡蝶装」という製本様式を日本風にアレンジしたものだそう
です。いわゆる袋とじとは違いますし、私は『粘葉装』という製本
用語を知りませんでしたので驚きました。

 と、これまでは、前置きでして、『空海からのおくりもの』の図
録が糸かがりこそしてありますがこの粘葉装を模してあってノドま
でページが開けて、実に見やすいのです。もっとも背文字はプラス
チックのブックケースの方に処理されています。

 また、真っ黒の表表紙、裏表紙には高野版の経本の文字が箔押し
されていて見返しには神秘的な高野山のカラー写真、まさに、造本
装丁コンクールもので見事な造本です。思わず樺山館長に「どな
たの造本アイデァですか」とうかがったほどです。
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金文字と銀文字が交互の一切経

2011-04-24 16:49:41 | 活版印刷のふるさと紀行
印刷博物館の『空海からのおくりもの』展で思わず釘づけになった
展示物は多いのですが、これはそのひとつ。
 「紺紙金銀字一切経」です。「大丈夫論巻下」とあります。
 装飾経というのだそうですが、まず、美しさに注目しました。

 紺色に色付けされた料紙に銀色の罫線が引かれていて、その罫と罫の
間に1行17字詰めで、金と銀の文字が行ごとに交互に書写されていて
見るからに惹きこまれる華麗さです。
 写真右側には釈迦如来を中央にした説法風景の版画がこれまた、見事
に表現されています。

 この一切経には語り伝えられているストリーがあるそうです。もと
もと奥州平泉の中尊寺の経蔵にあったというのです。藤原初代の清衡
(きよひら1056~1128)が中尊寺建立のとき願いがかなうように納めた
もので、豊臣軍の奥州攻めのとき豊臣英次が持ち出して高野山に寄進し
たとされています。
 もっとも、現在、中尊寺に15巻、高野山に4296館あるそうですが
「国宝」です。
 
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お山を下りた「高野山の書庫」

2011-04-24 13:50:41 | 活版印刷のふるさと紀行
 印刷博物館で「空海からのおくりもの」━高野山の書庫の扉をひらく━
と題した待望の企画展が昨日4月23日から始まりました。
 高野山秘蔵の仏像や仏具などは山を下りて公開される機会はありましたが
日本中世の書物や版画、版木などが山を下りたことはありません。

 そこで印刷博物館の樺山紘一館長は「高野山の書庫」がはじめてお山を下
りました。ぜひ、弘法大師空海が唐から日本に招来した仏教印刷物を通して
日本の古印刷文化を観てほしいと胸を張っておられました。

 秘宝79点(国宝2点、重要文化財31点を含む)が第1部「それは山の
正倉院だった」第2部「甦る文字と日本語」第3部「描かれた空海」第4部
「遺産を忘れない」の4部構成で展覧されていますが、圧巻です。

 かつて神田川大曲塾の印刷文化史研修で高野山霊宝館を訪ね、館長から高
野版について講義を受け、勉強したことがありますが、今回の企画展では
「宋版一切経」、「高麗版一切経」のような渡来印刷物に始まって、高野山
で開版された版木や版画、刷りものを通じて、日本の印刷文化の根源に触れ
ることができます。7月28日までですから、休日にゆっくりご覧になるか、
2度、3度足を運ばれてはいかがでしょう。


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「活版印刷」に目をつけたのは武士

2011-04-22 10:44:58 | 活版印刷のふるさと紀行
 大阪四天王寺にある本木昌造の銅像を見ますと腰に大小を差しています。
これは昭和60年に復元されたもので、明治30年につくられた最初の銅像
は第2次大戦中に金属供出されてしまったのだといいます。
 どうやら陣笠、狩り袴のスタイルは初代の銅像も同じだったようです。

 ご承知のように本木は実父も養父も代々幕府に召し抱えられていたオラ
ンダ通詞でしたから彼も大小を差す士分でありました。
 前回の市川兼恭は松平越前守の藩士でしたし、彼の部下でのちに活字御用
出役というイカメシイ役職についた榊令輔は藤堂和泉守の藩士でした。

 本木は通詞という職掌がらオランダの印刷機や鋳造活字に早く触れる機会
がありましたし、案外、早い時期にオランダの鋳造活字が日本に持ち込まれた
こともあって幕府の蕃書調所の活字方や活字掛の武士たちが「活版印刷」に
目をつけたのは当然かもしれません。

 明治になってからの秀英舎も武士あがりの人たちで起業されております。
私が『活版印刷紀行』で紹介しましたが、サムライ出身が多かったので明治
初年の印刷業者は結構、店でふんぞり返っていて、出来たての諸官庁から
官員さんが二頭立ての馬車か人力車で「印刷をお頼み申しあげたい」と依頼
に来たといいます。
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活字はオランダからの輸入活字で

2011-04-21 09:48:05 | 活版印刷のふるさと紀行
 ご当人市川兼恭が≪日本で活版の始め≫と自認した割には印刷史の上では
影が薄いのですが、『レース・ブック』の方は有名です。「オランダわたりの
欧文活字と印刷工具を使ってオランダ語教科書を印刷しただけじゃないか」
と、市川は本木昌造に比べて軽く見られて来たのでしょうか。

 そうはいっても彼は蘭書を読み漁って「活版印刷」を勉強したのでしょうが、
輸入活字では足りない欧文活字を自力で鋳造しているからエライのです。
しかも、それは軟鋼に欧文字を彫り、焼き入れをして父型にして、それを鋼材
に打ち込んでパンチ母型にするというまことに当を得たものだったのです。

 彼には2人の有能な助っ人がいました。
ひとりが時計職人だった山本勘右衛門で活字の鋳造は彼の力に負うところが
大きかったと思われれます。もう一人は榊礼助(令輔)といい、のちに
蕃書調所内の「活字方」を采配するまでのぼりつめました。

 安政から文久に入ると幕府も「活版」の重要性に目をつけ、「蕃書調所」か
ら「洋書調所」そして「開成所」と役所名を変え、英文の辞書をはじめ、印刷
・出版に力を注ぐようになります。

 1858年(安政5)の『レース・ブック』を皮切りに、『ファミリー・メソード』
1861(文久元)・『英和対訳袖珍辞書』1862(文久2)・『英吉利文典』1862
(文久2)・『英吉利単語篇』1866(慶応2)など、続々と世に出ましたが、
欧文はオランダからの輸入活字、印刷機はスタンホープ、写真の『英和対訳
袖珍辞書』の日本文字は整版によるものです。
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市川兼恭の『レース・ブック』

2011-04-20 08:15:07 | 活版印刷のふるさと紀行



「昌造は、明治八年、五十二歳にて死せしが、活版印刷業の、今日のごとき
盛況におもむけるは、ひとえに昌造の力なればとて、同三十年、活版印刷業者、
あい計りて、大阪にその銅像を建てたり」
 この句読点のバカ多い文章は1910年文部省刊の『高等小学読本七』掲載
の「わが国の活版印刷業の起原」の一部です。

 このような形で教科書で称賛されたせいもあってか本木昌造だけにスポット
ライトが当たってしまいましたが、明治維新前後に「活版印刷」にチャレンジ
した人はたくさんいました。前々回の木村嘉平についで紹介したいのは、蕃書
調所の市川兼恭(かねやす)です。斎宮(いっき)ともいいました。

 蕃書調所というのは洋学の研究所で、所長の古賀謹一郎から「欧文の原書の
印刷を試行してほしい」と依頼されたのが、この市川兼恭で、1857年(安
政4)のことでした。

 ここで興味深いのは市川兼恭は幕府の倉庫に眠っていた1849年(嘉永2)
にオランダ政府から将軍家慶に贈られたスタンホープ型手引活版印刷機と欧文
活字や印刷工具に目をつけたことです。さらに、古賀の紹介で時計職人の山本
勘右衛門の助けを借りて「蘭字活字板」に取り組んだことです。

 その成果が『レース・ブック』で、兼恭は「経歴談」で、
≪私が研究して始めて活版で小さなブックを拵えましたが、是が日本で活版の
始めです≫と胸を張っています。

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430年前の古書と天正遣欧少年使節の話

2011-04-18 11:35:30 | 活版印刷のふるさと紀行
 3回ほど前に神田川大曲塾の講演会として小佐々 学さんの『中浦ジュリアンと
私』をご案内したところ、当日、会場の印刷博物館に足を運んで下さった方がいら
っしゃったのは感激でした。ありがとうございました。

 小佐々さんのお話の中で、中浦ジュリアンたち天正遣欧少年使節ゆかりの
古書が紹介されました。どういう「ゆかり」なのかといいますと、スペイン
の南東部に「ムルシア」という市があります。420年前、ローマへ行く途
中、使節たちはこの町に1ヶ月ほど滞在したのですが、そのとき、彼らが恐
らく自習に使ったであろう本だということでした。

 小佐々さんに寄贈されたこの本はイエズス会聖エステバン学院の図書館に
保存されていたもので、ラテン語の書名を日本語に直すと『旧約・新約聖書
語彙辞典』というタイトルになるでしょうか。
 1581年アントワープのプランタン印刷所で印刷されたもので、彼らが手に
したのが1585年ですから発行4年後になる勘定です。
 新・旧いずれでも聖書に出てくることばなら容易に索引できるわけですか
ら滞在中にジュリアンたちが利用したことは十分想像できます。

 それにしても「さぞかし組版が大変だったろう」と思われる本で、ラテン
語の単一のタイプフェースがびっしりと整然と並んでいる紙面と膨大なペー
ジ数には思わず目を奪われました。グーテンベルクの活版印刷の発明から120
年後に、これほど精緻な印刷が出来たのかと驚いたしだいです。写真は講演
する小佐々 学さん。



 
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木村嘉平の電胎法による活字作り

2011-04-14 10:09:17 | 活版印刷のふるさと紀行
鉛活字の製作依頼を受ける前から木村嘉平は島津斉彬から木活字本の字彫りの
御用を受けていました。
 その三代目嘉平の腕を見込んで「これからは洋式活版術でなくては再版のとき
に困る、ぜひ、そちに頼みたい」と斉彬が開発依頼をしたのです。

 そのとき斉彬が「これを参考にせよ」と手渡したのがリンドレー・マレイの
『英文典』のオランダ語版だったといいます。木活字で字彫りには通暁している
ものの金属で横文字とあっては字母づくりがそんなに簡単にいくものではありま
せん。

 たまたま、嘉平は三田の薩摩屋敷で知り合ったオランダ人から電気学を半年ほ
ど学んで電気分解による電胎法の字母製作をモノにしたといいます。
 本木昌造が米国人W・ガンブルに電胎法を学んで活字製作につなげたことに通
じる話です。

 嘉平が活字を完成させたのは1864年(元治元年)といいますから、本木の
金属活字の開発よりも5年ほど早かったことになります。
しかし、斉彬は完成を見ることなく急逝しましたし、当の嘉平も眼を患い、自作
の活字で出版を手掛けることができずにしまい、事業を長男に譲り、明治19年に
亡くなっています。

 斉彬がもうちょっと生きていて、嘉平が眼を悪くしなければ、嘉平活字の出版物
安政年代に世に出ていて彼の名前がもう少し印刷史上大きく扱われた思われます。
 事実、同じころ長崎の活字判摺立所やオランダ印刷所でオランダから輸入した
活字や印刷機を使って出版事業がスタートしようとしていました。
 ただ、嘉平の活字や印刷工具は明治の大火でかなり焼失しましたが、鹿児島市の
尚古集成館で一部を見ることができるのは幸せです。


 
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