活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

日本の印刷元年はいつでしょうか 2

2011-05-31 22:25:12 | 活版印刷のふるさと紀行
 私は仲間うちで日本の印刷元年は1872年、明治5年だったと主張して
来ました。ところが、残念ながら、「そうだとも」と賛成してくれる人は
めったにいないのです。

 本木昌造や木村嘉平や大鳥圭介、島霞谷など活字製造に取り組んだ人たち
の名前が出てくるのはもちろんですが、意外に有力なのが以前の大蔵省印刷
局、現在の独立行政法人国立印刷局の開局年を挙げる人が結構いるのです。
 長崎で本木と一緒にガンブルの印刷指導を受けた何人かが東京赤坂溜池に
新設された工部省勧工寮活字局に入局して活躍し始めたのがその前年、明治
4年でした。これは「お役所ですぞ」

 活字局は製作局、印刷局、活版局などと名を変え、所属省を移しながら
なんとか現在までつながっているといえばそうかもしれませんが、「印刷元
年」というからには、印刷技術が企業形態をととのえて、「印刷所」として
起業され、ビジネスとして続くのを条件とすべきではないでしょうか。

 早い話、印刷が商売として成り立つようになった年と考えたいのです。
だから、お役所は抜きにして、平野富二贔屓の私は、彼が本木昌造の懇望を
受けて長崎の新塾活版製造所を預かり、神田に平野活版所をオープンした
年、明治5年を印刷元年としたいのです。

 ま、どちらでもいいですし、たいしたことではありませんが、私は タイ
ムスリップできるものなら、明治4,5年は面白いし、ぜひ、新しいものが
始まる時代の空気を吸ってみたいと思います。維新から4年目、明治4年は
廃藩置県が断行され、郵便制度が始まり、街行く人もチョンマゲからザンギ
リ頭へと変わり、岩倉使節団が欧米に向った年でもありました。さらに、明
治5年は「学制」の公布、新橋・横浜間の鉄道開通の年でもありました。




 
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日本の印刷元年はいつでしょうか 1

2011-05-30 11:36:18 | 活版印刷のふるさと紀行
 一昨年でしたか、テレビの劇映画部門で賞を総ナメにしたのが『JIN
~仁~』でした。
 脳外科医の南方 仁(大沢たかお)が江戸時代にタイムスリップして、
坂本龍馬(内野聖陽)や武家の娘や吉原の花魁などと奇想天外なストリーを
展開するドラマでした。好評で続編、完結編と続き、昨晩、完結編の第7話
が放送されたばかりです。

 その『JIN』を見ながら考えたのですが、「印刷」を幕末や明治にタイ
ムスリップして見たらどうであろうかと。さぞかし、もどかしい思いで見る
ことになりそうですね。しかし、結構、ドラマチックな筋書きができるかも
しれません。たとえば、本木昌造がペリー来航、日米和親条約で通訳をつと
めていたり、平野富二が坂本龍馬の乗る船の機関士をつとめていたり、幕末
の印刷人登場のシーンはJIN以上、ドキュメント仕立てでも展開できそう
うです。

 さて、幕末から明治にかけて日本の印刷界の草創期にはいろいろなドラマ
が展開されましたが、どの時点をもって「日本の印刷元年」とすべきだろうかと、
ふと、考えてしまいました。
 コンスタンチノ・ドラードの追っかけの私としましては、天正19年(1591)
島原、加津佐で彼らの手によって『サントスの御作業の内抜書き』を印刷した年
としたいのですが、それはちょっと違うと思わざるを得ません。
キリシタン版の印刷はたしかにグーテンベルク直系の活版印刷ではありましたが
アトがつづいていないからです。


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神田川大曲塾の研究会「欧文印刷」

2011-05-26 16:03:22 | 活版印刷のふるさと紀行
嘉瑞工房の高岡重蔵・昌生さん父子のご紹介を2回にわたっていたし
ましたが、おかげさまでそのお二人を神田川大曲塾の6月研究会の講師
としてお招きできることになりました。
 身近かでありながら私たちは欧文活字や組版について和文ほど詳しく
ないような気がいたしますが、あなたはいかがでしょうか。塾生以外の
ゲスト聴講も歓迎いいたしますので、ぜひ、ご参加ください。

 印刷懇話会 神田川大曲塾第24回印刷文化研究会

・テーマ  『これだけは知りたい欧文印刷の話』

・講 師  高岡重蔵氏(嘉瑞工房相談役・英国王立芸術協会フェロー)

       ・井上嘉瑞さんと私 ・戦中・戦後、日本の欧文印刷
       ・欧文活字と活字組版の美しさ

      高岡昌生氏(嘉瑞工房社長・武蔵野芸術大学講師・ドイツ
      ライプチヒ市印刷技術振興会会員)
       
       ・欧文組版の基礎とマナー ・活版組版とコンピュター
        組版 ・日本人がやってしまうおかしな欧文印刷

・日  時   2011年6月18日(土)16:00~18:00


・場  所  印刷博物館 グーテンベルクルーム
       文京区水道1-3-1 トッパン小石川ビル

研究会終了後、講師を囲んで懇親パーティがありますが、それにご参加
いただく場合は2000円を頂戴しますが、聴講のみの場合は無料。

欧文活字や欧文組版に直接携わっている方はもちろん、欧文のカタログ、
アニュアルレポート・パンフレットのレイアウトやデザインを手掛けて
おられる方、展示会・展覧会の欧文ネームや欧文解説文プレートをデザ
インされる方、グラフィックデザインやエディトリアルデザインなどを
勉強中の学生さんに聴講をおすすめいたします。欧文組版やデザインで
「これだけはやってはいけないこと」を学ぶチャンスです。
 
参加申し込みは
 メール:k-yoshida@fine.ocn.ne.jp


tel:090-5765-4125 あるいは 070-5596-5888


      
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日本人がやってしまうおかしな欧文組版

2011-05-24 15:33:14 | Weblog
 昨年、美術出版社から『欧文組版』━組版の基礎とマナー━という
タイポグラフィーの本が出ました。(写真)
この著者が「嘉瑞工房」の社長の高岡昌生さんです。

 私たちは美術出版社と聞くと『美術手帖』や『みづえ』のような
雑誌やアート関係の本がおなじみですから、いささか毛色が変わって
いるなという印象を受けましたが、デザインのあらゆる分野に欧文組
版は関係するわけですし、内容を拝見して発刊意図がズバリわかりま
した。

 高岡昌生さんは前述の高岡重蔵さんから欧文組版やタイポグラフィの
奥義を徹底的に叩き込まれ、かつての欧文活字による活版印刷と現在の
コンピュータ組版や組版ソフトに通じておられるだけに、思わず「そう
なのか、そうだったのか」と引きこまれてしまい、得難い思いの出来る
本です。

 神田川大曲塾では、研究会に来ていただいて、父上の重蔵さんには
ご自身の長い欧文印刷とのかかわり合いの中からのエピソードを、
ご子息昌生さんには、ネイティブではない私たちがともすると侵しがち
のおかしな欧文印刷の事例をあげながらわかりやすく正しいあり方を
教えていただく研究会にしいと考えた次第です。

 お恥ずかしい話ですが、私も欧文とはかなり付き合ってきたつもり
です。古くは大阪万博のときの英語版や仏語版にはじまって、
企業のアニュアルレポート、英文会社案内、海外向け商品カタログ、
PR誌、あるいは展覧会の説明ネームプレートなどなどです。
しかし、どうしても1にデザイン効果、レイアウト構成などヴィジアル、
2に記述内容の正確さ、翻訳の出来、不出来ばかりを見て、
高岡昌生さんが指摘される「日本人がやってしまうおかしな欧文組版」
のような視点に立つことがありませんでした。
次回、嘉瑞工房の高岡父子にご出講をお願いした研究会のご案内をする
ことにいたします。

  
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嘉瑞(かずい)工房をご存じですか

2011-05-23 11:40:05 | 活版印刷のふるさと紀行
 神田川大曲塾の吉田可重さんと二人で新宿の嘉瑞工房を訪ねて来ました。
用件は大曲塾研究会への出講の依頼ですが、そのことは、さておいて、
あなたは嘉瑞工房をご存知でしょうか。そして、井上嘉瑞(よしみつ)の
名前をお聞きになったことがあるでしょうか。

 面食らわないでください。前回までの幕末・明治から、話はいきなり
「昭和初期」に飛んでしまいましたが、まあ、お聞きください。
 
 井上嘉瑞という人は印刷人ではありません。日本郵船に長く勤務した海運人
です。しかし、子どもの時からの活字マニアで、ロンドン勤務時代に趣味の
個人印刷所ともいうべき「嘉瑞工房」をつくりました。戦前の話です。

 ロンドンから帰国後、原宿で続けられた個人印刷所嘉瑞工房に井上に心酔して
入所したのが、写真の高岡重蔵さん、嘉瑞工房の2代目社長、現相談役です。
 戦中・戦後を通じて60年余、井上氏の遺志を継ぎ、井上氏を凌駕して、いまや
90歳にして矍鑠として欧文タイポグラフィの泰斗として活躍しておられるのは
日本の印刷界の誇りだと、私たちは思っております。

 そして、この嘉瑞工房の3代目が現社長の高岡昌生さんです。父、重蔵氏と
同じように英国王立芸術協会フェローで、武蔵野美術大学視覚伝達デザイン
学科で講師をつとめておられ、欧文活字と組版の権威です。

 長い金属欧文活字の時代とともに歩まれた高岡重蔵さんとコンピュタ組版主流
の渦中におられる昌生さん父子をお招きして、美しい欧文活字と私たちがぜひ
知っておきたい欧文組版のルールやマナーについて教えていただこうという
のを大曲塾研究会のテーマに考えたわけです。 この件、次回につづく。







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ウィリアム・ガンフルと日本

2011-05-19 10:16:58 | 活版印刷のふるさと紀行
 美華書館の印刷物はそのほとんどが「明朝体」で印刷されており
ました。当時、木版用として使われていた書体の中で、ダンゼン、
明朝が読みやすいという評判でしたから、そのまま、活版印刷の活
字書体にとりこまれたものと思います。写真は美華書館の活字販売
広告ですが、たしかに読みやすい「明朝体」です。


 同じ漢字使用国として活版印刷に心を寄せていた日本の出版・印
刷人が長崎在住のオランダ人を通して美華書館の噂を聞き、美華書
館に目を付けたのは当然といえましょう。幕末時点で、語学辞典の
印刷を海を越えて発注しているほどです。
 しかし、もっと積極的に、ウィリアム・ガンフルその人を掴まえ
る策に出たのが本木昌造でした。
 
ガンフルが中国から帰米すると聞くや、オランダ人フルベッキの
仲介で長崎に招いて1869年(明治2)11月から翌年3月まで
長崎の製鉄所付属の活版伝習所で本木昌造を中心に有志の人たちが
電胎母型の製作、活字鋳造法、活字の種類と企画、組版技術などの
活版印刷全般を彼から学んだのです。

 とくに活字の鋳造法で行き詰っていた本木にとってガンフルの講
義はそのまま血となり、肉となりました。ガンフルあってこそ、本
木が本格的な印刷所経営「新塾活版製造所」に乗り出せたのですし、
このとき、ガンフルに学んだ人たちが日本に活版印刷の曙をもたら
したのですから、まさに“ガンフルさま、さま”であったのです。

 これは蛇足ですが、ガンフルの4ヶ月間の報酬額はわかっていま
せん。それ以後の“お雇い外国人”ほどの高給ではなかった?
 
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美華書館とウィリアム・ガンブル

2011-05-18 15:56:24 | 活版印刷のふるさと紀行
 マカオでもう一つ連想させられたのが、「美華書館」です。美華書館と
いうと「上海の」という枕ことばが付いて回りますが、実は1844年に
マカオで開設されたアメリカ長老会派印刷所がもとになっています。

 つまり、アメリカが出版と印刷を通じて中国にキリスト教を広めようと
いう目的でつくったのでミッションプレスなどとも呼ばれていました。
写真の社屋は上海で盛業をきわめたころのですが、マカオの時代、次に、
寧波(ニンボー)に移転して花華聖経書房と称していた時代も粗末な社屋
だったようです。

 この美華書館に日本の活版印刷はおおいにお世話になっております。幕
末から明治にかけて、まだ、日本では活字も印刷もままならない時代に辞
典類などの印刷を委託していたからです。美華書館として上海に移転した
のが1860年でした。

 さて、本木昌造を調べていますと、必ず最初に目に飛び込んで来るのが
この美華書館という社名と「ウィリアム・ガンブル」という名前です。
 そのことは次回にふれることにしてガンブルは1858年に5代目館長
として美華書館に着任したのですが、前歴がペリー来航のときの艦隊通訳
官とは。中国語や日本語に通じていたようです。

 美華書館は中国人に伝道するための漢訳聖書や布教用の印刷物を大量に
印刷する会社でしたからガンフルは館長として経営にタッチするかたわら
印刷担当宣教師としての役割をはたしていたのです。

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マカオの印刷機の話

2011-05-17 10:27:12 | 活版印刷のふるさと紀行
 名古屋に行ってきました。「のぞみ」だと東京から2時間たらず
ですから近郊に行くのと変わりありませんが、やっぱり、旅行気分
になるから不思議です。

 その車中でマカオから来たというご夫妻と知り合いました。
 「日本は放射線で危ない、日本人の妻になっている娘と孫をマカオ
に連れて帰るための来日」ということでした。

 マカオといえば、私はすぐ、ここに眠っているヴァリニャーノや原
マルチノやコンスタンチノ・ドラードなどキリシタン版がらみの人たち
を思い浮かべてしまいます。そこで、車中のご夫妻にも「澳門博物館」
で見た日本で最初の鉛活字を使って活版印刷でキリシタン版を印刷し
た「印刷機」を見て感激した話をしてしまいました。

 「グーテンベルク可動式タイプを採用した東洋初の印刷機はイエズス
会の神父アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(ローマを訪れた少年使節団
を日本に連れて帰って来た神父)によって16世紀末にマカオにもたら
されました。この印刷機は当時日本に運ばれるためのものでしたが、
1588年から1590年までここマカオにあって多くの書籍を印刷し
ていました…」

 その印刷機はレプリカですが良くできていて、こんな説明文が付されて
おりました。ドラードたちがマカオ滞在中に印刷したのは『キリスト教
師弟の教育』と『遣欧使節対話録』が知られております。
写真は自著『活版印刷紀行』(印刷学会出版部)より
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フランス生まれの字母の謎

2011-05-12 13:02:12 | 活版印刷のふるさと紀行
清水卯三郎は自身で「印刷」に関係していなかったのに、どうして
パリで平仮名の字母をつくらせて持ち帰ったのでしょうか。
 それも日本を発つときに、活字の版下を用意して行ったといいます
から計画的だったわけです。

 清水に頼まれていろは四十八文字の版下を書いた人はわかっています。
≪瑞穂屋卯三郎氏仏国の博覧会より脚踏機械及び平仮名の活字を買求め
て帰朝したるか、其の字母は小説の版下に有名なりし宮城玄魚といふ者
に書かせて持ち行きしなり≫     (岸田吟香『明治事物起源』)

 では、フランスから持ち帰った字母をどうしたのかという疑問にぶつ
かります。
 この字母からパンチ母型をおこして、活字をつくり、明治五年発行
の『東京仮名書き新聞』を印刷したという説があったり、字母どまりで
活字はつくられていない説もあります。

 いずれにしろ、いまのところ清水の字母からの活字や使用例は発見さ
れていないのが事実です。然し、清水は帰朝後、積極的に輸入印刷機
を使った新聞発行に協力したり、出版にもてを出しています。自分が
印刷人ではなかったので思うに任せない部分があったでしょうし、彼が
目先のきく商人としての感覚で「印刷」に向かい合ったのではないでし
ょうか。

 ここからは私の想像ですが、清水卯三郎は幕府から金を引き出して、
博覧会で外人受けする出品物の選択で、福澤諭吉や中浜万次郎、前島
密らに相談したと思います。恐らく、その中で「これからは活版印刷
だ、金属活字だ」というような意見が出て、彼に字母づくりの知恵を
授けた人がいたと。多分、中浜万次郎だと私は想像しております。





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パリ万博と清水卯三郎

2011-05-11 11:27:44 | 活版印刷のふるさと紀行
幕末から明治にかけて印刷文化史に登場させたい人物の中で清水卯三郎
ほど型破りで面白く、謎だらけの人物はおりません。
 
 1867年、慶応3年にパリで開かれた万博に日本ははじめて参加した
のですが、江戸幕府と薩摩藩と佐賀藩の3者が別々に、「日本」として
参加したこと、日本館で茶菓の接待をした3人の柳橋の芸妓のあでやかな
着物姿としとやかな風情、屏風、ちょうちん、陣羽織など、日本の出品物
がかもしだす異国情緒がパリっ子に「ジャポニズム・ブーム」をもたらし
たことでいまも語りつがれております。その舞台裏で清水卯三郎が大活躍
したのです。

 彼は幕府発行のパスポート50号を携帯して渡仏したのですが、「活版
印刷機械、石版機械、陶器着色法、鉱物標本、西洋花火等」を持ち帰ったと、
雑誌『もしほ草』にあるように、印刷機械に目をつけた点で注目したい人物
です。武士でも役人でもない一介の商人だった彼が後述しますが、フランス
で平仮名の字母をつくらせて持ち帰った話もあります。

 清水卯三郎がどうしてパリ万博に行ったのか、私の調べたところによると、
幕府の使節団の団長、徳川慶喜の弟、昭武の随行、渋沢栄一のおつきとして
行ったという説、もうひとつは彼自身がパリ万博参加を熱望して、日本の調
味料醤油、酒や茶などの飲み物、刀剣、弓矢、火縄銃などの武具、化粧道具
屏風、人形、提灯などの工芸品まで出品物を蒐集してプロデューサーとして
幕府のお墨付きをもらって出かけたという説です。

 もちろんプロデューサー役が本当で、上記の芸者を送り込むプランも彼が
たてたもので、ナポレオンⅢ世から銀メダルをもらっています。当時、38
歳でしたが、卯三郎は現在の羽生市の酒造業の三男坊、横浜や江戸で商人と
して活躍し、パリから帰国後「瑞穂屋商店」を開業したので、瑞穂屋清水卯
三郎と屋号付きで紹介している本が多いようです。



 

 
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