活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

ヨーロッパで速報された天正遣欧使節の動静

2011-06-30 18:51:12 | 活版印刷のふるさと紀行
 きょう、小佐々学さんが名誉団長として7月末に成田を出発する『天正遣欧
少年使節の足跡を訪ねる旅』もいよいよ現地との細かい打ち合わせが最終段階
にさしかかっていると電話がありました。

 このツアーのハイライト、ローマ法王との謁見も具体化したようです。
 天正少年使節がグレゴリオ13世に謁見を賜ったのは1585年3月23日
でしたから、なんと426年目に当たります。教皇グレゴリオ13世はその日
から3週間も経たない4月10日に逝去されてしまったのですが、そのわずか
な間に、使節たちはとても考えられないような厚遇を受けたのです。

 以前にも、このブログでとりあげましたが教皇の厚遇がたちまち、ヨーロッ
パ中に伝わり、使節がまだ、滞在中に彼らが立ち寄ったイタリアのフィレンツ
ェ・ボロニア・ヴェネッツアなどの諸都市で彼らの動静を伝える小冊子が次々
に刊行されたのも驚きです。
 イタリアだけではありません。フランスでもドイツでもオーストリアやベル
ギーでもその翻訳本がおびただしい数で出されております。さすがにグーテン
ベルクの活版印刷術発明から140年近く経っていましたから、ヨーロッパの
国々ならどこでも容易に翻訳・印刷・出版出来たのでしょう。

 岡本良知さんが『キリシタンの時代』(八木書店)で「天正使節評判記の一
珍本」として1585年、つまり、使節がローマ法王の謁見を受けた年に、北
イタリアのレッジオという町でエルコリアノ・バルトーリという人が出版した
『天正遣欧使節記』について書いておられます。

 私が属している神田川大曲塾という印刷文化史の研究サークルにも少年使節
に関心を寄せる人が多いのですが、その中のひとり、豫家さんが、先日、《東
京大学日本史学研究室紀要の第13号》に『ウルバーノ・モンテ年代記』にみ
る天正遣欧使節と織豊期の日本》の存在を教えてくださいました。明日にも国
会図書館にでも行って来ようかと思います。


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本は、これから

2011-06-28 16:54:03 | 活版印刷のふるさと紀行
 『本は、これから』、池澤夏樹さんが編まれた岩波新書の書名です。
2010年11月19日第1刷発行とありますから、まだ、新しい本です。
 
 私は書店では平台に積んであるベストセラーよりも版元別の親書コーナーを見て
回るのが好きです。
 新書の棚で予期しなかったタイトルにぶっかったり、この本の場合のように最近、
自分自身が興味を持っている内容のタイトルにぶつかる楽しみがあるからです。

 さて、この本ですが、グーテンベルクの活版印刷術の発明から5世紀、Kindleだ
とかipadだとか電子端末が次々に発売されるようになって、はたして本はこれから
どうなるか?これに37人の人が意見を述べています。表紙カバーの折り返しに、
《書店・古書店・図書館・取次・装丁・編集、そして練達の書き手・読み手の位置
から、鋭いアンテナの持ち主たちが応える》とありました。


 さすがにみなさん、ある人は慎重に、ある人は象徴的に、ある人は軽妙に、そし
てほとんどの人が体験的に実感をこめて書いておられるので興味深く読みました。
 みなさんに読んでいただきたいので、あえて多くは紹介しませんが、現段階では
紙の本に軍配を上げている人が多いようです。
 資生堂の名誉会長福原さんの「紙の本に囲まれて」に思わずニヤリとしましたし、
どなたでしたか電子本は「いま、どの辺を読んでいるかわからない」という難があ
ると指摘されていました。たしかに、紙の本の場合、読み終わったページの厚み、
残っているページの厚みを指先の触感で無意識で確かめながら読み進む癖は私にも
あります。

 ただ、37人の方のなかで「印刷」や「印刷技術」に触れた方は上野千鶴子さん、
桂川 潤さん、五味太郎さん、外岡秀俊さんと、少人数だったことと、印刷界から
『本はこれから』に選ばれた人がいないのは残念でした。
 なお、かくいう私もipad2購入に踏み切りましたし、著書の1冊を電子版にする
契約をしたところです。
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散歩途中の「相生橋」

2011-06-26 10:54:55 | Weblog
 日曜日ですから散歩の話のつづきです。
 前回の海洋大学の「明治丸」の前を通り過ぎると相生橋です。いま、
お化粧直しの最中ですが、遠くからでもはっきり見えるホワイトの橋
桁の貴婦人調のたたずまいは悪くありません。

 ただ、この「相生橋」は、私には晴海運河に架かっていると思える
のですが、隅田川18橋の一つで、上流に中央大橋、下流に勝鬨橋と 
説明されるので、いまだに解せないままでいます。

 橋の東側が越中島、西側が佃ですので、私は東から西へ渡っていく
わけです。橋の下に「中の島公園」という水上公園があります。
階段を下りていくと水面すれすれ、場合によっては通路まで浸水して
いることがあるので、モノ好きにもいつも下りてみるのです。
 この橋のできるまでは佃の渡し、月島の渡しが利用されていました。
中の島は文字通り、ポツンと中央に浮かんでいたのでしょう。

 橋を渡り終えて公園の中を右に辿ると石川島造船所の跡地の案内板が
あります。1853年(嘉永6)水戸藩主徳川斉昭がこの石川島に石
川島造船所をつくった『日本初の民営洋式造船所発祥の地』とあり、
『初の蒸気軍艦「千代田形」』の写真が示めされています。

 「明治丸」は1028トン、全長73メートル、幅9メートルでし
たが、「千代田形」は140トン、31.3メートル、4.5メート
ルとかわいいものですが、幕府軍艦として勝海舟や榎本武揚を乗せ、
箱館戦争にも出向いたはずです。

 この案内板の中に、平野富二が明治9年に民営造船所として再スタ
ートさせたとありましたが、水戸藩主徳川斉昭は幕府の命令でつくっ
たわけですから、私は平野を民営造船のトップランナーとして讃えた
いのですが如何なものでしょう。

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散歩途中の「明治丸」

2011-06-25 19:18:12 | 活版印刷のふるさと紀行
 私の散歩コースの一つに豊洲から越中島、そして佃コースがあります。
越中島には海洋大学の越中島校舎があり、そこに「明治丸」が展示されて
います。なかなか優美なスタイルの船で、いつも横目で眺めながら、相生
橋の方に向うのが常です。

 明治丸はまだ建造能力のなかった日本政府がイギリスに発注した船で
大活躍をしたあと、灯台の巡視船になったり、商船学校の練習船になっ
たりしたようです。
  
 実は今朝の新聞に小笠原諸島が世界遺産になったと報じられていまし
た。大震災以来の明るいニュースですが、実は日本は江戸時代にアメリ
カやロシア、イギリスなどを相手に小笠原諸島の領有問題でもめていま
した。

 明治新政府になって日本政府の調査団を小笠原に派遣することになり
団員を乗せて父島に向かったのが新造船「明治丸」だったようです。
明治7年に検収され、小笠原行きは明治8年ですからさだめし、ピカピ
カだったでしょう。

 そういえば、この明治丸、大学構内の露天展示ですから傷みが激しく
現在、修復費用の寄付を募っています。
 明治時代の印刷機とか活字鋳造機などを修復や磨きにだしたことがあ
りますがびっくりするほど費用がかかります。まして、大きな船です。
さぞかし、大変な額であろうと思いながら歩を進めた次第です。
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グラフィックトライアル2011を見る

2011-06-24 16:04:46 | 活版印刷のふるさと紀行
 毎年、晩春から盛夏にかけて印刷博物館のP&Pギャラリーで開催され
るのがグラフィックトライアルです。今年は大震災のせいもあって、5月
13日から8月7日と例年よりちょっと会期がずれたようです。

 印刷表現の新たな可能性に挑戦するトライアル、「実験」を祖父江慎・
佐藤可士和・名久井直子・山本剛久の4人のクリエーターかなり自由に
奔放に展開しておられます。

 なかで私がいちばん興味をおぼえた佐藤可士和さんの『基準の明確化』
をテーマにしたトライアルをここでは紹介しましょう。

 佐藤さんが求める「基準」とは、たとえば、印刷するときにインキをどれ
くらい盛るか、何回刷り重ねるか、その基準を意味しています。

 したがって展示されているトライアルはある意味では壮絶なものでした。
たとえば、「赤」を通常の濃度で100回まで刷り重ねたらどうなるか。
薄い濃度で11回までする重ねたらこうなる。それぞれ、チャートになって
いました。重ね刷りの指標づくりの実験です。

 インキの量を変えてシアン・マゼンタ・イエローなどを刷ったチャート
もありました。インキの盛り方を標準を真ん中に、超薄から限界ぎりぎりの
超超厚までの6段階からなっておりました。インキの盛りの指標づくりです。

 それ以外にも罫線や文字の印刷の限界やスクリーン線数の印刷検証、イン
キメーカーによる色の差を黒や金や銀でトライアルされていました。

 たしかに、いままで目にしたことのないチャートで興味をそそられまいたが、
実際の印刷の場合、コスト面から実用は不可能でありましょう。残念。
 “百聞一見に如かず”暑さしのぎ?にいかが。下の写真はグラフィックトラ
イアル2011のオープニングの一齣。

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天正遣欧少年使節の足跡を訪ねる旅 2

2011-06-20 09:42:17 | 活版印刷のふるさと紀行
 この旅の普通のツアーとの違いは「少年使節」の辿った跡をゆっくり
見て回り、ヴァチカンではローマ法王の謁見を受けられる予定がくみこ
まれていることです。簡単にスケジュールをご紹介します。

7月29日(金)13:15分発のアルタリア・イタリア航空でローマ
        経由ミラノへ              <ミラノ泊>
7月30日(土)ミラノ市内の観光後●マントヴァ公文図書館で少年使節
        からの感謝状など閲覧●ポリローネ修道院で「少年使節
        訪問記念碑」と対面●オリンピァ劇場で「少年使節歓迎
        記念壁画」を見てヴェネチュアへ  <ヴェネチュア泊>
7月31日(日)午前中ヴェネチュア市内観光●サルーテ教会付属神学校
        で「少年使節訪問記念石碑」●イモラ公文書館で「少年
        使節からの感謝状」●リモニで新発見の「少年使節訪問
        記念石碑」サンマリノに移動     <サンマリノ泊>
8月1日 (月)サンマリノ共和国表敬訪問 自由観光
        フィレンツェに移動        <フィレンツェ泊>
8月2日 (火)午前中フィレンツェ市内観光
        ●少年使節の泊ったヴェッキオ宮殿とウフィツイ美術館
        ●メディチ家関連の施設●日本殉教者教会で「長谷川路
        可画白の日本人26聖人殉教壁画」見学  <ローマ泊>
8月3日 (水)終日、ローマ市内観光
        ◆ローマ法王謁見(予定)●少年使節の宿泊先でありイ
        エズス会本部のジェズ教会で「長崎殉教図」・天井画
        ●少年使節がローマ法王グレゴリオ13世に謁見したバ
        チカンのサンピエトロ大聖堂でグレゴリオ13世像や
        「ピエタ」と対面◇シスト5世戴冠式に臨む馬上の少年
        使節の壁画               <ローマ泊>
8月4日 (木)15:10分発のアリタリア航空でローマから成田へ
8月5日 (金)10:20分成田着、通関後解散

 なお、旅行代金は1人46万円添乗員同行食事は朝6回、昼5回、夕5
回申し込み締め切り6月29日
問い合わせ・申し込み先 小佐々先生監修ツアー事務局(株)ワールド・
アビエーション・ネットワーク 担当中島・岡嵜(オカザキ)
 電話03-3544-4577(月~金9:30~18:30)


      




       

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天正遣欧少年使節の足跡を訪ねる旅 1

2011-06-19 11:40:20 | 活版印刷のふるさと紀行
これはコンスタンチノ・ドラードの顔です。天正遣欧少年使節に従者と
してローマに行き、ポルトガルのリスボンでグーテンベルク方式の活版印
刷術を習得して、1591年(天正19)日本に最初に活版印刷をもたら
した諫早生まれの日本人です。 
 
 伊東マンショをはじめ4人の使節の肖像こそ京都大学の図書館に所蔵さ
れていますが、従者ドラードはどんな顔をしていたか残念ながらわかりま
せん。この顔は私の『活版印刷人ドラードの生涯』の装丁のために、イラ
ストレーター杉浦範茂さんが描いてくれました。

 というより、この紫綬褒章受章のエライ人を私がなだめ、すかし、脅か
して描いてもらったというのが真相です。
 「マカオの修道院の院長だった晩年の顔にしてくれ」「混血説もあるく
らいだから、日本人離れした顔だ」「司祭だから神に近付いた雰囲気がほ
しい」今にして思えばいい気なものでした。 竹馬の友なればこそでし
た。

 宣伝めきますが7月にこの本の再版が印刷学会出版部から出ます。未読
の方にぜひ読んでいただきたいと思います。よろしくお願いします。


 さて、前回の神田川大曲塾の研究会で4人の使節の一人で最期には穴吊
りの刑で殉教した中浦ジュリアンの子孫として講師をつとめられた小佐々
学先生が団長として「天正遣欧少年使節団の足跡を訪ねる旅」イタリア8
日間が7月29日成田出発で催行されます。
次回、その旅の詳細をご紹介します。
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印刷文化史の切り口に

2011-06-17 15:01:46 | 活版印刷のふるさと紀行
 印刷文化について書いたり、話したりしていて、いまひとつ釈然としな
いことがあります。社会現象や人間の日常生活に密着している印刷であっ
てみると、「印刷の歩み」を歴史の本みたいに“時代”や“事象”によっ
て整理する方法だけでよいだろうかという疑問です。

 私たちにとって「印刷」はひじょうに身近かなもので、切り口を工夫す
ることによって、もっと生なましくて、いきいきした印刷文化史をまとめ
ることが出来るように思います。

 極端な例をあげましょう。
 たとえば、『美空ひばりと印刷』という切り口で考えるとします。
ひばりが「リンゴ追分」でしたか、注目を集めたのは昭和28年でした。
同じ年11月に平凡社から雑誌『平凡』が創刊され、またたくまに50年
代を代表する100万部雑誌になります。はたしてそのころの「印刷」は
どうだったでしょうか。

 ひばりのポスターはいわゆろ描き版でした。人工着色で総天然色?だっ
たのです。『平凡』の本文活字はオール写植ではありませんでした。
映画「リンゴ園の少女」のころになるとポスターはオフセットになります
が彼女の晩年「川の流れのように」の時代は、ポスターはレイアウトスキ
ャナ整版のバッチリしたものに、雑誌はぜんぶDTP誌面。
 つまり美空ひばりの活躍した40余年の間の印刷技術の変遷を辿ると、
戦後日本の印刷の歩みと世の中の動きがよくわかります。

 写真に『時事新報』を掲げましたが、『福澤諭吉と印刷』といった切り
口でも明治の活版印刷の揺籃期がよく理解できるのではないでしょうか。
『学問ノススメ』の初版は?『時事新報』の活字は?


 


 


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印刷図書館の個人会員になりました

2011-06-15 10:00:03 | 活版印刷のふるさと紀行
 個人情報の最たるものですが、今日、財団法人 印刷図書館個人会員証が
送られてきました。ちょっと、うれしい気分です。

 印刷図書館はずっと印刷関連の企業、団体など法人対象で、個人会員とい
うのはありませんでした。それが、こんど個人会員制度ができたという案内
がありましたので、さっそく応募させてもらったというわけです。

 印刷図書館は戦前からあったとばっかり思っておりましたが、創立は1947
年、昭和22年に矢野道也さんの提唱で生まれたといいます。初代の館長は
大日本印刷の川田久長さんでお二人とも印刷界の大先輩です。
 矢野さんは印刷局のエライ人で、証券印刷を印刷工学の立場から研究、確
立した人ですし、川田さんの方は『活版印刷史』で長年お世話になっており
ます。

 印刷図書館には私個人としましては、印刷会社勤めをしていたころ大変お
世話になりました。なんといっても印刷関連の調べごとには印刷博物館は宝
の山です。
 今度の制度のスタートで個人会員としてまた、足を運べるのは有難いし、
個人会員同士で「印刷の話でモリ上がれる場所ができた」のは非常に楽しみ
でもあります。

 印刷図書館は創設当時、銀座にありました。そのビルの同じ部屋が後年、
私の勤務場所であったというご縁もありますからなおさらです。

 図書館の場所は地下鉄有楽町線の「新富町」下車、徒歩5分の日本印刷会
館3階ですからアクセスは至便、あなたも会員になりませんか。そうそう、
会費は年間で5千円、さっそく払い込みに行かなくては。


 
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スローテンポだった書籍の活版化

2011-06-12 10:41:37 | 活版印刷のふるさと紀行
 江戸東京博物館に銀座煉瓦街のミニチュアがあります。よく出来た模型で
親切な学芸員が「これがパンの木村屋が最初にあったところです」などと
設明してくれます。

 明治5年の銀座の大火のあと、燃えない街づくりをめざしてつくられたの
ですが、やはり、実際に街づくりが完成したのは明治20年代になってから
で、皮肉なことに大正12年の関東大震災で姿を消したわけですから、かな
り短命だったといえます。

 しかし、日本の活版印刷の企業経営は明治5年の大火から銀座煉瓦街がで
きあがるころまでの十数年の間に徐々に形を整えたと見られますから,煉瓦
街の街づくりと印刷企業の企業化は時期的に重なると見てよいでしょう。

 活版印刷は新聞にはかなり新局面を開いたものの、書籍には急にとはいき
ませんでした。明治5年ごろの本はどうだったかといいますと、和紙に活版
刷りで袋とじ、いわゆる和装本が幅を利かしておりました。それよりもまだ、
木版でバレン刷りの和装本がかなり残っていたのが現実でした。

 身近な書物が洋紙に活版で刷られ、洋式の装丁に変わったのは、煉瓦街の
完成とほぼ同じ1887年、明治20年ごろだったようです。
 もっとも活版印刷工が東京府下で3600人程度(明治18年11月8日
朝野新聞)だったといいますから出版物の活版印刷化がスローテンポだった
ことが肯けます。

 川田久長さんの『活版印刷史』によれば、そのヨチヨチ歩きの揺籃期の日
本の活版印刷が1873年(明治6)ウイーンで開催された万国博覧会で
「進歩賞牌」を受けたとあります。前述の印刷のお役所工部省勧工寮活字局
から出品した活字版が授賞対象だったといいます。
 



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