活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

アーカイブもデジタル時代

2011-09-27 18:43:49 | 活版印刷のふるさと紀行
 兵馬俑を訪ねた時の写真を置いたのは直接、今日のブログの中身とは関係は
ありません。
 そうはいうものの、前回の「アーカイブとポスター」を読んだ友人からさっそく電話
をもらいました。
 「趣旨は賛成だが、デジタルアーカイブに触れてほしい」と。
 
 
 そういえば凸版印刷のアーカイブ部門で活躍している友人と親しくしていま
すし、大日本印刷で美術館のデジタルアーカイブに携わった人も知っています。
そこで、DNP125という冊子のアーカイブの項を見ましたら、兵馬俑の写真
が大きく出ていました。「えいっ、真似してやれ」。

 身も蓋もない話はこれくらいにしてデジタル技術の進歩・深化が映像・画像・
テキスト・音声あらゆる文化資産をデーターベース化するデジタルアーカイブ時代
を現出させています。
 それはそれで結構ですが、ポスターの場合、それでいいのでしょうか。
たしかに「永久保存」とはいかないまでも、現物のみが持つ印刷効果、質感、かもし
だす雰囲気も保存したいし、参考データとしての掲示環境のデータも添付資料として
保存すべきだと思います

 ところで兵馬俑はまだまだ発掘がこれからのところがあるようですし。お隣の
秦の始皇帝の墓地などの発掘に手を付けたらどうするのか、中国のアーカーブ構想も
知りたい気がします。
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印刷物のアーカイブ、とくにポスター

2011-09-26 10:54:37 | 活版印刷のふるさと紀行
 ここ3、4日ポスター漬けになっています。ちょっと調べごとが
あってのことですが、作業中、ふっとこんなことを考えました。

 前回の「印刷遺産」にも関連しますが、最近のように大学・印刷会社・
博物館などでポスターの蒐集、整理、保管が進んでいることは喜ばしい
ことです。「アーカイブ隆盛万歳」です。

 どこでも温湿度や照度などを考慮したキャビネットに慎重な保管をし
制作年月日、制作者名、印刷会社名、版式、色数などの記録カードが
つけられて万全を期しておられます。

 しかし、意外なことに、印刷部数とか配布場所や掲示データは添えられて
いません。はたして、ポスターの保存がこれでいいのでしょうか。

 私が今更いうまでもなく、印刷物の中でもとくにポスターは「掲示され
た時点の社会を映す鏡」のような性格を持っています。
 
 これから何十年も年月が経過してからそのポスターを見る人が、この
ポスターがどんな社会風俗の中でどんなところに貼られたのかがわかる
ようにしておくべきではないでしょうか。

 上のポスターはいまから100年前、1912年(大正元)秋の三越の
売り出しポスターです。二人とも胸にリボン喪章をつけています。
明治天皇崩御で9月13日にご大葬があったその時期です。
 
 ちょうど100年前ですが、私たちはもう、この時代がイメージ出来
ません。たとえば、三越周辺を歩く人はこのポスターのような呉服姿が
多かったのでしょうか。このポスターはどこに貼られたのでしょうか。

 これから収蔵されるポスターには、こういうデータが是非ほしいと
思います。
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世界遺産と「印刷」

2011-09-23 16:47:06 | 活版印刷のふるさと紀行
 きょうは世界遺産アカデミー主任研究員の目黒正武さんの『世界遺産からの
メッセージ』というセミナーに参加しました。
 今年、2011年には小笠原諸島と平泉が世界遺産に登録されたばかりです
からニュース性もあって聴衆も熱心でしたし、パワーポイントを駆使したレク
チュアが興味ぶかく充実した時間でした。

 「印刷の世界遺産」といえばベルギーのアントワープにあるプランタンで、
「モレトウスの家屋・工房・博物館」の複合体を1つにして2005年に世界
遺産として登録されているのが有名です。
 
 私がはじめてプランタンを訪ねたのは昭和60年でしたが、平成元年のユー
ロパリア89ジャパンのとき、アントワープで開催した「現代日本ポスター展」
の担当でしたから会期中に2度、3度プランタン博物館を観ることができました。
 その2,3年後にマドリッドで「ジャパンプリント」があったときも田中一光
さんをご案内した記憶があります。

 アントワープといえばヴェネツィア、パリ、リヨンと並んで出版業の拠点でし
たから、16世紀のクリストフ・プランタンの盛業は大変なものでした。
その当時の印刷機が並んでいる工房、印刷した稀覯本、そして家族の食堂まで当
時のまま保存されているのには驚きました。
 世界遺産に登録されたのは、それから10年近く経ってからですから遅きに失し
た感さえありました。

 私は世界遺産とまではいかなくとも、いまのうちに「日本の印刷遺産」を日本
印刷産業連合会あたりで設定してほしいと思います。


 
 
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太田 久さんの「イコンの世界」

2011-09-18 12:27:35 | 活版印刷のふるさと紀行

 国立新美術館の第75回新制作協会展に行ってきました。
今日は太田久さんのあたらしい「イコンの世界」に触れるのが目的ですから
2階会場の作品の前に直行しました。

 ありました。『レクイエム』と題する2点が並んでいました。
マリアと12使徒がイエスの死を悼み、見送る痛切なシーンです。
 
私が太田さんの紡ぐイエスの生涯のイコンの世界に心惹かれて何年になる
でしょうか。
 
 たぶん、彼は信徒ではないと思います。しかし、彼の作品に描き出されて
いるのは、凝縮され、透徹された祈りであり、救いへの願望であり、その前に
立つとこちらの心まで心地よく澄まされるような気がするのです。
 大袈裟にいいますと、私が『ドラードの生涯』や『千々石ミゲル』を書きな
がら、ときどき夢想した快い感覚に近いものがあります。

 日本画用の絵の具を油絵用に画伯自らの手でこねたという絵の具の質感が
ぎりぎりまで抑えた12使徒の悲しみを静謐な画面に不思議な安寧とひろがり
をあたえていました。まさに「レクイエム2011」です。
 
 吊るし、磔、降ろしの3部作から成った『受難』は2008年でしたでしょうか、
その前前年でしたかの『エルサレム入城』、昨年の『すくい、鎮魂』太田久さん
のイエスの生涯のイコンを一堂に集めての展覧会を観たいものです。
(写真は新制作協会第75会展ポストカードから)

 



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G8で『スマイル』を観ました

2011-09-15 09:47:12 | 活版印刷のふるさと紀行
 彼岸が近いというのに連日の猛暑です。秋の運動会の予行練習で熱中症にかかり
小学生や中学生がグラウンドから病院直行というニュースも納得できる暑さです。
 まあ、熱中症を用心しながら展覧会を観ようと銀座へ向かいました。


 クリエイションギャラリーG8で東京イラストレーターズ・ソサエティの展覧会
『スマイル』が本日の第一目標。
 東北大震災、福島原発事故など暗いムードの横溢している中で、この17回目の
テーマが「スマイル」とはうれしい。

 小品でも178人のイラストレーターの作品がずらりと並び、しかも、ほとんどの
作品に赤い売約済みのピンが添えられているのを見ると楽しくなります。
 お若い方からベテランまでスマイルをどのように受け止めているのか、作品横の小文
を読むことでさらに興趣をそそられました。

 個人的には新井苑子さんの唇のイラストが気に入りました。新井さんのマリリン
モンローの作品を思い出しました。


 つぎにGGGで第302回企画展工藤青石展「形と色と構造の感情」を観ました。
 資生堂をはじめとするこの人のパッケージデザインの比類のない美しいカタチは承知
しているものの、会場で対面するとまるでオブジェのようで感動を覚えました。


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藤沢周平の鶴岡

2011-09-12 11:01:08 | 活版印刷のふるさと紀行
 私の書架に『藤沢周平全集』25巻が麗々しく並んでいます。おそらく
藤沢さんだったらこういう並べ方は大嫌いで、部屋の隅っこに背をうしろに
して積んで置くだろうと思います。

 なぜ私がこんな並べ方をしているかといいいますと、いつでも好きなと
きに、好きな作品に手が伸ばせるからで、そのために作品名の入った腰巻?
をとらずにいます。

 この全集が刊行されたのが10年以上前ですが、私がはじめて周平さんの
ふるさと鶴岡をたずね、作品の舞台を訪ね歩いたのもそのころでした。
鶴岡の駅に降りて驚いたのは観光パンフレットがあちこちにたくさん置いて
あって、「この町の印刷屋さんはいいな」などと思ったものです。
 
 周平さんの葬儀があったのは平成9年の正月と記憶しておりますから2度
目の鶴岡行はそのあとでした。
 こんどは車で周平さんゆかりの地を回りました。藤沢作品ゆかりの地を1
冊にまとめたパンフレットが観光案内所に置いてありました。

 それを見ながらで訪ねて行くと、現地に案内板が立てられているのです。
写真は昼食をとったウナギ屋の前のかわっぷちにあって「蝉しぐれ」とあり
ます。ここが、文四郎が蛇に噛まれたふくの指を吸った五間川の支流でしょ
うか。鶴岡市の観光課か教育委員会かわかりませんが「やるもんだあ」と感
服した次第でした。


 


 
 
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PR誌『新装』のことから

2011-09-10 05:56:38 | 活版印刷のふるさと紀行
 『新装』は松坂屋の宣伝部が担当しておりました。上野店宣伝部の時代も銀座店宣
伝部の時代もありました。印刷はずっと大日本印刷で、こちらも榎町工場の時代と市
谷工場の時代がありました。

 ひとことでいえば、『新装』は外商の上得意先宛ての宣伝誌でした。
販売のためというよりもイメージアップを意図しての編集で、チェコグラスですとか
宝石や高級時計とか、高級呉服ですとか、特選売り場に並ぶような商品を中心に雰囲
気のある写真とコピーで紹介していました。

 A4の天地を詰めたサイズで、見開きページのおもてが6色のカラーオフセット、
裏の見開きページがグラビア1色というめずらしい版式で、グラビアは平台を使って
おりました。文字組は写植主体でした。

 デザイン・レイアウトはかなり斬新で、製版テクニックもいろいろ使いました。私
の個人的な楽しみとしては夏の祇園まつりのころ、かならず秋の着物の取材と撮影に
京都に行くことでした。とくに松坂屋自慢の染織参考館で江戸時代の小袖を見せても
らったり、ペルシア・インカなどの古代裂れに出会うことでした。

 そういえばこんなことがありました。カメラの佐々木照男さんの発案で、乗鞍で北
アルプスの山なみをバックに畳に着物のモデルを座らせて撮影しようというので、高山
からモデルと畳屋さんも同行して現場に向かいました。

 スタッフ一同、あまりの寒さに山小屋で味噌汁を飲んでいるうちに、さきほどまで見
えていた雪をかぶった連峰がガスに包まれて撮影不可能になってしまいました。
 コンピュータでいまほどうまく「合成」ができなかうた時代の話です。

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『衣道楽』という名のPR誌のハシリ

2011-09-09 15:59:07 | 活版印刷のふるさと紀行
 『衣道楽』きものどうらくと読みます。明治39年、松坂屋が出したPR誌です。
これを出したのは、松坂屋百貨店の創業者の第12代伊藤次郎左衛門佑昌の4男、
第13代伊藤次郎左衛門佑民(すけたみ)で、幼名は守松でした。

 彼は1909年(明治42)、渋沢栄一を団長として、東京・大阪など6大都市の
経済人を中心にした民間人数十人が3か月にわたってアメリカ各地を訪問した渡米
実業団に、33歳の若さで名古屋から参加しました。

 それよりも62年前の岩倉視察団とは違い、1908年に訪日して来た米国実業団
との交歓・交流の色合いもあって全米で大歓迎を受け、かなり熱心に民間経済外交を
進めたと視察団でした。

 さて、その視察団に伊藤銀行取締役の肩書で参加した守松は、そのとき、家業であ
る伊藤呉服店の経営を任されておりましたからアメリカのデパートから学ぶことが多
かったに違いありません。
 その証拠に帰国した明治43年3月1日に、名古屋の栄町にデパートを建築するこ
とにしました。呉服店からデパートへ、大英断でした。当時、東京上野も名古屋も
いとう呉服店でしたから大改革だったといえます。
 
 渡米実業団参加や渋沢栄一の影響もあってか、その後の彼は、関東大震災のときの
活躍、銀座に初めての百貨店進出などめざましい動きを見せました。

 PR誌『衣道楽』を出したのも30歳になるかならぬときでしたから着眼点が良い
人だったといえましょう。
 
 私事になりますが、実は私自身が昭和39年から昭和48年まで、松坂屋のPR誌
『新装』の制作にたずさわりました。大正から続く歴史のあるPR誌だっただけに
姿を消したのは残念です。次回もこの話つづけます。
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『東京の交通100年博』を観て

2011-09-06 15:43:49 | 活版印刷のふるさと紀行
 前から気になっていましたから会期を5日残すのみの江戸東京博物館」の
「東京の交通100年博」をのぞいてきました。

 いまの都電が東京市電として走り出した1911(明治44)からちょうど
100年を記念してですが、都バスと都営地下鉄をプラスしての展覧会。
むかし、都電の運転台の横にかろうじて乗り込んで、「スゲーヤ、London製か
」とマジマジ見ていた都電のコントロラーと再会できました。

 同じく懐かしかったのは都電の行先板とか系統板とかで、とくによく利用した
系統は記憶の中の番号と展示の番号が合致して「われながら」でした。

 関東大震災と戦災をくぐりぬけてきているので無理からぬとは思いますが、
記念乗車券などの展示はほとんどが戦後のもの、ポスターなどはごく最近のもの、
おまけに、見にくいショーケースに鎮座していてじっくり鑑賞とはいきませんで
した。

 会場入り口に「円太郎バス」の実物が展示されておりました。関東大震災で市電
の車両が多数、燃えてしまったので、アメリカからTT型フォードのシャーシーを
輸入して1人乗りのバスに仕立てて走らせたというのです。
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ジョヴァンニ・ニコラオの南蛮工芸

2011-09-03 09:44:01 | 活版印刷のふるさと紀行
 来る来るといわれながら場所によって時折、強い雨足に見舞わら
れる程度で、東京は台風12号予告3日目を迎えています。だから
来るのか、来ないのか落ち着かない気持ちで調べごとをしています。

 その中でジョヴァンニ・ニコラオという見慣れた司祭名に遭遇し
ました。私は彼こそ日本のキリシタン版の第1作、第2作『サント
スの御作業の内抜き書』や『どちりな・きりしたん』の銅版画を描
いたその人だと決めつけ、著作にもそう書いております。

 彼は1581年(天正9)に日本に派遣され、志岐の画学舎、
いまならば工芸学校で絵画や彫刻、オルガンや時計の製作まで工芸
全般を指導しています。おそらく印刷機も手掛けているはずです。

 天草の志岐は大曲塾の研究旅行で訪れ、町長さんに「焼酎」の
大量差し入れで歓迎していただいた町ですが、1570年という
早い段階に南蛮船が入港したことも自慢のひとつでした。

 ニコラオは画学舎で教会の祭壇を飾るための美術工芸を通じて日
本人の画家や工芸家を育成したのです。関ヶ原でパトロンの小西
行長を失ったたこともあって画学舎は志岐から有馬、有馬から長崎
へと転々としますが、彼が生んだすぐれた弟子たちが日本のキリシ
タンの世紀を各地で南蛮美術で彩り、後輩に技術を伝えました。

 私たちがいま、五島の教会めぐりをして、簡素であっても美しい
祭壇や飾り絵に接するとき、そのおおもとはジョヴァンニ・ニコラ
オにあるといえそうです。




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