活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

戦時下の印刷史 2

2011-10-30 16:40:16 | 活版印刷のふるさと紀行
 1937年、昭和12年10月の上海陥落、12月の南京陥落、日本が
始めた戦争も最初は威勢がよかったのでした。お祝いの提灯行列に印刷業界も
こぞって参加していました。 ところが、その印刷業界に突き付けられたのが
官公庁をはじめとする年賀状の廃止でした。
 戦争の影響が印刷業界に投げかけた影は意外に早く、大きなものでした。な
かには倒産する業者すら出ました。

 さらにその翌年になると、国家総動員法が公布され、従業員が次々と戦場に
駆り出され、やがて男性に代わって活版の解版、活字の仕上げ、製本の折作業
などを担っていた勤労女性はもっと戦争に直結する軍需工場に徴用されるよう
になるのです。昭和18,9年には大手の印刷工場に女学生の勤労報国隊員の
姿が見られるようになります。
 
 もっと業界にダメージを与えたのが商工省主導による「企業整備」でした。
設備の小さい中小印刷業者の中には、工場を閉じるか、大きいところに吸収さ
れるか決断を迫られるところに追い込まれたのです。
 1944年、昭和19年6月には、とうとう一般の印刷物には用紙の割り当
てはなくなってしまい、一般の印刷業者は開店休業同然になります。

 「日本印刷文化協会」は用紙の割り当てが一番の目的でしたからその年11月
解散になり、代わって「日本印刷産業綜合統制組合」が設立されました。
まったく、なにが《印刷文化》だったのかといいたくなります。B29の日本
本土空襲がはじまったのも、その同じつきのことでした。

 戦後66年、こうした戦時下の印刷、戦争と印刷についてもしっかり回顧がなさ
れるべきです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦時下の印刷史 1

2011-10-28 17:16:48 | 活版印刷のふるさと紀行
 私が属している「神田川大曲塾」の活動目的をひとことでいいますと、
《印刷文化》の研究・訴求にあります。ですから、《印刷文化》という
ことばは身近かですし、その中に学術的で平和な響きがこめられている
ように感じているのですが、ちょっとショックな《印刷文化》に遭遇し
ましたので、その報告です。

 日本の印刷史を調べていて「日本印刷文化協会の設立」という見出し
にぶつかりました。「おや、先駆者か」と思ったのですが大間違い。
1941年10月、昭和16年、日本が米英相手に宣戦布告をする2か月
前のことで、トンダ《印刷文化》でありました。

 この協会を設立したのは、当時、印刷業界を監督していた商工省、いま
の経産省らしいのですが、実際には軍をバックにした情報局の主導だった
ようです。平和産業の印刷業を締め付けてやろうというの目的でした。

 戦時下で紙が不足しているので、協会を配給体制を円滑にする窓口につ
かおう。印刷は国家のための重要な産業だとおだてて、経済体制の一翼を
担わせよう。さらに、防諜・戦時思想の伝達のために、印刷の窓口で、あ
らゆる文書の出版をチェックしよう。この3つがおもな狙いでした。

 印刷業界から抵抗や抗議はあったようですが、聞き届けられるはずが
ありません。全国17000社の印刷業者は「日本印刷文化協会」が割り
当て切符制で紙の配給権を握っていますから引っ込まざるを得ません。
それどころか、全国各地の印刷工業組合が解散に追い込まれてしまいます。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文章と「1字下げ」のこと

2011-10-23 15:24:52 | 活版印刷のふるさと紀行
 写真はボンヤリしていますが、尾崎紅葉の『金色夜叉』です。
1字下げはしていません。

 この私のブログの場合、読みやすいようにと1字下げと改行と
なるべく1行あきを多用しております。私流の変則ですが、馴れ
とは恐ろしいもので、ほかの原稿をかいているときに、つい、改行
や段アキが多くなってしまいあわてることがあります。

 数年前、ブログを始めたときは1字下げをしなかったり、ベタ組
で1行の長さももっと長いままでした。今の方が読みやすいと思い
ますがいかがでしょうか。

 さて、1行あきですが、ちょっと古い印刷物をみてみますと、
『徒然草』も『枕草子』もみんな1字下げはしていません。そうか
と思うと、明治33年の教科書『国語読本』が1字下げをしていたり、
昭和8年の『小学国語読本』がしていなかったり、戦後の教科書でも
1字下げしていないのがあります。

 改行や1字下げについての文法はないのでしょう。でも、出版社
で渡してくれる「執筆要項」では1字下げや改行について要望され
ることもあります。

 グラフィックデザイナーやレイアウターのなかには、1字下げを
敵視する人がかなりおられます。「デザイン上、活字の並びに凸凹
をうくりたくない」とおっしゃいます。

 これは、想像ですが1字下げや改行は印刷の組版の上でだんだん
一般化したのではないでしょうか。とくに、CTSやDTPが出て
きてから組版現場でも厳しくなってきたきらいがあります。
 そういえばパソコンだって「インデント機能」がありますね。

 




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モリサワの「手鑑」の鑑賞会

2011-10-22 16:29:26 | 活版印刷のふるさと紀行
 「手鑑」てかがみー聞いたことはありますが、目の当りにするのは初めて
でしたから興味ぶかく鑑賞してきました。

 (株)モリサワの森澤会長の招待で、御夫人の実家、岡山下津井の中西家に
伝わる「手鑑」をじっくり見せていただく会で、安土堂書店の八木正自さん
の懇切な解説付きで至福の時間でした。

 「手鑑」は歴史上高名な天皇とか高僧だとか歌人などの書いた「古筆」の
裂れを貼り並べたもので、郵便切手のストックブックのようなものですが、
その蒐集や流通にはかなりのつてや対価を必要とします。ですから、そんじ
ょそこらに存在するものではなく、由緒ある名家に代々伝わり、遺されて来た
ものが多く、「国宝」になっているものもあります。

 鑑賞会で拝見したのは、聖武天皇の書かれたお経の断簡からはじまり、天皇
家、公家、僧正などなど名筆といわれた人の書いたお経やら書状やら歌集の
写しやらが全部で200点ちょっと、最後から2番目が本阿弥光悦でした。

 八木先生の解説によりますと、「手鑑」は貼られている古筆断簡の真偽はも
ちろん、それが書かれている紙、料紙の素晴らしさにも着目するもので、昨日の
鑑賞会の「手鑑」にも模様を木版刷りした上に金粉をまぶしていて、いまも
眩い色紙などがありました。

 現物は50センチ四方ぐらいの正方形の判型で、帖本は巻子ものというのでし
ょうか経本折になっいますので、長机を4脚ほど並べて、各帖を横に拡げて拝見
する形で本当に間近かに見るみることができました。装丁といいますか表紙も古代
裂れにみるような素晴らしい文様でした。
 まさに江戸時代の「鎌倉から室町、江戸初期までの書のアーカイブ」でした。


 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気になるヴァリニャーノとハビアン 5

2011-10-21 09:47:57 | 活版印刷のふるさと紀行
 山本七平さんは『妙貞問答』は仏教や神道を排撃し、論争をしかける
仕組みで、かならずしも全編をキリシタン礼讃で埋めつくしている本では
はないと書いておられたと思いますが、伝道の手引書として書かれている
のですし、ハビアンが入信者を増やすために書いたのは事実です。

 ですからアダムとイブから説き起こして、「洗礼」をすすめ、「十戒」を
守ることが救いに通じるといっています。
 
 ところがです。ハビアンが心変わりしたというのです。 七平さんのいう
ところの「排除」、つまり、ハビアンが1608年(慶長13)にみずから
イエズス会を脱会、「棄教」してしまったというのです。さらに
その12年後、1620年に『破提宇子』(はだいうす)というキリシタン排撃
の本を書き、あまつさえキリシタン弾圧に手を貸したというのです。

 私の気になることは25年間のキリスト教との生活をそんなに簡単に否定
することができるだろうかという疑問です。それもキリシタン大名に入信を
強制された武士などとは違い、イエズス会会員です。

 それよりもなによりも、私はハビアンに千々石ミゲルと同じ匂いを嗅ぐのです。
脱会以前にハビヤンは女子修道会にいた女性と同棲しています。
 ミゲルも失意の日々を同棲生活の中で過ごしました。聖職者に異性問題や結婚が
許されるわけはありません。ヴァリニャーノはインドや日本送りですみましたが、
ハビアンはイエズス会を脱会させられ、『破提宇子』も書かされたものかも知れま
せん。

 棄教者として語り継がれている千々石ミゲル、そしてここで取り上げた不干斎
ハビアン。キリシタンの世紀には気になることがたくさんあります。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気になるヴァリニャーノとハビアン 4

2011-10-20 13:54:50 | Weblog
私が不干斎ハビアンの名前を知ってからかなりになります。
当時、勤務先が名古屋で隔週くらいに新幹線で名古屋と東京を行き来していました。
その車中で読んだのが山本七平の『受容と排除の軌跡』という堅いタイトルの本でした。

確か表紙に踏み絵の写真があったと記憶しています。
「受容」とはキリスト教を受け入れる、「排除」とはキリスト教を否定することを意味
していて、その象徴的人物としてほとんどのベージをしめてい たのがハビアンでした。

そのハビアンと二度目に出会ったのはドラードを書くためにキリシタン版を勉強し始めた
ときでした。
幼児のときに寺に入れられ禅僧として教育されたハビアンは18歳のときキリシタンになり、
セミナリヨを出てイエズス会に入り、27歳で天草のコレジオの日本語教師になります。
そこでキリシタン版の『平家物語』*『伊曽保物語』・『金句集』の編纂にかかわります。

秀才の名をほしいままにした彼は32歳で長崎に移り、6年後に京都に移ります。
 ちょうど家康が江戸に幕府を開いた年のことです。
そして40歳になったときに彼自身の「受容」の総まとめともいうべき『妙貞問答』を書きます。
自由に教会に足を運べない上流婦人のための伝道のための問答集でした。翌年の林羅山と論争も
有名ですが、キリシタンとしてバリバリのときでした。

しかし、思わぬ展開が待ち受けておりました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気になるヴァリニャーノとハビアン 3

2011-10-19 13:36:42 | 活版印刷のふるさと紀行
 ヴァリニャーノは恰幅のいい男、見るからに偉丈夫といった感じだったよう
です。よく、私はイタリアンレストランの奥で図体の大きな白服のコックさんが
立ち働いているのを見て、彼はあんなだったろうかなと想像してしまいます。

 ですが、彼は体格には似あわず繊細で緻密、先見力に富んでいました。
 キリシタン大名や信長までが心を許す器量を持ち、人間としても奥深い魅力を
兼ね備えていました。
 
 けれども、彼がまったく純粋な基督者であり、偉大な聖職者だったかというと
私には気になることがあります。

 カブラルはキリシタン大名に貿易を通じて味を占めさせ、武器や弾丸を供給
して戦乱を起こさせ、やがては日本をポルトガルの支配下に置くことを企図して
いました。来日早々、ヴァリニャーノも有馬軍に武器を融通しています。
ひょっとして最初はカブラル同様イエズス会の庇護者としてのポルトガルの国家戦略
のサポーターの役わりを持っていたのではないでしょうか。

 実際にヴァリニャーノが口之津に上陸して西九州を歩いてみてカブラルの計画は
とても困難。むしろ、いまはなんとしてでも信者をふやすことだと痛感したのだと
考えるのが自然ではないでしょうか。
 
 こうしてみると、ザビエルの30年後に切れ者ヴァリニャーノを送り込んだ権力が
ウシロにあり、彼はある意味では、ある時期までそれに利用されていた、それが日本
を知り、日本人を知って翻然と基督者のみに立ち戻った。
 
 禁教がきびしくなり、ヴァリニャーノは次の地に差し向けられた。

 私はヴァリニャーノが実際にはザビエル以上の存在であったのに、そのように扱わ
れていないのは、ある種のうしろめたさのせいではないのかと考えます。

 

 

 


 

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気になるヴァリニャーノとハビアン 2

2011-10-17 17:06:01 | 活版印刷のふるさと紀行
 ヴァリニャーノが口之津に着いて、使節たちを率いて船出するまでわずか
2年半。はたして、この短い間に使節の渡欧計画を立てて実行に移したので
しょうか。いくら敏腕家でもそれは無理だったと私は考えます。

 日本に着任したら、司祭を養成する教育システムを築こう。その資金稼ぎ
に、日本の少年をローマに派遣しよう。教皇やポルトガル国王に会わせて、
話題を作り寄付を得よう。

とにかく、日本人への布教の鍵は「教育」だ。そのためには、大量に教義書を
「印刷」できる活版印刷を日本に持ち込む必要がある。

 このような腹案を持ってヴァリニャーノは乗り込んで来たのです。とくに、
彼よりも10年も前から全日本布教長として君臨しているフランシスコ・カブラル
の日本人蔑視が許せませんでした。巡察師はいわばローマにいるイエズス会総長
の名代ですから「日本人に教育など必要ない、日本人司祭なんてとんでもない」
というカブラルを転出させ、さっそく新方針を打ち出しました。


 おそらく、ザビエルの日本人観を受け継ぎ、トレースやオルガンティーノのような
親日派の先輩のことばに勇気づけられての大きな構想を抱いてのことでした。
 キリシタン大名や信長との接近も構想実現のための布石でした。

 ただ、見逃せないのはこれは彼一人の構想ではなく、イエズス会ぐるみのことでは
なかったでしょうか。
 ひとつだけ例を挙げると少年使節たちと往路インドで別れ、復路に「インド副王代理
使節」という肩書で少年使節の帰国に同道させるというようなことが偶然で起こりうる
でしょうか。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気になるヴァリニャーノとハビアン 1

2011-10-16 22:34:37 | 活版印刷のふるさと紀行
 前々回、この二人の名前をあげました。
 まず、その一人、アレサンドゥロ・ヴァリニャーノは1579年(天正7)に、
口之津に上陸しました。イエズス会の日本の総括責任者、「巡察師」として。

 フランシスコ・ザビエルの来日から、ちょうど30年あとのことです。
 彼は本来ならローマのイエズス会本部に籍を置き、他の修道会と宣教を競う
戦略を立てる部署に配属になるエリートであったはずでした。

 まるで本社勤務候補生から極東の未開地駐在員にされたみたいですが、そうば
っかりとはいいきれません。学生時代ヴェネツィァで女子学生とトラブルがあ
ったのに、有力支社のゴアに派遣され、次が「巡察師」ですから。
 
 ゴアでヴァリニャーノは日本行を決めます。当時、ゴアにはかつてザビエル
が送った報告文や後任のトレースやオルガンティノ発信の日本情報がたくさんあり
興味をそそられたからです。法王の姻戚という身分も彼の希望の後押しをしました。

 そこまではいいのです。問題はそれからです。
 日本到着後、彼は一気呵成に自分の構想を押し進めます。大友・大村・有馬と
キリシタン大名の信頼を短時間でかちとり、はては、織田信長の心までわしづかみ
にします。評判の悪かったカブラルを切り捨て、全国から主だった宣教師を集め、
日本での布教計画の骨子を示します。やり手です。らっ腕家です。
 
 ただ、気になるのは、来日間もない段階で、どこから破天荒な少年使節の派遣を
思いつき、どうして、活版印刷の技術導入を思いついたかです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神田川大曲塾の『池 孝晃氏講演会』にぜひ

2011-10-14 22:23:32 | 活版印刷のふるさと紀行
 最近、テレビのクイズ番組で「漢字」が良く取り上げられます。
写真の左の花はムクゲです。あなたは漢字で書けますか。

 さて、お約束の印刷文化懇話会神田川大曲塾の第25回印刷文化研究会の
ご案内です。
 
 講師として登壇するのは池 孝晃さん。
テーマは『編集者と四人の写真家の物語』です。

 たぶん、出版界に身を置いておられる人、読書人、ジャーナリストなどの
みなさんは集英社の名編集者、Play Boy日本版や数々の単行本企画、あるいは
写真集の編集企画で「池 孝晃」の名前はよくご存じでしょう。

 どんなに編集者として名を馳せても、編集者はカゲの人、「講師なんて
とんでもない」と固辞される池さんをなんとか引っ張り出せたのは、池さんが
我々と同じ、大曲塾の塾生だったからです。

 私は池 孝晃を尊敬しております。彼ほど著者の信頼を集め、愛された編集者を
ほかに知りません。しかも博学で、控えめで、それでいてご自分の企画に常に四つ
に取り組む真摯さ。とにかく、すごい方です。

 『編集者と四人の写真家の物語』は藤原新也・野町和嘉・江成常夫・大村
次郎の四人の写真家とその写真集の編集にあたったご自分の心の中を話して
いただきます。

 おそらく池さんの話は四人にとどまらず篠山紀信さんをはじめ親交のあった
写真家、作家、タレント、演劇人に及び、編集者としてのエピソードが
2時間の間に散りばめられると思いますから楽しみです。
 
 ぜひ、ご興味のある方はご参加ください。

    
神田川大曲塾第25回 印刷文化研究会



テーマ   『編集者と四人の写真家の物語』

講 師   池  孝晃氏

日 時   2011年10月29日(土) 午後3時30分~5時30分

会 場   印刷博物館 グーテンベルクルーム

参加費   1,000円

    お申込みは

      メールで k-yoshida@fine.ocn.ne.jp

      FAXで03-3401-2728 神田川大曲塾事務局宛て
      
      電話で 090-5765-4125 吉田可重

なお、会の終了後、隣のレストラン・ステラで池 孝晃氏を囲んで懇親会が
あります。(懇親会費はおひとり2000円です)

☆むくげは木槿と書きます。花言葉は尊敬・信頼・信念・愛・美です。 












コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする