活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

雑誌や書籍の低調の年末に

2011-12-28 21:58:06 | 活版印刷のふるさと紀行
 いよいよ2011年も押し詰まってテレビも新聞もいっせいにこの1年の
回顧やら統計数字を掲載するようになりました。

 12月27日の日経の夕刊に『雑誌販売1兆円割れ』という記事がありま
した。まだ、見通し段階ですが、雑誌は震災の影響やあいつぐ休廃刊で前年
比6~7パーセント減、販売金額の上では比較的健闘している書籍の販売額
を足して、雑誌・書籍合計でも前年同期比で4パーセント減で1兆8050
億円前後といっています。

 印刷会社の「出版印刷」部門が振るわないわけはここにありました。出版
物不振の原因にはいろいろ考えられますが、震災よりもインターネットや電
子出版、それになによりも“本を買わなくなった”、“本を読もうとしなく
なった”種族の増加が大だと見ます。
 
 としますと、今後ますます増えるスマートフォンも強敵になるでしょうし
タブレットなども電子書籍には味方するでしょうが、出版印刷は足を引っ張
られぱなしになるでしょう。

 印刷会社サイドに立つと変な言い方になりますが、出版社発注の印刷され
た出版物、出版社に限らず印刷を媒体とする情報というジャンルは今後ふえ
る可能性はないといえます。
そうなると、まだまだ受注体質の濃い印刷会社は「業態改革」をするしか手
はありません。この正月にはそのことを考えたいものです。

 窓外を眺めると心なしか、この年末はクリスマス直後から例年より町の明る
さも劣るようです。早じまいの企業の多いせいでしょうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『あわ雪』と食品包材印刷

2011-12-27 10:34:12 | 活版印刷のふるさと紀行
 名古屋は雪が積っているというメールに、オマケがついていました。貴君の
ブログに揚げまんじゅうや蒸し羊羹とあったが、肝心のモノを忘れていませんか
という指摘でした。「そら、君がよく、みやげに持って来たアレだよ」と。

 忘れていたわけではありません。岡崎の『あわ雪』という鶏卵の白身を主材料
にした見た目、羊羹状の淡白な甘味のお菓子です。父が抹茶のときに愛用してい
ました。最近は東京でもデパートの地方銘菓のコーナーで買えるので、距離が縮
まってときどき、デザートにしたり人に贈ったりしています。

 ところで、私は名古屋で食品の包材印刷にはじめて出会いました。とくにフィ
ルムにグラビアで印刷する袋モノの印刷は初見でした。デザイン段階でエアブラシ
を使って彩色することさえ知らなかったので物珍しく思ったものです。
 また、食品の個包装のパッケージでは何回も白箱の試作を繰り返して設計を詰め
ていく印刷以前の段階のあることを知りました。
 パンやウイロやゼリーやせんべいのような菓子類から味噌やたくわん、酒や牛乳
カートンのようなものまで名古屋は実に食品の包材のデザインから印刷まで品種や
印刷加工の幅の広い土地柄でした。

 土地柄といえば、陶器や木製品のカタログづくりの多いのも名古屋です。もち
ろんオフセットですが、撮影からはじまって、校正刷、本刷りと「質感」と「色
あい」の再現に格闘しながら「印刷」の厳しさを痛感した次第です。

 そういえば、岡崎に『五万石』というお菓子がありましたが、最近、見かけない
気がします。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

活版印刷紀行の虜になっていたい

2011-12-23 20:19:47 | 活版印刷のふるさと紀行
 きょうは天皇誕生日、どうも年末の三連休は有難いようで有難くないようで
扱いに困ってしまい、結局、怠け放題、怠けてしまうとはわれながら情けない
成り行きです。

 反省ついでに年末になって思うことは、今年もまたいちだんと、活版印刷が
消えていったように思います。完全に絶滅業種入りをしているのだからやむを
得ませんが、「若者の間で活版印刷が人気」などという新聞記事にぶつかると
うれしくなったり、活版印刷所の広告をみると、応援したくなります。

 印刷博物館や東大の総合研究博物館のように、絶滅した活版印刷を大変な尽
力で活かしたり、護っておられる組織には深甚な敬意を払わねばなりません。
また、「秀英体」の件で久しぶりにご連絡のあったDNPの常務だった綱島昭
さんのようにいまでも秀英体で組んだ、ちょっと圧のかかった活版の名刺を愛
用しておられる方が身近におられることが、とてもうれしいのです。

 しかし、あらためて考えてみますと、「活版印刷」とは実に大がかりなもので
はありませんか。膨大な鉛活字の常備にはじまって印刷機はもちろん、活字鋳造
機のような機械類から字母や母型や込めものの類、それになによりも文選や植字
や鉛版や紙型、メッキ、印刷工の技術者確保が今や大難関です。

 かくいう私も今年は著作の一部を電子書籍に入れましたし、タブレット端末の
軍門にくだってしまいました。使ってみると便利なこと、スティーブ・ジョブズ
のスゴサを改めて感じました。

 それでも、まだまだ、「活版印刷」にどっぷり漬かっていたいものです。まだ、
当分活版印刷の虜になっていたいのです。
《憧れ知る人でなくて なんで私の悩みがわかろう》ジイドでしたか。だれかの
詩編の一節でしたか。

 

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忘年会と揚げまん

2011-12-23 10:37:24 | 活版印刷のふるさと紀行
 天気予報で「クリスマス寒波」ということばが繰り返されているのを
聞くと「なるほど」と思ってしまいます。明日はクリスマスイブ、この
2,3日、東京もかなり低温です。
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=747e352ffa512e73ff0bf165298c773b#
 なんとなく気ぜわしいこの頃ですが昨日は忘年会のダブルヘッダーで、
しかも、偶然とはいえ、昼の会は深川、夜の会は浅草と江戸名残りの町
での開催でした。
 昼の方は女性が多かったせいか、真昼間のせいか、あまり気炎を上げる
わけにはいきませんでしたが、夜の方は例の印刷文化研究会神田川大曲
塾のでしたから印刷談義で盛り上がり、賑やかでした。

 ところで昼の部の帰り道、門前仲町でひっかかったのが「あげまんじ
ゅう」の店、呑み足りなかったせいではありません。根っからの甘党でも
ある私です。最近はご無沙汰ですが、池波正太郎のご贔屓だった神田須田
町界隈のあげまん屋さんにはよく立ち寄りました。ここで素通りをしては
は神に背く気がします。

 そして夜の部に勇躍、駆けつけたまでは良かったのですが、定刻30分
も前に到着しましたので、まずは、これまた、以前から大ファンである栗
蒸し羊羹の店に直行、おそらく帰りには品切れ必至ということで、2棹入
手。つぎに雷門から浅草寺までの仲見世をキョロキョロ両側に目を配りな
がら散策した次第です。

 大晦日はさぞかしと思いますが、仲見世は三脚をたてて撮影をしている
外人さんがいるほど、空いていました。

 ただ、うれしかったのは、なんと、その両側で1軒ずつのあげまんの店
発見。よっぽど1ヶ買いして店先でパクリといきたかったのですが、まさか、
断念、素通りやむなしではありましたが。
 忘年会の帰り、お店でおみやげに頂いた浅草名物人形焼きの袋が加わって
ニコニコで酔漢約ひとり、ご帰還と相成りました。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有馬のセミナリヨはどこにあったか

2011-12-19 13:12:59 | 活版印刷のふるさと紀行
 北有馬を中心に遣欧少年使節や有馬セミナリヨについて勉強会をもって
おられる熱心な地元の方のグループがあることを知っています。了解を頂いて
いないので紹介は差し控えますが、おそらく、3回所在を変えたセミナリヨの
存在もつきとめていらっしゃるかもしれません。

 とにかく450年前と今とでは、地形がかなり変わっているので、想像する
しかないのですが、当時の有馬の町はこんなだったらしいのです。
 日野江城の前を有馬海の入り江に注ぐ有馬川が流れていて、北有馬のところ
では浦口川という小川が支流として分かれていたようです。

 フロイスの書いたものに、日野江城の南西に広場があって、その先に浦口川
があって、それを渡ると教会とセミナリヨにぶつかる。そこを通り過ぎると
北有馬の町にさしかかるとありました。つまり、町は低いところにあって、城は
高台にあった、してみるとセミナリヨや教会堂はその中間にあったことになります。

 当時、大きな船は口之津に着きました。そこで来校者は小舟に乗り換えて有馬の
浜まで来て、浜から続く細い入り江の有馬川や、小川の浦口川をわたって、坂道を
セミナリヨや教会堂めざして歩く道順ではなかったでしょうか。セミナリヨはいっ
たいどこにあったのでしょうか。

 セミナリヨの最初の頃、つまり、少年使節になった1期生のころは、城の近
くの高台にあり、1590年ごろには城の手前の坂の途中に、追放されて長崎に
移る1600年ごろは町に近いところに移っていた考えるのはいかがでしょうか。
 
 とにかく、もどかしく、恨めしいのはキリシタンの徹底的弾圧と島原の乱です。
それさえなければ、有馬のセミナリヨの所在は確かめられたはずです。加津佐や
天草での活版印刷所の所在と全く同じことがここでもいえるのです。

 




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「第九」でも難しいのにと思う

2011-12-18 12:47:01 | 活版印刷のふるさと紀行
 第九の季節のせいでもないですが、木の葉の落ちた日野江城址を枯草を
踏み分けて歩くのはいい気持ちです。
 「フロイデ シェーネル ゲッテルフンケン トホテル…」思わず
片仮名書きして必死におぼえた第九のうろおぼえの歌詞が口をついて出てきます。

 有馬のセミナリヨはルイス・フロイスの記述によりますと《日野江とよばれる
有馬殿の住んでいる城の城下町は口之津から2レグァ離れていて、そこにシモ(下)
のセミナリヨが置かれているのです》と、あります。

 ということは、有馬のセミナリヨはいまの高台になっている城址かいわいではなく、
もっとふもとの当時は有明湾に流れこむ川のほとりに位置していたかもしれません。

 しかし、私たち現代人のイメージでは学校は町を見下ろす小高い丘にあって、
周りにみんなで歌を歌いながら逍遥できるような林のあるような環境をとかく
連想してしまいます。そうすると、やはり、北有馬の町を見下す城跡歩きが一番
ぴったり来ます。

 有馬のセミナリヨでは音楽教育が重視されたことがわかっています。クラボ
(チェンバロのような楽器)やオルガン、ヴオラ、アルポ、ギターなど楽器の演奏
と唱歌にかなりの時間がさかれています。
 唱歌はグレゴリオ聖歌が主体だったのでしょうか。おそらくラテン語で歌われた
と思いますが、セミナリヨの少年たちはどのようにして歌詞を覚え、歌ったので
しょうか。
 CDもある、指導者もいる、いまの第九の合唱練習よりも何倍も厳しい学習環境の
中でのことです。おそらく、日野江の高台の道を連れ立って逍遥しながら、みんなで
何度も歌ったのに違いありません。

 




 




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馴染めないけれど、ここは南島原市

2011-12-17 14:23:41 | 活版印刷のふるさと紀行
 大袈裟にいいますと市町村合併が由緒や歴史を奪い去り、見失わせるような
気がします。ここは「南島原市」、けれども私は高来という歴史に登場する2文字
の入った郡名に親しみを持っております。
 
 南島原市が誕生して5年ぐらいになるでしょうが、有馬のセミナリヨのあった
北有馬町、活版印刷の聖地加津佐町、南蛮船の入港した口之津、そして銅版画が
描かれた有家、私の興味を引き付ける町町がみんな、この南島原市に属するように
なってしまったのです。

 さて、ここ南島原市にあってまず、みなさんに紹介したいのが、この北有馬に
1580年から1613年までの間に、3回にわたって存在した「有馬セミナリヨ」
です。セミナリヨは苗床などと訳されていますが、イエズス会がつくった神父養成の
ための神学校でした。

 生徒数は第1回生は20名くらいでしたが、もっとも多いときは100名を超えた
といわれています。その数少ない1回生からマンショ・ミゲル・マルチノ・ジュリアン
の天正少年使節4人が出たわけですし、日本最初の活版印刷人ドラードも同じときに
セミナリヨではたらいていました。

 しかし、有馬セミナリヨがどこにあったのか、まだ、確定はされていません。北
有馬にあったことは確実ですが、3回とも場所は別だったろうというのがおおかたの
意見です。いずれにしても城主有馬晴信がヴァリニャーノから洗礼を受け、そのヴァ
リニャーノが開いた学校ですから日野江城界隈にあったことはまちがいありません。

 少し寒いのですが落葉して視界がひろくなったこの時期に日野江城址を歩いて
セミナリヨ探しをするのは楽しいではありませんか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年賀状の「竜」から

2011-12-12 09:10:46 | 活版印刷のふるさと紀行
 はやくも師走。最近、郵便局の前を通りますと、「年賀状印刷」の
広告がやたら目につきます。賀状を売るだけではなく、印刷まで引き
受けるのは郵政改革による事業多角化でしょうか。

 震災の影響で来年の年賀状では祝辞文句が変わったそうですが、
やはり、絵柄は干支を扱ったものが多いようです。2012年は
辰年、「竜」あるいは「龍」ということになります。文字としては
「竜」の方が「龍」より古いそうですが、ご存知でしょうか。
 
 私の文京区の家の近くの福聚院さん、小石川七福神の一つですが、
本堂にご住職自慢の4つの爪を持つ龍の絵の幕があります。この中国
産の想像上の動物ほど世界的に知られているものはないと思います。

 考えてみますと、私も「龍」と多少、縁があります。
生地の愛知県岡崎市のお城は「龍城」で、近くの「龍海院」の裏山が
遊び場でした。幼稚園が「龍城幼稚園」で小学校の校章にも龍が2匹
あしらわれていました。

 このように、幼いころは龍に囲まれていましたが、長じてはまったく
無縁、せいぜいドラゴンスファンであることぐらいです。
 これぞまさしく「龍頭蛇尾」。ああ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アラビア語とアラブ文字

2011-12-07 14:26:39 | 活版印刷のふるさと紀行
 

アブダビ・ドバイ・ラアスアルハイマとアラブ首長国を訪ねてみて
感じたことに1,2触れてアラビア紀行をひとまず終えることにします。

 7つの首長国どこへ行っても同じでしょうが、町のあちこちで必ず見か
けるのがそれぞれの国の王様の大きな肖像額です。ここに掲げたのはアブダビ
の王様です。
 エミレーツ・ヘリテージ・クラブの玄関横にありました。イスラム教の
偶像崇拝禁止との関係はよくわかりませんが、街中では男性の正装をあまり
見かけませんので、王様の額絵が子供のとき読んだアラビアンナイトの挿絵
と合致してアラビアにいる感じがしました。

 偶像禁止といえば、アブダビにはシェイク・サイド・モスクという豪壮な
モスクがあります。内部の見学はできませんでしたが、偶像禁止だから外部の
絢爛さに比べて内部は簡素だということでした。
 以前、イスタンブールのアヤソフィアを訪ねたとき、内部の美しさに驚か
されましたが、あれは、最初キリスト教の教会だったせいでしょうか。

 アヤソフィアではアラビア文字がデザインされた円形の装飾がありました。
やはり、アブダビのグランドモスクは見るべきだったと思います。

 ただ、もともとアラビア半島で生まれたというアラビア語にはあまり接触で
きませんでしたが、アラビア文字にはあちこちで出会いました。ホテルの
マニュアルも英語とアラビア語でしたし、お店でくれるショッピングバックも
併記でした。

 どうもアラビア文字はキリル文字と同様苦手です。右から書き出す、続け字が
あるというくらいしか知りません。しかし、アラブでもカリグラフィは盛んの
ようです。本当はアラビア文字と印刷について研究して来なくてはいけないのに
アラブ湾の海と真珠、ラクダと砂漠、124階のバージュ・バリファなどに
終始してしまったことに反省。



 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダウ船と真珠の採集

2011-12-05 10:39:22 | 活版印刷のふるさと紀行
 
真珠博物館の中でいちばん目をひくのは館内にドーンと置かれている
船の実物でした。これもジャルブートと呼ばれるダウ船の一種と聞いて
なるほどと納得。

 前の晩、ドバイで高橋 裕さんとダウ船のディナークルーズに参加してみた
のです。これはドバイ観光の目玉のひとつで、ドバイクリークをゆっくり進む
ダウ船で両岸の夜景を楽しみながらビュッフェスタイルの食事をとるものです。

 このクルーズに使われているダウ船は2階建てで大きくて、船体にギンギラの
照明を施した観光船そのものですが、もともとダウ船とはイスラム圏で大昔から
愛用された木造船で、釘を1本も使わないで組み立ててあるのが特色だそうです。
動力のない時代は帆で進んだようです。

 アラブ湾に小さなダウ船が何艘も浮かんで湾底から真珠貝をすくいあげていた
時代は古びた写真で想像することが出来ました。

 真珠船や展示されているたくさんの漁具類を見ながら考えたのは、もはや天然真珠
の時代を蘇がえらせるのがむずかしい以上、ラアスアルハイマの海で、日本の真珠養
殖技術を活かしてもう一度、アラブの真珠を再現する構想はなかなかいけるのではな
いかということでした。
 そのためか、もう一階上の展示には、現在の日本の養殖真珠の現場がたくさん紹介
されていました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする