活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

スマート社会の印刷

2012-02-25 12:41:46 | 活版印刷のふるさと紀行
 つづけてSMATRIX2020-スマート社会に貢献する印刷産業-という日本印刷産業
連合会の発表した未来ビジョンについての私見を。

 SMATRIXのSはスマート社会のS,MATORIXは印刷の母型という説明だったと
思いますが、間違っていたらごめんなさい。
 正直に言いますと「スマート社会」の意味が私にはよくわかりません。最近、
やたらスマート、スマートが連発されています。身近なところではスマートフォン
やスマートテレビがありますが、要するにデジタル化・ネットワーク化の進んだ
多機能で便利きわまりない社会のことでしょうか。
 ついでにいえば「マトリックス」もよくわかりません。ラテン語だと、子宮。
つまり、ものを生み出すパワーの意味でしょうか。

 まあ、わからないなりに、わかったふりをするわけですが、「印刷業」が従来の
枠から抜け出て、どんどん新しい事業を手掛けていくようにならないと、現在の
苦境を抜け出せないし、将来の発展が望めないことは確かです。

 じゃあ何をやるかです。SMATORIX2020では2020年をめざして、ビジネスチャンス
の拡大、印刷産業のクロスメディア化、デジタルメディアへの積極的対応など7つの
目標をあげ、企業マネージメント力の充実と産業力の強化を目指そうといっています。

 結構ですが、私はこれからの「印刷業」は多様化するメディアをコンテンツの収集
・整理・管理・提供、つまり、コンテンツづくりから情報流通、通信まであらゆる
ポイントでかかわってネットワークの中心にいるようになりたいと思うのです。
ですから、すべてがIT(Information Technology)にからむようになるので、IT
技術者を採用し、育成するのが急務のように思うのですが、はたして如何なもので
しょうか。
 
 この問題にご興味のおありの方は平成24年3月21日に日本印刷会館でセミナーがあります。
申し込み締め切りが3月15日だそうですから(社)日本印刷産業連合会にお問い合わせ
ください。http://www.jfpi.or.jp/










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だれか「印刷業」にかわる呼び名を

2012-02-24 10:24:58 | 活版印刷のふるさと紀行
 印刷図書館クラブの例会でチョットダケ「印刷産業の今日と未来展望」に
ついて勉強して来ました。

 昨年9月に大々的に発表された『SMATRIX2020-スマート社会に貢献する印
刷産業』という(社)日本印刷産業連合会が策定した「これからどうなる・
これからどうする印刷産業」という内容の刊行物を底本にしてのことですか
ら、私の印象としては憂うべき現状を踏まえて将来をどう切り拓くかという
いささか厳しい印刷産業のビジョンを突きつけられた観があります。

 かつて印刷産業は日本経済の発展と歩みをともにして、GDPを上回る伸
びを示す地味ながら優等生産業でした。ある時期まで事業所数が3万を超え、
年間の出荷額も15兆円をめざす景気のイイ時がありました。
 それが2010年度では出荷額6兆44億円(2000年比-23.3%)事業所に至っ
ては13,914社(同-37.6%)と右肩下がりもさがり、GDPの伸びを下回
っているのが現状です。

 ただ、この出荷統計を鵜呑みにすると間違います。極端にいいますと、これは
紙に印刷するものが主体でエレクトロニクス関連だとか、建材や包材の一部、
ITやソフトビジネスなどのように、印刷会社が手がけていても統計には入って
いないものがあるからです。

 それに、印刷産業のなかでも上場している企業だけを選び出して数字を出して
みると2000年に比して15パーセント近くプラスになっています。
 たしかに印刷業の出荷額・事業者数・従業員数は工業統計を見る限り減少して
いることは事実ですが、私は工業統計の「印刷業」というくくりが問題だと思い
ます。もっというのならば、従来概念の「印刷」の枠をひろげるか、「印刷」に
代わる業種でくくるべきだと考えます。

 SUMATORIXは造語でしょうが、印刷産業連合会が、いま、印刷の枠を超えて印刷
業が手掛けている新分野、これから手掛けるであろう分野を含めて「印刷」よりも
幅の広い業種名を提案すべきではないでしょうか。公募してもいいと思います。





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鈴木真砂女のふるさと

2012-02-22 10:15:47 | 活版印刷のふるさと紀行
 前回、書きました鴨川で思わぬ出会いがありました。
平成15年に96歳で亡くなった女流俳人鈴木真砂女(まさじょ)さんです。
鴨川グランドホテルのフロントにここに掲げたようなリーフレットがあって、
そうか、彼女はご当地出身、しかも房総でも名の通った旅館だったという生家
がこのホテルの前身だったとは。その証拠にちゃんとホテル地下一階に記念館
がありました。

 真砂女は「恋の句をたくさん詠んだ女流俳人」だとか「燃える情熱の女俳人」
とかいわれておりますが、生涯の多くを「昭和」に過ごしたために言われるだけ
で、いまだったら、ごくふつう、むしろ自分の人生にひたむだった人、純愛の人
だったといえるのではないでしょうか。

 恋愛をして、嫁いで、一女をなしたものの、夫の博奕が原因で出戻り、生家の
旅館をきりもりしている姉を手伝う。姉の急死で心ならずも義兄と再婚したが、
客として泊まった海軍士官に恋をして転属先の長崎大村まで追いかける。
 たしかに姦通罪のある時代でした。、妻帯者との恋、奔放といえば奔放、不倫
といえば不倫ですが、《羅(うすもの)や 人悲します恋をして》この句ひとつ
で彼女の悔やみつつ、のめりこんでゆく心情が理解できます。
 
 いったんは夫に許されるものの、50歳で離婚、銀座に小料理屋「卯波」を出
します。《あるときは 舟より高き卯波かな》 店名はこの句からですが真砂女
が真摯に向き合っている人生がここにもあります。

 私が好きな句は《鴨引くや 人生うしろふりむくな》であり、《来てみれば 
花野の果ては海なりし》のふたつです。ふりむくな、ふりむくなといいきかせても
つい、あれこれと来し方を顧みてしまう人としての心情、そして華やいだ時もある
けれど広漠とした海にやがては罪業もろとも呑みこまれてしまう人生。彼女はおそ
らく人生の節目節目に向かいあった鴨川の海をそこに重ねて見ていたはずです。

 卯波時代、わずかな月日真砂女さんは一筋に愛した人と共に送る幸せの日々が
ありました。しかし、その人の奥さんの許しを得て黄泉送りをせねばならなかっ
たのです。彼女モデルの瀬戸内寂聴『いよいよ華やぐ』・丹羽文雄『天衣無縫』
私だったら表題をもう少し考えたい気がします。
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春を先取り、南房総へ

2012-02-21 11:52:30 | 活版印刷のふるさと紀行
 2月が20日になっても大雪のニュースばかり、春をこちらから引っ張り
込もうと房総に出かけてみました。寒いせいか例年なら行楽客のクルマで一
杯のアクアラインがガラガラ、海ほたるもスキスキでした。

 しかし、朝から天候は快晴、海ほたるのデッキから富士山も東京スカイツ
リーも見られましたし、無風で陽光さんさん。自称「晴れ男」の看板通りで
いい気分になれました。

 ただ、房総スカイラインにさしかかると両側の道路沿いは残雪だらけ。も
ともとスカイラインとは名ばかりで内房と外房を結ぶ山間道路ですから文句は
いえません。ローズマリー公園でゆっくりしたかったのですが、昼食を予約
してあった鴨川グランドホテルへ直行しました。

 シーサイドビューが売り物のレストランから眺めると、さすがに数は少な
いものの波乗りを楽しんでいる若者が結構、見えました。
 やはり、ここは南房総、このころから当方も春気分。汗かくほどの暖かさ。

 これならと次に向かったのが千倉。めざすは花摘みファーム。キンセンカ・
ポピー・ストック・キンギョソウ・スターチスが咲き乱れていましたが、花
摘みはめんどう。道路を隔てた道の駅「汐風王国」に飛びこんで、海産物の
店を見て回りました。求めたものさんまの一夜干し10匹とピリ辛マグロなど
酒肴用をチョッピリ。

 帰りも道路はガラガラ、今日は野島の灯台も横目で見ただけ。5時半には
我が家に帰り着きました。そして摘まずに買った花を愛でながら、さんまや
マグロで一杯。いい、春を先ヅモ、1日房総トリップでした。

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東京の水路と日本橋川、神田川

2012-02-16 10:01:43 | 活版印刷のふるさと紀行
 日本橋のギャラリーを出て銀座まで歩くことにしました。日本橋のたもとで
大勢の人が川面をのぞきこんでいます。何事ならんやとつられて見たら、平底
の小さな船に青いカッパを来た集団が橋を見上げて手を振っています。

 日本橋がクリーニングされたことは報道で知っていますが、頭を高速道路に
押さえ込まれて橋の存在そのものが空に抜けていないので、せっかくの格調高
い獅子や麒麟の橋柱や道路元標のシンボルも冴えないし、お江戸日本橋を誇示
できないとはお気の毒であります。

 だから、下、日本橋川にご注目というわけではなくって、この青カッパの船
は恐らく最近の「東京の水路を見直すキャンペーン」の一つでありましょう。
 私自身も3年前、豊洲のららぽーとから300mほど上流の晴海運河沿いに
住んでみてはじめて東京の水路に目を向けるようになりました。

 ららぽーとのアーバンドッグから浅草行きの水上バスに乗れば、隅田川にか
かる橋名のアナウンスを聞きながらあっという間に浅草ですし、同じマンショ
ンの住人でモーターボート趣味の人が隅田川から日本橋川、神田川と水路探索
を楽しんでいる話を聞くとついつい、「そうか、東京も水路で通じる都なのだ」
とうれしくなってしまいます。

 たしか日本橋は家康が征夷大将軍になったお披露目で1603(慶長8)に
大枚千両で改築したと聞いていますが、江戸の中心として「橋上貴賤の来往昼
夜絶えず」の歴史をたどり、いまや重要文化財、そして最近はまた、周辺の再
開発で盛り場に戻りつつあります。
ここで、ひとこといいたくなりました。日本橋川もさることながら、明治以来、
東京の学術・文化・芸術・政治の中心になったのは神田川流域です。
私が取り組んでいる印刷文化も神田川流域に育ち、発展してきました。だから、
神田川大曲塾。これはオチです。サゲかな。 




 

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ある展覧会で。

2012-02-15 13:50:33 | 活版印刷のふるさと紀行
 日本橋のギャラリー白百合に松本佐恵美さんの個展を拝見しに行ってきました。
初日、まだ午後いちばんだというのに芳名簿はぎっしり。
 ファンの多いことと彼女の交友の広さもあるでしょうが、やっぱり、彼女の油絵
が持つ魅力に足を運ぶ人がこんなに多いのかとあらためて感じ入った次第です。

 とくに私が初日に駆けつけようと思ったのは《色の匂い、空気のなかへ》という
個展告知の案内状のキャッチコピーにありました。
 最初は単純に「色の匂い」は彼女が好んで題材にする「花」を指してのことかと
思いました。しかし、次につづく「空気のなかへ」には飛躍があります。その答え
を早く知りたかったのです。

 ご挨拶もそこそこに20点を超す大小の出展作品を二巡して、「そうか」と私は
自分なりにキャッチコピーの真意を理解できたと思いました。
 松本さんの色の匂いは花だけにあるのではなく、南仏やイタリアの名も知らぬ
丘の上の集落にも、日本の雪の雑木林にも、凍てついた谷あいのせせらぎにもた
ちこめていました。どの絵もその色の匂いを包み込んでいるようで、カンバスに
その場で醸し出される空気を見事に写し取り、昇華させていると思ったのです。
です。
 
間違っていたらごめんなさい。もちろん、ご本人に不用意に質問するわけには
いきませんので「この絵は雪の中で、本当にスケッチされたのですか」とうかが
いました。群馬とおっしゃったと思いますが雪の日の雑木林の絵の前でです。
「雪の中にイーゼルをたてて。凍えました。」 当然といわんばっかりの答え
が返ってきました。
 どんよりと曇った雪空に枝を伸ばす木々の整然とした並びと足元の凍った積雪が
ひっそりとふりまく清冽な空気の中でかじかんだ指先に息をふきかけながら絵筆を
動かす彼女が目に浮かんできます。


 写真にはもっとも松本さんらしい「薔薇」の絵を掲げました。なお、展覧会は2月
18日まで。ギャラリー白百合は日本橋3-2-6です。

 


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日本とマカオをつなぐ印刷機

2012-02-11 10:58:47 | 活版印刷のふるさと紀行
 救命胴衣が大袈裟だと思いながら少年使節たちがお世話になったポルトガル船の出入り
した波止場のあたりを小さなボートに乗せられてゆっくり見てみました。当時のマカオ港
の跡です。いかにも河口らしく水面が淀んでいました。
 日差しの強い日で通訳の日中混血のお嬢さんがやたら油紙で鼻小僧の脂を拭き取ってい
るのが印象的でした。

 その波止場跡のすぐそばに「澳門博物館」がありました。マカオにはカジノがありますが
そのオーナーに出資を仰いだとかでなかなかの博物館です。
「マカオ最初の印刷機」と題して例の印刷機が展示されている室があるではありませんか。
例のというのは天草コレジヨ館や加津佐の図書館にもあるドラードたちがポルトガルから
舶載してきて加津佐や天草、長崎でキリシタン版を印刷した印刷機のレプリカです。

 小著『活版印刷紀行』(印刷学会出版部)のあとがきで丁寧に紹介していますが、展示機
の説明には《グーテンベルク可動式タイプを採用した東洋最初の印刷機で、日本の少年使節
を率いてローマを訪れたイエズス会神父アレッサンドロ・ヴァリニャーノによって16世紀
末にマカオにもたらされました。この印刷機は当時日本に運ばれるものでしたが1588年
から1590年までの2年間、ここマカオにあって多くの書籍を印刷していました。》
と述べ、つづいて、この印刷機がキリシタン追放とともに1614年にふたたび船に積まれ
日本をあとにマカオに運ばれ、はてはマニラに身売りされたこともつけ加えていました。
 
 実は1614年にこの印刷機とともに原マルチノとドラードもマカオの土を踏み、『日本小
文典』を印刷刊行したのですが二人ともここで天に召されます。聖ポール天主堂の裏側に回る
と地下にヴァリニャーノやマルチノやドラードが眠っています。また、日本から逃れてきた受
難の人たちもここに葬られているので、十字架に架けられている殉教者の絵も掲げられています。

 そういえば、聖ポール天主堂のファザードの彫刻の花の絵柄も日本人の手になっているという
説が有力です。日本とマカオの結びつきをもっと知りたい気がします。
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マカオの光と影

2012-02-11 09:43:04 | 活版印刷のふるさと紀行
 長崎テレビの『それからの少年たち』はよく出来た番組でした。ただ、マカオで少
年たちがどのようにして毎日を送ったかについてはふれていません。
 
 天正少年使節たちは長崎を発って3日目から東シナ海で嵐に見舞われ船酔いで息も
絶え絶えとなり、ようやく17日目にマカオに上陸したのでした。
やがて体調を回復した彼らは有馬のセミナリオと同じ時間割で「学習」に追われます。

 当時は現在の聖ポール教会のあたりが丘になっていて、小さな天主堂や司祭館やセミ
ナリヨがありました。しかし、少年たちを宿舎とセミナリヨだけに閉じ込めておくわけ
にはいきません。貿易で懐のあたたかいポルトガル商人や奴隷を5人も6人も抱えた富
裕層がマカオの町を牛耳っていました。波止場には血気にはやって漁民相手に喧嘩を売
る定航船の船員も見られました。日本から売られてきた日本人の女子も珍しくなかった
はずです。

 ヴァリニャーノはそういった生々しいマカオの実態から少年たちの目をそらすのにさ
ぞかし神経を使ったことでしょう。

 喧噪の町マカオ、おそらく当時はそうだったでしょう。
 それでは現在はどうでしょうか。 私の訪ねたマカオの印象は1999年の返還前は
アルゼンチンタンゴのラ・クンパルシーターの似合うような明るいエキゾチックな町で
したが、このところ、中国からの観光客がふえて以前よりも変わってきているように思
います。

 しかし、香港などとはちがった歴史の重みを感じさせる町、光と影が読み取れる町です。
少年使節や印刷の文化史に興味のある方には一度足を運んでいただきたい町でもあります。
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マカオの聖ポール天主堂

2012-02-10 12:26:34 | 活版印刷のふるさと紀行
  前回、聖ポール天主堂がマカオのシンボルといいました。恐らくマカオに観光で
いらっしゃった方なら、あの石造りのファザード(前壁)を目の前にして「スゴイ」と
感嘆されたと思います。

天正少年使節一行は往復で3年近くもマカオに滞在したのにこの石造りの聖母教会と
は対面していません。なぜならこの教会が1835年1月,火事にあって今のようなファザ
ードを残すのみになったのですが、実際にいつ建てられたものかがはっきりしないか
らです。1603年ごろに仮竣工して、実際にはその20年後に完成したという説があります
が、それにしても1582年3月から12月までと1588年8月から1590年6月までの2回の滞在
期間中には存在してはいません。

もっとも1614年に原マルチノとコンスタンチノ・ドラードはキリシタン追放で三たび
マカオの土を踏みます。あるいはそのとき2人は竣工したての聖ポール教会を見ること
が出来たかもしれません。

少年使節たちは初めての外国、マカオで有馬のセミナリヨと同じ時間割でラテン語や
音楽や日本語の学習で絞られました。インドへの風待ちのためとはいいながらこれから
彼等がヨーロッパと出あうためには、このマカオでの日々は貴重だった筈です。
 彼等に限らずポルトガル船はヨーロッパからマカオを経て長崎へ、長崎を出てヨーロ
ッパに向かうポルトガル船の最初の寄港地はマカオというわけですからマカオこそ日本
とヨーロッパを結ぶ重要な港湾都市であり、貿易・文化・宗教の受け渡しの基地でした。

ドラードはヨーロッパで印刷修業をした腕で『遣欧使節対話録』を印刷していますが、
そのマカオのところの記述を見ると、意外に無愛想です。マカオに住んでいるのはポル
トガル人が大半という人口構成について述べているのが往路のマカオの箇所、復路に至
ってはこの地で日本人が2冊も活版印刷で初めて本を世に送りだしているのに、それに
触れていないのは口惜しい気がしてなりません。



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「マカオ熱?」再燃

2012-02-09 09:49:02 | 活版印刷のふるさと紀行
 松藤正利さんという名前は私にとって忘れようがありません。
いまから10年以上前、日本最初の活版印刷の誕生の地を訪ねて島原半島の
加津佐町を訪ねたとき、教育委員会の主事をしておられ、みずからハンドル
を握って、コンスタンチノ・ドラードたちが1591年(天正19)に印刷
所をつくった場所とされている「天辺の丘」へ案内いしてくださったその人で
す。いわば私の活版印刷紀行のサポーター第1号にあたる方ともいえます。

 昨日は今冬はじめての雨があがって気分爽快、散らかし放題の机の周辺の片
づけにとりかかりましたら、見覚えはありますが中身不明のCDを発見しまし
た。さっそく再生してみましたら、ずっと以前長崎テレビが制作した『それか
らの少年使節』でした。思い出しました。松藤正利さんが送ってくださったも
のと記憶しています。

 「少年使節」とありますように伊東マンショ以下4人の天正少年使節が主人
公で、残念ながら彼らの従者としてローマへの旅に同行し日本に活版印刷術を
もたらしたコンスタンチノ・ドラードの名前はいっさい出て来ていません。
 しかし、うれしいことに故若桑みどりさんが登場して、アレッサンドロ・ヴ
ァリニャーノが日本を西洋と出会わせ、日本に西洋の知識・学問・文化をもた
らし、印刷術を招来させたことを使節派遣の成果と強調しておられるではあり
ませんか。

 また、番組中で天正少年使節がローマへの航海で往復で3年近く滞在した
マカオが丁寧に紹介されていました。「千々石(ちじわ)ミゲル」のものらしい
お墓を発見された石造物研究家大石一久さんがマカオの町を探索される場面も
ありました。

 このCDをみているうちに、俄然、私の「マカオ熱?」が再燃いたしました。
実はいつもご紹介する神田川大曲塾でもこの4月からの次年度企画に「印刷文化
のふるさと訪問」候補地にマカオがあがっています。
 私個人としてはすでに訪ねたこともありますので、日本の活版印刷誕生にゆか
りの深いマカオについて次回から1,2度ご紹介することにしましょう。
写真はマカオのシンボル聖ポール天主堂です。



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