活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

What’s電子書籍?

2012-03-31 12:22:29 | 活版印刷のふるさと紀行
 驚きました。3月29日の朝日新聞の朝刊トップに「電子書籍 国が後押し」という大見
出しが出たのです。
 たぶん、ご覧になっていらっしゃる方が多いと思いますが、講談社・小学館・集英社などの
大手出版社と大日本印刷・凸版印刷が約20億円の出資を予定していて、4月2日に出版物の
電子化を手がける新会社「出版デジタル機構」を総額170億で設立するのだといいます。
170億-20億=150億、つまり、その残りの150億をなんと政府が9割を出資する投資
ファンド「産業革新機構」が出資するというニュースでした。

 おそらく、取材した記者さんも150億円という大盤ふるまいに驚いたのではないでしょうか。
たしかに、一昨年、2010年が電子書籍元年と騒がれたことは記憶していますし、「電子書籍か
紙の印刷本か」がツィターを賑やかにしたことも話題になりました。

 さて、What's電子書籍というタイトルは上記とは直接関係がありません。
本日、2012年3月31日から始まった印刷博物館P&Pギャラリーの展示会のタイトルです。
昨晩オープニングに参加しましたので簡単にご紹介しましょう。
 電子書籍とはなんぞや、電子書籍が読書の形をこんなふうに変えますよ-ひとことでいうと、
わかりやすい電子書籍入門の展示会です。

 会場の大半をコミック・辞書・雑誌・書籍など出版の分野別に従来の形の印刷本とその電子本を
並べて展示してあり、観客は電子本に自由に手を触れて印刷本と比較することが出来ます。その
コーナーが「電子書籍の今日」とすると1980年代から2012年までの「電子書籍の歴史」の
コーナー、電子書籍がこれからの私たちの暮らしをどのように変えるか「電子書籍の未来」といっ
たコーナーからなっています。

 樺山館長のオープニングの挨拶のなかで、「だれもがなんとなくわかっている気がしているのが
電子書籍、でも突っ込まれると…」と笑わせておられましたが、会期は5月27日までです。ご覧
になって、国が後押しする電子書籍について考える機会を持つのも有効かと考えます。


 
 

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「オンデマンド印刷」は以前もあった

2012-03-29 11:57:48 | 活版印刷のふるさと紀行
 オンデマンドばやりです。かくいう私もNHKテレビの見落とし番組をオンデマンドで
追っかけていますし、稀覯書(きこうしょ)の版元からオンデマンド出版で史料を購入する
こともあります。

 近頃、「オンデマンド印刷」もよく耳にします。少部数の同人誌や句集などの本作りに利
用する人が増えているようです。パソコンで原稿が印字されていれば、短時間で印刷して、
製本してくれるのでオンデマンド印刷所はうれしい存在です。

 オンデマンド印刷などというと新しいように感じますが、文字通り、オンデマンドでクラ
イアントの要求にこたえる印刷なら、以前からありました。私が知っているきわめつけの
オンデマンド印刷の例を思い出しました。

 皇室の偉い方や外国からの賓客が列車で旅行される場合を思い浮かべてください。車窓から
走り去る沿線の名勝を楽しんでいただくための印刷物が必要になると、鉄道会社のの方が考え
たのでしょう。
 車窓の風景をスケッチした原画を「絵巻物ふう」に印刷する仕事が生まれるのです。原画を
描く人も大変なら印刷する会社も大変です。それに、納本するのはせいぜい正副1部ずつ、
まさに少部数のオンデマンド印刷でした。

 色校正は最低3度、印刷はオフセットの校正機でした。昭和の40年代の終わりの話ですから
そんなに大昔のことではありません。
 今ならどうするのでしょうか。あらかじめ、入念に車窓風景を撮影しておいて、タブレット端
末などが使われるのではないでしょうか。




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銀座を八丁を練る鉄砲洲のおみこし

2012-03-27 12:40:37 | 活版印刷のふるさと紀行
 「今年こそ、ぜったい来いよな」、友人は黙って紙筒を押し付けました。
開いてみると五月の鉄砲洲稲荷神社例大祭告知ポスターでした。見るからに熱気ムンムンの
お神輿をかつぐ男女を上からとらえた絵柄に、「絆」という文字が白抜きになっていてヘッ
ドコピーは「町内はお祭り家族」とありました。

 東北大震災以来、絆はあちこちで使われています。彼はなかなかの批評家、「お祭りの
ポスターまで」といいたいのかと思ったら、誤解でした。彼は純粋にお祭り讃美の講釈を始
めました。住まいが地元も地元、中央区湊1丁目の住民で、大祭の役員ですから。

 ここで鉄砲洲のいわれをを知らない方のために、ヤボな解説をしておきますと、三田村鳶魚
(えんぎょ)編『江戸年中行事』に▲鉄砲洲 南北へ凡八丁ばかりの地所をいふ。寛永の頃、
大筒の町間を試みし所ゆゑ此号ありといふ、又この出洲の形、鉄砲に似たる故の号也ともいへ
り。とあります。つまり、寛永のころにここで大砲の射撃演習をしたからという説と、徳川
家康が入府したころ、南北八丁の細長い河口の島だったというのと二説あるようです。


 「ちょっと豪勢なんだ」、「ウチのお神輿は神社のある隅田川沿いの湊一丁目を出て入船町
から新富町、銀座一丁目からずっと銀座の目抜きを八丁目まで行き、次は昭和通りをはさんで
また銀座八丁から新富町、入船町、明石町、そして湊町まで行くんだ。スゲーだろう」
 
 たしかに、聖路加あたりから銀座一円の産土神とくれば、口惜しいけれど、「たいしたもの
だね」合槌を打たずにはいられません。日本一、都心の氏神様といえましょう。

 創建が平安時代初期、仁明天皇の承和八年といいますから西暦なら八四一年、ポスターに
ある「御鎮座壱阡百七拾弐年」はナットク。
「だけど、そのころは海岸の村だったんじゃないの」 湊とか入船とかの地名からみても、多分、
港があって船の出入りが多い土地柄だったに違いないと、水を向けたら、「そうさ、埋め立てに
よって何度も引っ越しているさ。京橋から八丁堀、そして鉄砲洲と」さすが土地っ子。
とうとう、神輿が神社に勢ぞろいする五月四日に一本提げて行く約束をしてしまいました。
 これも「絆」でしょうか。
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殿様のお嬢さんの本2

2012-03-25 11:01:25 | 活版印刷のふるさと紀行
 勝田さんによると、松田毅一さんは旧制中学卒業のときから「日欧交渉史」を
生涯の研究テーマに決め、上智大学の予科を選ばれたといいます。東大以外は大
学にあらずという周囲の反対を押し切って、しかも戦時下のこと、大変な意思と
決断であったと感心してしまいます。

 『大村純忠伝』の縁で、松田さんの長崎取材は20回近くに及び、旧大村藩内
での講演や対話も同じくらいの回を数えているそうです。
 戦後で列車の切符も手に入らないときだけにさぞかし苦労されたことでしょう。

 松田さんの百冊を越える著作も預かって力になったでしょうが、「南蛮学」や
『ばてれん史」が日の目を見るようになったのは戦後の話、大村純忠直系の大村家
でさえ戦前・戦中を通して「キリシタン」は禁句だったそうです。

 大村家の目黒邸の廊下つづきに分厚い格子のはまった扉付きの内蔵があって幼い
勝田さんは「その中に妖術を使う恐ろしいキリシタンバテレンがいる」と思って、
息を止めて全速力でその前を通ったと思い出しておられます。地元大村でも大村
純忠の話が遠慮なくできるようになったのは『大村純忠伝』が出てからと聞きまし
た。1600年代のキリシタン弾圧の根深さを痛感させられる話です。

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殿様のお嬢さんの本 1

2012-03-24 12:43:40 | 活版印刷のふるさと紀行
 花壇の隅で小花が春を告げているというのに、あいかわらず薄曇りで靄っぽく
肌寒い日です。書架の隅で眠っていた殿様のお嬢さんの『奇しき縁』が目に留ま
って思わず読み耽ってしまいました。

 殿様のお嬢様とは長崎県大村の勝田直子さん、遣欧少年使節を送ったキリシタ
ン大名の一人、大村純忠の直系、第33代大村純毅さんのお嬢さんです。といっ
てもご主人を送られ、東京から大村に移って今は、大村史談会や随筆で活躍して
ておられる素敵な老嬢です。

 私は10年以上前、少年使節の取材旅行で知遇を得て、大村家の菩提寺本経寺
をご紹介いただいたり、大村史料館やそのそばの天正夢広場をご案内いただいの
でした。「この少年使節のからくり時計のところでチャップリンのお孫さんが監
督して千々石ミゲルの出る映画が撮影されたのです」などと話していただいたこ
とも思い出しました。あまり、ほめられた作品ではなかったようですが。

 勝田さんの『奇しき縁』で私が興味を持ったのは松田毅一さんとお父上とのエ
ピソードでした。
 松田さんには早い時期に『大村純忠伝』がありますが、松田さんと大村の結び
つきは戦後の昭和27年ごろであったらしいのです。それも、大村市長をやって
おられ勝田さんの父上、大村純毅さんと名前に同じ「毅」の字があるのと、酒豪
同士の縁でなにかと濃いお付き合いがあったようです。

 私は松田毅一先生にはお目にかかったことがありません。お目にかかったこと
がないのに親しみを感じる、いや、著作を通じて尊敬している方に松田毅一さん
と司馬遼太郎さんのお二人を挙げます。生年も没年も比較的近くて、大阪育ち、
若いころから歴史に興味を持ち、なぜか東大を選んでいない共通点があります。



 



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渋沢栄一の史料館で

2012-03-21 09:31:05 | 活版印刷のふるさと紀行
彼岸の休日、まだ、コートやマフラーのご厄介になるような陽気でした。
我が家の墓は王子にありますので、南北線で出かけました。王子といえば
飛鳥山の桜、今年はつぼみも硬いまま、例年よりはかなり遅れているよう
です。そういえば、昨日、湯島天神の下を通りましたがようやく梅が満開
の様子でした。

 さいわい日差しがあるせいか、墓地も飛鳥山もかなりの人出、例の東京
唯一の都電も停留所に人があふれておりました。

 墓参をすませて向かったのは渋沢史料館。いまやっている企画展「渋澤
倉庫株式会社と渋沢栄一」をのぞきました。
渋沢栄一が生涯で設立や育成に携わった会社数は約500といわれており
ますがその中で「渋沢」の名が現在ついているのは、この「渋澤倉庫株式
会社」1社だけとは初めて知りました。

 栄一が「物流」こそが産業や経済を支えると考えたのは明治10年ごろ
で最初は深川福住町の自邸内に倉庫部を置き、1909年(明治42)に株式
会社組織にしたといいいます。以来103年、渋澤倉庫株式会社はいまも江東
区永代で活躍中です。

 それにしても渋沢栄一は凄い人です。前にも取り上げたように、紙や印刷
分野でも先人として大きな足跡を残しています。気宇壮大といいいますか、
こういう日本人がこれから出てくるでしょうか。
 あらためて打ちのめされた気分の私は都電で早稲田に出てリーガロイヤル
のカフェ直行。なんと気宇最小のことかです。写真は史料館玄関。

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社名から「印刷」を消す日はいつか。

2012-03-18 11:56:22 | 活版印刷のふるさと紀行
 今朝のことです。毎朝、目覚まし代わりにしているラジオで新語紹介として
「自社生産出版」をとりあげていました。この場合の自社とは出版社のこと、
つまり、出版社はいままでは自社でソフトの制作したあと、製版や印刷や製本
などはハードは外注していました。それをソフトもハードもすべて自社でこなす
ようになった。そうすれば、少部数でも対応できるし、時間も短縮できると。

 「いまごろ、なにをいっているのだ」これが私のが率直な感想です。
たしかに、日本では浮世絵の時代から、版元と刷りは別でしたし、明治以来、
印刷会社は出版社を得意先にして受注生産を進めて来ました。大きな出版社は
大きな印刷会社、大きな印刷会社は大きな出版社という欧米のような経営形態は
存在しません。

 その産業形態がデジタル化で出版・印刷両サイドで大きく変わらざるを得なくな
りました。多年の受注体質は印刷会社サイドに出版社に対する遠慮があるために、
印刷会社が「自社生産出版」を謳うようなことはありませんが、早くからメディア
の加工を手がけ、いろいろな分野に進出していることは周知の事実です。

 たまたま、その同じ朝、朝刊各紙に新iPadの発売の店頭行列が報じられていまし
たが、情報の加工や受け止めやメディアのツールがどんどん進展するなかで、もう
出版も印刷も垣根はなくなっているのです。
 私は今のような限定的な「印刷」が死語になる日が近い。社名に「印刷」を入れて
いる会社、大日本や凸版や共同などがいつ社名からそれをはずすのだろうかと興味を
持って見ています。




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フェリーペ2世その2

2012-03-16 16:21:02 | 活版印刷のふるさと紀行
 東京のは別にして、私が知っている限り印刷博物館としてはマインツのグーテンベルク印刷
博物館、アントワープのプランタン・モレトゥス博物館、リヨンの印刷・銀行博物館があります。
グーテンベルク博物館とはゲーテの詩の日本語の組版寄贈の件で、プランタンには2度、3度と
見学でお邪魔していますが、リヨンとはまだ、縁がありません。

 プランタン、クリストフ・プランタンは1520年にフランスのトゥールあたりに生まれたよ
うです。フェリーペ2世の即位の1年前、1555年にアントワープで印刷所を開いています。現在
プランタン博物館を見学すると、1570年代の最盛期の印刷所が再現されていますが、おそらく
創業当初は有名なこのジョス・バード工房の絵のような貧しい施設ではなかったでしょうか。

 創業初期、プランタンの経営を助けたのに、フェリーペ2世がブリュッセルで執り行った
カール5世の大葬記録の豪華本がありました。これでプランタンの名は一躍有名になりましたが、
1562年に差し押さえ、競売の憂き目にあいます。しかし、翌年には再建に成功、1560年代後半に
は何と国王フェリーペ2世から借金をしてスペイン領内で使うカトリックの祈祷書や典礼書を印刷
しています。専用の印刷機だけでも10台以上常時稼働したといいます。これは、時代的には伊東
マンショをはじめ、4使節が生まれたころでしょうか。

 1570年代には印刷・版元・書籍の卸、小売りからパリから高級革製品の輸入販売まで手がける
ようになり、プランタンはヨーロッパの「印刷王国」といわれるようになりました。
以後、300年12代も栄え、いまは印刷所と住居までふくめた再現印刷博物館になっています。
 それに引き換え、フェリーペ2世の方は、1582年、スペインの無敵艦隊がイギリス海軍に敗れ、
太陽の沈まぬといわれた大帝国が破産、1598年失意のうちに亡くなるのです。
たまたま、日本では秀吉が亡くなった年でしたが、日本の欧風直伝のキリシタン版の印刷も終息
に向かいはじめていました。






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フェリーペ2世のこと、その1

2012-03-16 11:59:12 | 活版印刷のふるさと紀行
 神田川大曲塾の塾長樺山紘一先生の毎日曜日、日経新聞文化欄連載『欧人異聞』
は楽しい読み物です。「異聞」ですから次から次へ知らなかったエピソードが登場
します。

 その樺山門下の塾生でありながら、私は異聞どころか「正史」が頭に入っていない
のですから、われながら情けない思いです。受験勉強のせいにしたくありませんが、
コマ切れ知識ばかりで、とくに系統的なヨーロッパ史に弱いのが致命的な欠陥です。

 たとえば、活版印刷術を日本にもたらした天正遣欧少年使節が訪問先で親しく会う
ことができた一人にフェリーペ2世がいます。日本を発つときはスン国王としての謁見
が予定されていたのですが、1584年11月14日マドリードの宮殿でおそるおそる彼らが
進み出たときのフェリーペはスペイン国王であり、ポルトガル国王を兼ねるようにな
っておりました。

 フェリーペの父親はマゼランの世界一周を支援したカルロス1世、母親はポルトガル
王女のイザベルでした。この二人の間にフェリーペが誕生したのが1526年のこと、1556
年30歳でカルロス1世の跡をついでいます。時代としてはポルトガル人が種子島に漂着
したのが1543年ですから、ほぼ同時代です。日本とちがって、ヨーロッパでは言語や国
の垣根を越えて婚姻がなされ、新しい王家ができる事情など、受験勉強では割愛して
済ましてきた気がします。

 フェリーペも父に劣らず活躍します。オスマントルコとの戦争で国威を発揚しますし、
父親の向こうを張ってコロンブスのアメリカ大陸発見に力を貸します。銀を介しての
経済力の向上にも政治力を発揮します。イスラムからカトリックへと大きく世の中を
変えたのもフェリーペといっていいでしょう。

 このフェリーペが文化面では「印刷」にかなりテコ入れをしていたらしいのです。
その点については次回。

コメント (1)
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文士村の先達だった樋口一葉

2012-03-13 17:07:33 | 活版印刷のふるさと紀行
 そうだ、ついでに、あの井戸を見て行こう、伊勢屋質店の菊坂の本通りから
階段をおりて樋口一葉の家のあった付近に行ってみました。したみちと呼んで
いる細い道ですが、水道工事のクルマが停まっていて余計に狭くなっていました。

 しかし、昔は露地に草花の鉢が並んで、いかにもレトロな家並みでしたが、
かなり、平成風になっておりました。井戸そのものは変わってはいませんが周辺の
雰囲気がすっかり変わってしまっていました。

 一葉のころはポンプがなくて、つるべ。以前はこの場所で袖にたすきがけをして
水を汲んでいた状景が偲ばれたものですが、いまはまわりが整い過ぎて無理です。
 きれいになりすぎると往時の雰囲気が壊れてしまうなどと、つい、身勝手なこと
を考えてしまいます。
 
 ところで、この菊坂界隈には一葉に限らず、北村透谷、石川啄木、正岡子規、
坪内逍遥、宮沢賢治、徳田秋声、知っている限りでもこんなに文士がいました。
出版社や印刷所、製版所があった時代も長くありました。

鐙坂(
 それと、菊坂を筆頭にこの付近にはやたら、坂があります。鐙坂(あぶみさか)、
炭団坂、、梨の木坂、これまた、まだまだあるはずです。
。話は文士に戻りますが、時代は一葉からずっとさがって大正から昭和になると
同じ本郷菊坂に有名な「菊富士ホテル」がありました。
 ここには、尾崎士郎、宇野千代、正宗白鳥、谷崎潤一郎、広津和郎、直木三十五、
坂口安吾、そうそうたる顔ぶれがいた時代があります。たしか、昭和20年の空襲で
焼失してしました。

 一葉は1894年(明治27)に菊坂から同じ本郷の丸山福山町に引っ越します。
ここで亡くなるまでの3年間に『暗夜』、『大つごもり』、『たけくらべ』など、
次々に新聞や雑誌に作品を発表します。そしてここが終焉の地となります。
地下鉄春日の先の白山通りのコナカの前に碑があります。

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