活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

スクリーン印刷50年の展覧会

2012-04-28 22:57:27 | 活版印刷のふるさと紀行

 雨の中を鶯谷の日展会館ギャラリーへ。今日が神田川大曲塾の吉田・中野・高橋の3氏と熊沢印刷工芸の50年展をじっくり見せてもらう約束当日だったからです。

 熊沢印刷工芸といえば、スクリーン印刷では東都きってのグラフィック表現で有名な会社。今日の顔ぶれもいままでさんざんお世話になったことのある者ばかりです。

 スクリーン印刷は以前はシルク印刷とか、シルクスクリーンという呼び名で親しまれていました。一説には日本の友禅の型染めから出たもので絹が使われたからだといいますが、私が知ったときはテトロンでした。とにかく、スクリーン印刷は私たちの身近なところにいっぱいあります。たとえば、パソコンのキーボードの文字印刷がそれですし、家電製品や化粧品の容器やクルマの計器やいくらでも見つけることができます。

 どんな材質のものにも印刷できるし、いろいろなインキが使えますし用途の広さは抜群です。さて、今日の会場では何十点もの熊沢印刷の手がけたグラフィックデザインのポスターが壁面を埋め尽くしていましたが、私の目をいちばんひきつけたのは、500年前の沖縄全図ともいうべき地図のスクリーン印刷でした。熊沢嘉孝社長によると原稿は4×5フィルム48枚で印刷機は2メートル×4メートル、紙の大きさは4,6×3,8メートルもありますからさぞかし大変な作業だったことでしょう。

 昨年2011年4月に創業満50年を迎えた熊沢印刷の活躍を示すように展覧会に寄せられた花の数も膨大で会場の一角を華やかに盛り上げていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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謎だらけキリシタン版

2012-04-26 16:10:11 | 活版印刷のふるさと紀行

 五島列島福江島の井持浦教会のルルドについて原稿を書いていましたらT大学から電話がありました。私が書いた『活版印刷紀行』の中にキリシタン版の『ひですの経』が大浦天主堂にあるとありましたがというのが主旨でした。

 『ひですの経』は1611年(慶長16)に長崎のお金持ちのキリシタン後藤登明宗印が日本語で日本文字で印刷したいわゆる後藤版のひとつとされています。キリシタン版の活字について多年研究されている近畿大学の森上修先生によると『ひですの経』は、長崎は長崎でもサンチャゴ病院で印刷されているという天理大の冨永牧太先生の説をとっておられますが、1591年に加津佐で印刷された『サントスの御作業のうち抜書』を現存する最古のキリシタン版とすれば1611年の『ひですの経』はおそらく最新のキリシタン版といえるかもしれません。 といいいますのは、刊行年代がはっきりしている最後のキリシタン版で、3年後の1614年にキリシタン版を印刷した印刷機はマカオ行の船に載せられて離日したとされています。

 その『ひですの経』が大浦天主堂にあったというのは私の間違いで、2009年に慶応大学の折井善果先生が米国ハーバート大学ホートン大学で所在を確認され、今年の初めに八木書店から翻刻本が出されました。二十六聖人記念館での取材の折、原本所在を確認しなかった私に非があります。

 ところで、高精細のカラー版の八木書店翻刻版をまだ拝見しておりませんが、使用活字や使用印刷機についていろいろ新発見があるのではないでしょうか。日本文字の鋳造には当初から苦労がつきまとったようですし、おそらく活字の一部は木活字で補わなければならなかった思われますし、印刷機もひょっとして日本語・日本文字専用機を使って、キリシタン版初期のローマ字印刷多用のリスボンから舶載した印刷機ではないのかも知れません。

 とにかく、キリシタン版は謎だらけです。たった400年前にこの日本で印刷されているのに、原本は雲散霧消し、携わった人の記録も発見できず、為政者のキリシタン弾圧の激しさをいまさらながらに思い知らされる次第です。

 

 

 

 

 

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業平橋(なりひらばし)が消えた?

2012-04-25 14:17:26 | 活版印刷のふるさと紀行

 東京は6日ぶりの快晴、真夏日とさえいわれるほどでちょっと歩くと汗が出るほどでした。ときどき厄介になっている都バスに乗ろうと銀座三越前で待っているといつもの「業平橋駅」行きが、「とうきょうスカイツリー駅前」行と改められてやってきました。

 5月22日オープンを控えて、見学ツアーだ、展望デッキの入場券だ、記念切符だと一部では大騒ぎしていますが、全部ではありません。個人的にはいささかツムジまがりで冷やかです。それより、「名にしおばいざ言問はぬ都鳥我が思う人はありやなしやと」うろ覚えですから間違っているかも知れませんが、あの在原業平ゆかりの地名が駅名から消えたのが残念な気がします。どうもわれわれ日本人は古いゆかりのあるものを簡単に捨て去るのが得意のようです。といいながら、「印刷」という呼び名では業種がわからなくなる、なにか代わる言葉をなどといっている自分が現にいるのですから恥ずかしい次第です。

 話を戻して、新しい東京スカイツリーと東京タワーのどちらがお好きでしょうか。私はデザイン的には断然東京タワーです。自分の部屋からまっすぐに見えるからという依怙贔屓も多少ありますが、先日の照明テストのときも軍配を東京タワーに挙げてしまいました。しかし、スカイツリーをめぐっての話題には興味があります。たとえば、中国名を「東京天空樹」にしようと思ったら中国ですでに登録済でやむなく「東京晴空塔」になった話などいかにも、いまの日本らしい話ですね。

 昨年、ドバイで828mのバージュ・カリファの展望台に昇ったとき、入り口で写真をとられて帰りの出口で希望するなら50ディルハム(1250円)というのがありました。上海タワーでは資生堂の香水が売られていましたが、当時、世界でいちばん高所トイレで用をたしておりてきました。はたして、東京スカイツリーではどんなグッズが人気を呼ぶかも楽しみです。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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生身の鉄川与助さん

2012-04-22 09:45:16 | 活版印刷のふるさと紀行

 テレビの「相棒」をみていますと、特命係の水谷豊が「これは私の悪い癖で」といって問い質すシーンによくぶつかります。「鉄川与助の教会建築展」を見ながら、あるいは川上秀人さんの講演「棟梁建築家・鉄川与助がめざした教会建築」を聴きながら与助の人間像、ナマミの鉄川与助さんがどんな人だったろうかをしきりに想像してしまいました。私の悪い癖です。

 会場に与助さんの写真がありました。こっそり「失敬写」したのがこれです。おしゃれで外出のときは黒の三つ揃いの胸に懐中時計の鎖を垂らして帽子を着用していたといいます。そんなに長身には見えません。会場に展示されていた市販の当用日記を利用した作業記録をみると、細字でいかにも几帳面に書き込まれていました。鉄の旧字体「鐡」のイメージも備えていた真面目な方だったのではないでしょうか。

 1879年(明治12)に五島列島の大工棟梁の長男に生まれ15歳で大工修行に踏み出した与助さんは22歳のときにはじめてフランス人のペルー神父のもとで教会建築に触れ、その虜になって彼が棟梁として設計・施工した教会は戦前だけで30棟を越すといわれております。。

 川上さんの講演で与助さんが、いちばん影響を受けたのは晩年のド・ロ神父だったことを知りました。ド・ロ神父は日本の印刷文化にも貢献した人で、私も外海(そとめ)や長崎に何度か調べに行っているだけにうれしく思いました。長崎の大浦天主堂の脇にある旧長崎大司教館は1915年竣工でド・ロ神父が設計、与助さんが図面をひいて設計した合作建築だそうです。

 川上さんは、福岡県大刀洗町にある今村教会を例に、高等小学校卒業だけで独学で建築学を学び、のちには建築学会にまで入って新技術の吸収につとめた与助さんの奮闘ぶりを熱っぽく紹介されました。「棟梁建築家」どなたのネーミングか知りませんがまさにそうなのでしょう。ナマミの鉄川与助さんを知りたくなります。

 五島といえばいまでも遠隔感がありますが、明治・大正・昭和と三代にわたって、しかも施主としては必ずしも恵まれていない信徒の方とともに教会建築を進めるのにはどれほどの苦労があったことでしょうか。もう一度、いまも残っている数々の棟梁建築家鉄川与助の教会をめぐってみたい思いがします。 

 

 

 

 

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LIXILギャラリーで五島の教会展覧会

2012-04-21 10:34:03 | 活版印刷のふるさと紀行

 LIXILギャラリーで「棟梁建築家・鉄川与助がめざした教会建築」と題した近畿大学の産業理工学部教授の川上秀人さんの講演を聞きました。

 会場のLIXILって?どこだろうといぶかしく思われる方がいらっしゃるでしょうが、銀座の以前のINAXのギャラリーが全面リニューアルされて現在「鉄川与助の教会建築・五島列島を訪ねて-展」を開催していて昨晩の講演会は、その関連企画です。

 このブログでも何度かとりあげましたが、私自身、五島列島や鉄川与助さんの教会群にはすっかりハマッていまして、2008年には集英社の村田さんと組んで神田川大曲塾で五島の教会を訪ねる研修旅行を実施しました。

 さて、長年、鉄川与助の教会建築を追いかけて来られた川上さんのレクチュアーはパワーポイントを使って、建設年代や天井構造の種類分け、煉瓦・石・鉄筋造りなどの区分けから実にていねいで興味深い組み立てでした。

 限られた時間枠の中で、門外漢の私にはやや専門的ではありましたが、前もって、展覧会場で写真や資料を見ていましたし、会場内でビデオを見ていたこともあって理解できました。一日中、天井裏にもぐって「小屋組」を観察・研究された話には「建築史」の研究も楽ではないなと感心させられました。個人的には、教会の天井裏からキリシタン関係の印刷物でも出てこなかっただろうかと思いましたが、鉄川さんの教会第1号冷水教会が1907年、明治40年ですからとっくにキリシタン弾圧のあと、あり得ない話でした。

 

 

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南蛮のバテレン

2012-04-19 10:39:41 | 活版印刷のふるさと紀行

 松田毅一先生の著作に「南蛮のバテレン」という好著があります。そのほか「南蛮遍路」ですとか、「豊臣秀吉と南蛮人」ですとか、松田先生の著作によって「南蛮学」を学ばせていただいた私です。日本に活版印刷をもたらした天正少年使節についても先生の著作からどれほど多くを学ばせていただいたか、恩師といってもいいと思います。

 ところで一昨日、2012年4月17日の日本経済新聞の朝刊文化欄に池長 潤さんというカトリックの司教の方が『父の心血 南蛮美術』というタイトルで一文を寄せておられました。お父上の池永 孟(はじめ)さんがいかに心血を注いで南蛮美術を集められたかを書いておられ、一読、感動を覚え、2度、3度と読み返してしまいました。

 いままで、松田先生の著作をはじめ、いろいろな研究書で何度も目にした「聖フランシスコ・ザヴィエル像」も池長 孟さんが茨木市の旧家に通い詰めて、ようやく譲り受けたもので、このザビエル像をめぐる興味深いエピソードも披露していらっしゃいます。

 かつて私が著書「天正少年使節千々石ミゲル」の表紙にミゲルの肖像画を入れるときに所蔵元の京都大学図書館の許可を頂くとき、大学の松田博先生から「4人の天正少年使節の像」が図書館に入るまでの経緯をうかがったことがあります。

 過酷な秀吉以来のキリスト教弾圧の時代を経て、さらに天災や空襲をかいくぐって南蛮美術が我々の前にあるのはこうした池長さんのようなコレクターの存在があればこそのことと感じ入った次第です。

 神戸市立博物館で4月21日から6月3日まで「南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎」と題して南蛮美術の名品を集めた展覧会があると聞きました。会期中に絶対、行くぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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さくら紀行7 桜と菜の花のデュエット佐奈川

2012-04-15 18:23:46 | 活版印刷のふるさと紀行

 岩倉の五条川の桜並木は日本のさくら名所百選に選ばれていると聞きましたが、

五条川の名前は知りませんでした。「五条川もいいですが、佐奈川も」といわれま

したが、残念ながら佐奈川の名前も初耳でした。

 場所は豊川稲荷の豊川、戦時中に海軍工廠のあったあたりですから、東京に戻る

道筋だからぜひにというわけです。そこで、ラッキーセブン、7番目の花見ポイントに

選んだのが佐奈川です。

 しかし、正直いって豊川と聞くと苦い記憶が2つあるのです。ひとつは戦争末期、B29

が海軍工廠めがけて爆撃をしたときのズシーン、ズシーンという地響き、100キロ近く

離れているのに、毎晩、防空壕でそれを聞かされた挙句、とうとう疎開することになった

こと、もうひとつは、戦後、高校の遠足で豊川河畔に行き、生まれてはじめてドブロクを

飲まされてひどく苦しんだこと。

 脱線してしまいましたが、佐奈川は堤防に桜並木、川岸のプロムナードに菜の花、それ

がずっと先が見えなくなるまで続いているのです。五条川は賑やかな花見客で溢れていま

したが、こちらは川岸を静かに歩く人が多く、桜と菜の花のデュエットをゆっくり楽しめる気が

しました。

 さて、これで私のさくら紀行は終り、豊橋でクルマを捨てて、こだまの車中で、豊橋のうなぎ

弁当と地酒の鬼殺しで締めました。

 

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さくら紀行 6 五条川の鯉のぼり

2012-04-14 09:00:17 | 活版印刷のふるさと紀行

 犬山をあとにして訪ねたのは五条川、愛知県岩倉市の町のほぼ中央を

流れています。岐阜県多治見市を源に、犬山や江南市を抜けて来た川で

すが、犬山の入鹿池から岩倉までの五条川の堤防沿いが「尾北自然歩道」

としてハイキングコースとして親しまれていると聞きました。

 堤防の上から川面をのぞきこんでいる人だかりを発見。背中ごしにのぞい

てみましたらなんと鯉のぼりが水面をゆらゆらと漂っているではありませんか。

満開の桜、澄んだ川面、そして色まばゆい鯉のぼり。まさに一幅の絵、歌の

小節にもなろうかという景色でありました。

 岩倉は鯉のぼりの町、染めた布地の糊を落とすための水洗い、「のんぼり

洗い」というのだそうで、400年近く伝統工芸を受け継ぎ、守ってきた幟屋が

町の誇りのようです。

 

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さくら紀行5 犬山城のからくり山車

2012-04-13 07:47:58 | 活版印刷のふるさと紀行
 犬山城の桜をたずねた日はさいわいにも犬山まつりの当日。駐車場からかなりの
距離を歩かされ、坂を上りきったところで、お囃子と嬌声とギィッ、ギィッという
なにかの軋む音が耳に飛び込んで来ました。
 なんと、それが犬山城前の広場でくりひろげられている山車(やま)の絢爛豪華な
巡行で、ギィッ、ギィッの音は山車が方向転換をするための車輪のきしみでした。

 広場のつきあたりに鎮座まします犬山城の守護神、針鋼神社に13台の山車が次々に
伺候するというハイライト・シーンにぶっかったのです。しばし、群衆に揉まれながら
見物することにしました。山車の上で太鼓を叩いている鉢巻き姿の男の児、祭りの法被
姿の男性に背負われて金ピカの祭り衣裳で神前ににかづく女の児、子どもの参加している
祭列はにぎやかで微笑ましいものです。

 山車も飛騨の高山祭りに出てくるからくり山車に似ていますが、似ていて当然、犬山
まつりの売り物は「山車からくり」で、祭りの土・日には、三層の車山13台が笛・太鼓
に合わせてからくり人形の演技を奉納するのだそうです。夜は車山の提灯に灯りがともさ
れ、満開の桜並木の通りを巡るといいます。見てみたいのですが断念。

 
 つぎに犬山城の天主閣に昇ってみました。急な梯子段をよじのぼって4階まで、各階の
展示物よりも各階の武者窓や4階の回廊から 入場客は四囲の眺望を楽しんでいました。
 1537年(天文6)、織田信長の叔父、織田信康によって築城されたこの城は国宝
4城(犬山・彦根・姫路・松本)のうちで最も古く、白帝城の別名があると今回はじめて
知りました。
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さくら紀行4 岡崎から奥三河へ

2012-04-12 16:10:31 | 活版印刷のふるさと紀行
 昨日の菅生川に別れを告げて、きょうの振り出しは奥三河の新城市。

 岡崎は西三河です。豊橋あたりは東三河、その奥、仏法僧で有名な鳳来寺(ほうらいじ)
あたりを奥三河といいます。
 愛知県は昔ふうにいいますと尾張と三河のふたつに今も大別できるのですが、このふたつ、
意外にいまでも風土も気性も違うのです。

 さて、「三河の嵐山」と呼ばれるのが「桜淵公園」、その名の通り、桜と巨岩や鍾乳洞など
の渓谷というか清流の淵が絶好の景勝を形づくっています。
それだけにちょっとこわい吊り橋もあるわけですが、近くの豊川や寒狭川(かんさがわ)で
採れた川魚の屋台や三河鶏のから揚げの方に目を奪われてしまいました。

 奥三河が戦国時代の舞台になったことがあります。例の長篠(ながしの)の合戦です。
織田・徳川の連合軍と武田軍が鉄砲隊と騎馬隊とで長篠城をめぐって激突したあの戦いです。
 映画や舞台にとりあげられた鳥居強右衛門(すねえもん)が活躍したのもこの戦いですし、
その主君、奥平貞昌が勲功から家康の長女亀姫をめとり、新城城を築いたのも有名な話です。

 そういえば、今朝の中日新聞の朝刊に「満開ベール 春の夜を彩る」という見出しで岡崎城
を背にライトアップされた見頃の桜の大きな写真が掲載されていました。さすが、新聞社。
明日は桜まつりのイベントとして「家康行列」があるとか、岡崎と新城の日取りを間違えた感
あり。
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