活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

さようなら2012年、歳末の銀座

2012-12-31 17:31:11 | 活版印刷のふるさと紀行

 クリスマス前後から雑用に追われ気がついたら大晦日になっていました。そうだ、年賀状だと思ったら保存してあった住所録のファイルが空っぽ、もぬけの殻。いつ、どうして消去されたのかその顛末は不明です。結局、年内の投函はあきらめて、まず、住所録ファイルの作成から始めなくてはならない仕儀と相成りました。

 そうなると、無性に歩き回りたくなって大晦日の銀座探訪に出かけました。4丁目の角に立ってみましたが、いつもより人出が少し多い程度、写真ではわかりにくいかもしれませんが、中央通りの街灯のポールに日の丸の小旗がずらーっとくくりつけられて、明日は元旦、「旗日」ですとアピールしているのが普段と違う風景。夜になると歩道に小粒のライトがきらめいてもうちょっと雰囲気がでるでしょうが、なにか、さみしい歳末です。

 昨日でしたか、テレビがアメリカで『ニューズウィーク』が印刷本はやめて電子版のみの発行に移ったと伝えておりました。画面に初老の紳士が登場して「紙に印刷された情報を読みたい」とは云っておりましたが情報社会の趨勢とあらばと、あきらめムードでした。

 『ニューズウィーク』につづく雑誌は必ず出てくるものと思われます。日本では今年2012年が電子書籍元年という意見があちこちで聞かれました。たしかに輪転機で紙に大量に印刷することが日本でもやがてなくなると危惧を抱いている人が私のまわりにもたくさんいます。たしかに2012年は出版印刷に先細りの影を落とした年と記憶されるべきでありましょう。

 私のそばを大型の観光バスが走り抜けていきました。大晦日だし、寒いことでもあるし、2階席のマスク姿の乗客はどういう人で、なんで、こんな日にと、ふと、思ってしまいました。

 

 

 

 

 

 

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『徒然草のアノ「とぜん」?』

2012-12-23 12:36:09 | 活版印刷のふるさと紀行

  「とぜん」と聞いて思わず徒然草の徒然が浮かびました。そこで聞いたのです。『徒然草』のアノ「とぜん」?

 「そうだよ、あの徒然さ」 友人の答えがかえってきました。「へーえっ」でした。昨晩の、私と友人との会話の一こまです。

 少し説明がいりそうですね。彼は最近、1603年(慶長8)から翌年に印刷・出版されたキリシタン版の『日葡辞書』に夢中になっています。当時、ポルトガル語を学ぶ日本人の神学生、向こうから日本に来た宣教師、双方に愛用された辞書として有名です。当時の京洛地方、カミと、信徒の多い九州、シモで使われていたことばを克明に拾い出して発音記号をつけた日葡両用辞典だと思ってください。

 「いや、驚いたよ。あの辞書にボクのいなかのことばが出てくるんだよ。その400年も前のことばが封じ込められていまだに使われていることを発見したんだよ」。ちなみに彼は九州の秋月出身。コピーライター歴の長い男ですから、ことばには敏感です。

 その『日葡辞書』の話の中で出て来たのが、この「とぜん」の話題でした。

「いまの若い人は知らないが、ウチのおふくろなんかよく使ったよ。正月休みが終わって、東京へ帰ろうとすると、「とぜん」ということばが必ず出るんだよ。「さみしくなる」という意味だよ。

『つれづれなるままに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くればあやしうこそ物狂ほしけれ』 ひょっとして、この冒頭の「つれづれなるままに」を「心さみしきままに」と解釈もできるなといおうとしましたが、やめました。やっぱり、ちょっとちがうかな。国語の時間で習ったとおりでいいかと。

彼の名は萩尾 です。


 

 

 

 

 

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ユズ湯と柚子胡椒

2012-12-21 16:10:56 | 活版印刷のふるさと紀行

 きょうは『冬至』、家人がかぼちゃとユズを買ってきました。五月の節句の菖蒲湯と冬至のユズ湯はハズセナイ我が家の行事ですから、そうか『ユズ湯の日』かと楽しい気分に。

 ユズは徳島のスダチや大分のカボスのように圧倒的に生産の多いところはなくて、比較的全国どこでもとれるところからユズ湯は全国的に定着した行事なのでしょうか。たしか江戸時代からと聞いています。

 私の場合、ユズは『柚子胡椒』ファンとして、かなり、ご厄介になっています。

 もう、10年ぐらい前になるでしょうか。五島に取材に行ったとき、福江で山の上の料理茶屋に案内されました。囲炉裏で五島牛やトレトレの魚介を串焼きにして頬張る豪快な店でした。その締めに五島うどんが供されたのですが、そこで柚子胡椒と初対面したのがはじまりでした。

 とたんにすっかり気に入って、おみやげに求めて帰ったのはもちろん、それから二度、三度、茶屋から取り寄せました。その後、東京でもあちこちで柚子胡椒を見かけるようになりました。大分産あり、福岡産あり、長崎産ありで、なぜか九州産です。

 私がいちばん気に入っているのは初恋ヨロシク福江島産で、次は羽田空港で売っている大分前津江産でしょうか。突然思い出しました、「ユズの大馬鹿十八年」でしたっけ。

 

 

 

 

 

 

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活字不在が過ぎる

2012-12-17 15:25:50 | 活版印刷のふるさと紀行

 暮れの押し詰まってからの選挙が終わりました。私の行った本郷の選挙会場は長蛇の列、結構、急だったのにもかかわらずみなさん真剣という印象でした。

 しかし、予想をしていたものの、即日開票の結果には驚かされました。今朝の新聞紙面はおしなべて国民の業績評価といい、厳しい審判結果だと書きたてています。

 私は若干、異議があります。疑念があります。唐突の感は免れませんが、あえて言わせてもらえば、最近の選挙はわれわれ選挙民がテレビがくだす評価、メディアが伝える審判にリードされた結果が大きいのではないでしょうか。ここでメディアといっても新聞や雑誌はもちろんのこと、各家庭に配布される選挙公報などの活字が丹念に読まれることはなさそうですし、テレビの影響がいちばん大きいのではないでしょうか。

 だんだんモノを読まなくなる、活字を通して考え、判断することが不得意になる。かててくわえてテレビに登場する評論家やキャスターが声をそろえて非難し、糾弾し、否定することで、自分を際立たせる、ついつい、「そんなものか」と視聴者も賛同する。こうなると、何党が政権をとろうと、だれが総理大臣なろうと同じような結果を招くような気がします。

 これは選挙に限りません。私はいまの日本では、「活字不在」が過ぎると思うのです。子どものときからもう少し活字を通して、自分のアタマで考え、判断する教育はできないものでしょうか。

 選挙の翌日の今日、東京は肌寒く、どんより鉛色の空です。  

 

 

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田中一光さんのこと

2012-12-14 10:28:50 | 活版印刷のふるさと紀行

 このところ飯田橋を通るとどうしても足を向けてしまうのが2か所あります。ひとつはBook-offで新品紛いの本で意外に出物に会える楽しみ、もうひとつがモリサワビルの一階ロビー、のギャラリー、9月からの田中一光ポスター展も、11月からのたて組ヨコ組展も3回ほどずつのぞいてしまいました。 ロビーの広さから10分足らずで見て回れる「田中一光とモリサワ展」は私の記憶の中に田中一光さんをみずみずしく蘇みがえらしてくれる気がします。

 田中一光さんんが亡くなられたのは2002年の1月でした。ということは10年も経つわけですがあの突然の訃報を耳にした日の驚き、寒かった葬儀の日、参列者のために焚かれていた火の色までまるで昨日のように思い出されます。

 私が田中さんと親しく口がきけるようになったのは大阪万博の仕事のときでした。それから銀座グラフィックギャラリーの企画展の監修をお願いしてからは毎月、会議でいろいろご意見をいただきました。とくに思い出すのは、スペインで「日本のポスター展」を開催したとき、田中さんが私たち担当者よりもはやく会場入りして率先して汗を流してくださったこと、会期中、夕食時にはお気に入りになったシェリーをニコニコして召し上がっていたこと、おそらく帰国時にはあの銘柄のシェリーをしこたま求められたのではなかったでしょうか。

 そういえば、田中一光さんは板前はだしの料理人でした。たびたびご自宅でごちそうになりました。寿司屋のカウンターにも負けないテーブルに懐石料理ふうに次々と料理が並ぶのですが、味はもちろんのこと、料理の盛られた食器の見事さにも目を奪われたものです。あるとき、ご馳走になった翌日電話がかかってきて「昨日、1品出し忘れたよ。今朝、冷蔵庫に食材がのこっていて気がついた、ゴメンよ」ということもありました。

 ミッドタウンの21_21デザインサイトの企画展「田中一光とデザインの前後左右」でも、この飯田橋でも10年前は小・中学生だったに違いない若い層が食い入るように一光作品に見入っています。田中さんのデザインが新しい世代をも魅了しつつあるなというのが実感です。これは蛇足ですが、私は田中一光さんに司馬遼太郎さんに似た臭いを感じます。お二人とももっと生きて、もっと作品を見せていただきたかったと思います。

 

 

 

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川井昌太郎さんの印刷都市論

2012-12-13 15:16:40 | 活版印刷のふるさと紀行

 2012年12月12日、見事に12が並んだ日に神田川大曲塾の研究会があった。会場は印刷博物館グーテンベルクルーム、講師は博物館学芸員の川井昌太郎さん。来年1月14日まで催されている「印刷都市東京と近代日本」を手がけた人であり、展示構想や理念について、芯があるウラ話が聴けたのでそのご紹介。

 現在、東京が日本のなかで、印刷の事業者数も従業者数も粗付加価値額も製造品出荷額もトップであることは平成22年の経産省の工業統計でも明らかですが、そのよってくるところを1860年から1890年、日本の近代化の基礎を築いた時期と東京の印刷都市化の時期が符合する点に着眼したのが本展のミソであり、出発点であったようです。

 まず、「印刷都市東京は印刷都市江戸にある」というのが、展示の第1章。1860年より前の『解体新書』(1874)や『重訂解体新書』(1826)、『北越雪譜』(1836~1842)など木版ではありますが、見事な整版ぶり、印刷技術を拝むことが出来ます。

 そして次が川井さんが力説する日本の近代化を推し進めた印刷都市東京台頭の時期の展示です。『太政官日誌』や『官報』など、それも明治政府みずから木版から活版へ主導している点を見せてくれます。また、1859年、1860年を目前にした年に開港した横浜と横浜から輸出された生糸のラベルには観客も意表を憑かれた思いがします。福沢諭吉の『学問のすゝめ』(1871)の金属製の楷書彫刻活字本は私は初見でした。田口卯吉の『日本開花小史』(1877~1882)も目を惹きました。

 東京の印刷は明治初年、印刷専業企業によって木版から活版へ、あるいは石版へと大きな潮流をうみだします。活字のみならず版画を含めて図像の印刷表現が大きく変わった点も見逃せません。このあたりも展示でしっかり見せてくれています。

 近代日本をつくりあげた印刷都市東京の川井さんの主張が納得でき、すんなり呑み込めた企画展として受け止めましたが、私としては1860年から明治・大正・昭和と隆盛を誇った印刷都市東京が2012年ともなるとすっかり褪色してきたようで、なんとも残念でなりません。印刷都市東京の印刷風土を調べることもわれわれ印刷文化史研究にとってひとつのターゲットではないでしょうか。事実、この東京の印刷風土調べが大曲塾の研究課題にもなっております。



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グーテンベルクより古いのが自慢

2012-12-08 15:30:03 | 活版印刷のふるさと紀行

  印刷図書館倶楽部の例会で印刷図書館のブログが話題になりました。さっそく見てみますと松浦 広さんの『図説 印刷文化の原点』の書評が掲載されておりました。

 偶然ですが、その日、帰宅すると大曲塾の吉田可重さんからその本が送られて来ているではありませんか。さっそく、その夜のうちに読み終えました。私がいちばんおもしろかったのは、日本で「印刷」ということばが使われ始めたのはいつで、だれが最初に使ったのかの論議でした。

 これについてはあらためてとりあげることにして、松浦さんはなかなかジャーナリスティックな切り口でいろいろ印刷文化の原点を紹介しておられ、「世界最古の印刷物」として日本の「百万塔陀羅尼」や中国の敦煌で発見された「金剛般若波羅蜜経」や韓国の仏国寺の「無垢浄光大陀羅尼経」があげられています。

 そこで、思いだしました。大曲塾の研究旅行で韓国の清州市の清州古印刷博物館で韓国には世界最古の金属活字本としてグーテンベルクの42行聖書よりも古い『直指』があると説明をを受けたときのことです。直指金属活字再現館という部屋があって人形が活字を鋳込み、組版を作り、印刷するプロセスまで見せてくれました。

 この高麗時代、1377年に清州興徳寺で刊行された『直指』、正確には「白雲和尚抄録仏祖直指心体要節」はフランスの代理公使が現物を本国に持ち帰ってしまったので、現在はフランス国立図書館に所蔵されています。下の写真は『直指』下巻の最終見開き三十九に宣光七年丁巳七月 日 青州牧外興徳治寺鋳字印施とあるいわば奥付けページです。「印施」が刊行当時、「印刷」を指していたのでしょうか。

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あんころ餅 いずこ

2012-12-07 10:02:04 | 活版印刷のふるさと紀行

 デパートの食品売り場をのぞくと、クリスマスケーキやチョコレートよりもはるかにおせち料理や正月餅の予約コーナーの方が大きな場所を占めています。

 昭和のかなりおそくまで餅は我が家で搗くもの、デパートや近所の米屋に予約するものではありませんでした。「もち搗き」はたいてい師走の28日ごろでした。「苦モチは搗くな」で29日は敬遠、31日は「一夜餅」で縁起が悪いというので選ばれた日でした。

 我が家ではお供え用の鏡餅からはじまって、お雑煮用ののしもち餅、そして最後に「あんころ餅」というのが餅つきの順序でした。こどものころの私はこの最後の「あん餅」バージョンが楽しみでした。臼の中で湯気をたてている搗きたてほやほやの餅を適当の大きさにちぎって掌の上で器用に薄くのばして、かたわらの大鍋から粒あんをひとかたまりとってまんじゅうふうに包んで丸餅に仕上げるという手順に見入っていたものです。、

 そうすると母親がモチ粉のついた真っ白な手でできたての「あんころ餅」をそっと差し出してくれたものです。その出来立ても旨かったのですが、もっと旨かったのは日の経ったあん餅を炭火で根気よく焼いて頬張るときでした。

 正月休みも終わり近くなると、あん餅も皮の部分がひび割れして固くなります。それを火鉢の炭の上に網をのせてゆっくり焼くのです。しばらくすると、ぽっんと皮の表面が泡状に隆起してそこからあんがのぞいたりします。我が家の場合、気長にあん餅を焼くのは父の特技でした。

 こうした「あんころ餅」そのものには東京ではめったにお目にかかれない。我が家近くでは岡埜栄泉小石川の大福がいちばん近い味です。ただし、焼く楽しみができないのが残念。

 

 

 

 

 

 

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デザインすることとは

2012-12-05 10:21:47 | 活版印刷のふるさと紀行

 12月の初めにしてはひどく寒い日にギンザ・グラフィック・ギャラリー第316回企画展テセウス・チャンのヴェルクNO.20 GINZAにでかけました。

 テセウス・チャンはアートディレクターとしてシンガポールで大活躍の人で2000年にスタートしたマガジン『WERK』(ヴェルク)の独創性あふれるデザインで若者の心をとらえて有名です。今回の企画展ではGGGの会場そのものをメディアとしてとらえ、WERK20号を見せてくれているのです。

 会場に足を踏み入れると、正面壁面にカラー・アズレージョと見紛うほど、カラフルなブックデザインが展示されています。マスとして見えるのですがそばに寄ると1点、1点のデザインが微妙に違うのです。彼の制作する『WERK』は1000部程度の限定出版だそうですが、やはり、1部ごとに表情が異なるそうです。しかも、その色遣いの明るさが私にはシンガポールでした。あのシンガポール・エア・ラインのスチュアーデスの制服にはじめて魅せられたときの感動を思い出しました。

 冗談はとにかく、テセウス・チャンのデザイン哲学は五感を総動員して創造して破壊することにあるといいます。田名網敬一さんの紹介によると彼は《雑誌づくりは恐ろしいのと同時に刺激に満ちている》といっているそうですが、まさしく冒険的ですらありました。ともすると、デザインすることは多くの人に共感と好感をもってもらうことを優先してしまいがちですが、刺激的な冒険が若者をひきつけるのでしょうか。そのせいか、会場は若者でいっぱいでした。

 もっとも会場に姿を見せたご当人も小柄で、にこやかで、若々しいイメージを横溢させていました。

 それにひきかえ、来月、GGGでポスター展をされる松永真さんに「地下組織のボスだね。それで自転車に乗ったら」といわれてしまった私。革コートに革ハンティング、それにトルコで求めたグレーと黒と白の中東風のマフラーがアンダーグラウンドを連想させてしまったのでしょうか。

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「おやっ、名刺がない」の夢

2012-12-04 13:40:07 | 活版印刷のふるさと紀行

 前回、インキュナビラについて触れましたが、正直、私は不勉強でグーテンベルクやその前の時代についての知識がありません。グーテンベルクが借金苦にまみれたり、マイツとストラスブールの間を往復して42行聖書づくりに挑んだエピソードだけは本で得た知識として知っておりますが。

 しかし、「印刷史」のなかでグーテンベルクの印刷術が、またたく間にヨーロッパ中に広まった100年足らずの間は、まさに「印刷の世紀」といってよかったと思います。そして、いま、印刷にとってかわって「デジタルの世紀」がすごいスピードで躍進中で、もはや活字を組んで印刷物をつくる光景は身近ではみられなくなってしまいました。

 考えてみると、この15世紀ごろの印刷所風景と似た光景はついこの間まで印刷機や職人の服装は変わっても、町の小さな印刷屋さんで見かけたものでした。子どもの頃、私もはがきや名刺や単色のチラシなどの端物屋さんの店先で、ガラス戸ごしに腰に手拭いをぶらさげたおっさんの手の動きを見入っていたものです。

 ここで話は飛びますが、私が年に2~3度みる怖い夢の話をします。主人公は名刺です。 大事な人と大事な名刺交換の局面で、とり出した名刺入れに自分の名刺がないのです。あわててさがすのですが、出てくるのは他人の名刺ばかりで自分のは1枚もないのです。そしてかならずそこで目が覚めるのです。冷や汗をかいています。

 実場面でこういう経験をしたことは無い筈です。なのにです。

 

 

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