活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

投票所は真砂小学校

2013-07-21 18:50:20 | 活版印刷のふるさと紀行

  参議院選挙、私の投票所は本郷小学校。昼近くではありましたが閑散としていて受付職員の方が手持ち無沙汰、いつものような出口調査のマスコミの人の影もない寂しい風景。投票を終えて春日通りに出ようとしたら角のレストランにはものすごい行列。おそらく、はるばる他地区からのご到来であろうから文句を言う筋合いではありませんが、「選挙をすませてからのお出かけですか」と聞きたくなりました。

 本郷小学校の旧名が真砂(まさご)小学校。あの“真砂町の先生”の真砂であることはいうまでもありません。由緒のある地名をズタズタにしたのも政治家やお役所のお偉いさんですから文句のひとつもいいたくなります。

 文京区の場合もサトウ八チローさんの熱心な提唱で残った弥生式土器の「弥生町」などを除いてかなりの町名が消えてしまっています。ところで、ここで声あり。本郷小学校は戦前から東大の龍岡門のあたりにあった名門校だったそうで、真砂小学校の代替として新規に出た校名ではないとのこと。真砂小学校出身の家人のつぶやきです。

 やがて、零時、選挙結果もほぼ出そろったようです。まだ、東京の投票率の数字は出ていませんが、いかがだったでしょうか。多分、低かったように思うのですが。

 それよりもなによりも今回の選挙でネット解禁になったことが、また「印刷」の世紀からの離脱の一現象です。FBやツイターの効果がどの程度だったかははっきりしませんが、選挙のたびにポスターをはじめリーフレットなどの紙媒体の制作に追われた身にとっては考えさせられる今回の選挙でした。 

 

 

 

 

 

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七夕や星に願いを金平糖

2013-07-07 11:28:12 | 活版印刷のふるさと紀行

 七夕、日曜日、例年よりも15日も早い梅雨明け。戸外の温度は昼前だというのに35度近いとは。私の住んでいるマンションでは熱心な女性がおられて、7月に入るやいなや「ぜひ、一筆」と、七夕飾りの短冊を入居者に配っておられるのです。きれいな包装紙を利用したエコ短冊です。 私も手渡された短冊に1句ものしたのですが中身は内緒にしておきましょう。

 ところで今日は日曜日。パパやママに連れられてレストランで「七夕スペシャルランチ」を楽しむお子さんも多いことでしょう。けれども、ひな祭りや端午の節句などと違って、七夕には定番の料理や菓子がないように思いますがいかがなものでしょうか。

 おそらく、彦星・織姫伝説にことよせてスープや付け合せやデザートにまで星形が乱舞していることでしょう。「星に願いを」です。

 さて、日本で星形の菓子のいちばん古いのなら、コンペイトー(金平糖)です。

 『日本史』で有名なポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが、織田信長に最初に会ったのが1569年(永禄12)の4月とされています。そのとき、信長がたくさんもらった贈り物の中からビロードの帽子だけを受け取ってあとは返したという話が有名ですが、帽子以外に、信長が喜んだのがギヤマンの壺に入ったきれいなコンフェイト、つまり、金平糖だったことはあまり知られておりません。(古田菊次郎著 『西洋菓子 日本のあゆみ』 より)

  もちろん、フロイスよりも以前、 ザビエルをトップバッターにヴィレラ、アルメイダ、カブラル、オルガンティーノ、ヴァリニャーノなど多くの宣教師が来日していますから、彼らと接触の多かった九州の人たちにはもっと早くからこの小さな星形の南蛮菓子に馴染みがあったと思われます。

 

 

 

 

 

                                       

 

                     

                                               

 

 

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出雲の「焼さば寿司」

2013-07-06 12:01:59 | 活版印刷のふるさと紀行

 ギンザ・グラフィック・ギャラリーのADC展オープニングに顔をだしたあと、銀座松屋の地階に足を向けました。先日、ここで求めた熊本産のフルーツと豆乳をミックスしてかわいい容器に入ったプリンが家人に好評だったことからです。

 しかし、その売り場に行きつく前に自分の大好物が目に入ってしまったのです。何を隠そうそれは「さば寿司」。もう何年か前、羽田空港で「空弁」が駅弁の向こうをはってはなばなしくデビューしたときのいちばんの売りがさば寿司でした。その時以来、大好物になりました。

 以来、折に触れて食しているのですが、そのほとんどが小浜など福井産でした。柿の葉寿司と並んでいる奈良産とのおつきあいもたびたびです。つい先日、名古屋に長期滞在していたときコンビニでたびたび買ったさば寿司は気取りがない弁当スタイルでたしか滋賀産でした。

 私が足を止めたのは、島根産、「出雲名物」とあり、初見だったのです。しかも仁多米とのコンビが売りでした。もちろん飛びつきました。お酢をきかせたさば寿司と焼さば寿司の2種類がありましたが、私の好みは焼さばの方。たっぷりとした肉厚のさばに、いかにもうまそうな焼きかげん、コクのありそうなタレ。

 帰宅して、フランケンワインの白をなめながらつまんだ味は格別でした。

 

 

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紙の本と電子書籍?・・・

2013-07-03 10:40:11 | 活版印刷のふるさと紀行

今朝、「日本経済新聞」の1ページ広告に目がとまりました。

紙の本を愛していない人が、電子書籍ユーザーになるだろうか。 これがヘッドラインでした。広告主は?と見るとTOPPANとありました。

この逆説的な問いかけは、多くの読者に一瞬、考えさせる時間をもたらしたに違いありませんし、この私も決して例外ではありませんでした。しかし、以下に続くコピーを読んでゆくと、凸版印刷が「コンテンツファクトリー」として読書スタイルの多様化にこたえるために一元化管理されたデータから電子書籍も印刷本も手掛けて行くぞという経営ポリシーの表明でした。

以前、「文芸春秋の昭和の100人」について書きましたときにも触れましたが、情報加工業としての印刷会社の業態がこのように二股かけたものになっていることは自明の理で、今更の感がなくもがなであります。

同じ新聞に大日本印刷が電子書籍搭載済みの読書専用端末を開発したという記事がありました。紙の本で買いそろえるとかさばる全集やシリーズものが読める専用端末だというのです。

また、学研や角川でしたか、新刊を原則として電子書籍で出すニュースもありました。いま、出版や印刷のありようが大きく変わろうとしていることは事実ですが、私は紙の本を愛している人が電子書籍のユーザーにならないことも見聞きしています。

電気仕掛けがないと読めない、デジタルコンテンツにはたして紙の本のような寿命があるだろうかなどときわめてベーシックな疑問を呈する人も少なくありません。次世紀まで生きてこの情報加工技術の行く末を見たいものです。

 

 

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マツザカヤのPR誌のこと2

2013-07-02 15:19:00 | 活版印刷のふるさと紀行

 『新装』はビジァルで見せることを狙いました。当然、カメラマンのパワーが制作上、大きなウェイトを占めました。カメラマンの名は佐々木照男、いまでこそササキスタジオといえば、コマーシャルフォトの世界でその名を知らない人はいませんが、当時はまだ、車はコロナ1台、助手君を入れて総勢7~8人の小スタジオでした。

 まだ、組んでまもないころ、京都の嵯峨野の竹やぶで着物の撮影をしたとき、腕いっぱいにやぶ蚊が止まっているのに平然とシャッターを切りつづける彼の姿に圧倒されたことがあります。伊勢志摩、鳥取砂丘、金沢城、ロケの行く先々で、あるいはスタジオで彼がもがき、苦しむ様を見るのは勉強になりました。

 レイアウトは初めのころは内藤新宿の二谷さん、のちに杉浦範茂さんでした。コピーは私が担当しましたが、あのころのマツザカヤはなんでも好きなことをさせてくれるすばらしいクライアントでした。『新装』の印刷は大日本印刷、面白かったのはオフセット6色のカラーページとグラビア1色のモノクロページの繰り返しという版式とページ構成だったことです。。

 『新装』の発行が終わったのはちょうど沖縄の海洋博が始まる頃でした。テレビの時代に勝てなくなったためでした。銀座マツザカヤに別れを告げて、「梅林」でかつ丼を食べました。そこで『銀座百点』が目に入りました。いまだにつづいているPR誌にこころから喝采と敬意を贈りたい気持ちになりました。

 

 

 

 

 

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マツザカヤのPR誌のこと

2013-07-01 12:17:19 | 活版印刷のふるさと紀行

 昨日、2013年6月30日かぎりで、銀座のマツザカヤが改築のために閉店しました。連日、5丁目界隈は閉店セールで大賑わい。それは、それで結構ですが、私はたまたま日曜日で歩行者天国にぶつかった中央通りに立ちすくんで、しばらくの間「また会う日まで」の看板を見ながらおもわず、回想に耽るのでありました。

 マツザカヤには大正年代に創刊されたPR誌『新装』というのがありました。高額得意先用に年4回配布されていました。いまでこそ、PR誌も廃語に近い媒体になってしまいましたが、おそらく当時は百貨店業界でも他に類を見ない先端を行く宣伝媒体であったはずです。

 たしか自社制作だったその『新装』が外部に制作が委託されるようになったのが1963年、休刊になったのが1972年ごろではなかったでしょうか。実は、その間、委託先の編集ディレクターをつとめたのが私です。もちろん、駆け出しの若造でした。それだけに、『新装』は私の思い出ボックス、青春と重なります。

東京のマツザカヤには上野店と銀座店の両方に宣伝部がありましたが、『新装』の 制作監修は銀座店の担当でした。たばこの「新生」のパッケージをデザインしたデザイナーの戸田信孝氏、編集者として「改造」や「週刊読売」で活躍され、当時は銀座店PR課長だった富重義人氏、お二人がきびしいチェッカーで、私はおそるおそるレイアウトがおわって入稿する原稿を一つ裏通りにある別館の宣伝部に届けたものです。

 

 

 

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