活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

陶板名画のふるさと訪問

2013-11-25 10:27:28 | 活版印刷のふるさと紀行
 陶板名画などというと怪訝に思われる方もいらっしゃるでしょう。かくいう私も数年前までそうでした。

 その存在を知り、「印刷」とは対極面にある陶板による美術表現に興味をもったのは徳島県鳴門市にある『大塚国際美術館』を訪ねたことによります。古代壁画から現代絵画まで名画ばかりを2万㎡近い展示スペースを使って見せてくれていました。世界25ヶ国、190の美術館の所蔵品2千点の陶板複製の了解をとり、オリジナルの原寸そのままで陶板に再現するには独自の技術はもちろんのことですが、その裏に所蔵者、制作者との交渉、校正にどれくらいの手間がかかったものか、印刷カレンダーの制作体験と重ね合わせてその苦労を思いやった次第。

 その大塚国際美術館の陶板名画のふるさと大塚オーミ陶業の信楽工場が今日の訪問先です。

 大型陶板、テラコッタ、OTセラミックスこの3つの製品分野を軸にいわゆる『セラミック・クリエィティブ』の追求と創造が企業理念のようですが、ショールーム入り口のラクダにまず、ひかれてしまいました。

 お隣の工場見学はさておいて、ショールームを見ただけでもセラミック・クリエィティブの大変さがよくわかりました。
 ゴッホやフェルメールやモネなど名画の陶板再現はもちろんですが、たとえば、キトラ古墳の壁画の再現や日本の国会議事堂の上部のテラコッタなどは意外といえば意外のものもありました。個人的にはピカソの「ゲルニカ」やエル・グレコの「祭壇画の衝立」の復元プロセスが興味ぶかかったのですが、鳴門の美術館でびっくりさせられたミケランジェロのシティーナ礼拝堂がらみのデータが少なかったのが残念でした。

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のぼり窯と狸

2013-11-24 11:45:26 | 活版印刷のふるさと紀行
信楽(しがらき)といえば、「たぬきの焼き物」を連想する方が多い筈。
 ところが日本最大の「のぼり窯」の窯元に向かう車中での私は 信楽と同じ 日本六古窯の地
瀬戸を思い出していました。
 
 幼いころ、母の実家のある瀬戸にはなんども連れられて行きました。その町角に瀬戸焼の大きなたぬきがいて、そこまで行くとめざす母の家はすぐでした。もう当時は廃業していましたが、母の家も何代もつづく窯元でした。突然、雨が降ってくるような日にはのぼり窯で焚く松割り木を濡らさないように片づける手伝いが大変だったという子供のころの思い出をたびたび聞かされたものです。

 きょう訪ねたのは信楽市内の宗陶苑。さすがに11室からなるのぼり窯は焚き口から斜面に沿って最後尾まで30メートルも登っていくと息切れがするほどでした。この窯は松割り木を一度に千数百束も焚きあげ、1400度Cにも及ぶ高温で焼きしめるというのですからちょっと想像するのもむづかしい感じでした。とにかく、11室に棚組をして満杯にするのに40日、釜焚きは少なくとも7昼夜、さましに3日それがすべて手作業と聞くとなおさらです。

 11月8日が信楽たぬきの日だったそうですが、町のあちこちにたぬきがいて「町の人口よりはるかにたぬきの人口の方が多い」そうです。宗陶苑にもたぬきの大集団がありました。
余分なことですが、私が小さいころ見た瀬戸の大たぬきは立派のモノをぶらさげていたと思います。「タンタン狸の…」、「風がないのに…」とはやしたこともありました。どうも信楽のたぬき君は持ち合わせていないようでしたが。

 
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近江商人の里、五個荘

2013-11-18 09:16:58 | 活版印刷のふるさと紀行
翌日は東近江市の五個荘(ごがしょう)を歩きました。山形の鶴岡の町並みを歩いたときに似た江戸や明治の空気がどこかに残っていて、手のひらを伸ばすとその時代の余香が掴み取れるような気がしました。

 案内所でもらったマップに「近江商人発祥の地 てんびんの里」とあり、白壁と蔵屋敷まっぷともありました。聞けばてんびん棒一本から豪商に昇りつめた近江商人のこの五個荘出身者が多かったそうです。人っ子一人見つけられないような町でまず目についたのが、蔵屋敷の舟板壁の立ち並ぶ道の側溝を泳ぐ鯉でした。水面の上に何本かの針金が張られているのはカラスよけ、猫よけでしょうか。

 写真のような郵便ポストがポツンと立っているところがありました。五個荘出身の商人たちが活躍したのは、江戸時代後半から明治にかけてといいます。あるいは明治になって郵便制度ができてからは飛脚にたよらず、商売先からの連絡は郵便によったのかもしれません。念のため、このポストは景観シンボルで実用はできません。

 「売り手よし、買い手よし、世間によし」の「三方よし」をモットーに近江商人が扱った商品は呉服・太物はじめ生活必需品すべてにわたっていますが、いまも日本の経済界で君臨している商社・デパート・保険会社などそうそうたる社名をあげられるとなるほどと感心してしまいます。見学できる商人屋敷や近江商人博物館を見てまわると、なんとなく近江商人の心意気やルーツが頭に入ります。

 夕食は近江商人屋敷をそのまま使った愛知川(えちがわ)近くのその名もズバリの近江商人亭で頂きました。食器も凝っていましたが、店の入り口から御座敷、庭の眺め、すべてがグッド、私には鯉の甘煮が最高、ふな寿司は苦手でした。









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近江八幡を歩く

2013-11-17 11:05:44 | 活版印刷のふるさと紀行
 七五三の季節。振り出しの「日牟禮八幡宮」にも七五三の祝い幕が風に舞っていました。この社は千年以上の歴史を持ち八幡祭りや左義長の火祭りでも知られていますが、入母屋づくりの立派な昇殿にかつて近江商人の守護神として信仰を集めていた歴史が偲ばれました。

 迂闊にも水郷八幡めぐりの看板を見て、近江八幡に「八幡堀」という運河のあることを知りました。豊臣秀次が八幡山城下発展のために四百年前に掘ったといい、それが今では近江八幡の景観ベストワンになっているといいいます。橋の上で観光客が「ここ、ここ、鬼平犯科帳に出ていたじゃん」といっていましたが、時代劇のロケ地としても重宝されているそうです。

 趣深い民家や商家のたたずまいを見ながら歩くのは楽しい。これも知らなかったことですが明治の後半、近江八幡で活躍したウィリアム・メレル・ヴォーリズの代表的な建築ヴォーリズ記念病院などの建築群をめぐったのも参考になりました。メンソレターム(現メンターム)や近江兄弟社はよく知っていましたが、これもヴォーリズが輸入にかかわったのがはじめで、資料館に立ち寄りました。

 食い物談義をしてはいけませんが、近江八幡は旨いものの町、3、4日は滞在して食べまくりたい町でもありました。近江牛や湖魚料理の老舗もさることながら、名物赤こんにゃくや麩の料理、甘味としては、かねて贔屓の東京のデパートにも出店している有名店が日牟禮八幡の境内にありましたし、あちこちで見かけたでっち羊羹や黒ういろもたべてみたかった。ひとつ、うれしかったのは、水郷めぐりの発着所のそばの郷土館で求めた琵琶湖産のウナギの佃煮、
帰京してからのお茶漬けにぴったりでした。
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謎の多い天平の都、「紫香楽宮しがらきのみや」

2013-11-15 08:43:00 | 活版印刷のふるさと紀行

 朝から甲賀市の紫香楽宮関連遺跡群調査事務所出土遺物展示室という長ったらしい名前の展示室にお邪魔していました。といっても、市の予算が厳しいせいでしょうか、ビル工事の建築事務所みたいの仮構造物ですから1300年も前の天平のタイムカプセルのなかで、聖武天皇や光明皇后が口惜しがっておられるかもしれません。
 
 展示室の正面ど真ん中に古い太い木の柱が鎮座ましましていたのですが、これが聖武天皇が744年(天平16)に紫香楽宮として日本の都に定めたであろう場所から出土した柱だというのです。いや、もっと正確にいうなら、この柱根の出土からここが紫香楽宮の皇居跡だろうと考えられるようになったようです。

 さっそく、昭和58年から平成24年までの間に40回発掘調査された現地を訪ねました。いまは埋め戻されて田圃になっていて、私としてはさっき見たここから出土した木簡や土器、木製品などから皇居だったことを想像するしかないようです。話は複雑になりますが、この田圃の方を宮町遺跡といっているようですが、次に、史跡紫香楽宮跡としてもうひとつ内裏野地区という丘陵にある遺跡の方を訪ねました。どうやら大正時代から戦後まではこちらだけが史跡になっていた旧顔で宮町遺跡の方が新顔。しかも皇居跡としてデビューしたらしいのです。

 その旧顔の方は塔や鐘楼や講堂や僧坊がある伽藍スタイルの堂々たる遺跡、甲賀寺のあったところのようです。ですから鐘楼跡のきれいに並んだ礎石の上をたどりながら、1300年前の寺鐘の音を想像するのもいいものでした。しかし、都は4年半ほどで平城京に戻ります。紫香楽宮遷都をこころよく思わない平城京擁護派が山火事を頻発させたせいという説もありますが、謎です。私にとっては知識不足で謎の多い天平の都の遺跡めぐりでした。

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湖南アルプスとミホ ミュージアム2

2013-11-12 17:58:41 | 活版印刷のふるさと紀行


 ミホ ミュージアムの本年秋季特別展タイトルは、<朱漆「根来」―中世に咲いた華>。
「根来(ねごろ)」とは、歴史小説などでおなじみの根来衆の略称みたいですが、さにあらず、中世のころから日本のお寺や神社で使われてきた朱漆塗りの什器のことをいいます。
 この特別展にはその朱漆のお盆とかお椀とか酒器とかが出品されていますが、400年から600年も前の年期のはいった什器を単に鑑賞するというのではありません。

 たとえば、写真右のお盆は鎌倉時代から奈良東大寺の二月堂で使用されたものですが、長い間に朱塗りが擦れて下地の黒がまるで模様のように浮き出て来ています。それがまるでデザインのようでいっそう什器の美しさをきわださせています。なお、左は神社で使われた瓶子ですがいずれもMIHO MUSEUM通信32からの借用であることをおことわりします。

 と、文章にしてしまうとそれだけですが、照度を落とした会場で一点、一点「根来」の器物と対面していますと、鎌倉や江戸の時代の気配というか空気感がそこはかとなく感じられてきました。しっとりと落ち着いた展示空間でした。

 また、常設展会場でも日本の古美術ものはもちろん、パキスタンのガンダーラ仏立像やエジプトの隼頭神像などその場でずっと足をとどめていたい展示物がたくさんありました。雪の降りだす前に湖南アルプスの自然をめでながらのミホ ミュージアム探訪をぜひお勧めします。
根来展は2013年12月15日までです。

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湖南アルプスとミホ ミュージアム1

2013-11-12 12:43:09 | 活版印刷のふるさと紀行
 湖南アルプスは初耳でした。ミホ ミュージアムも館名を聞いたことがある程度の私が神田川大曲塾の研修旅行で初めて本日、訪ねることになったのです。
 湖南アルプスは紅葉が始まっていました。

 予備知識がなかっただけに、その美術館見学は驚きの連続でした。ミホ ミュージアムの所在地は滋賀県甲賀市信楽町、JR石山駅が最寄り駅とありましたが、私たちは大津からマイクロバスで50分ほどで到着できました。

 まず驚いたのはクルマが着いたのはレセプション棟、そこから美術館棟まではなんとゴルフ場のセルフカートの超デラックス版のような電気自動車をインフォメーション嬢が運転してくれる。もちろん、紅葉をめでながら徒歩で行くこともできます。

 次に驚いたのはミホ ミュージアムの建物の素晴らしさ。建築設計がルーブルのガラスのピラミッドやワシントンのナショナルギャラリー東館で有名なI.M.ペイ氏と聞いて納得。とにかく湖南アルプス山中に忽然と現れた構造美に目を奪われた次第。

 美術館スペースはエジプト、西アジア、ギリシア、ローマ、南アジア、中国、ペルシア、中央アジアなどの古代美術の展示している南館と特別展の会場にあてられる北館からなっていますが、われわれが本日めざすのは特別展「根来」、朱漆の世界です。それについては次回。
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成子紙工房を訪ねる

2013-11-03 12:00:39 | 活版印刷のふるさと紀行
 雨台風が通り過ぎて風も空も透き通るような秋の気配のなかを滋賀県大津市桐生に「成子紙
工房」を訪ねました。山裾の外見は当り前の日本家屋の工房にお邪魔するには手前の田んぼのところで車を捨てなければなりませんでした。稲刈りの済んだ田んぼには再び新しい稲が自生していてしかも籾をつけているではありませんか。「近江米」の産地でした。

 近江雁皮紙の工房はもうここしかないと聞きました。手漉きの和紙には以前から興味がありました。楮(こうぞ)や三椏(みつまた)を原料とする和紙とちがい、雁皮というジンチョウゲ科の雑木の皮が原料で日本のかな文字文化を支え、紫式部が源氏物語の草稿の筆を走らせたのも雁皮紙だったはずです。さらにいうならば、日本に最初に持ち込まれたグーテンベルク方式の活版印刷機で印刷されたキリシタン版も和紙に印刷されています。


 「成子紙工房」の4代目紙匠、成子哲郎さんに桐生と紙漉きの歴史をうかがいました。
江戸末期で当時は原料の雁皮が周辺の山、訪問で原料づくりの工程を見せてもらうわけには行きませんでしたが工房内をくまなく案内していただいて、紙漉き体験をさせていただきました。生来の不器用ゆえうまかろうはずはありませんが乾燥した作品?を後日、送っていただけるそうですから楽しみです。

 紙匠によると、紙漉きは漉き手の心を漉きあがる紙にそのまま映し出すものだそうです。邪心があればむらができたり、厚い薄いができたりしてしまうと聞きました。


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