活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

ブックフェアに寄せて

2014-05-29 14:29:26 | 活版印刷のふるさと紀行

 今年も「東京国際ブックフェア」が7月2日から5日まで東京ビックサイトで開催されます.出展各社のブースを時間をかけてめぐるのも楽しいのですが、最近はセミナーに顏を出して新知識に触れると、なにか得をした気がします。

 とくに私にとっては距離のあるデジタルやeBooksがらみで聴きたい内容が目白押しです。ただ、デジタルや電子出版ではまだまだ疑問に思うことが多いのが事実です。前回、グテンベルクの活版印刷術の発明から半世紀にヴェネツィアが本の町として世界に冠たる発展をとげたアレサンドロの著作を紹介しましたが、その時代に印刷された活版印刷本が、インキナビュラとしていまでも珍重されております。

 このように紙の本は500年も生き延びているわけですが,いま、われわれの目の前でもてはやされているeBooksが500年生き延びる保証がはたしてあるでしょうか。デジタルデータの変質が起きない約束が出来るでしょうか。データを読み取る機器類の変化がどれだけ計算されているでしょうか。デジタルの信用度とでもいうべきものに万全の信頼がおけるものでしょうか。

 書店や図書館のありようがアナログの方が便利ではないだろうかと、つい、思ってしまう私です。その意味で7月のブックフェアは楽しみですし、10月のフランクフルトのブックフェアにはもっと期待したいとおもいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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ヴェネツィアは本の都だった

2014-05-27 15:44:34 | 活版印刷のふるさと紀行

 この二,三日夢中になって読んだ本が『そのとき、本が生まれた』(柏書房)でした。実はもう一年も前、書名に惹かれて購入したまま、積ん読してあったのですが、なにげなく手に取って読み始めたらもっと早く読むべきだったと後悔するような箇所に次々と引き込まれた次第です。

 著者はアレッサンドロ・マルツォ・マーニョというヴェネツィア大学でヴェネツィア史を専攻したイタリア人で週刊誌の編集者、翻訳者は清水由貴子さん。

 16世紀前半、ヨーロッパで出版されていた本の半分以上を出版していたとされる本の都ヴェネツィアをいきいきと愛情をもって書いているのです。まず、書き出しが素敵でした。いま、リアルト橋からサンマルコ広場へ通じるメルチェリ通りには靴、ハンドバック、アクセサリー、フェラーリーのスポーツカーまで並んでいます。それが16世紀だったらどうだったろう、ヴェネツィア特産の織物や皮革の店はもちろんですが、断然多かったのが書店だったというのです。

 この書店に並ぶ本の大半が印刷者兼発行人の作品だったといい、著者は当時の書店の店内の様子まで活写しています。たとえば、書棚に陳列してある本は背でなく、小口が見えるようにしてあって、小口に著者名と書名が刻印されていたそうです。 こういう出版、印刷についてのおもしろいエピソードが山積みなのです。そうはいっても私があまり内容を紹介してはいけません。ただひとつ、この本には書写本から印刷本に移行したときの印刷工、印刷能力、賃金、印刷機などについてかなり書き込んであり、印刷技術史・印刷文化史としても興味深いのでぜひ、印刷関係のみなさんにもご一読をお奨めします。

 ところで、今年も東京国際ブックフェアが近づいてきました。併催の電子出版EXPOも18回を数えるといいます。私は「電子出版」に興味がありますので、次回その件を書きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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信長とコンペイトウ

2014-05-24 14:04:39 | 活版印刷のふるさと紀行

 織田信長が足利義昭を奉じて上洛したのは1568年(永禄11年)でした。翌年、彼は足利義昭の屋形として二条御所の建築にさっそくとりかかりました。

 その工事現場で監督をしていた信長の前にあらわれたのがイエズス会の宣教師、『日本史』の執筆者ルイス・フロイスでした。

 もちろん、まだ、『日本史』の執筆はしていません。信長に布教の許可を受けたくておそるおそる参上したのでした。そのとき、彼がお土産として差し出したのが数本のロウソクとギャマンの壺に入った金平糖、コンペイトウだったのは有名な話です。

 そのとき、新進気鋭34歳の信長に対して滞日10年近い37歳フロイスとの間でどのような会話があったのでしょうか。当時から信長が仏教に対して反感を抱いていたことは確かでしたし、初対面のフロイスに好感を持ったことは、その後の信長のキリシタンに対する厚遇ぶりでわかります。

 ところで、そのときのコンペイトウはいま、私たちが知っているのとはかなり違っていたと思われます。私もポルトガルでコンペイトウさがしをしたことがありますが、ナッツやチョコレートに糖衣をかぶせたものがいちばん近い感じで、あの日本風のは見つけられませんでした。コンペイトウはスペイン語のconfeitos「糖菓」が語源だといいますから、いまの日本のコンペイトウは日本独特のものといえましょう。

 コンペイトウは長崎を振り出しに、焼米やケシの実に糖衣をかぶせて、見よう見まねで「南蛮菓子づくり」につとめたようですが、文化・文政時代になって江戸で庶民の手にもわたる貴重な南蛮菓子として認められるようになったといいます。

 しかし、コンペイトウが信長を動かし、イエズス会の布教をスムーズにしたと考えるのも面白いですね。ただ、フロイスの献上したコンペイトウはどこで作られたものでしょうか。糖衣が主人公では、長い南蛮船の旅はむずかしいので、せいぜい、マカオあたりで作られたのでしょうか。まさか、フロイスが住院でみずから作ったとは思えません。

 

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安来といえば足立美術館

2014-05-19 11:37:18 | 活版印刷のふるさと紀行

 松江出身のお嬢さんの手みゃげがこの写真のお菓子でした。ひょっとこのお面にドジョウ掬いのザルまでついたまんじゅうは甘党でもある私にとっては実にうれしいおみゃげ。それにしても、たくさんある地元銘菓の中で、彼女がどうしてこのドジョウ掬いを選んでくれたのか、聞きたかったけれどつい、遠慮してしまいました。まさか、「そっくりだから」なんていう答えは返ってこないとは思いましたが。

 さて、「ドジョウ掬い」といえば、安来(やすぎ)、安来といえば、足立美術館。彼女は行ったことがないというので、つい、ひとくさり、『足立美術館』について弁じてしまいました。 安来駅で下車したらドジョウ掬いの踊り姿の写真台があったので、顔のところをくりぬいた穴にわが顔をつっこんで記念撮影してから美術館行のバスに乗り込んだ記憶が手伝ってのことかもしれません。

 足立美術館は日本の庭園美術館のなかでも最たるもの、広い敷地に「枯山水庭」」、「白砂青砂」、「苔庭」、「亀鶴の滝」などがまるで何十年も前からそこに存在していたように観客の歩みにつれて展開するのです。創始者の足立全康さんが横山大観の美の世界に心酔していたといい、大観の『白砂青砂』が「枯山水庭」に、『那智乃滝』が「亀鶴の滝」の景観づくりに結びついたと聞きました。

 とにかく、食事をとったり、大観の特別展示室や北大路魯山人展示室で美術作品にふれて、時間をかえて再度、庭園を歩くと木々の色も岩肌の輝きも水に映る影もまったく前見たときと変わって目に入ってきて、日本庭園の微妙なうつろい、翳りを体感できるのです。時間をとってぜひ、いちど足立美術館をお訪ねになることをお勧めします。もっとも、松江の彼女に「あそこは一人で行ってじっくり楽しむべきで、ツーショットの写真を撮りに行くところではないよ」と余分な念押しをしてしまった私でした。ゴメン。わたしが出雲の神様なれば添わしてあげたい人がある くらいの気持ちにならねば。

 

 

 

 

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こわいブルーライトとフリッカー問題

2014-05-16 11:58:14 | 活版印刷のふるさと紀行

 昨日、印刷図書館の定例クラブで、東海大学名誉教授の高橋恭介先生から勉強になる「こわ^-い話」をうかがったので受け売りでみなさんにご紹介しようと思います。

 最近のスマホブームはすごいですね。地下鉄で前に座っている人の列全員がスマホ画面に釘づけなんて当たり前の光景になってしまいました。スマホに限らずパソコンにしろ、テレビにしろ液晶ディスプレにしろ液晶ディスプレイで情報を手軽に受け取るのが私たちの日常です。

 ところがあのLEDバックライト液晶ディスプレイを長く見続けるとヴィジュアル・ディスプレイ・ターミナルVDT症候群という眼精疲労、腰痛、肩こり、不眠などの健康被害を生じるので個人個人が要注意だというのです。とくに、子どもさんはこの電子機器の発するブルーライトに気をつけなくてはいけないのです。

 さらに、もうひとつ、フリッカー、゜ちかちか〟問題があります。あまり、意識できないかも知れませんが、われわれの眼はLEDのフリッカーにさらされていますから、それが眼の痛み、憑かれ、睡眠、精神状態に与える影響や大といえます。こわーいのは、この画面のちらつきです。

 眼科医や医療分野の専門家による「ブルーライト研究会」がたちあげられ、研究が進んではいるようですが、まだ、テクノストレスのブルーライトとフリッカー問題がさほど大きくとりあげられていないだけに、こわいですね。『ネーティブ・タブレット』と称して生れ落ちるからLED液晶ディスプレイとかかわりの深い電子機器と人間のインターフェースがアメリカあたりでもかなりクローズアップされているようです。

 

 

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文字と音を考える展覧会GGG

2014-05-11 16:30:15 | 活版印刷のふるさと紀行

 ギンザ・グラフィック・ギャラリーの5月展、第333回企画展を見ました。毎月の企画展を見慣れた目にはこれがいつもグラフィックデザインのカラフルな世界が美を競う同じスペースなのかと異空間に迷い込んだのが第一印象でした。

 phono/guraphと大きな文字のタイトルがあり、その下にsounnd,letters,graphicsと続くインフォメーション・リーフを手にしたときから「いつもと違うぞ」とは思っていましたが、まさにGGG始まって以来の異色の展示でした。

 多分、いちばんの企画首謀者?と思われる藤本由紀夫氏によると、メディアが大きく変わる時代にあって私たちはみんなでどのようなメディアでどのようの表現がなされるのか、出展アーチストにそれぞれ考えていただき、その作品をみながら来館者のみなさんにもいっしょに考えてもらうのがねらいということでした。

 とくに「活字」と「音」についてが今回のメインテーマで興味深い展示にひきこまれました。《もしもエジソンがグーテンベルクより早くうまれていたならば、書物は音の記録物として流通していたかもしれない》といい、エジソンが発明した蓄音機phonographは今、photographと同じように扱えるゆえに、文字と音は新しいかかわりを必要としているとは藤本氏のことば。

ならば、電子メディアはいかがのものでしょうか。とにかく、銀座まで足を伸ばして、展示を見てご意見をお聞かせください。

 

 

 

 

 

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五万石でも岡崎様は

2014-05-04 16:32:55 | 活版印刷のふるさと紀行

 いまのところ好天続きのゴールデンウィークですが残念ながら東京に缶詰でおります。たまたまその休みの谷間に6月15日に本年度の同窓会総会と懇親会が開催される案内状がふるさとの高校同窓会から舞い込みました。そこで、ふるさと自慢。

 私のふるさとは愛知県岡崎市、徳川家康が生まれた三河きっての城下町です。しかし、家康には恨みがあります。高校のころ数学のワカリが悪いと、教師がいいました。「そりゃそうだろうな。家康は頭のきれる者はみんな江戸へ連れて行った、君たちの先祖はそのとき、岡崎に残された頭の持ち主だった、その末裔である君たちの頭がよかろうはずがない」と。わが先祖を選から洩らした家康め、というわけです。

 家康は1542年(天文11)に岡崎城で生まれています。その後の運命を決めた桶狭間の合戦のときが18歳、しかし、本人は10年足らずで浜松に移り、本拠でないためなのか岡崎城は代々、水野とか本多とか有力家臣閥に経営は任されたようです。そういえば、小学生のとき「本多賞」が最優秀賞でした。由緒のわりに五万石とは禄高が少ないように思いますが、その理由は知りません。

 「五万石でも岡崎様はお城下まで舟が着く」の俗曲どおり、岡崎城は矢作川に合流する乙川(おとがわ)のほとりに天主閣がありますが、この川の堤防から城内まで桜のオンパレです。とくにライトアップされた夜桜は近くを走る名鉄電車の車窓からもよく見ることができ、桜名所100選に入っていたと思います。三河花火・八丁味噌・五万石藤・花崗岩 町の名物は地味かもしれませんが、海も山も近く、気候は温暖、人情こまやかで住みよい町、暮らしやすい町です。

 6月の同窓会には出席できませんが、10月25日には今年2度目の在京同窓会がありますのでそちらには顏を出す予定です。毎回300名近く集まる盛会です。

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世界遺産と長崎教会群

2014-05-03 12:52:44 | 活版印刷のふるさと紀行

 この6月にも富岡製糸所が世界遺産登録される見通しになったというので、はやばやと見学者が押しかけている様子を連日のようにテレビが伝えています。私の記憶では何年か前に、富岡製糸所と富士山と長崎の教会群とキリスト教関連遺産が同時期に登録候補になったとおもうのですが、3つのうち長崎はどうなっているのでしょうか。

 天正時代にキリシタンがもたらした活版印刷とのからみから、長崎や島原や天草などを取材させてもらっているうちにすっかり長崎ファンとなった私にとっては最大関心事でさえあります。

 1590年(天正18)に島原の加津佐に金属活字を使う印刷機をはじめグーテンベルク系の印刷関連の道具が陸揚げされたわけですが、既にその3年前1587年に秀吉が5か条からなる『伴天連追放令』を出しているものですから、きりしたん版の印刷は潜行状態で進めなくてはなりませんでした。しかし、1610年ごろまでは工房の場所を変えたり、隠れながらなんとか進めることができました。

 キリシタン弾圧が苛酷さを加え始めたのは1614年を境にしてのことですが、とにかくそれから250年近くの信者たちの苦しみは大変なものであったでしょう。今年のはじめ、日経にバチカン図書館で江戸時代のキリシタン禁圧の史資料が大量に見つかったとありました。昭和初期から戦後の1950年代まで大分を中心に布教していたイタリア人神父マリオ・マレガ神父が蒐集したものだといいい、その数は1万点にも及ぶそうです。

 そろそろ日伊共同で研究・調査がはじまる頃かと思いますが、かずかずの殉教を経て、長崎で護りつづけられたキリスト教と教会が富岡製糸所とともに世界遺産に加えられることをねがいます。連休に長崎の「二十六聖人記念館」を訪れて、殉教や隠れキリシタンの歴史と向かい合うのもおすすめです。

  

 

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