活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

初対面だった「ぎばさ」

2014-06-26 17:46:04 | 活版印刷のふるさと紀行

 「旦那さん、コレ知ってる?」デパートの地階の食品売り場でハッピの男性にいきなり声をかけられました。思わず足を止めたら目の前に緑色のネバネバ状のものが小皿に盛られてつきだされました。オクラを刻んでネバネバにした感じに似ておりました。

 「いいえ、知らないな」、「やっぱり知りませんか」 こんなやりとりのあと、男鹿半島と染め抜いたハッ、ピの小父さんはゆっくり説明にかかりました。半分は得意そうでもありました。「これは秋田県の名産、昔から地元の人には欠かせない味です。さあ、食べてみて」小皿にめんつゆを2,3滴落として薦めてくれました。

 直感した通り、口当たりはオクラ、ネバネバのオクラ、とろろにも似ていましたが、もうちょっとだけここちよいザラツキ感 が舌に残りりましたがナカナカ、ふっと磯の香を嗅いだような気がして「海藻だね」と念を押しました。ご名答。正式にはアカモクというのだそうですが、とにかく私は初対面、炊き立て、ほかほかのご飯にのっけて食べてみたいと500グラムだけ買いました。値段は想像したよりも高い感じがしないでもなかったのですが、「初物、初物」。

 それにしても「ぎばさ」を知らないなんてと笑われそうな気がしてきたのは、インターネットで調べたら通販でヤマほどあるではありませんか。ファンは多いのだ。フコダインという食物繊維が豊富、ポリエノール、ミネラル、ビタミンの含有も多いといいことづくめ。

 初回は私流に静岡のわさびと先日求めた佐原の生醤油で食べてみました。大根オロシやシラスも合いそうです。しかし、外国ならいざしらず、国内でも名前も知らなかった名産があるなんて恥ずかしい話です。




 

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プリンティング・ディレクターという職種

2014-06-23 10:31:26 | 活版印刷のふるさと紀行

 今朝、NHKテレビの連ドラ「花子とアン」を見ていたら、出版社の新雑誌創刊企画会議に 印刷会社の担当営業が表紙案を携えて参加している場面がありました。設定では編集長が呼んだことになっていましたが、こんなこと、とても当時ではあり得なかっただろうなと思いました。

 日本の場合、印刷発注者である出版社は印刷会社を下請けと見て、渡した原稿をキチンと印刷さえしてくれればいいという接し方が普通で、その時代が戦前・戦後と長く続きました。出版社ではなく、カタログとかカレンダー・ポスターなどの商業印刷物のクライアントがデザインや企画から印刷会社に相談するようになったのは1950年代の終わりでした。

 そこで大手の印刷会社に広告代理店の組織に似たクリェイティブ部門ができはじめました。ところが印刷物の出来を握っている工場の整版や印刷部門とクリェイティブ部門とはさほど密接に機能できませんでした。それでは駄目だというので印刷会社にプリンテイング・ディレクターという職種が生まれたのが1960年代の半ばでした。私が知っている大日本印刷では資生堂の中村誠さんの制作現場で中野慶一さんがプリンティング・ディレクターとして活躍し始めたのが確か1966年でした。 

 プリンティング・ディレクターは写真やデザイン、タイポグラフィーはもちろん、製本や紙、印刷インクにまで精通していなくてはなりません。いわば、印刷の超マエストロでなくてはいけません。こんなことがありました。A出版社がある有名女優さんで画期的なモノクロ・ヌード写真集を企画しました。在京の大手印刷各社はもちろん、京都からも印刷会社が参加、各社プリンティング・ディレクターと敏腕営業マンが組んでぷれぜんをしたのですが、使用する印刷用紙と印刷インクでずば抜けた提案をしたPDを擁した京都の会社に発注がきまりました。

 なんだか回り道をしてしまいましたが、プリンティング・ディレクターがデザイナーやカメラマンと組んで「オフセット印刷」でどこまでグラフィック表現の限界に挑戦できるかという『グラフィックトライアル2014』がいま、印刷博物館で開催されております。浅葉克己さんとPD長谷川太二郎さん、水野学さんとPD田中一也さん、長嶋りかこさんとPD富永志津さん、南雲暁彦さんとPD野口啓一さん、この4組の方のトライアルは必見です。

 PDという名の職種が印刷業界でもクリェーター社会でももっと存在価値が重視されねばならないと思います。


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富岡製糸場がヒキガネで

2014-06-22 11:17:24 | 活版印刷のふるさと紀行

 蠶と繭  この2文字が読めますか。ハイ!ご正解! 「かいこ」と「まゆ」です。

 群馬県の富岡製糸場がユネスコの世界遺産登録に決まったニュースで私自身いろいろなことを思い出しました。蚕(かいこ)、いまはこの字ですが、蚕だ繭だといってもイメージが湧かない若い人が多いのではないでしょうか。

 私の子どものころは小学校の理科で蚕を育て、繭をつくらせ観察する教材がありました。何年生だったか忘れましたが、桑(くわ)の葉を採ってきて、蚕に食べさせ、蚕が意外に大きな音を立てて桑の葉をかじるのにびっくりした記憶があります。やがて繭をつくりはじめると、それを観察してスケッチを添えてノートに記録してゆくのでした。

 いなかの祖父の家にはもう使ってはいませんでしたが中二階が蚕室になっていましたし、ちょっと郊外へ行けば桑畑があちこちにあり、熟した実を口にして赤くなった舌を競い合ったことも何度もあります。ことごとさように蚕も繭も身近でした。

 そして、学生時代、私はもっと蚕糸にかかわりを持つようになりました。毎日、夕方、アルバイト先の新聞社に出かけて、その日の横浜と神戸の生糸相場を電話で受けて記事にすることをしていました。当時は生糸商社の符牒までそらんじていましたが、今は忘れました。その新聞社で『蚕糸年鑑』という分厚い年鑑の編集を手伝ったこともありましたし、農林省蚕糸局だとか蚕糸とか蚕種とか乾繭だとかいう名前のついた協会にお使いに行かされたことをおぼえております。

 製糸や製糸場は直接知りませんが、いわば、その前段階の蚕や繭とつきあいが深かったといえます。さらに、いうならば、私がお世話になった新聞社は今回の富岡製糸場の片倉工業の京橋の片倉ビルにありました。実は家内ともそこで出会いました。どうやら蠶や繭は私の個人遺産に登録してもいいかも知れません。

 

 


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紙VS電子メディア 柴田博仁さん

2014-06-19 17:05:38 | 活版印刷のふるさと紀行

 活版印刷の追っかけみたいな私だけに「紙か電子か」には関心が深いのです。4~5回前のブックフェアの話のとき、電子出版について書きますなどと啖呵を切りながらはたせないでいるうちに、たいへん興味深い論文を知りました。印刷図書館クラブの例会の席上、タイポロジの竹原悟代表からです。そこで、少しだけ紹介をさせてください。

 論文の主は富士ゼロックス(株)研究技術開発本部の柴田博仁さんで、2007年から取り掛かった研究の一部を日本フォーム印刷工業会連合会の技術セミナーで「電子メディアの活用を見る」と題して発表されたもののようです。

 私の手元にあるレジュメは「紙の認知研究から見た電子メディア」とあり、~紙と電子の最適な使い分けに向けて~とかなり狙いがはっきりしたタイトルになっています。まさに紙VS電子メディアです。もちろん,視点に柴田さんの会社の社業との関連が無いとは言えないでしょうが、をどうして、どうして、紙と電子メディアの比較を利用実態の調査・実験を踏まえてそれぞれの効果を数値的におさえ、綿密で周到な論述を展開されています。

 たとえば、日常的に電子機器(タブレット、電子書籍専用端末、スマートフォン)で読書をしている554名の人を対象に「あなたが読むのに適したメディア」を、読むアイテムを細かくあげて調査した結果が示されています。それによると、日ごろ電子機器に親しんでいる人でも読むメディアには紙をあげる人が多いことがグラフで読み取れるのです。また、村上春樹の短編小説『カンガルー日和』から4編を選んで、24人の人に紙の書籍、iPad,Kindle2で読みのスピードなどの興味深い比較実験もありました。

 こんなふうな「切り取り的な紹介のしかた」は本意ではありませんし、何よりも著者に失礼ですからこの辺でヤメにして、いつか神田川大曲塾の研究会にお招きしてゆっくりうかがいたいと思います。

 とにかく、現状でも読むためのメディアとして紙が好まれていますが、書くことや情報保存となると電子優勢です。柴田さんとしては紙VS電子メディアでどちらに軍配を上げるということでなくメディアの未来像としてはタスクや目的に特化した多様な状況によって使い分けらMedia Harmony社会をお考えのようでいろいろなITツールの出現を予想されています。

これは余分なことですがもう20年以上前、ヴェネツッアのコンプリント国際会議でDNPの北島義俊社長が主張された印刷と電子メディアの「メディアミックス論」を思い出しました。 



 



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待ち遠しい神輿連合渡御

2014-06-18 14:31:39 | 活版印刷のふるさと紀行

 神輿連合渡御なんてむずかしいことは抜きにしたいのですが意外によく使われているのでお許しを。なんのことはありません。その神社の氏子町内の神輿が集まって練り歩きながら、最後はつぎつぎに神社に到着することです。

 お江戸の三大祭りをご存知ですか。日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭、富岡八幡宮の深川八幡祭りの三つです。去る6月15日(日)に行われたのが日枝山王祭、写真の手拭いを 見てください。左隅に「平成二十六年 日枝山王祭 下町連合渡御」とありますでしょう。

 下町といったって茅場町・兜町・檜物町・宝町・八丁堀・日本橋・京橋・江戸橋・通り三丁目など江戸きっての町がズラリと12町、したがってお神輿も12台が京橋のたもとから中央通りを日本橋まで行列を組んで練り歩くのは晴れがましく壮観です。場所によっては木遣りも聞けたはずです。

 なかでも日本橋の橋の中央日本国道路元標のところで気勢を上げるところは見ものです。ところで神田祭は氏子だったこともありますし、一応、置いておいて私が待っているのは「わっしょい、わっしょい」の掛け声と沿道で、店先やトラックの上から遠慮会釈もなくお神輿に水がかけられる富岡八幡の例大祭、水掛け祭りの各町神輿連合渡御であります。今年は8月17日(日)、神輿の数も他しか53基。今年も永代橋の橋げたに座って女性の担ぎ手の嬌声やキレイどころの行列を拝見したいものです。

 

 

 

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我が家のビワに怪猫?

2014-06-15 14:10:21 | 活版印刷のふるさと紀行

 サッカー初戦に日本が敗れた日、口惜しまぎれにではありませんが、我が家のビワ採りにチャレンジしたのでした。かれこれ、もう10年も前、家人が食したビワのタネを埋めておいたところぐんぐん成長して毎年かなり立派な実をつけるようになったのです。

 ところがビワの収穫は意外に難事業。通信販売で求めた高鋏みも思ったほど効果を発揮できず、結局、枝ごと手元に手繰り寄せて果実を一つずつ摘むという原始作戦が頼り、しかし、高いところの実にはまったく手が届かないので毎年少量収穫であきらめているのです。

 別にそこにつけ込んだわけではないでしょうがビワが食べごろになると、毎晩出没するのが、「ハクビシン」なのです。東京のど真ん中文京区に怪盗ハクビシンが現われるとはと、最初のころは半信半疑でしたが、ビワの木から飛び移ることができる我が家のベランダの片隅にビワのタネ入りの見事なフンを置いていくので確定的になりました。さらに、家人が綱渡りよろしくケーブルを伝わって移動する姿を見たので決定でした。

 私はインターネットで「額から鼻にかけて白い線のあるジャコウネコ科の哺乳類」とは調べましたがまだ、対面はしていません。実は文京区に限らず台東区をはじめ緑の多い地区に出没しきりで被害も馬鹿にならないようです。駆除について区役所に問い合わせましたが、駆除業者は紹介しますとのこと。当分、ビワのシーズン中、ハクビシンと共存共栄ということになりそうです。

 ビワの名所は長崎、近くでは千葉の富浦、我が家のビワは名産地のものよりも味に上品さは欠けるかも知れませんが、「味が濃い」と思うのですが、贔屓のひきたおしでしょうか。

 

 

 

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活字づくりと貨幣づくり

2014-06-14 11:07:49 | 活版印刷のふるさと紀行

 6月12日印刷図書館クラブの例会が印刷博物館の「朝鮮金属活字文化の誕生展」(7月4日まで)の見学会をかねて行われました。緒方宏大学芸員の周到なレクチュアーに例会メンバーも熱心に質問攻め、おおいに盛り上がりました。

 グーテンベルクの金属活字と朝鮮の金属活字との根本的な違いは鋳造法にあります。砂鋳型を使う高麗・李朝方式の活字づくりは会場のビデオで見るとよくわかります。興味深いのはグーテンベルクの方は金細工から来たものですが、朝鮮の方は貨幣の鋳造技術が源流のようです。

 日本では和銅開ほうが和銅元年(708)から250年も鋳造されていますが、 その間に活字鋳造に技術移転がなされた気配はありません。逆に活字鋳造をするようになってから、鋳造技術者はかなり厳重な管理下に置かれたようです。活字か造れるなら貨幣もつくれるとされたからでしょうか。この辺に活字の鋳造技術立ち遅れの一因があるのかもしれません。      そういえば、上の写真の上の2つは一字一字になっている鋳造 工程の展示写真ですが、貨幣の製造工程でもこんな模型を見たことがあります下の粒々は出来あがった活字でボタン状なのは組版のときに蜜蝋で接着するからです。

 それにしてもグーテンベルク以前に金属活字をつくっていた朝鮮文化はすごいですね。右の大きな文字は鉛活字だと説明されました。1436年の「丙辰字」?でしょうか。なお、朝鮮金属活字には銅・鉛・真鋳・鉄が使われております。

 

 

                        

 

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醤油のはなし

2014-06-11 09:51:25 | 活版印刷のふるさと紀行

話は少し長くなります。ご勘弁を願います。醤油に関しての思い出が私にはあります。郷里の愛知県から大学進学で上京したばかりのころ、場所は学生食堂でした。「そこのタマリを取ってくれないか」食卓の醤油ビンを指して友人になにげなくいいました。

「おう、これか」「タマリというからには、君は出身が西の方だね」信州の生まれだという友人はさっそく醤油とタマリの違いについて論じてくれました。生れ落ちるから醤油とはいわずにタマリで過ごしてきた私にとってちょっとしたカルチュアショックでした。しかし、いまではタマリは死語に近く、たまに律儀な料理店で刺身のとき「このタマリ醤油を」とことばをそえてくれるくらいで、私も使いません。

実は前回書きました佐原については予備知識はなにもなかったのですが、出かける前の晩に佐原の老舗醤油店を舞台にした刑事もののテレビを見ました。野田や銚子と同じ千葉だから佐原も醤油が名産だろうとは思いましたが、それっきりでした。

そして、佐原でボランティアガイドの案内で「水郷佐原の小江戸めぐり」をしたのですが、そこで老舗醤油店にめぐりあったのです。佐原の町中を流れて利根川に注ぐのが小野川、その小野川沿いに何百年も続く老舗が格子造りの古い佇まいを残して軒を連ねているのです。醤油店もその中の一軒、1832年(寛政12)創業で店の前は小野川、ここで舟から原料の大豆や小麦が荷揚げされて醸造所へ運ばれて醤油に。

そして出来上がった醤油はふたたび小野川から利根川へ。大きな船に積み替えられて江戸や京、大坂へと運ばれていったといいます。おそらく江戸時代はここに醸造所はもちろん倉庫や蔵が立ち並んでいて、多くの人が立ち働いていたのでしょう。店の前の川へおりる石段をみながら180年前からを想像するのもたのしいひとときでした。

 この「正上」さんは現在は佃煮の製造販売が主とききましたが、佃煮売り場の一角で「生しょうゆ」を求めて来ました。今は佐原ではなく銚子で作られたものですが、熱処理されていませんから伝統の味がするでしょう。そういえば、私は大分の醤油愛好家です。

蛇足ですがタマリは大豆で味噌をつくるときに桶の上にタマル液体なのです。

 

 

 

 

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佐原のあやめ祭り

2014-06-10 22:14:36 | 活版印刷のふるさと紀行

 折悪しく関東が梅雨入りしたその日に、千葉県佐原の「あやめ祭り」に出かけました。幸い、雨の降り出す前に「水郷佐原水生植物園」に到着。

薦められるままに乗ったサッパ舟は低い視線で水面越しに藍、白、ピンク、紫などの花菖蒲を間近かに見ることが出来てまさに「日本の色」を満喫、実際にはアメリカ産、中国産などの外来種も多く、400品種、150万本は確かめようがありませんが、たしかに圧巻でした。

 水面に目を落とすと黄色い小花アサザの群落がカレンでしたし、花はこれからですが、ハスが茎を伸ばしていました。

 しかし、「いずれがアヤメ、カキツバタ」ではないのですが、花菖蒲とアヤメが同一なのか、別物なのかわからないままでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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