活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

キリシタンだった黒田官兵衛

2015-01-28 14:38:59 | 活版印刷のふるさと紀行

 きょうの五野井隆史さんの講義は「キリシタン大名」についてでした。1563(永禄6)年に肥前横瀬浦でドン・バルトロメウの名で洗礼をで受けた大村純忠が日本最初のキリシタン大名で、1578(天正6)にはドン・フランシスコの大友宗麟、1582(天正!0)にドン・プロタジオの有馬晴信と続いたのは少年使節がらみで背景やエピソードのいくつかを私も知っています。

 きょうの講義はいわばキリシタン大名入門編でキリシタン大名というネーミングの由来、あるいはザビエルをはじめ来日宣教師が武家社会の階層をポルトガル語やスペイン語でどう表記したかというような内容が主体でした。

 たしかに大名といってもピンからがキリまであるわけですから慣れない日本で宣教師たちがヨーロッパでの階層を参考にしながら必死で序列をあらわす呼称を考えたことは想像にかたくありません。

 黒田官兵衛の洗礼名がドン・シメオンだったこと、高山右近の手引きで1584(天正12)年に受洗したことがよく知られていますが、彼も播磨時代は4万石、秀吉の九州平定後は12万石ですからキリシタン大名の一人といっていいでしょう。3年後には嫡男の長政がダミアン、弟の直之もミゲルとして洗礼を受けています。たしかルイス・フロイスの『日本史』に長政が豊後に着陣している官兵衛を訪ねてふたりで修道士から聴聞を受ける記述があったと思います。

 問題はほかのキリシタン大名と同じく秀吉がバテレン追放令を出したときの対応でした。秀吉から棄教を命じられなかったのは官兵衛ひとりだったという言い伝えもありますが、キリシタン故に九州平定の際の勲功で与えられる領地が減らされたのですから信用できません。

 ただ、心ならずも棄教させられたものの1604(慶長9)京都伏見で亡くなるまでキリシタンとしての心はもちつづけたとされ、葬儀は京都で仏式で、博多では教会でされたといいます。このへんのところは去年のNHKの大河には出ていなかったと思いますが。



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バダバダダバダバダと八丁堀を散歩する

2015-01-27 21:23:05 | 活版印刷のふるさと紀行

 久しぶりに暖かい日、八丁堀を歩きました。町歩きというのは不思議なものでその日の気分で新しい発見があります。

 きょうは亀島橋のたもとでにぎゃかに旗さしものを林立させた大船のイラストに目をとめました。幕府御用船「天地丸」とあります。このあたりに幕府の御用船を管理する御船手組屋敷というのがあって1600年代に向井将監忠勝など向井家が頭をつとめていたので将監河岸と呼んだと説明がありました。

 それよりずっとあと、明治の中頃に霊岸島汽船発着所がおかれてここから房総半島、伊豆半島、大島、八丈島あたりに通う船が出たことは知っていましたが、江戸時代の八丁堀界隈は池波正太郎さんの『鬼平犯科帳』の与力・同心の組屋敷とは別の顔、新川あたりの酒問屋をはじめ問屋の町であり、亀島川は物流の船の行き来で賑やかな顏があったようです。「天地丸」もいまならさしづめ高速を飛ばすギンギラ銀のトラックみたいに派手な存在だったのでしょう。

 ふっとみると隣に「堀部安兵衛武庸之碑」がありました。赤穂義士のひとりとして三十四歳で没しているとは。若かったのですね。

        それと、八丁堀には昔から親しくしている印刷屋さんがたくさんありました。過去形なのは廃業されたり、、亡くなられた方がいらっしゃるからですが、みなさん誇り高い職人さんでした。

 やや巻き舌の東京弁で手持ちの珍しい欧文活字を披露してくれた人、自慢のポスターの刷りを仕事場の奥からひっぱりだして見せてくれた人、みんな底抜けに明るくて八丁堀の印刷屋さんでした。         

私は八丁堀とはなんとなく気が合うのです。楽しい雰囲気で気軽に 飲み食いできる店がたくさんありますし、若い人が多いし、東京駅も目の前です。笑われそうですが、フランス映画の「男と女」の、あのバダバダダバダというスキャットのところを歩きながらつい、口ずさんでしまいます。

 



 

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南島原市 がんばれ

2015-01-25 13:57:45 | 活版印刷のふるさと紀行

 南島原市といってもまだ私にはピンと来ません。「キリシタン印刷街道」と名付けて、はじめて加津佐町、口之津町、南有馬町、北有馬町、有家町、西有家町などを訪ね歩いていたころはアタマに長崎県南高来郡と郡名がのっかっていたからです。そんなことはどうでもよいのですが、その南島原市加津佐町の松藤幸利さんから新年第一便が届きました。

 中身はつい、先日1月16日でしたか「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のユネスコへの推薦が決定して、南島原市のガイド事業に熱心に取り組んでおられる近況報告と長崎放送が19日に放映した特別番組おいしい南島原「キリシタン王国」の録画DVDでした。「キリシタン王国」は南島原有馬の日野江城、島原の乱の原城の紹介が主でしたが、わかりやすくてなかなかの出来でした。

 私の最大関心事、天正少年使節やヴァリニャーノ神父、キリシタン版や活版印刷機ももちろん登場しました。とくに私が興味をもった一つはは昨年4月に南有馬にオープンしたという「有馬キリシタン遺産記念館」の紹介でした。キリシタン版の印刷機のレプリカ、加津佐で最初に印刷された『サントスの御作業の内抜き書』ももちろん展示されていますが、原城や日野江城の発掘にかかわる展示物はぜひゆっくり見たいものです。

 興味をもったもうひとつは地元有馬小学校でクリスマスイベントとして行われたというフェスティビタスナタリス2014のパレードです。聖火を掲げ、頬を紅潮させながらバテレンルックでラテン語のグレゴリオ聖歌を歌いながらの児童の行列は400年前を髣髴とさせてくれました。(上の写真は有馬キリシタン遺産記念館ホームページから)。 昨年の12月6日に行われたものです。

 前回まで3回にわたって紹介した五島のキリシタン史が地味で暗い翳の多いのに反して、キリシタン大名有馬晴信の下でのある時期の信者たちの営みは華美で明るく、まさに「キリシタン王国」であったといえます。この「キリシタン王国」の番組の最後には市長も登場して世界遺産推進の抱負を語っています。、町の歴史、先祖の文化遺産を大事にする自治体に心から応援したい気持ちです。がんばれ、南島原市。



 


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長崎・五島のキリシタン史3

2015-01-24 15:47:32 | 活版印刷のふるさと紀行

 五島にキリスト教が根付いたといっても、日本で最初に洗礼を受けてキリシタン大名となった大村純忠の領内のように、領主が率先して信者になり、家臣団や領民がそのあとに続くような形にはなりませんでした。アルメイダや平戸の琵琶法師といわれたロウレンソ了斎が播いた種が順調に育ったとはいえないのです。

 五野井さんによると障害として立ちはだかったのは領主純玄のキリシタンの迫害が教会の焼き打ちや洗礼の禁止にまで及んだことだといいます。それでも秀吉の死去前後には五島のキリシタンは2000人以上を数えるようになったといいますから島民の信仰への取り組みぶりがわかります。しかし、それは」長続きしません。1622年の来島イタリア人神父の処刑を皮切りに厳しい弾圧が始まったからです。キリシタンの摘発、捕縛、処刑、密告に脅え、心ならずも踏絵による宗門改めに屈す島民が続出、1630年代のなかばには五島にキリシタンはいなくなったと思われます。

 五島のキリシタンの歴史が特筆されるようになるのは、1797(寛政9)年、ときの領主五島盛運が大村領主に領民の移住を申し入れたときからです。わずか3年ほどの間に3000人ほど五島に移住してきた大村領外海(そとめ)の農民がキリシタンだったために、160年間穴のあいていた五島に、ふたたびキリシタンの祈りが唱えられるようになったのです。 けれども厳しい弾圧下です。それが見逃されるはずはありません。捕縛され、入牢を強いられたり、仏教徒たちの迫害にも耐えねばなりませんでした。

 「切支丹禁制」の高札を明治政府がはずしたのが1873年、1877年に五島にふたたび宣教師が来島、宣教が開始されました。1880年の福江島、堂崎天主堂を皮切りに、久賀島の浜脇教会、福江島玉之浦の井持ヶ浦教会など続々と教会が建つようになります。かつてこのブログで紹介したように鉄川与助による教会群が姿をあらわすようになったのは1910年代からです。また、いずれ稿をあらためて記すことにしますが、外海から移り住んだ潜伏キリシタンの影響でその子孫にあたるみなさんが五島の隠れキリシタンとして伝統的な信仰儀式をいまも続けておられます。

 いずれにしても「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」がユネスコの世界遺産になり、記録の少ない五島のキリシタン史にもっと光が当たることを望みますし、まだ、訪れたことのない方には五島訪問をおすすめいたします。

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長崎・五島のキリシタン史2

2015-01-23 10:59:02 | 活版印刷のふるさと紀行

 関ヶ原の戦いが1600年、五島でアルメイダが宣教を開始したのが1566年、この間は34年しかありません。ほぼ同時代でありながら、私たちは関ヶ原の方は「絵」として当時の情景が想像でるのに五島の方は「絵」を思い浮かべることが出来ません。映画やテレビがもたらしてくれるイメージによるものでしょうか。

着任早々のアルメイダは島民を前に3時間も日本のもろもろの宗教の間違いを指摘して、キリスト教こそと説いたといいます。聴き手の側はどうでしたでしょうか。 どんな表情をしていたのでしょう。場所は恐らく漁民の網小屋の一廓だったりしたのでしょうが、どんな雰囲気だったのか、集まった漁民たちの服装や態度、昼・夜の区分さえ思い浮かべることが難しい気がします。かろうじて私が「絵」としてイメージできるのは、遠藤周作の『沈黙』を篠田正浩監督が映像化した映画のシーンぐらいです。とにかく、日本側の記録がないので当時の五島について実情を」知ることが出来ないのは残念です。、

 では、来日したバテレンの側はどうでしたでしょうか。1709年といいますからそれから100有余年後、新井白石が江戸小石川のキリシタン屋敷で日本に密に入国を企てて屋久島で捕まったイタリア人宣教師ヨハン・バチスタ・シドッチの取り調べでその彼の教養の深さに驚いています。アルメイダもポルトガルの医師免許を持っておりました。かなりの知識人であッたことは確実です。そのアルメイダと漁や塩焼きを生業としている島民の間でどのようにして心の交流が持てたのでしょうか。アルメイダは医術によって島民の心をつかんだとされていますが、はたしてどうだったのでしょうか。

 アルメイダの後任神父たちの働きもあって徐々に改宗者も増え、教会が建ち、1569年には五島のキリシタンは300人を数えるようになりました。やがて後にキリシタン版の編集にも関係する養方軒パウロも宣教に携わるようにになります。五島にキリシタンが根付くようになったのです。(この項つづく)

 

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長崎・五島のキリシタン史1

2015-01-22 10:20:33 | 活版印刷のふるさと紀行

 ひどい風邪をひいてダウンする前、1月13日でしたか、新宿の朝日カルチュアセンターで東大名誉教授五野井 隆史さんの『長崎・五島におけるキリシタンの歴史』の講義を受けました。

 今年は少し日本のキリシタン史をかじろうという殊勝な気持ち半分と、私を二度にわたって五島をひきまわして下さったSさんが昨秋から重篤な病で臥せってしまわれていることからもう少しいまのうちに五島について勉強しておきたいという考え半分からでした。

 五島はキリシタン版の印刷については直接関係がありません。しかし、今年9月ごろから始まるイコモス(国際記念物遺跡会議)による現地調査にも期待されている「長崎の教会群トキリスト教関連遺産」でも五島は大きなウエイトを占めていますし、なによりも私自身、五島に惹かれているところが大きいのは隠しようがありません。

 五野井さんの講義は遣唐使船や遣明船の寄港地だったり、倭寇の一部「五島倭人」の時代からはじまり、宣教師の来島、宣教活動そして弾圧、潜伏キリシタン、キリシタンの復活、明治になっての各地の教会建設と時代を追って丹念なものでした。たまたま、正月に五野井さんの『島原の乱とキリシタン』(吉川弘文館2014・9)を読んでおりましたので、「五島はそうだったのか」と興味深くききました。

 実際にいま、五島の島々を歩いてみますと、ひなびた漁村の小さな入り江に小さな教会が建っていて、明治のはじめ地元の人たちが教会建設に心血を注いだ話をあれこれ聞くことが出来ます。けれども私がもっと知りたいのは宣教師がはじめて現れたころの五島です。五島の宣教の最初は1566年1月、ルイス・デ・アルメイダと日本人ロウレンソが福江に上陸したときだといいます。五島の島主宇久純定がイエズス会のコスメ・デ・トルレスに派遣を依頼したのがきっかけと聞きました。当時島民の生活はカツオ・マグロ・イカなどの漁業と塩づくりだけの貧しさ、そのなかでいかに島主のすすめといってもアルメイダの話に耳を傾け、キリスト教に改宗する人が出るはずがありません。

  悪いことに純定の大病、島の大火、平戸からの海賊の来襲、そのほかミステリアスな事件が頻発して100日経っても入信する人はおらず、しまいには宣教の話を聞く人もいなくなったといいます。まさにアルメイダの危機です。(この項つづく)

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日記についての考察

2015-01-10 10:53:44 | 活版印刷のふるさと紀行

 あなたは日記をつけていますか。正月早々だからというわけではありません。実は昨日、ギンザ・グラフィック・ギャラリー第341回企画展のオープンングパーティで『日記』で驚かされましたのでその報告。

 「浅葉克己のタイポグラフィ展」が今回の企画展のタイトル、いまさら紹介するまでもありませんが、浅葉さんは日本のアートディレクターの大御所、JAGDA(日本グラフィックデザイナーズ協会)の会長で30年近く前に東京タイポディレクターズクラブを設立、タイポグラフィーとグラフィックデザインが醸し出す鮮烈な作品で数々の賞を受けておられます。

 今回は会場の大半を占める新作をふくめ数々の作品や記録写真などで浅葉克己の世界を知ることができますが、なんといっても私は壁面狭しと展示されている日記の展示に心を奪われてしまったのです。いままでこの日記でADCやTDC,あるいはJAGDAで受賞されていますから知らないわけではありませんでしたが、今回の量には圧倒されました。

 大きなダイアリーの見開きに緻密なペン字で記された文章にイラスト、写真、新聞の訃報記事まで貼られていてその丹念さ、構成の美しさ、まさに「参った」です。いったい多忙な制作活動のなかで何十年とこんな日記を書きつづけられるものでしょうか。

 会場のコーナーに上製本に仕立てられた日記の合本何冊かの横に毎日の日記のラフスケッチまでありました。ご当人にはうかがいそこねましたが、毎日の日記はそれほどの周到さで書かれたものだったのです。さらに驚いたのは、小学校5年生の時のざら紙ノートの日記も添えられていましたが、それがなんと文章とイラストに部分的には筆文字まで入って見事なデザイン設計、まさにミニチュア版なのです、三つ子の魂?いやいや、その才能恐るべしです。

 私は博文館の三年連用日記と30年以上つきあっていますが、とても、とても、見るからに稚拙な生活行動日記になっています。ときには朝日の天声人語ふうを気取ろうとしたこともありましたがムリでした。とにかく「百聞は一見に如かず」ギンザ・グラフィック・ギャラリーに足を運んでください。1月31日までです。

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初顔合わせは七福神詣で

2015-01-09 10:52:16 | 活版印刷のふるさと紀行

 神田川大曲塾の新年会は恒例で有志の七福神詣でから始まりました。正式には印刷文化懇話会神田川大曲塾という長ったらしい名前の印刷文化の研究グループですが曲がりなりにも今年で10年目を迎えることができました。メンバーは印刷・出版畑の人はもちろんカメラマンやデザイナー、主婦まで多士済々、ワイワイガヤガヤ研究発表をしたり、外部講師を招いて勉強会を開いたり、体験学習と称する旅行に出かけたりしております。

 さて、今年は江戸最初の七福神巡りコースといわれる「山手七福神」を参詣しました。地下鉄南北線の白金高輪駅に集まって毘沙門天の覚林寺を皮切りに瑞聖寺の布袋尊、妙円寺で福禄寿尊、寿老尊と白金台で四福神様に対面、次に目黒に入って大円寺の大黒天、蟠龍寺弁財天、目黒不動,源泉寺の恵比寿神にお参りしました。途中で雅叙園や大鳥神社に立ち寄ったりしたので約3時間半、1万3000歩の行程でした。

 七福神信仰は室町時代の中ごろにはじまり、江戸時代の中期に庶民に定着したといわれますが、平成になっても参詣客が多くてびっくりさせられます。このコースで楽しかったのはお参りする各寺で、それぞれの福神様のダルマさんが求められることです。おみくじつきですから今年の運勢が7通りもためすことができます。もっとも、私の場合、蟠龍寺の弁財天様の胎内から出たおみくじがなんと唯一の「末吉」、 -のどけしと見えし うなばら かぜたちて 小舟危う沖津しらなみーとありました。ほかが大吉や吉でもわが敬愛する弁天様にこうういわれちゃ、心してがんばらないと。


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箱根駅伝・歌舞伎座・高校サッカー

2015-01-02 22:16:21 | 活版印刷のふるさと紀行

 1日は賀詞交換会のお屠蘇が過ぎてダウン。目が覚めてテレビの『相棒』をみましたが前宣伝のほどはなくがっかり。要するに制作者の力の入れ過ぎではないでしょうか。身に覚えがありますが、肩に力が入り過ぎるとかえってひとりよがりになってしまいます。

 そして2日は午前中は箱根駅伝の往路に釘づけ、青山学院の5区の神野君の力走には驚きました。肩に力がはいっていない表情、、走りっぷりには感心しました。今年もWは応援むなしく往路6位、力を入れて応援した同郷の選手も残念ながら順位をひとつ落としてしまって無念。

 午後は「壽初春大歌舞伎」やはり『一本刀土俵入り』が最高。河竹繁俊先生の「歌舞伎は民衆が作った最高のドラマ」を思い出した次第。

 帰宅してがっかりしたのは高校サッカーの2回戦の結果を知ったとき。期待していたのに中京高校が敗退してしまったのです。さっそくごくろうさまメール発信。

 もう1日、ゆっくりして4日からスタートするつもり、あくまでつもり。

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