活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

ユニバーサルデザインの展覧会

2015-03-26 10:50:48 | 活版印刷のふるさと紀行

 東京は一昨日、3月23日が桜の開花日でした。沖縄から北海道まで桜前線到達が次々にリレーされ、それがテレビで伝えられる日本の風土は実に恵まれています。まだ、足を運んでいませんが房総ではツクシが終わり、そろそろタケノコのシーズンかも知れません。タケノコといえば、「春の筍ご飯」という博多の駅弁を 味わいました。 副菜もふくめていかにも春らしいほのかな薄味で美味、おおいに結構、「ごちそうさま」でした。

 同じ日、印刷博物館のP&Pギャラリーで『みんなにうれしいカタチ展』をのぞいてみました。日本発ユニバーサルデザイン2015というサブタイトルが示すようにユニバーサルデザインの展覧会でした。

 ユニバーサルデザインが日本で本格的に紹介されてから15年経つそうですが、高齢化社会の到来で非常に身近かになったバリアフリーほど知られておりません。どうも混同されがちですが、ユニバーサルデザインは高齢者や障害者にやさしいバリアフリーとちがって私たちみんながさまざまな場所で、様々な状況を体験する場合を想定して、どうしたらみんなにうれしいカタチになるかを追求することを指します。

 すでに市販されている製品や開発デザイナーの計画段階のものなど実際にその場で見るだけでなく、さわってナルホドと体感できる興味深い展示でした。右利きの人にとっては至極あたりまえのものが、左利きの人にとってはいかに使い勝手がわるいか、ならば、こういう製品があれば左利きの人にとってどんなにかうれしいだろうと実感できました。

 例えば、右利きの私には想像もつかなかったことですが、トランプで遊ぶ場合、市販の普通のトランプでは左利きの人だと、文字の部分が見えなくなってしまいます。

右の写真の右端のように文字処理がされていると    

左利きの人にも使いやすいトランプになるのです。そのほか、大規模災害を想定して、ふだん日常使いをしている製品がまさかのときに災害対策用に早変わりするような製品も目をひきました。

 

 

                           



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もっと知りたいペドロ・ラモン神父のこと

2015-03-25 17:33:17 | 活版印刷のふるさと紀行

 ペドロ・ラモンはスペイン人のイエズス会神父で1577年(天正5)にのちに天正遣欧少年使節とともにヨーロッパに行ったメスキータ神父と共に来日しました。途中、マカオに行っていた期間はあるものの、1611年に長崎で没するまで、日本での宣教や日本人修道士の育成につとめたなかなかの人物です。

 けれども、私の印象はかならずしもよくありません。1587年生月から出した書簡で「ヴァリニャーノがローマに派遣してその行く先々で歓迎された少年使節たちは決してそんな厚遇を受けるような日本の高貴な生まれの少年たちではない」と内部告発をした神父とされているからです。

 唐突にペドロ・ラモンについてもっと知りたいといいだしたのにはワケがあります。昨日は朝日カルチュアセンターで五野井隆史先生に大友宗麟(義鎮)の講義を聴く日でした。大友家の系図や資料・史料を使って実に懇切な講義でしたが、当然、お話のなかに伊東マンショの伊東家の系図も出て来て少年使節にも触れられました。

 少年使節派遣のプランはヴァリニャーノが短時日でたてたもので、大友宗麟はそれをまったく知らなかったし、まして使節の代表とも目される伊東マンショが自分の名代とされていることなど露ほども知らなかったというのが定説になっています。もちろん、五野井先生も松田毅一先生はじめ使節についての研究家みなさん同意見です。

 大友宗麟とヴァリニャーノは臼杵でかなり親交を重ね、宗麟が敬愛してやまないザビエルの列福・列聖についてもふたりは同じように熱望していたといいます。1587年ペドロ・ラモンが内部告発に踏み切ったとされたときは臼杵の修練院院長でしたから宗麟の身辺に通じていたはずですが、宗麟が亡くなったのが6月、その同じ6月ゴアまで帰ってきた少年使節はマルチノがヴァリにヤーノに感謝する演説をし、ドラードが日本人として最初に金属活字を使った印刷をしています。内部告発は10月ですが、ラモンの耳にはどの程度少年使節派遣の成功が伝わっていたでしょうか。単にヴァリニャーノ、憎しでもなかったでしょうし、ヴァチカンはじめ少年使節をもてはやした筋に真相を知らせようとしたのか、それとも宗麟を憐れんだのかどうもラモンの真意はわかりかねます。

 






 

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印刷史のなかの活字の話

2015-03-23 15:22:56 | 活版印刷のふるさと紀行

 めぐりあいとでもいったらいいのでしょうか、思わぬときに思わぬ形でめぐり合った本の紹介です。著者は鈴木広光さんタイトルは『日本語活字印刷史』、版元は名古屋大学出版会、奥付けの発行日が2015年2月15日とありますから、まだ出たばっかりといえます。

 帯に書字の論理、活字の論理とあって一瞬、「むずかしそう」と思ったものの、ちょうど秀英体活字の講演を聴いたばかりだったし、キリシタン版活字の国字について探偵まがいでああでもない、こうでもないと考えている折から勉強させてもらうことにしました。それに鈴木広光先生は10年前の印刷懇話会スタートのときとか、昨年、八木書店の『キリシタンと出版』の記念講演会でも持論を拝聴しているのでぜひにと思った次第です。

「漢字と仮名による多様な書字活動は、いかにして活字化されたのか。技術のみならず文字の性質や書記洋式・言語生活等に注目し、嵯峨本など古活字版から、宣教師らによる明朝体活字鋳造を経て、近代日本の活字組版まで、グローバルな視野で描き出す」。と帯にありましたが、印刷出版とミッション・プレスの関わり合いから筆をおこし、はやくも序章で日本イエズス会の活字製作に触れているのがうれしかったのです。

 とくに、嵯峨本『伊勢物語』の活字と印刷技法をキリシタン版との関連については、私が敬愛している森上修先生の学説と重なっているので味わい深く読みました。但し、同じ章で紹介されている国字がリスボンでという豊島正之先生説の方はまだ、納得できないで首をひねっているところです。

 正直にいいますと、まだ、全部を読みおえておりません。ただ、鈴木広光先生がこの本のなかで活字と印刷についてどのような視角で論じられているか、その論理が少しずつわかって来るような気がしています。同好の士にぜひともお勧めしたい本です。



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謎が多い千々石ミゲルの墓

2015-03-21 09:53:14 | 活版印刷のふるさと紀行

 

 浅田昌彦さんのメモによるとまだ、今回の正式な調査報告書はあがっていないし、あらためて遺構調査が進まない限り、千々石ミゲルの墓と断定はできない模様です。しかし、諫早市多良見町で昔から土地の人に「ゲンバさん」と呼ばれていた墓についてかなりのことがわかって来ました。

 ゲンバさんと呼ばれていたのは墓石の裏に「千々石玄蕃允」と彫ってあるからで、浅田さんは墓に刻まれているふたつの戒名、本住院と自性院が自家の過去帳にあることを発見し、千々石と浅田家とのつながりを確認されたといいいます。

 高さ1メートル80センチ、幅1メートル20センチの墓石の周辺は昭和40年代の大水害と江戸時代からの堆積土で寛永年間の建立当時に戻すだけでもたいへんでしたが、ボランティアのたらみ歴史愛好会や千々石ミゲル研究会の協力で着実に進み、墓石の周囲に1辺3メートル近い正方形の基壇や従者の墓とみられる小さな墓石もみつかったといいます。

 問題は残念ながら現段階ではキリスト教関連の遺物は発掘されていないとのことです。私はそれだけでミゲルの墓ではないというつもりはありませんが、基壇の存在や敷地の規模から領主級の墓地ということから疑問を持ちます。

 伊東マンショは帰国後早くに病死、原マンショはマカオに移され、中浦ジュリアンは逆さ吊りの処刑、ひとりミゲルは棄教して千々石清左衛門に逆戻り、大村喜前に仕えたが、その喜前にも領民からも疎まれて薄倖だったミゲルがそんな領主級の墓におさまっているとはどうしても考えられません。私はミゲルは最後まで棄教はしなかったし、彼の墓所は土を盛っただけの土まんじゅうで江戸時代まで原型を保ってはいなかったと想いたいのです。





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千々石ミゲルの墓

2015-03-20 17:36:24 | 活版印刷のふるさと紀行


 つい、1ヶ月ほど前のことです。以前、私が『千々石ミゲル』を書くとき長崎弁の表現でお世話になった大村出身のE女史から電話をもらいました。「千々石ミゲルの墓が地元で話題をさらっていますよ」と。

 あれは10年前、たまたま諫早に講演に行ったときでした。夜、市長さんはじめ町の方々と一杯の席を共にしていると飛び込んで来たのが「千々石ミゲルの墓発見」のニュースでした。翌朝の新聞の切り抜きが上の写真です。とにかく地元の興奮は大変で、私がミゲルを本にしようと思っていた気持ちを後押ししてくれました。

 発見したのは大村の大石一久という石造物の大家で、その後、出された本、『千々石ミゲルの墓』も飛びついて読ませてもらいました。Eさんともこの件で話し合ったことから今回の電話になったのでしょう。さっそ、彼女に紹介してもらって、浅田昌彦さんと連絡が取れました。千々石ミゲルのご子孫で地主、昨年9月に6日間もかけ大勢の研究家とミゲルの石碑周辺の発掘調査をされたご本人です。

 なんでもNHK長崎放送局が「千々石ミゲルの謎 石碑が語る新事実」と題してイブニング長崎という番組でとりあげたのが火付け役になったようでした。

 浅田さんから送っていただいた資料によると、浅田さんも、最初の発見者の大石一久さんも非常に慎重、冷静で「まだ、これがミゲルの墓だと断定はできません」とおっしゃっていますし、まだまだ調査は続くようです。しかし、私にとっては最大関心事です。なぜかというと私の『千々石ミゲル』ではミゲル夫妻は土まんじゅうの墓の下で眠っています。こんどの発掘調査では「領主級の立派な墓」dというではありませんか。 現場も見ないでモノをいってはいけませんが、ミゲルの墓について次回ももう少し話したいと思います。 

 

 

 

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ハンモさんの『絵本の絵を読み解く』

2015-03-18 05:23:33 | 活版印刷のふるさと紀行

 

 

たったいま、ハンモさんのこの本を読み終えました。ハンモさんとはイラストレーターでグラフィックデザイナー、装幀作家の杉浦範茂さんの仲間うちでの愛称を倣ってのことです。

 悪い癖で、私はいつもどおり「おわりに」から読みはじめました。ありました。この本が書かれた動機がそこに。まだ、彼が駆け出しのころある絵本評論家に「温かい家庭で育った作家の絵」と読み解かれたのだそうです。絵本は”絵”を読め、なるほどというわけです

 書名どおり、この本は「スーホの白い馬」、「はじめてのおつかい」、「あおくんときいろちゃん」、「もりのなか」…日本の名作絵本、海外の名作絵本24冊の絵を彼の人間に対する優しい愛情と深いまなざしと洞察力で読み解いた上に自身の創作感、経験談、人生観まで織り込んでいます。絵を読み解きながら軽妙な文章で自分史がチョコチョコと顏を出すあたり心憎い読み物ともいえます。

 私にはレオ・レオーニの『あおくんときいろちゃん』の項がいちばん興味ぶかかったのです。レオーニの抽象イラストに斬りこんだところと印刷の「特色」について論じているところです。これは余分ですがレオーニが絵本作家、イラストレーター、グラフイックデザイナーというところがハンモさんそっくりです。違うところはレオーニさんは経済学博士で絵やデザインは独学だそうですが、ハンモさんは東京芸術大学図案科の出身、1998年には紫綬褒章を受けています。

 やはり巻末に絵本作家や児童書のイラスト作家としての主なしごとが70点ばかり紹介されていますが、その前にある「ブックデザイナーの仕事」は本の装丁をしていらっしゃるお若い方にはさんこうになるのではないでしょうか。いずれ、彼自身の絵本作家としての作品、ブックデザインやレイアウトを主体とするエディトーリアル関係の主な仕事も本にしてほしいものです。 大事なことを忘れました。この『絵本の絵を読み解く』は読書サポート発行03-6869-3785です。


 

 


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400年前の活字を再現してくれた天草高校に感動2

2015-03-15 21:42:30 | 活版印刷のふるさと紀行

 天草工業高校のキリシタン版活字の鋳造や印刷再現という破天荒?の挑戦を初めて知ったのは昨年末発行の印刷博物館のPrintingMuseumNews55号でした。

 さっそく2月の印刷図書館クラブ木曜例会でも「えらい高校もあるもんやな」と大きな話題になりました。私としてはじっとしてはおられません。たまたま印刷博物館で会合があった日に学芸員中西さんにお願いして紹介記事執筆者の同館石橋圭一さんにお目にかかることができました。幸運にも3月7日の大曲塾秀英体講演会に天草工業高校で実際に再現を指導された西村洋信先生が出席してくださるというではありませんか。

 その当日、今春から霞が関に出向しておられるという西村先生に親しくお目にかかることが出来、生徒のみなさんと4年がかりでキリシタン版活字の再現に当たられた話をうかがうことが出来ました。

 母型製作のための金型製作、活字合金づくり、鋳込み,成形、そして完成した活字を使って組版、さらに実際の印刷、こう書くのは簡単ですがおそらく大変な研究・調査と実際の製作現場の苦闘があったことは想像にかたくありません。私は西村先生の手を何度も握らざるを得ませんでした。こんな感動はここしばらく味わったことがありません。まさに感激の夜でした。

 おそらく印刷博物館の5月のヴァチカン展には天草高校の成果品が展示されることと思いますが会場では実際に手を触れることはできないと思い先生に頼み込んで生徒さんたち自作のモールドに」さわらせてもらったのでした。ひとつだけ、欲張りなことをいわせてもらうと、次回の機械科3年生の「課題研究」で「国字」の再現にチャレンジしてもらえるとどんなにうれしいか。

 




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400年前の活字を再現してくれた天草高校に感動

2015-03-14 00:15:24 | 活版印刷のふるさと紀行

 大袈裟にいいますと、 近頃、これほどうれしかったことはありません。ここに掲げたのは天草市河浦町「コレジヨ館」にある日本最初の活版印刷機のレプリカです。天正遣欧使節によって最初はいまの長崎県南島原市加津佐でキリシタン版を印刷したのですが、つぎにここ、河浦に移ってのちに「天草版」ともよばれる活版印刷の本が印刷されたのです。

 それは1590年代のはじめのことですから、いまから430年近い前の話になるのですが、ほぼ、同時代の家康の駿河版活字は現存するのに、このキリシタン版を印刷した活字は島原や天草や長崎など、かつての印刷所の所在地はじめ、どこでも、いまだに1本も見つかっていないのです。 少なくとも何万字もあったはずなのにいまだにどこからも出て来ないのです。

 鉛合金ですから腐ってしまったことはないでしょうし、いくら禁教の対象といっても全部が全部海に投げ捨てられたとも考えられません。のちの島原の乱のときに鉄砲の弾に化けたと笑わせる人もいますがマサカです。

 そこで私はいままで何度もこの活字探しを夢見て、書いたり、話したりしてきました。昨年『印刷雑誌』4月号にも

「もっと欲張りなこというとしたら(株)モリサワの本木活字の鋳造再現実験のようにキリシタン版の国字づくりにいどんでくださるひとはいないだろうか、キリシタン版に使われた活字の遺物捜しキャンペーンとともに私の夢である。」

と書きました。

 それが、なんとウカツな、もう4年も前から天草コレジヨゆかりの地、天草市の県立天草工業高校の生徒さんがキリシタン版活字の再現にチャレンジしていたとは。驚いたし、うれしかったし、感動した顛末は次回に。


 

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KEN MIKIの世界

2015-03-12 16:10:39 | 活版印刷のふるさと紀行

 

 ギンザ・グラフィック・ギャラリー3月企画展はKEN MIKI三木 健さん登場。タイトルはAPPLE+で”学び方のデザイン「りんご」と日常の仕事というサブタイトルがついています。

 講釈はさておいて、まず会場をご覧あれといいたい私です。なんとなれば、齢29歳、342回の企画展開催というGGGにあってこれほど凝った会場演出を見た記憶がないからです。クリーンな壁面に計算尽くした作品掲出、見やすい卓上展示もさることながら1F会場から地階会場に降りろ楓材の階段ステップにまでAPPLEのロゴが踊っていやが上にも雰囲気を醸し出しているではありませんか。オープニングの席上では学芸員の女性が真紅でふっくらのアップルルックでおでまし、ワインのおつまみにはアップルパイやプディングという演出。

 KEN MIKIさんの大学での授業コンセプトは誰でも知っている「りんご」を通してデザインの楽しさ、奥深さを体験することと聞きましたが、まさしくGGGの会場いっぱいにそのりんごのコンセプトが具現化された作品があふれて、いまにも踊り出しそうにしていました。会期は3月末までです。

 

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大村純忠の長崎寄進状

2015-03-02 12:11:15 | 活版印刷のふるさと紀行

 

 これは1580(天正8)年、肥前のキリシタン大名大村純忠ドン・バルトロメオが長崎と茂木をイエズス会に譲渡することを息子の喜前ドン・サンチョと連署でしたためた寄進状です。

 その背景になにがあったか、先週、朝日カルチュアセンターで五野井隆史先生の「大村純忠」を受講しましたが、いちばん大きな理由としては、自分の所領のままにしておくと、天敵、龍造寺隆信に乗っ取られかねないので、安全策としての寄進が第一の理由、第二は当時、有馬の領主になる寸前の有馬鎮純、のちの晴信とヴァリニャーノとの親交ぶりから南蛮船が政情不安を抱える長崎よりも口之津を入港地に固定するおそれがあるから先手を打っての寄進、この二つを大きな理由に挙げておられました。

 実は大村は「活版印刷紀行」や「千々石ミゲル」の取材で何度も訪れた土地ですし、大村純忠は日本最初のキリシタン大名であり、天正遣欧少年使節派遣のかげの理解者として間接的に日本最初の活版印刷にもつながる人物として私は興味を持たずにはいられません。

  話を戻しますがこの長崎、茂木のイエズス会寄進の問題ももっと現代の我々には掴みがたいウラの問題もあったのではないでしょうか。たとえば、純忠が1562年にイエズス会との契約で横瀬浦が南蛮船の寄港地として開港されたにもかかわらず、その翌年に焼き打ちにあってしまうというじけんがありました。ここにはどんな力が暗躍したのでしょうか。

 この界隈の海で生きる「家船」と呼ばれる「漁船」、「漁民」がたくさんおりました。ひょっとしたらその中には水軍まがいの船もあったかもしれませんが、彼らと大村純忠と間ははたしてうまくいっていたのでしょうか。イエズス会の所管になると彼らが手が出せないといったことはなかったでしょうか。秀吉のバテレン追放令発令寸前に純忠は死没しましたが、秀吉の逆鱗にふれ寄進状はパアになりました。

 








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