伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中原ジュリアンこの4人の天正使節にとってはローマ教皇と謁見したヴァチカンの思い出の次に記憶に残ったのはヴェネツィアだったはずです。当時はヴェネツィア共和国でしたからローマ常駐の大使がおりました。その大使から大統領のもとに日本の少年使節を教皇が歓待する様子が刻々と伝えられましたから本国ヴェネツィアで大歓迎プランが着々と練られました。いわば、完璧な「おもてなし」だったのです。
船でポー河をくだってヴェネツィア領に入った使節たちは祝砲や何十隻もの歓迎のゴンドラに迎えられ、サンマルコ広場裏の宿舎に入りました。彼らが花鳥をあしらった和装でニコロ・ダ・ポンテ大統領の謁見を受けたのをはじめ、連日、あちこちで大観衆に取り囲まれた様子はいろいろな本に記述されています。サン・マルコ教会、宮殿、鐘楼、市庁舎、造兵廠、造船場、ムラノ島のガラス工場、見るもの聞くものに驚嘆する日々が続いたのです。
この少年使節のヴェネツィア訪問をいまに伝えるものにいくつものものがありますが、その最たるものに彼らがヴェネツィアを去るに臨んで大統領にあてた感謝状で、その現物がこんどの印刷博物館のヴァチカン教皇庁図書館展で見ることができたのです。感謝状の日付は1585(天正13)年7月2日です。
感謝状は堂々たる筆運びの日本文字で洋紙に墨文字で書かれていました。とくに興味深かいのはその文章の下部に4人の使節の花押があることです。花押は武士階級には必須のものでしたから不思議ではありませんが、日本にいるころから使った花押なのか、ヨーロッパでサインを求められることが多いことから新しくつくったものでしょうか。草書体の花押の中にローマ字署名が隠されているといった人がいるものですから。
一昨年でしたか長崎で発見された伊東マンショの肖像は議会に命じられてこのときヴェネツィアで描かれたものだといいますし、ヴェネツィアを離れる前の日に訪れたサルッテ神学校の壁には今も少年使節記念碑があります。しかし、残念ながら、『対話録』を目を皿のようにして読んでも、少年使節が印刷所や出版社を見学した記述は出て来ません。ただ、植物園でメルヒオル・ギランディーヌスから4冊合本の高価な『世界與地図』の寄贈を受けたことと印刷の巧妙さが記述されているだけです。なお、写真の感謝状の左の方の横文字はイタリア語訳文です。