活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

天正少年使節とヴェネツィア

2015-04-27 11:15:08 | 活版印刷のふるさと紀行

 伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中原ジュリアンこの4人の天正使節にとってはローマ教皇と謁見したヴァチカンの思い出の次に記憶に残ったのはヴェネツィアだったはずです。当時はヴェネツィア共和国でしたからローマ常駐の大使がおりました。その大使から大統領のもとに日本の少年使節を教皇が歓待する様子が刻々と伝えられましたから本国ヴェネツィアで大歓迎プランが着々と練られました。いわば、完璧な「おもてなし」だったのです。

 船でポー河をくだってヴェネツィア領に入った使節たちは祝砲や何十隻もの歓迎のゴンドラに迎えられ、サンマルコ広場裏の宿舎に入りました。彼らが花鳥をあしらった和装でニコロ・ダ・ポンテ大統領の謁見を受けたのをはじめ、連日、あちこちで大観衆に取り囲まれた様子はいろいろな本に記述されています。サン・マルコ教会、宮殿、鐘楼、市庁舎、造兵廠、造船場、ムラノ島のガラス工場、見るもの聞くものに驚嘆する日々が続いたのです。

 この少年使節のヴェネツィア訪問をいまに伝えるものにいくつものものがありますが、その最たるものに彼らがヴェネツィアを去るに臨んで大統領にあてた感謝状で、その現物がこんどの印刷博物館のヴァチカン教皇庁図書館展で見ることができたのです。感謝状の日付は1585(天正13)年7月2日です。

 感謝状は堂々たる筆運びの日本文字で洋紙に墨文字で書かれていました。とくに興味深かいのはその文章の下部に4人の使節の花押があることです。花押は武士階級には必須のものでしたから不思議ではありませんが、日本にいるころから使った花押なのか、ヨーロッパでサインを求められることが多いことから新しくつくったものでしょうか。草書体の花押の中にローマ字署名が隠されているといった人がいるものですから。

 一昨年でしたか長崎で発見された伊東マンショの肖像は議会に命じられてこのときヴェネツィアで描かれたものだといいますし、ヴェネツィアを離れる前の日に訪れたサルッテ神学校の壁には今も少年使節記念碑があります。しかし、残念ながら、『対話録』を目を皿のようにして読んでも、少年使節が印刷所や出版社を見学した記述は出て来ません。ただ、植物園でメルヒオル・ギランディーヌスから4冊合本の高価な『世界與地図』の寄贈を受けたことと印刷の巧妙さが記述されているだけです。なお、写真の感謝状の左の方の横文字はイタリア語訳文です。



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『どちりいな・きりしたん』のホンモノと出会う

2015-04-25 12:42:43 | 活版印刷のふるさと紀行

 印刷博物館ではじまった「ヴァチカン教皇庁図書館展Ⅱ」-書物がひらくルネッサンス-でようやく1591(天正19)に日本で印刷されたキリシタン版の『どちりな・きりしたん』と対面することができました。20年前、ヴァチカンで粘ったけれど見せてもらえず涙を飲んだホンモノが目の前にある感激。オープニングに来日された大司教さまや樺山館長はじめ印刷博物館のスタッフのみなさまに心から感謝。個人的にも忘れられない日になりました。

 『どちりな・きりしたん』は最終展示コーナー「ヴァチカン貴重庫でみつけた日本・東アジア」にガラス・ケースにおさまっておりました。見開きの左が本文の冒頭ページ、右が銅版画の扉です。布表紙のはずですが、ガラス越しで確認できませんでした。424~5年前に島原の加津佐か天草の河内浦で印刷されたキリシタン版がせいぜい古書店で見られる戦前本程度の新しさに見えるのも不思議でした。

 私がしばしば疑問をぶっけているこの大型活字の国字の鋳造についてはこうしてホンモノを見ても解明できるわけではありませんが、たまたま同じ日に手にした近畿大学中央図書館報『香散見草』2015 47号に森上 修先生がキリシタン版の国字鋳造について書いておられるのを読むことが出来たのも偶然ではない気がしました。

 この展覧会は7月12日までです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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床屋さんの思い出

2015-04-24 10:25:30 | Weblog

 暇を見つけて気取ったフランス語名前の理容店に行って来ました。鏡に映るわが老け顔と対面しているうちに子どのころの「床屋さん」の記憶が蘇って来ました。戦前の小さな田舎町での話です。 

 町の真ん中をゆったりと川が流れていて、そこに架かる橋には市電の軌道と自動車用の車線があり、一段高い歩行者道路がそのわきにあるという当時としてはかなりのものでした。私の行きつけの「床屋さん」はその橋を渡った先にありました。遠くからでも目に入る三色のサインポールは入り口が横手の露地からだったからでしょうか。天気さえ良ければその入り口のガラス戸の横に籐で編んだ乳母車が出してあって嬰児がゴムの乳首を吸っていました。

 使用人はいない夫婦床屋でした。小学4年生頃まではいつも父といっしょでした。父が親方にやってもらう隣で私はおかみさんにやってもらうのでした。おかみさんはときどき赤ん坊を見に外へ飛び出して行って、手をふきふき戻ってきては散髪をつづけるのでした。その間、私は鏡越しに親方の手の動きに見入っていました。親方の白衣の袖から出ている腕から手首まで黒い剛毛が生えていました。毛深いからこわいかというとズングリムックリの体型と笑顔で少しもこわくありませんでした。その手で散髪が終わると私には10銭銅貨のお駄賃をにぎらせてくれるのでした。

 あれは、たまたま一人で行くようになってからのことでした。家に帰るとすぐに母が呼ぶので玄関に行ってみると頬っぺたを真っ赤にして床屋のおかみさんが立っていました。しかも白衣の裾が泥だらけでした。「坊ちゃん、仕上げを忘れたので、父ちゃんに叱られて追っかけたんだけど坂の下で転んじゃって」仕上げは ほんの4~5秒、櫛と鋏を動かしたら終わってしまったのですが、おかみさんの荒い呼吸が首筋にかかって熱かったことをおぼえています。

 私が親方に最後に会ったのはそれから1年も経たないうちでした。いつものように店に入って行くとおかみさんがお客さんの髭を剃っていて、奥から親方の「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」という軍人勅諭暗誦の声が聞こえました。小学生の私でもたちどころに事態は理解できました。親方に召集令状が来たのです。それからも何回かおかみさんだけの床屋さんに行きましたが子どもでしたから親方の消息は聞けませんでした。

 町が米軍機の焼夷弾にやられた翌日でした。床屋さんの前を通ると焼け落ちた店の瓦礫の中に乳母車の台車の金属だけが焼けたdれているのが目に入りました。それっきり、戦争が終わっても「床屋さん」は二度と私の前には現れませんでした。

 

 

 

 

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タウン誌に望みたいこと

2015-04-20 12:02:39 | 活版印刷のふるさと紀行

 紙メディアの領域がどんどん減っていくのをみるのは私のような活字人間、印刷人間にはなによりもさみしいことです。先日も新聞社の人と話していて、夕刊の配達を断る人が多く、夕刊だけならまだしも新聞購読そのものをしない若者が年々ふえて困ると聞きました。

 デジタル情報でじゅうぶん用が足りるというのでしょうか。活字の力をもっと評価してほしいと思ってしまいます。

 そうはいってもメトロの駅などに積んであるフリーペーパーは別にして、最近は、企業PR誌だとか、地方情報誌だとか、同人誌といった紙メディアも目に見えて減って来ています。そんな中にあって神出鬼没ではありますが比較的健在なのが「タウン誌」ではないかと思われます。

 ただ、残念なのはタウン誌で圧倒的なページを占めているのはグルメ記事、飲食店ガイドであることです。もっとも最近はテレビでもグルメ番組でなければ旅行か健康番組一色ですから已むを得ないかもしれません。

 そこで」1975年創刊のタウン誌『深川』を紹介したいと思います。

 偶数月発行ですから最新号が3・4月号ですが、表紙に大きく「東京     

大空襲を語り継ぐ」とあります。わずか2時間半の空襲で深川周辺だけでも3万人、東京都内で10万人もの犠牲者を出した1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲を終戦から70年の特集としてとりあげているのです。3月10日の深川の町の再現、戦災資料センターの紹介、地元にある慰霊碑30にも及ぶ慰霊碑の紹介、空襲の体験談と充実した中身です。あるいは70年という歳月が惨禍の地元にあっても風化させてしまっているかもしれませんがタウン誌がたんたんと語り継ぐ姿勢に打たれました。

 タウン誌の多くがあまりにも今日的な情報提供に終始しておりますが、『深川』、のようにもっと町の昔を語り継ぐ記事をとりあげてほしいと思います。



 

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500年前のヴェネツィアで 2

2015-04-18 13:40:18 | 活版印刷のふるさと紀行

 私は500年前のヴェネツィアでは、印刷術は新技術ということで、さぞかし職人は高給で厚遇され、刷り上がった書籍は貴重品扱い、印刷人は蝶よ花よともてはやされていたであろうと想像しておりました。ところが、その想像はレプリの『書物の夢、印刷の旅』によってすっかり裏切られたのです。

 前回に書きましたように、職人は長時間労働を強いられ、少しでも好条件の勤め先を求めて転職を繰り返して行く、さらに、『宮廷人』のような売れ行きを望める場合は海賊版が出され、ヴェネツィアからパリやリヨンやサラマンカめざして舶載されていったといいます。いっぽう、出版社側で出版企画をたて、編集や校正など机上ワークを進めるのは貴族階級ですから社交界を舞台にあれこれと仕事の駆け引きが されたようです。女性をめぐっての話題までレプリはいきいきと描写しています。

 海賊版は別にして、正規の書籍は元老院の許可がなければ刊行出来なかったのでツテを頼って丁丁発しの交渉が展開したようですし、ヴェネツィアの文士たちの裏話や新しい書体を開発する制作者の話なども興味ぶかく読みました。とにかくバルダッサール・カスティリオーネのベストセラー『宮廷人』の原稿がヴェネツィアで刊行されるまでの経緯を書きながらルネッサンス期の出版史、印刷文化史、政治史をつぶさに散りばめているこの本の一読をお奨めしたい気がします。


 

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500年前のヴェネツィアで

2015-04-14 09:59:48 | 活版印刷のふるさと紀行

 この肖像画の主はバルダッサール・カスティリオーネという長ったらしい名前のイタリア人で、描いたのがラファエロときますからかなりの有名人です。彼はルネッサンス期に外交官として活躍しましたが、もう一つの顔が作家、上流階級の子女たるものの社交や教養のあり方について書いた『宮廷人』はヨーロッパで長くもてはやされたといいます。 1529年に亡くなっていますから日本では秀吉が生まれるちょっと前の人です。

 さて、この『宮廷人』がヴェネツィアで出版されたのは1528年とされています。グーテンベルクが印刷術を発明したのが1450年ごろで、またたくまにヨーロッパ中に活版印刷がひろまったのはよく知られていることですが、なかでもヴェネツィアは1500年代に入るや否やイタリア中で出版される印刷物の半数以上を生み出すいんさつの町になりました。。

 それだけに、ヴネッイアの印刷所の忙しさたるや大変なものであったらしいのです。職人が15人ぐらいいる印刷所で4~5台の印刷機を動かしている場合を例にとると、労働時間は1日12時間は当たり前、16時間も活字ケースや印刷機の前に立ち続け、昼食にあてるのはせいぜい30分、ようやく夜業を終えると雇い主も雇われ人もサンマルコ広場やリアルト橋周辺の居酒屋に飛びこんで精魂つきはてたわが身を癒したといいます。

 まさか、私は写字工を失業させた新技術、活版印刷がヴェネツィアでこんな形で展開していたとは知りませんでした。もっと印刷工にあステータスがあってゆったりと新技術の印刷に取り組んでいたと思っておりました。実はこうした500年前のヴネツィアの印刷所(書籍商を兼ねていることが多かったらしい)のことを知ったのは、最近出たラウラ・レプリの『書物の夢、印刷の旅』-ルネサンス期出版文化の富と虚栄-柱本元彦訳,青土社によったのです。

  この本の著者ラウラ・レプリはイタリアきっての名編集者でバルダッサール・カスティリオーネの『宮廷人』の原稿が家令によってヴネツィアの印刷・出版街に持ち込まれるところの状況描写から、部数や値段の交渉を経て印刷所が決まり、入稿前の編集作業や校正などの本になるまでの経過を当時の印刷所や出版界の動静を記述する間に散りばめた出版印刷史と見ることもできるのです。著者ラウラ・レプリがルネッサンス時代に自分と同じ編集者や校正マンがいたと述懐するところで笑ってしまいましたが、実はもっと示唆に富んだ箇所がたくさんありました。




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思い出す「武勲桜」

2015-04-02 14:18:37 | 活版印刷のふるさと紀行

 

                                                     

                             

サクラが今日あたりで終わりだといいます。開花宣言からまだ、1週間も経たない気がするのでアッケない感じです。上野や千鳥ヶ淵の花見風景に刺激されたわけではありませんが、散りぎわの美しさをめでてやろうと晴海から勝鬨の水辺を歩いてみました。少し遠出するつもりなら、大横川や仙台堀川や清澄公園があるのに、あいかわらずの怠惰ぶりです。 それに花見の喧騒はあまり好きではありません。

 そうはいってもふるさとの岡崎が東海道きってのサクラの名勝地でしたし、文京区の家では風呂場から西片の夜桜が楽しめるものですから結構おつきあいは深いほうです。

 フラフラ歩いているうちに思い出したのが「武勲桜」です。私の通った小学校は高台で、大きな運動場のある校庭の四方がサクラでした。その小学校の校門につづく坂道に苗木を植えたのですが、それが武勲桜という名前でした。たぶん、第二次大戦がはじまっていてマレー半島に日本軍が上陸したり、落下傘部隊の映画に興奮していたころだったと思います。

 もっと赫々たる戦果をあげようというのだったのでしょうか、もっと武勲をたててほしいという願いだったのでしょうか、いずれにしても戦意向上を目的としていたのでしょう。その後どうなったかは確かめておりませんが、おそらく戦災で消滅してしまったことでしょう。花見客の喧騒が苦手でも、外国人の花見客が多いような平和な花見は大歓迎。武勲桜はゴメンです。



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