クタバレ!専業主婦

仕事と子育て以外やってます。踊ったり、歌ったり、絵を描いたり、服を作ったり、文章を書いたりして生きています。

黄瀬戸のおじさん

2023-03-09 23:09:48 | 2022年の旅エッセイ

《まえがき》

昨日落ち込んでしまいまして…予告通りの更新ができませんでした。人生初の金髪に挑んだのですが、あまりにあまりのド金髪で、鏡の中の自分に大層ショックを受けてしまい、パソコンの画面にいちいち反射して映るピカチュウみたいな黄色い頭にうんざりしてしまい…寝ました。

 

《本編上映はこちら》

私たちはそのおじさんを「黄瀬戸のおじさん」と、名付けた。

 

1月の旅を経て、2月の旅は私が計画した。焼き物に興味があったのて、「岐阜県多治見市」と「愛知県瀬戸市」と迷ったが、織部焼は地元で馴染みがあったので、瀬戸焼を見に行くことにした。“焼き物に興味がある”なんて書くと、なんだかセレブでアートな匂いがするけれど、決してそうではない。“にわか”である。価値がどうとか、デザインがどうとか、窯元やら作家やら焼き物のうんちくには無知である。ただ“さわること”が好きなのである。見た目ではない手で持った感触が“これだ”と思う瞬間がある。それ相応の値段の場合もあれば、たった数百円の物もある。お小遣いで買える範囲の物を、増え過ぎない程度に買い集めている。

“すき”は、“すき”でいい。詳しくなくていいし、プロでなくてもいい、気まぐれでもいいから自分がどんな風にどんな時にそれがすきなのか、私は説明できる自分でいたい。

 

「愛知県瀬戸市」の人たちは、今まで旅をしてきたどんな場所より穏やかで親切であった。“人それぞれ”ではあるが、私は県民性というのはある程度ある気がしている。その土地の空気と水が人を作っているのである。後に、将棋棋士の藤井聡太さんの出身地だと知り、納得した。彼のあの表情が“瀬戸市”だと想像して欲しい。

 

コロナ渦の旅行は、店も客もお互いが戦いである。お客が欲しい観光地は、他県の人間に来てほしくない地元でもある。皆が険しい表情をしている。生活のために営業しながらも、見えない毒を運んでくるかもしれない客に対してどこか空気が張り詰める。そんな中で、この街の人々はニュースを見ていないのか?と思うほど、瀬戸市は和やかであった。どこへ行っても注文のやり取り以外に世間話を入れてくる。客商売のサービストークとは違う、家族や友人に話しかけるようなリラックスしたトーンで話して掛けてくれるのだ。この街に関しては語りたいことが山ほどあるけれど、今回は一部に絞って書いていく。語り過ぎない代わりに、是非「瀬戸市」へ行ってみてほしい。決して派手な観光地ではないけれど、小さな喫茶店や博物館、古いけれど丁寧に手入れされたホテルや美味しいお店が、優しく立ち並ぶ街である。悲しくなったら瀬戸市へ行きたい。きっと、人間を少し好きになって帰って来るはずだ。

 

1日目は、「瀬戸蔵ミュージアム」をゆっくりとまわった。若い頃は博物館なんて興味なかったけれど、コロナになった今、美術館や博物館をゆっくりと見る…そんな時間がとても貴重に思えた。昔の「瀬戸駅」が再現された展示は、博物館に興味がない人でもテンションが上がるエリアだ。まるで映画のセットのようである。その他は、ずらりと並んだ器、器、器…さっき見た物との違いがわからないほど、似たような焼き物がずらりと並んでいて、その用途と形が時代と共にほんの少しずつ変化していく様子を見て知ることができる。見どころは、すり鉢の“溝”が、どの時代で入ってくるかだ。あれを考えた人はシンプルに凄い。

 

中途半端なうんちくは避けるとして、この旅のメインは夫のマグカップを選ぶことでもあった。夫の「織部」のマグカップを私が割ってしまったので、これぞ!と思う物をこの旅で探そうとしていた。好みの物を探すということは、自分を探ることでもある。自分がどんなデザインが好きで、どんな飲み物をどれぐらいの量を入れたいのか、重さや手触りを確かめながら、自分の中の勘を探っていく。

 

メインストリートを中心に、数えきれないほどの陶器店が並んでいる。街の坂の上にはたくさんの煙突があって、この街が焼き物の地であることを教えてくれる。高価な物もあるけれど、そのほとんどが信じられないほどに安い!更にそこにお値引きシールが貼られているので、あれもこれも買っていたら大荷物になってしまう。欲しい物を数点に絞るというのも至難の業である。何を基準に振るいにかけるかで、手元に残るアイテムも変わってくるだろう。使い勝手を優先するのか、見た目を優先するのか、両方を選ぼうとすれば値段が跳ね上がってきたりして、予算とも相談しなければならない。子どもの頃の“おかいものごっこ”は、大切なお勉強だったのだ。

 

一軒一軒見ている間に、あっという間に日が暮れてしまい、続きは明日にすることにした。だいたいの目星はつけた。夜は小さな定食屋に入ったけれど、この街の飲食店はどこへ行っても食器がかわいいのだ。“焼き物のことはわからない”、そんな人でもいつも行く自分の街のお店で出てくる食器との違いはきっとわかるはずだ。これも是非行って確かめてみてほしい。うまく説明できないけれど、“皿があたたかい”(笑)この街の人たちとよく似ている。だって、そんな人たちが作っている「器」なのだから。

 

2日目に私たちは、前日に時間切れで入れなかったお店を中心に周った。正直この時点で買いたい食器はもうほとんど決まっていたが、“余すところなく見たい”という私の精神(「意地悪な海鷂鳥」参照)が、その店の扉を開いてしまったのが運命である。私たちはこのあと1時間半近くこの店に軟禁されてしまう(笑)

 

思い出してみてほしい…この街がどんな街かを…。そう…気さくで穏やかで和やかで親切。そして“お話し大好き”である。中でも最もお話し好きだったのが、この「黄瀬戸のおじさん」(やっと登場・笑)である!

 

店内は他のお店とは少し違って、よりセンスのいい焼き物が並べられており、他とは違うことを値段と共に実感する。「何かお探しですか?」から始まるのはお約束である。少し強面に感じたのは、値段が高い店イコール店主も気難しいのではないかという先入観からだ。夫がマグカップを探していることを口にすると、店内の真ん中に置かれたごっつい木のテーブルに座らされた。「焼き物のことはご存じ?」と聞かれれば、「いや~そんなには~…昨日そこの瀬戸蔵ミュージアムには行ったんですけどねぇ…」と、愛想笑いで答える。

 

そこからである…

 

「よしきた!知らざ~言って聞かせやしょう!」と、おじさんに焼き物スイッチが入ったのである。私たち二人は勢いよく釣れた魚である。どれだけ身をよじって逃げようとしようとも、おじさんが仕掛けた返し針はしっかりと私たちの喉奥に突き刺さり、暴れれば暴れるほど深く喰い込んでくる。レッツスタート、である。

 

おじさんはまず、無言で店内のいくつかの食器やら湯呑やらを手に取り、すべてをテーブルに並べた。

 

「洋食器と和食器の違いはわかる?」

 

あまりにも長いので割愛するが、この続きが知りたい方は是非お店を訪ねてほしい。どのお店かはここでは紹介しないが、行けば必ず「黄瀬戸のおじさん」のお店を、メインストリートで見つけられるはずだ。

 

おじさんは、「瀬戸蔵ミュージアム」よりもミュージアムな人だった。実に丁寧にわかりやすく、焼き物の歴史や、違い、見方や選び方を教えてくれた。話がとても面白いのだ。聞くたびに「ほー!」「へー!」と、二人とも感嘆の声が上がってしまう。言葉も、子どもが聞いても理解できるような言葉で、気取らず、わかりやすく、時々クエスチョン&アンサーを交えてきて、学校の授業のようでもあった。昨日時間をかけて見た博物館の説明書きも、おじさんの話しを聞いてから行った方がより楽しかったに違いない。

 

だがしかし長い(笑)長すぎてその面白い話もだんだんと入ってこなくなってきた…体がムズムズしてきて、おじさんの後ろで振り子を刻む立派な木時計が授業の終わりのチャイムを鳴らしてはくれない。おじさん…もう下校の時間です(汗)

 

逃げられない状況下でだんだんとパニック発作の気配が背後に迫ってくる。バッグにいつも入れている安定剤を飲みたいが、それすらできない状況である。うまく切り上げればいいのだけれど、私たち夫婦はその術を知らず、こういった時は困ってしまう。

 

「わかりました、僕、じゃあこれ、買います!」

 

夫は自らを生贄に差し出した…。そう、ここから抜け出すためには、うまく断るか買うかのどちらかしかないのだ。おじさんがすくっと立ち上がり夫が選んだマグカップを持ってレジにいる奥さんの元へと席を立った。人質解放の瞬間である。

 

「いいの…?あれ結構するよ…?無理に買わなくても…」

 

私は夫に耳打ちした。夫は3,000円もする「織部」のマグカップを買った。マグカップひとつにこの金額は、高価である。店を出た瞬間、大きな深呼吸の後に声のボリュームが上がる。

 

「いや~ごめんよ、犠牲にさせちゃって…」

 

「あのおじさん、すごかったね。でも俺、おじさんの話が良かったから、本当にこれが欲しいって思ったんだよ。」

 

「そうなの?…」

 

メインストリートを歩く。私は欲しいティーカップとソーサーがあったので、その店へと向かった。値段もセットで1000円とお手頃で、ヨーロッパと中国が合わさったような変わったデザインが気に入った。けれど、お店に入ってその商品を目の前にすると…なんだかどうしても気が引けてしまった。夫が買ったマグカップと色違いの「黄瀬戸」のマグカップが頭に浮かぶのだ…。でも3倍の値段…黄瀬戸は淡い色なので、地味と言えば地味である。

 

「私、もう一回さっきのおじさんのお店に戻る。私も同じマグカップ買うよ。」

 

夫は驚いていた。私はなぜか小走りで「黄瀬戸のおじさん」の店へと向かっていた。早く行かなければあの魔法の入り口が消えてしまう…そんな気がした。何かが私を呼んでいる。息を切らしてもう一度あの扉を引いた。

 

「あの!私もさっきのマグカップ買います!」

 

黄瀬戸のおじさんは、驚く様子はまったくなく、まるでそうなることがわかっていたかのような目をしていた。

 

「どれにする?」

 

黄瀬戸のおじさんが言う“どれ”というのは、同じデザインでも微妙に形や大きさが違うからだ。ひとつひとつが手作りだからだ。釉薬(ゆうやく)の濃淡や貫入(表面のヒビの模様)の入り方、大きさ、裏に刻印された作家のサインは気まぐれで手書きだったり判子だったりする。その中から自分がピンとくる手触りの物を選ぶのだ。

 

「これにします!」

 

黄瀬戸のおじさんは、それ以上もう何も語らなかった。私は夫が選んだマグカップより少し大きめの色違いのマグカップを選んだ。きっと、私たち夫婦を表している。このマグカップは、底の形は丸いのに、飲み口は正方形なのだ。器には作り手が込めた使い手への想いが込められているという。ただ単にデザインを追求した器もあれば、本当に計算し尽くされて作られた器もある。それが日本のわびさびであり、もてなしの心に繋がるのだと教えてくれた。この底と飲み口の形の違いの意味には未だ気付けないでいる。けれど、意味というのは時間の宝物で、熟していつか知ることできることがこの世界にはたくさんあるのだと思う。いつかこの意味がわかったとき、私も自分の手で何かを作れていたら願う。

 

家に帰ってからも悩んだ。損をしたのではないか?騙されたのではないか?おじさんは単に高い物を売りたかっただけではないか?そんな疑問が反芻した。確かにおじさんの話はおもしろかったけど、私は夫につられて買ったようなものだった。夫はマグカップをとても気に入っていて、珈琲を淹れる度に「気分が違う」と、ご満悦であった。

 

けれど夫のマグカップがたった一ヶ月で割れてしまったのだ。夫の家族に不幸があった頃で、更に事故で腕を骨折し、夫は身も心もボロボロになっていた時期だった。たまたまテーブルの端に置いてあったマグカップが、強風で吹き上がったカーテンに引っ張られて床へ落ちたのだ。バリン!と音がして、見ると取っ手が取れてしまっている。

 

「嗚呼…」

 

それしか二人とも声が出なかった。わかっていた。まるで夫のようだった。

 

私のマグカップが割れればよかったのに…。価値がわからず使っている私より、気に入って使っている夫のマグカップが割れなくてもいいじゃないか、なにもこんな時に。夫は鬱になりかけていた。なんだかすべてが悲しい春前だった。

 

黄瀬戸のおじさんは言っていた。私が割れた食器を修復する金継ぎの技能について尋ねると、「ものすごく高価な器でもない限り金継ぎをする必要はない。物は壊れたらそこで終わり。割れたらまた新しい出会いを探す」のだと。

 

「また新しい物を探そう!そのためにまた旅をしようよ。またあのお店に買いに行ってもいいしさ。」

 

そう励ます私に、夫は力なく笑っていた。大丈夫。割れたのは取っ手だけ。湯呑のようになってしまったけど、まだ使える。新しい物を見つけられるまで使えばいいさ。そう言って一年経つが、取っ手が取れたままで今も我が家で活躍している。現役プレイヤーである。夫は新しいマグカップを買ったのだけれど、”何かが違う”とこのマグカップを使い続けている。私もようやく気付いたのだが、口に付けた瞬間の飲み口の口触りが他の物とは感触が違うのだ。しっくりくる。取っ手は取れてしまったけれど、本体にはヒビひとつ入らず頑丈で、ある程度の厚みがあるにも関わらずとても軽い。軽さは使い手への思いやりだと、おじさんは言っていた。今こうして黄瀬戸のおじさんのことを書き起こしていると、涙がじんわりと浮かんできてしまう…。うまくは説明できない、おじさんのことも、マグカップのことも…。けれど、“あたたかい”のだ。あの街そのものがそうであったように、派手ではないけれど、やさしく私を迎えてくれている。頑張らなくていいのだと、焦らなくてもいいのだと、教えてくれている気がする。

 

あのお店はおじさんの代で終わりなのだそうだ。そして、いつかおじさんもその命を終えるのだ。その日までおじさんは焼き物の良さと街の良さを伝えていくのだろう。長い時間を掛けて学び、選び、ひとつひとつ確かな目で集めてきた器が私を呼んだのだ。物は壊れてもいい。けれど、人は壊れてはいけないのだ。夫のすべてが壊れる代わりに、マグカップはその”腕”を失った。折れた夫の腕はちゃんと元に戻った。今日も片腕を失ったマグカップが、疲れた夫を癒しくれている。

 

私がどんな人間か、どんな人生か、そんなことを知らずとも人の優しさが風のように届く時がある。その人たちとの出会いがほんの一瞬であっても、知らず知らずのうちに救われたり救ったりしている。その逆もたくさんあるからこそ、私はずっと自分の中に閉じこもってきたのだけれど、誰かが呼んでいる方へ、私はこの翌月も、その翌月も、一年を通して向かっていくのである。

 

海鷂鳥



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