JFK-World 世界の撮影・取材地トピック

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TV-CMおよびTVドキュメンタリー番組のディレクター & カメラマン

「琥珀の物語」 エピローグ

2010年11月17日 | ロシア

中世の 『ケーニヒスブルグ大聖堂』 と、
(第 2次世界大戦で半壊滅、ソ連崩壊後再建)
旧ソ連時代 『ソ連の家』 と呼ばれた共産党関連のビル ・・
(11月10,11日のブログ参照 )

ドイツとロシア、両国の歴史を象徴するかのような光景です。



13世紀の 『ドイツ騎士団』 にはじまるドイツの北東への進出 ・・
そして、建国以来の夢である 『不凍港』 を求める
ロシアの南西への進出 ・・
ふたつの国の思惑が、
ケーニヒスブルグ = カリーニングラードでぶつかりました。





近世の歴史は、写真や映像などによって、
視覚的に認識することが可能です。
たとえば、この 『アウシュビッツ強制収容所』 ・・







そして、『ユダヤ人の迫害』 ・・

ケーニヒスブルグ、そしてバルト三国といわれる
リトアニア、エストニア、ラトビアでも、
第 2次世界大戦中、
おびただしい数のユダヤ人が、
ナチスドイツによって虐殺されました。



Oskar Schindler
オスカー・シンドラー (1908年ー1974年)

スピルバーグ監督の映画 『シンドラーのリスト』 で知られる
私財を投げ打って多くのユダヤ人を救ったドイツ人 ・・

実業家であったシンドラーは、多くのユダヤ人を雇用していました。
『たとえ雇用人であっても、人として接することによって
 人間としての理解が深まる』
彼は、常々そう話していたそうです。

『たったひとつの命を救う者は全世界を救う』
後に、
救われたユダヤ人からシンドラーにこんな言葉が贈られています。



杉原 千畝 = すぎはら ちうね (1900年ー1986年)

『日本のシンドラー』 といわれる外交官です。
第 2次世界大戦中の1940年、
リトアニアの日本領事館に赴任していた
杉原 (敬称は略します) は、ユダヤ人難民を救うために、
日本の外務省の指示にそむいて 『通過ビザ』 を発給します。

杉原が独断で発給したこのビザのおかげで、
6000人以上のユダヤ人が救われたといわれています。

『私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、
 人間としては当然のこと ・・
 私には彼らを見殺しにすることはできなかった』

後年、杉原はこんな言葉を残しています。

実は、1941年、1年足らずの短い期間ですが、
杉原は在ケーニヒスブルグ総領事館に赴任しています。
1941年といえば、ナチスドイツが 「琥珀の間」 を
『ケーニヒスブルグ城』 に持ち込んだ年です。
(11月 9日のブログ参照 )

あくまでも想像ですが、杉原は本物の 「琥珀の間」 を
最後に目にした日本人かもしれません。

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