古代日本国成立の物語

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「日本語はどこからきたのか」を読了

2020年11月07日 | 書評
大野晋著「日本語はどこからきたのか」を読了したので、ポイントを以下に整理しておきます。

ある言語と別の言語、ふたつの言語を比較すること(比較言語学)によって、①意味が同じで音の対応が成り立つ単語が基礎語の中にたくさん認めれらること、②文法的な共通点が認められること、の2点を証明することができれば、このふたつの言語が共通の祖先をもつ、あるいは一方が他方の祖先である、つまり、それぞれの言語が親戚関係にあることがわかる。

著者はこの比較言語学の手法で日本語とタミル語(インド南部およびスリランカの一部で使われているドラヴィダ語に属する言語)を比較し、①については2000語ほどの基礎語のうち約500語が該当すること、②については肯定文の最後に疑問の助詞をつけて疑問文にするなど多くの共通点を持っていることから、 タミル語と日本語が親戚関係にあることを証明した。さらに加えて、③日本の和歌の「57577」の形式が紀元前後のタミル語最古の歌集に認められることも証拠として提示している。

しかしながら、この事実はあくまでふたつの言語が極めて近い関係にあることを証明したに過ぎず、この言語を用いる民族が親戚関係にあることを証明したことにはならない。そこで著者は、両言語の類似性を証明した上で、特に穀物に関する言葉、田畑などの耕作地に関する言葉、米・糠・粥など稲を加工した食料を表す言葉、織り物に関する言葉、墓に関する言葉、金属に関する言葉、船に関する言葉などの共通性を指摘し、さらに小正月の行事の共通性、甕棺による葬制の共通性、壺形土器や子持ち土器の形の一致、農具の形の一致などについても指摘し、稲作、金属器、機織りなど弥生時代の文明が南インドからやってきた集団によって、その言葉とともに伝えられたと主張する。ただし、日本の弥生文化は北部九州から始まったと考える著者は、タミル人が北部九州にやって来たとの説を展開する。

古代の造船技術や航海技術は私たちの想像を上回るものであったろうし、タミル語を使う集団が南インドを出て、ベンガル湾、マラッカ海峡、南シナ海、東シナ海を航海して北部九州にやってきた可能性は大いにあると考えるが、その到着地は南九州であったかもしれない。また、南インドからダイレクトに日本に来たのではなく、中国の江南や朝鮮半島を中継してやってきたことも考えられる。古来、東シナ海を挟んで江南地方と南九州との間で往来が盛んであったことを考えると、タミル文化が江南を経由して南九州に入ってきた可能性も否定できない。

また、著者は日本語と朝鮮語の比較も行っている。その比較においては、②は多くの点で成立するが、①については認められる単語の対応が少ないことから、両言語は近くて遠い関係にあるとしている。ただし、朝鮮語は15世紀以前にさかのぼる資料がないことがその証明を困難にしているという事情も指摘しており、その点においては朝鮮語が日本語の祖先であることを完全に否定することができないとも言える。このことから、弥生時代に南インドの集団が朝鮮半島を経由して日本にやってきた、あるいは朝鮮半島の集団が南インドの文明や言語を採用し、それを日本に伝えたという可能性が十分に考えられる。むしろ、そう考える方が説得力がありそうだ。

タミル語が日本語の祖先に位置づけられるという著者の説は聞いたことがあり、日本人のルーツを考えるにあたって参考になると思って本書を読んでみた。言葉の類似性や共通性に留まらず、稲作を伝えて弥生文化をもたらしたのがタミル人であったとまで言われると、俄かに賛意を表すことができない気持ちになったのが正直なところである。しかし、それにしても子持ち土器の形が似ていることには興味を覚えた。しかもタミル人は口縁部に皮を張って楽器(太鼓)として使っていたというから驚きだ。もしかすると日本で出土している子持ち土器も楽器だったのかもしれない。




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