四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

長瀞町郷土資料館と国指定重要文化財旧新井家住宅

2024年06月01日 | 資料館・博物館

長瀞花の里ハナビシソウ園を見学した後、同所にある『長瀞町郷土資料館』・『国指定重要文化財級新井家住宅』(埼玉
県秩父郡長瀞町大字長瀞1164番地)を見学してきました。
『長瀞町郷土資料館』
埼玉県長瀞町は、”地球の窓”と呼ばれ、”日本地質学発祥の地”とも呼ばれています。更に、比企郡小川町と並んで関東の
板碑石材(青石)の二大生産地と言われいます。そうした関連資料を中心に、【太古の長瀞】・【原始・古代の長瀞】・
【中世の長瀞】・【近世の長瀞】・「郷土芸能と行事】の展示をしています。『国指定重要文化財級新井家住宅』は、資
料館の裏にあり、長瀞町大字中野上にあったものですが、昭和50年3月に、現在の場所に移築されたものです。
いずれもさらっと見学してきた程度ですから説明もさらっとですが。
入館料は200円



【太古の長瀞】 ”地球の窓”と呼ばれ、荒川の清流にあらわれた渓谷美をほこる長瀞の大地が、どのよう
に作られてきたかを沢山のパネルで解説しています



【太古の長瀞】  1”地球の窓”長瀞から順を追って


【原始・古代の長瀞】 大滝遺跡出土石器


【原始・古代の長瀞】 川面(かわづら)遺跡出土品


【中世の長瀞】 中央の板碑(写真)は長瀞町にある日本最大の板碑「野本下郷石塔婆」(国指定史跡)


【中世の長瀞】  板碑に関する説明パネルが並んでいます


【中世の長瀞】 (長瀞町の板碑)  右側は【近代の長瀞】 のコーナー


山仕事の道具
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長瀞町郷土資料館の裏出入り口を出でると旧新井家住宅があります


説明版
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国指定重要文化財 旧新井家住宅の説明
新井家は徳川時代に代々当地方の名主をつとめた高い格式を誇る休暇である。この住宅は、長瀞町大字中野上121番地に
所在し、かつてこの地方にさん散在した板葺農家の典型的なものとして国の重要文化財に指定された。建物の年代につい
ては明らかでないが、家蔵の祈祷札のうち一番古いものは延享2年(1745)の年記があり、構造手法からみても時代の特
性を示すものであり、このころの建立と思われる。その後明治、大正、昭和を数次にわたり改修と受け 230 数年の星霜を
へて今日にいたった。町はこの建物を新井氏より譲り受け当地に移築保存することになり、昭和 50 年3月、国・県の補助
を受け復元工事を完了した。
                       所   在 長瀞町大字長瀞 1,164番地
                       名   称 重要文化財 旧新井家住宅
                       構造又形式 桁行 20.9 メートル、梁間 10.5 メートル切妻造、
                             一部2階、板葺、東面庇茅葺
                       指定年月日 昭和 46 年 6 月 22 日
建物は桁行 10 間半、梁間5間の板葺、切妻造で、一部に中 2 階を設ける養蚕農家である。平面は桁行を 3 分して、土間、
「ざしき」、「でえ」裏に「へや」「おくのでえ」が配されている。構造は上屋・下屋の区別がなく、柱は棟木または母
屋まで達するものが多く、小屋東は少い。この建造物の特徴としてあげられるのは、栗材の板葺石置屋根、内部の屋根裏
の「モヤ」に取りつけた竹を「あけび」のつるで結んだのが見どころと言える。又、軒下の関西風の格子を取りつけてあ
るのが美しい。
 昭和 51 年 3 月 15 日
                                文   化   庁
                                埼玉県教育委員会
                                長瀞町教育委員会」

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旧新井家住宅の表側  


1階「でえ」  左側「おくのでえ」  右奥「ざしき」


竹林の中に見える旧新井住宅
竹垣手前が宝登山神社参道から(神社にむかって)左折して長瀞町郷土資料館に至る坂道


散策日:令和6年(2024)5月30日(木)

長瀞花の里ハナビシソウ園

2024年05月31日 | 花・鳥・風景

国の名勝・天然記念物『長瀞』で知られる埼玉県秩父郡長瀞町。その長瀞町の宝登山神社参道沿いの長瀞
町郷土資料館の奥にある、約10,000平方メートルの広大な敷地内にある『花の里ハナビシソウ園』を訪ね
てきました。
花の見頃と好天ということもあってでしょうか多くの見物客が訪れており、郷土資料館前の駐車場に入ろ
うとする車が参道に列をなしているという状況でした。



受付で「環境整備協力金」200円をお支払いして 平たく言えば「入園料」


































5月28日(火)の読売新聞朝刊で紹介されていましたので、これを見てきた方も多いのでは
※実際の紙面では写真の下に文面がありますが、掲載の都合上、文面を右横に移動(編集)してあります。



入園券として頂いた絵ハガキ この写真ではだいぶ白や赤色のハナビシソウが咲いているのですが・・・

散策日:令和6年(2024)5月30日(木)

企画展 上前原遺跡出土遺物展・上北浦遺跡出土遺物展

2024年05月29日 | 企画展・見学会

熊谷市立江南文化財センター(熊谷市千代329)
において、

『上前原遺跡出土遺物展』
 ~縄文時代中期後半~後期初頭の集落跡の調査結果について~
『上北浦遺跡出土遺物展』 
 縄文時代後期~晩期の生業と交流  ー上北浦遺跡の調査結果からー

の2件の企画展(遺物展示)が催されていますので見学してきました。
会期はいずれも 令和5年5月7日(火)~10月31日(木)



企画展の案内パネル
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上前原遺跡出土遺物展

~縄文時代中期後半~後期初頭の集落跡の調査結果について~
平成31年度、令和2年度に熊谷市内千代地内(旧江南町)で行われた上前原遺跡の発掘調査で出土した縄
文時代中期後半から後期初頭の遺物(土器・石器)を展示しています。
展示品:縄文時代中期後半~後期初頭の土器、石器(石鏃・打製石斧・磨石・石皿)14件


「上前原遺跡」説明板    「上前原遺跡位置図」


左:縄文時代土器深鉢    右:縄文時代土器深鉢  (縄文時代後期初頭)


縄文時代土器深鉢  (縄文時代中期後半)


縄文時代土器深鉢  (縄文時代中期後半~後期初頭)


上:石皿  下:打製石器  石鍬 石錘 打製石斧 磨石  (縄文時代中期後半~後期初頭) 


「上前原遺跡出土遺物展」解説書 

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上北浦遺跡出土遺物展

縄文時代後期~晩期の生業と交流  ー上北浦遺跡の調査結果からー
上北浦遺跡は、熊谷市江波地区(旧妻沼町)に所在する縄文時代後期~晩期にかけての拠点的集落遺跡。
今から約3,000年前の縄文時代後期~晩期に、妻沼低地に居住した人々の生業と交流を物語る出土資料の展
示この中には県内最大級の岩版もあります。
展示品:縄文時代後期~晩期の土器、石器  29件(39点)



「上北浦遺跡と岩版」説明板


左:台付浅鉢型土器  中:注口土器  右:浅鉢型土器  (縄文時代晩期)


上:岩版  (縄文時代晩期)  下:制塩土器  (縄文時代晩期)


左:大型打製石斧   右:磨製横刃型石器  (縄文時代晩期)


左:石剣未成品 5点   右:石剣 2点  (縄文時代晩期)


左:磨製横刃型石器  上:石錘 4点  下:獣骨 鹿角 (縄文時代晩期)


石材 (縄文時代晩期)


「縄文時代後期~晩期の生業と交流 ー上北浦遺跡の調査結果からー」解説書 

観覧日:令和6年(2024)5月23日(木)

神川町・白岩銚子塚古墳

2024年05月28日 | 古墳

埼玉県神川町新里の白岩丘陵(通称:くじら山)の頂上に所在する『白岩銚子塚古墳』は、神川町内では
一番大きな前方後円墳と言われます。そんな白岩銚子塚古墳を訪ねてきました。
墳丘の周囲は雑木林であるため離れた場所から全体の形を撮ることができないうえに、季節柄、草が繁茂
し、更に日差しの関係で、墳丘の形がはっきりしない写真ばかりですが何枚か載せてみました。
名 称:白岩銚子塚古墳(しろいわちょうしづかこふん)
別 称:ー
墳 形:前方後円墳
規 模:全長46m、後円部径約28m 高さ6.5m、前方部幅約29 m 高さ 4.2m、
    埋葬施設:横穴式石室(推定)
築 造:6世紀中頃
出土品:円筒埴輪片、馬・器材などの形象埴輪片、須恵器甕片
指 定:神川町指定史跡(名称:白岩銚子塚古墳 平成3年〔1991〕12月16日指定)
所在地:埼玉県児玉郡神川町大字新里2094


白岩銚子塚古墳は他3基の円墳ともに白岩古墳群を構成しており、埼玉県選定重要遺跡に選定されて
います。昭和51年(1976)10月1日選定


白岩銚子塚古墳古墳入口に『町指定史跡 白岩銚子塚古墳』の標柱が立っていますが、電柱のすぐ脇なの
で見落としてしまいます(実際に見落として古墳の場所がわからずに諦めた経験が・・・恥)



白岩銚子塚古墳古墳入口


標柱『町指定史跡 白岩銚子塚古墳』


入り口を入って進むと


『白岩銚子塚古墳』の説明版が設置されていました。 説明板のすぐ後方が古墳の後円部のようです


説明板
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    岩銚子塚古墳古墳
                           平成 3 年 12 月 16 日 町指定史跡
白岩銚子塚古墳は、一部墳丘が削られているものの、比較的遺存状態の良好な前方後円墳である。
墳丘の規模は、現状で全長約 46 メートル、後円部径約 28 メートル、高さ約 6.5 メートル、前方部幅約 29
メートル、高さ約 4.2 メートルである。確認調査の結果から、周溝を含めた全長 57 メートル、後円部径約
28 メートルに復元できる。周溝の幅は、後円部で 2.7メートル、前方部で 8.2メートルである。墳丘裾部と
周溝との間には、約 2.5メートルルの平坦部が設けられていた。
埋葬部主体部は後円部に位置し、南方向に開口する横穴式石室であったと推定される。周溝からは円筒埴輪
片、馬・器材などの形象埴輪片。須恵器甕片が出土した。
この古墳は、墳形・出土遺物等から、6 世紀代(約 1400 年前頃)に築造されたこの地域の首長の墓と推定
される。
平成 4 年 3 月

                           神川町教育委員会
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前方部を西側から


墳丘の北東側  後円部を 右手前は前方部 


墳丘の北東側  法円部から後円部方向に  手前が前方部  左が後円部


前方部西端から墳丘の南西側をみる  右側の道路は周溝跡のようです


前方部から後円部をみる


後円部墳頂


後円部南西側 大きくえぐられている部分に石室が存在か?


後円部の南東方から前方部方向に


後円部を東方から


墳丘の北東側  後円部から前方部方向に  左が後円部


白岩銚子塚古墳がある白岩丘陵(通称:くじら山)を北方の道路から
トラクターの左上に見えるのが白岩神社の鳥居



白岩神社鳥居


奥の石段の先に社殿がありますが、だいぶ傷んでいましたので写真は載せません。
白岩銚子塚古墳は社殿の更に後方(南方)にあります。


散策日:令和6年(2024)5月18日(土)

鴻巣市「コウノトリ」マンホールカード

2024年05月27日 | マンホール諸々

鴻巣市の2種目となるマンホールカードは「コウノトリ」をデザインしたマンホール蓋のもので、昨年で
ある2028年7月28日発行の第20弾のひとつとして発行されていましたので、過日、吹上のポピーを観に行
ったついでに頂いてきました。
配布先は、「コウノトリ野生復帰センター 天空の里」(鴻巣市明用632)です。但し、火曜日は鴻巣市役
所水道課



頂いてきたマンホールカードの表と裏  
36°03'34.7"N  139°30'39.1"E コウノトリのカラーマンホールが設置されている場所の座標(緯度経度)
計測したところこの場所は鴻巣駅東口のようです。
裏に 2307‐00‐004 とあります。004がロット番号ですので既に相当数が配布されていることがわかり
ます(1ロット2000枚)



「コウノトリ野生復帰センター 天空の里」の玄関に展示されているマンホール蓋

入手日:令和6年(2024)5月15日(水)

講座「行田市の日本遺産-文化財を活かしたまちづくり-」

2024年05月26日 | 講演会・講座


令和6年度 さきたま講座①
 講座名:「行田市の日本遺産-文化財を活かしたまちづくり-」
 日 時:令和4年12月11日(日)13:30~15:30
 場 所:埼玉県立さきたま史跡の博物館 2階講堂 (埼玉県行田市埼玉)
 講 師:中 島  洋 一 氏(行田市教育委員会 文化財保護課 主査)
 主 催:埼玉県立さきたま史跡の博物館
 内 容:同博物館企画展示室で5月26日(日)まで開催のスペシャルテーマ展「埼玉古墳群と日本遺産」
     関連の講座。日本遺産ストリートと、足袋蔵等歴史的建蔵物を活用したまちづくりについて。


を聴講してきました。

日本遺産(「にっぽんいさん」ではなく「にほんいさん」と読む)は、世界遺産の日本版のように思われるかも
しれませんが、世界遺産が「遺産を保護して未来へ伝えるためのもの」であることに対して、日本遺産は認定さ
れた地域の「文化財を保存活用し地域を活性化するもの」で、その趣旨・目的とするものがちがうようです。
認定された行田市の日本遺産は、「和装文化の足元を支え続ける 足袋蔵のまち行田」がストーリとなっており、
足袋蔵を中心とした内容の講座でした。
さきたま講座は、さきたま史跡の博物館という性質上、古墳などを中心テーマとした考古学関係の内容の講座が
大半を占めており、行田市の日本遺産関連で、2022年12月に、同講師による「行田市の日本遺産と埼玉古墳群」
が開催されていますが、今回を含め近現代をテーマにした内容の講座は大変珍しいものです。



講座の聴講ではありますが会場が博物館内であることから入館料200円を。講座の聴講だけでなく、当然
展示品の観覧もしますので。
入館者700万人達成 おめでとうございます  このうちの幾つが自身の延入館数分でしょうか?二桁は
確かです。



4月上旬に観覧済のスペシャルテーマ展「埼玉古墳群と日本遺産」でしたがあらためて観覧してから講座
会場に



講座とは直接は関係ありませんが、埼玉県立さきたま史跡の博物館が開館したのは昭和44年(1969)の
ことで、この時は、「埼玉県立さきたま資料館」という名称でした。
平成17年(2006)に、現在の「埼玉県立さきたま史跡の博物館」と改称されました。自身が初めて「埼
玉県立さきたま資料館」を訪ねたのは、昭和51年(1976)2月のことで、今から48年も前のことでした。
このころ展示されていたものの中には所謂古民具も相当数展示されていました(当時の【入館案内】にも
載っています)
ここにに挿入した【入館案内】と【入館券】は、42年前の昭和57年(1982)6月に訪館した際のもので
す。この時は既に『辛亥鉄剣』が公開されていましたが、古墳や埴輪といったものにはまだ興味がない
時代でした。
また、当時の入館料が50円であったことは忘れていました・・・


聴講日:令和6年(2024)5月25日(土)

神川町・大塚稲荷古墳

2024年05月24日 | 古墳

埼玉県神川町の青柳古墳群南塚原支群の中で一番大きな古墳である
  『大塚稲荷古墳』(おおつかいなりこふん)
を訪ねてきました


名 称:大塚稲荷古墳(おおつかいなりこふん)
別 称:南塚原1号墳
墳 形:円墳 段丘3段 上・中段に葺石
規 模:径40m、高さ6.5m 埋葬施設:両袖式と思われる横穴式石室 全長が11.2m
築 造:6世紀から7世紀
出土品:円筒埴輪や人物・馬などの埴輪
指 定:神川町指定史跡(名称:大塚稲荷古墳 平成14年〔2002〕5月31日指定)
所在地:埼玉県児玉郡神川町大字新里283


なお青柳古墳群は 昭和44年(1969)10月1日 埼玉県選定重要遺跡 に選定されています。


北側の墳丘裾に設置の 「青柳古墳群南塚原司支群」説明版 と 標柱「町指定史跡 大塚稲荷古墳」


説明板
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   青柳古墳群南塚原支群
南塚原支群では 73 基の古墳が確認されている。これらの古墳は、今から 1400 年程前の 6 世紀から7世紀
中頃にかけて、次々に造られたものであり、結果として小規模な古墳が多数密集する群集墳を形成した。
昭和 44 年の北部用水工事および昭和 62 年からの土地改良事業などに伴って 38 基の古墳が調査された。
調査の結果、ほとんどの古墳が径 15~20 メートルの円墳で、埋葬施設は横穴式石室である。石室を補強
するため、石室を取り囲むように控積みを設けるものが多い。
副葬品には、直刀・鉄鏃などの武具、馬具、勾玉、耳環などの装身具、須恵器がある。10号墳は、ほぼ未
盗掘の状態で、多くの副葬品が出土した。墳丘いは、河原石を積み上げた葺石がめぐり、円筒埴輪や人物
・馬などの埴輪が並べられた。
支群中で最大規模を誇る大塚稲荷古墳は(1号墳)は、径 40メートル、高さ約 6.5メートルの円墳である。
また、9 号墳は唯一の前方後円墳で、全長約 24.5 メートル、高さ約 2.5 メートルである。
古墳を造った人々が居住した所としては、中道遺跡が想定できる
 平成7年3月(平成26年11月改修)

                                  神川町教育委員会
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北側道路から


北東方向から


東方から


南方から


南方から更に近づき


墳丘にある『稲荷社』


北西方向から

神川町・中新里諏訪山古墳

2024年05月23日 | 古墳

埼玉県神川町の青柳古墳群は、旧青柳村を中心に展開する大規模な群集墳で、11支群から成ります。
群内には総数293基の古墳が確認されたようですが、墳丘が残存する古墳は現在80数基ほどとのことです。
支群のひとつである北塚原支群で現在墳丘が唯一墳丘が確認できる
 『中新里諏訪山古墳』(なかにいざとすわやまこふん) 所在地: 神川町大字中新里99-1ほか
を訪ねてきました。


名 称:中新里諏訪山古墳(おおつかいなりこふん)
別 称:ー
墳 形:前方後円墳
規 模:全長41m、後円部径約22m 高さ36.5m、前方部幅約20 m 高さ約 2.5 m、
    埋葬施設:両袖無型横穴式石室 
築 造:6世紀中頃
出土品:埴輪馬具・直刀・勾玉など
指 定:神川町指定史跡(名称:中新里諏訪山古墳 昭和62年〔1987〕3月10日指定)
所在地:埼玉県児玉郡神川町大字中新里99-1ほか


なお青柳古墳群は 昭和44年(1969)10月1日 埼玉県選定重要遺跡 に選定されています。


後円部から前方部にかけての西側


説明板
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    中新里諏訪山古墳
                           昭和 62 年 3 月 10 日 町指定史跡
中新里諏訪山古墳は、一部墳丘が削られているものの、比較的遺存状態の良好な前方後円墳である。
墳丘の規模は、現状で全長約 41 メートル、後円部径約 22 メートル、高さ約 3.5 メートル、前方部幅約
20 メートル、高さ約 2.5 メートルである。周溝の確認調査の結果から、全長 42 メートル、後円部径約
26 メートル、前方部幅約 27 メートルに復元できる。周溝の形態は盾型で、周溝を含めた全長や約 52 メ
ートル、幅は約 36 メートルである。周溝からは、土器や埴輪が出土している。主体部は、後円部に位置
し、南西方向に開口する横穴式石室である。馬具、直刀、勾玉、切子玉、須恵器等が出土したと伝えられ
ている。
この古墳は、6 世紀中頃(約 1450 年前)に築造されたこの地域の首長の墓と推定される。
昭和 63 年 3 月 10 日(令和 3 年 8 月改修)

                           神川町教育委員会
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南西から  手前が前方部 奥が後円部


墳丘の東側は墓地があります


前方部から後円部に向けて


前方部に露出している石  草が繁茂して全体の形がわかりませんが石室の石材か?


後円部墳頂の諏訪社?


後円部から前方部に向けて


北側から後円部を

散策日:令和6年(2024)5月9日(木)

第39回 和紙の里 文化フェスティバル

2024年05月22日 | まつり・イベント

埼玉県唯一の村東秩父村で
 第39回 和紙の里 文化フェスティバル -出会いと歴史 未来に伝える 和紙の里-
が、5月18日(土)・19日(日)の2日間 道の駅 和紙の里 ひがしちちぶ  で開催されましたので
2日目の午後だけ出かけてきました。
今年のテーマは、-出会いと歴史 未来に伝える 和紙の里-ですが、昨年第38回のテーマは、-広げ
よう 出会いと文化 和紙の里-であったようで、埼玉県立滑川総合高等学校書道部の方たちが書いた
書が、この和紙製造所の入り口に掲げられています(広げよう)の文字が挿入したチラシで隠れてし
まいましたが。


各種イベントはこの中庭で   その大半はステージで行われます


雨になりそうな天候であったことからでしょうか、急遽、大きなブルーシートでステージの上に屋根が張
られ、ステージ背後に吊るしてあった、今年のテーマが入った滑川総合高等学校書道部の方たち書もはず
されました。
第23回ふるさと響きまつり=19日のステージイベントを挿入してみました。



今年も沢山のお店が出ていました


和紙の里 文化フェスティバル=第23回ふるさと響きまつり=の大トリは、鬼太鼓座(おんでこざ)=
この鬼太鼓座の太鼓を聴きたくて午後から出かけてきたわけでして・・・ただ、打奏者が少なくなってい
たのがちょっと残念!
あとは何枚かの写真のみで
















見学日:令和6年(2024)5月19日(日)

平井城・平井金山城の御城印

2024年05月21日 | 御城印

群馬県藤岡市に所在する『平井城・平井金山城』の御城印を入手(購入)してきました。
平井城は崖の上に築かれた崖城であり、平井金山城は山城で平井城の詰城です。両城は群馬県指定史跡と
なっていますが、それぞれが単体で指定を受けているのではなく、二城を併せて「平井城・平井金山城」
として指定されているものです。
御城印は「関東管領平井城址保存会」が発行販売しているもので、県の史跡指定において二城を併せて指
定したように、単体では販売しておらず、『平井城』・『平井金山城』の2枚をセットで販売しています。
御城印の取り扱い場所は、藤岡市観光案内所(道の駅ららん藤岡)藤岡歴史館など4カ所で、去る5月9日に
藤岡歴史館で購入してきました(販売価格600円)。



『平井城』と『平井金山城』の御城印   セットであるにもかかわらずデザインが全く違っています


御城印に同封されている 関東管領の居城 「平井城」 解説文


平井城址  令和6年(2024)5月9日撮影


平井金山城本丸跡  平成22年(2010)2月7日撮影
やっとの思いで攻城しましたが、あちらこちらに残雪がありました  体力的に今ではとても登れません



平成22年(2010)当時のパンフレットと最近のパンフレット

御城印入手日:令和6年(2024)5月9日(木)