きっかけは、ムージ師との出会いでした。
師などと勝手にお呼びしておりますが、直接お目にかかったわけではなく 動画サイトを通じてのご縁です。
師の動画と初めて出会ったのは 12月に入ってからのことだと思い込んでいましたが、フォルダの作成年月日を確認したら 10月でした (これまで以上に 時間観念があやふやで当てにならなくなっています) 。
で 数ある動画を片っ端から見てゆくうちに、これまでにない角度から刺激を受け 大きく意識を揺さぶられることになったのですが、とりわけ大きかったのは、漠然と同じものなのかな・・・・と思っていた “在る” と 「観察する自分」 が 完全にひとつになったこと。
さらにもうひとつ、姿形や名前 ・ 思考や感情といった五感で掴める要素が 自分そのものではないという認識が確定的になったのも、大きな進展でした。
「私の車」 「私のカメラ」 などというとき、車やカメラは私が所有するものであって、私自身ではない。
同様に、「私のからだ」 「私の名前」 「私の知識」 「私の感情」 「私の意見」 等々についても、「私の○○」 と呼べるものすべて、「私」 が所有するもの ・ 「私」 に属するもの ではあっても、私そのものではないと。
これはとてもわかりやすく すっと入ってきて、心から納得できました。
そして 決定打をくらったのが、この二つの動画。
「ムージ、DirectSeeing[前編] 道なき道」 「ムージ、DirectSeeing[後編] 目覚めの瞬間」
サットサンというんでしょうか、なにかの集まりの場でのムージ師と質問者のやりとり、これを見ながらふと 自分も一緒に師の指示に従って 意識の中を探ってみようという氣になったのです。
この質問者の女性は、どうやら自身の抱える恐れの解消を望んでいるらしい。。。。わかるなぁ。
恐れと戦わず 手がかりにして 何が恐れているのかを探し出すというのは、自身の経験からも 大きくうなずける話です。
“身体の中にある、恐れの力を使ってください
そして、恐れている者を見つけることができるか、確かめてください”
こういった観察には、度重なる感覚フォーカス体験のおかげですっかり慣れています。
恐れを誘発する記憶の持ち合わせにも事欠きません。
さあ、動画の女性と一緒にやってみましょう。
たちまちのうちに 胸やのどの締め付けなどおなじみの感覚が湧き上がってきます。
からだに響くある種の感覚、ここに言葉を添えれば すぐさま感情となってほとばしり、恐怖の物語をとうとうと語り出すことでしょう。
いつもなら 言葉を封じたまま からだの感覚に焦点を合わせるところですが、今回の課題は 「恐れている者を見つける」 こと。
ええと、からだも感覚も 「私の~」 が付けられるから 「私」 に属するもので、恐れている 「私」 そのものではない、と。
それをいうなら、言葉も感情も恐れのストーリーも みな私そのものではないことになるな。
あれ?
からだ、感覚、言葉、感情、記憶、憶測、それらについての思考や意見、判断解釈などなど 「私の~」 が付くものはいくらでも見つかるけれど、肝心の 「私」 そのものはどこ?
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ええええええええええ!?
いない、どこにもいない!
からだはちゃんとここにあって、恐れの元の感覚も相変わらず響いているのに、その主はどこにもいない!!
「私」 がいない、どこにもいない!!!
そう、どれだけ探っても、「私」 を見つけることはできなかったのです。