旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

バッド・トリップ - 悪夢の一週間

2024年02月23日 18時15分32秒 | 旅日記
バッド・トリップ - 悪夢の一週間、

 今回は、2部に分かれます。最初の一週間は地獄のタイ編。その後は、ミャンマー編。極楽編とまでは言えないけど、明るくなるぜ。

 その前に。『北さん(自分のことです。)の感じるミャンマーの魅力はズバリなんですか?』こう、若い女性から聞かれました。うーん。一言では難しい。
まずは、ミャンマーでなければならない、わけではない。
 アジアの仏教国なら、タイ、カンボジア、ラオス、スリランカがあるね。タイ、バンコクはいかん。発展しすぎだ。東京との違いが、タイ・ミャンマーの違いより小さい。物価は円安だし、日本と大して変わらん。ラオス、カンボジアは良い。ラオスは、むしろミャンマーより住みよいだろうし、自然も人もよい。
 スリランカはヒンズー教徒も多く住んでいて、やはりインド文化圏だろ。アジアの上座部仏教の国。それとはちょっとイメージが違う。あとネパール、モンゴルも。お米の国ではないでしょ。
 ラオスには、日本企業は進出していないので、日本語教師の需要が無い。カンボジアには、アンコール遺跡群のガイドの日本語教育はあるが、それだけで間口は狭い。ベトナムが行きたい国のNo.2 だが、行くならハノイだな。
 話しがずれてる。ズバリ何でしょう。生きてるって楽しいな。そう実感できることかな。ミャンマーの人の生活は厳しい。ヤンゴンの街は、車も少なくなった。ガソリン代が高騰した。タクシー代は3年前の3倍。飯代も上がった。夜は人が表に出ない。生活は苦しくなったがミャンマー人は、のんびりしてるのよ。
 とにかくわくわくする。道を渡るのも、大袈裟に言えば命がけだから、アドレナリン全開でいっちゃうわけね。今のヤンゴンでは、毎日の計画停電が2日交替で、5 - 9 AM 13 - 15 PM, または、9 - 13 と 17 - 19 時。その他に突発的な停電がある。小型懐中電灯を持ち歩いたほうが良い。
 ミャンマーの人は優しい。人に全く干渉しないから、外国人だからといって、話しかけられたり、ジロジロ見られることはない。自由でいられるのだ。どうぞ 、お飲下さいと水瓶を道路に設置する人たちだものね。

 * どうも電波状況が悪くて、入力に倍の時間がかかってしまう。後は帰国後にしよう。

 あのね。なかなか筆が進まなかった。あの一週間のバッド・トリップは、出来ることなら、忘れたい。でも、まあここまで書いちゃったんだから、さっさと済ませて、ミャンマー極楽編にたどり着こう。

 本当は、細かいなにがしは切って切って、事実をテンポよく進めた方が良い。分かってはいるのだが、今回は敢えて、ベタにぞろぞろと書き進めることにする。省略すると、事の背景がぼやける。さあ、ドロドロと行くよ。
おんどろろ、おんどろろ、覚悟しいや!
 
 自分は、四国遍路を終え、次の目標が見当たらなかった。仕事は辞めていたから、時間はある。金は無い。遍路のブログを書き終えると、ポッカリ穴が開いた。グダグダと寝転がってTVを見るか、本を読む一か月。
 そんな時に、ミャンマーから鈴木先生が一時帰国した。自分の教え子だった青年2人と一緒に中華街に行き、半日を過ごした。2人は、大して日本語は上手くなっていなかったが、本当に楽しそう。日本の会社で友達も出来て、来週箱根に遊びに行くそうだ。鈴木さん、ちゃんと約束を守って彼らを日本に連れてきていたんだ。もう半年も日本にいるそうだ。
 実はもう一人、生徒がいたのだが、彼はシーマン(船乗り)になったそうだ。これは意外だ。彼は良い家のボンボンで、好奇心が強くて、よく授業をサボる明るい若者だ。何故、船乗りに?反政府(反軍部)の活動に熱心なあまり、警察に睨まれたらしい。ミャンマーの警察は国軍の下部組織なんだ。国内にいられなくなったんだな。でも、彼は地図帖を一週間貸して下さいと、熱心に見ていたから、海外に関心があったのを思い出した。
 この半日で、自分の行く道が見えた。もう一度、ミャンマーに戻って先生をやるか。しかし、年末。余裕の無いところで、訪緬を急ぎ過ぎたようだ。ミャンマー直行便のLCLが無いことは、分かっていた。ならば、バンコクかハノイに一泊すればよい。成田⇔バンコク、バンコク⇔ヤンゴンでどうだろう。
 別々の便で、総額6万円ちょっとでチケットを買った。ただ、日程に余裕がない。年末年始をはさんだ。これが悪夢の始まりだった。クーデター以前は、一か月の観光はVISAが不要だった。今は、一日でもVISAがいる。だが、VISAを大使館に申請するには、日にちが足りない。でも大丈夫。いざとなれば、到着時に商用VISAを取得出来る。申請書類は入手済みだ。ところが、ガビーン!これが無くなっていた。
 マズイ。すかさずE-VISAを申請した。上手くいけば、翌日入手できるはず。1月9日(火)の昼に出発で、なんと8日が休日。正月休み明けの4日に申請した。5日に入手出来れば、滑り込みセーフ。
 ところが、5日の夕方に大使館からメールが入り、旅程表が本人である証明が必要とか、言ってくるじゃあないか。ネットの旅行会社に無理を言って、旅程表にパスポートNo.を入れてもらった。それを送り返したのは、5日の夜中になった。E-VISAは、ミャンマー政府関連の旅行保険に強制的に入らされたりして、1万円ほどかかった。
 出発日の9日の朝に、もしメールが未着だったら、仕方がない。出先のバンコクで入手するか。VISAの未着が気になり、荷物の準備がおざなりになった。今回は、一度帰国するが、その後再入国して先生生活をするかも。それを考え、荷物は多めになった。本など5-6冊入れた。
 20kgsまではOKなように、バンコク⇔ヤンゴン便は、荷物の超過料金を前もって払った。成田⇔バンコクは、中国東方航空と言う便で、なんと上海で乗り換えだ。この航空会社を選んだことに、後でいやというほど後悔させられる。この便のメリットは、一つだけ。荷物が2ケ、48kgsまでOKなことだ。上海乗り継ぎは、厄介だが安いのだから仕方がない。
 乗り継ぎの上海空港では、中国元がないので、給水機の水を飲み、本を読んで時間をつぶした。上海空港の職員の英語の通じなさには、びっくりした。「今、何時?」上海のローカルタイムを聞いたのだが、これが全く通じない。時計を指さし、今、何時ですか?空港の青年は、ポカンとするばかり。勘も鈍い。スマホの翻訳サイトを出すから、もういいよ。
 搭乗時間になった。そこで止められたのが、悪夢の始まり、始まり。搭乗口で自分を止めた係員は、おばさんだったが、彼女も英語は一言も通じない。スマホを見せられ、良く分からない日本語を勘を働かせて読むと、荷物に電池が入っていたらしい。鍵を出せという。ここが悲劇の第一ポイントになった。
 出がけに気付いたのだが、南京錠の鍵が一つしかなかったんだ。成田で買おうと思ったんだが、番号合わせのタイプしかない。またトランクの穴が小さいから、細い鍵でないと入らない。まあいいや、そのまま出国してしまった。上海空港の搭乗口で、鍵を出したらおばさんはティッシュでくるんだ。それ一つしかないから、必ず返してね。念を押しても通じない。またスマホを出す。制服を着ていて、ここまで英語が通じないとは。
 おばさんはちょっと考え、面倒になったのか、ティッシュをはがして鍵を返した。行け、行けと言うからそのまま進んだ。まあ、バンコクで開ければいいや。しかし、それは大きな間違いでした。トランクは、飛行機に乗らなかったのだ。

 そのままバンコクの空港に着いた。ドン・ムアンではなく、第二空港のスワンナプームだ。この空港は初めてだが、成田よりはずっと立派だ。夜の11時頃、トランクを受け取ろうと荷受け場のレールで待っていたが、ちっとも出てこない。嫌な予感。同乗者らしき人は、一人もいなくなった。
 空港の係員に聞いた。彼は、英語が通じる。彼はあちこち電話をして、2-30分待たされた。結果は最悪。トランク(バッゲージと呼ぶ)は、上海空港に置かれたままだ。理由は、違法なリチウム電池が見つかったから。
 電池、入れたかなー。その後何度も記憶をたどったが、確かな記憶はないものの、出がけに血糖値測定器用のCR-2032を投げ込んだかもしれないと、思い当たった。CR-2032なんて、目覚まし時計やおもちゃに使うポピュラーな電池だが、機内で発火する可能性が100憶分の1 でもあるというのか。
 空港のBaggage claim の職員に書類を書いてもらい、日付が替わって1月10日の真夜中、予約していたホテルへ行った。手荷物のリュックだけだ。日本は冬だが、バンコクは暖かい。というか暑い。
 ホテルにチェックインした。フロントでは、若い女性が一人で事務をしていた。この娘さん、名はパッターカディーさん。とても親切で気立てのよい子だった。飲み物とカップラーメンは売っていたが、マッチ、ライターの類はない。どうしてもタバコが吸いたいので、教えてもらったコンビニへ行った。ライターは、成田で2ケ取り上げられていた。
 コンビニに向かう途中、近道をしようとして入った広場で、犬たちに取り囲まれた。狼群攻撃をされるのか。彼らは見事なフォーメーションで俺を取り囲み、唸り声をあげる。タイの犬だろ。昔は、皮膚病であちこち赤むけして、腹を出して寝ていたじゃあないか。経済が豊かになると、犬まで元気になるんかい。時々、仲間に勇気を示したいのか、フォーメーションを抜けて直ぐ近くに来るのがいる。今にも手にかみつきそうだ。ネイティブアメリカンの若者が、抜け駆けして騎兵隊に迫るような感じ?
 ここで噛まれてはマズい。狂犬病の予防注射を、一週間も打たなければならなくなる。「バカヤロウ!お前らにかまっていられるか!」こっちも怒鳴って威嚇する。広場を過ぎると、犬たちは去った。ヤレヤレ。
 やっとコンビニにたどり着き、飲み物、朝食のパン、Tシャツ、そしてライターを買った。途中の上海以来、10時間ぶりにタバコを吸った。真夜中で人通りはなく、幹線道路から離れているので車も通らない。頭がクラクラした。フラフラと、麻薬中毒のように歩き、ゴミ箱の横で前向きに転倒した。ファー、やっちまった。幸い誰も見ていない。
 ホテルの受付のお姉さんは優しかった。受付のパソコンは、貸してもらえなかったが、自分が持参したパソコンを苦労して立ち上げてくれた。何だか、余計なソフトが次々と出てきて、なかなかYahoo Japanにたどり着けない。コンセントは、トランクの中なので、内蔵電池が切れるまでの命だ。やっとたどり着いた時には、午前3時を廻っていた。
 ところがアーア、期待したVISAはメールで届いていない。これで問題は2つになった。本日の夕方の便なのに、トランクは上海、ミャンマーのVISAは無い。夜が明けたら、バンコクのミャンマー大使館に行くか。遅れるかもしれないと、ミャンマーに連絡が出来ただけが救いだ。

 朝になると、昨夜転んだ時の打撲で、左ひざの左上部がボコっと半円に盛り上がって、赤黒く変色していた。手のひらには切り傷。ひざは触ると痛い。でも歩くのには支障がない。足は、しばらく組めなかった。10日もすると、ひざに溜まったリンパ液(?)が下がって、左足の甲が膨れた。甲は痛くはない。この傷は、二か月経った今でも変色している。
 ミャンマー大使館の所在は、調べてある。荷物は大きなリュックが一つだが、ここでは不要なジャンパーがじゃまだ。タクシーで最寄りの駅に行き、電車を乗り継いで、大使館を目指した。フロントのパッターカディーさんに聞くと、通勤時間なので渋滞にはまると、タクシーでは2時間かかるかもしれません、と言う。
 この後一週間、バンコクの電車と地下鉄を乗り継ぐことになる。便利だが、料金は案外高い。また路線によって、切符がコインだったりカードだったり。乗り継ぎの度に切符を買うのは、面倒だ。また、駅間が相当離れているのはザラだ。車内は、日本ほどは混んでいないが、冷凍庫のように冷房をきかせているので、長く乗っていると寒くなる。それで、トイレに行こうとすると、大抵の駅にはない。係員に言うと、連れて行ってくれて鍵でドアを開け、事務所のような所に案内される。日本で出がけにプリントアウトした、バンコク市内の路線図が大いに役に立ち、ボロボロになるまで使った。色分けされた路線。車内の英語アナウンスで、次の駅名が分かる。
 やっとたどり着いたミャンマー大使館は、建物の内外にミャンマー人があふれかえり、道路の先の先まで座り込む、難民キャンプと化していた。だが、皆さん大人しく何かを待っていて、これだけ人がいるのに静かなくらいだ。E-visaは8番受付だという。9時(10時?)からなので、自分も難民と化して待った。
 時間になったが、8番は開かない。時間を3-40分過ぎ、やっと係員が来た。中年男性だ。顔を見ていやな予感。自分は、日本でE-Visaを申請した。この番号です。本日の夕方の便なのですが、発行されているでしょうか?ここで確認していただいて、出来ればプリントアウトして下さい。そう頼んだ。
 男性は黙って聞き、E-Visaは、コンピューターで確認してくれ。ここは大使館(embassy)で、imigration ではない。へっ?ここでVisaを発行してるじゃん。8番窓口は、E-Visaの担当でしょ?しかし、取り付く島もないとは、このこと。彼は、ここはxxではない。△△だ。を何度も何度も繰り返すのみ。くそ軍事政権だからこうなのか。それとも以前からこうなのか。
 鉄面皮には、何を言っても通じない。歩み寄る気は、全くない。話を聞く気はゼロだ。ごったがえす入り口に戻り、事情を説明すると、ああ面倒くさいとおばさんは、8番、8番、E-Visaは8番。これほど感じの悪いミャンマー人には、初めて会った。こりゃあ、いかん。今ここでVisaを申請すれば、3日後には受け取れる。土日を挟んで月曜か。二重に金はかかるが、旅行保険は取ってあるし。その書類も持っている。でも写真が無い。トランクの中だ。
 仕方がないと一旦撤収。何の役にも立たなかった大使館を後にして、スワンナプーム空港へ行った。informationで、バッゲージクレームの書類を出して、掛け合ってもらったが、ラチが開かない。それでは、中国東方航空の事務所か係員はどこ?カウンターに行くと、2人くらいしかいない。何故か上海航空で聞いてくれという。上海航空は、ちょう出発便が近いのか、結構職員がいる。青年が親切に対応してくれた。上海空港の荷物担当と思われる部署に電話がつながった。
 しばらく待たされ、日本語の通訳という男性と話しが出来た。だがこの通訳、何を言っているのかさっぱり分からない。荷物は上海にある。違法なバッテリーが入っている。ここまでは、昨日の段階で分かっていることだ。通訳は、直ぐに上海航空の青年と代わってくれ。青年が自分に英語で説明する。オイ、何のための日本語通訳だ、お前さんは。おかしいだろ。どっちが通訳なんだよ。通訳は、とにかく待て。待っていろを繰り返す。だからいつまで?待て。バッゲージが無いと困る。金も薬もバッゲージの中。待て。この後、どうなる。いつまで待つのか?何を待つのか?待て。ラチが開かない。上海航空の青年は気の毒そうに、待つしかありませんね。くそ。2つの問題の両方が解決しないじゃあないか。
 
 搭乗の時間は迫り、行っても意味はないが、ドン・ムアン空港へ向かった。空港で乗る予定だったタイ・アジア航空のカウンターで、トランクが未着という事情を話した。すると、チケットのキャンセルは、特に何もしなくて良い。ただ乗らなければよろしい。あー、ついに乗りそこなった。
 空港隣接のホテルの職員に、市内で20~25ドルでお勧めのホテルは無いか聞き、教えてもらったホテルへ向かった。そのホテルが満室だったので、近くに泊った。パソコンが使えないし、電池も切れそうだったので、宿の隣のコンビニでシムカードを買った。ホテルの受付のお姉さんが、ちゃっちゃっとシムを入れ替えてくれた。ハイ、これがタイの電話番号ね。後ろに貼っておくわ。
 これは便利だ。Yahoo のメールもラインもMapも使える。スマホの充電コードは、フロントで借りた。E-Visa のメールは、まだ届いていないが、ミャンマーの鈴木さんとは、双方向で連絡が取れるようになった。問題は二つ。Visaとトランク。
 翌朝フロントのお姉さん、彼女は本当によく気がきく。こういう気働きが出来る女性は、10人に一人か50人に一人だ。スワンナプーム空港のバッゲージの担当部署は、なかなか電話が通じない。ずいぶんと時間がかかったが、結局何も変わらない。トランクは以前として上海。上海は待てと言っている。書類の番号がはっきりしただけ。タイ人の書いた1は、7に見える。
 コンビニのちょっと先に、ローカルのタイ料理屋があったが、ここの飯は実に美味かった。値段は、日本の半額ほど。その後、近所のレストランを数軒廻ったが、最初の店がベストだ。

 Visaをタイで取り直そう。どこかで写真を写せないかな。翌日は、最初に紹介されたホテルに移った。1泊目のホテルで、クレジットカードで払おうとしたら、6ケタの暗証番号を入力してくれと言われた。6桁?暗証番号?結局現金で払ったが、これはマズい。手持ちの現金には、限りがある。大半の金はトランクの中だ。だが、サイフの他に、数万円とドルを入れた札入れをリュックの底に見つけ、ホっとした。これが無ければ、大ピンチだった。暗証番号は結局4桁で、次のホテルからはクレジットが使えた。

 実は、荷物の未着はこれで二度目だ。何十年も前に、イエメンのサヌア空港で、航空会社のミスで数日待たされた。仕事の書類は、手持ちのアタッシュケースに入れてあったが、街に出てまず靴下を買ったっけ。でもこの時は、お客さんが面倒を見てくれ、いざとなれば、お金を借りることも出来た。数日後に空港まで取りに行って、トランクを回収した。ゴメン、の一言もない。まあ、空港の職員のミスではないのだが。それ以来、手荷物にいくらかの現金と、少々の着替えなどを入れる習慣が身についた。
 またチェックインと同時に、ホテルのネームカードかパンフレットを入手して持ち歩く。若い時の恐怖体験、「私はどこ?私のホテルは何処?」を避けるためだ。恐怖のカルカッタ、暗黒の下町体験は一度でよい。この経験は、以前にブログで書いた。

 さて、さすがに少し飛ばすか。旅行会社は、何もしてくれなかった。いんぎんに、違法の電池を入れたお前が悪いんじゃん。上海に戻るか、と考え始めたが、チケットの変更に応じるとは思えない。何を言っても、誠に恐縮ですが。Visaの取得のため、ミャンマー大使館を再訪した。写真は路上の軽トラと机を置いた所で、電信柱を背景に撮り、パスポートのcopyと一緒に15分ほどで出来上がった。安い。これが、魔法のように良い出来の写真なんだ。
 フと思いついて、東京のミャンマー大使館のサイトを見た。番号を打ち込むと、今までの under proceeding(処理中)が消えていた。ってことは、発行された?その通り。ヤンゴンの鈴木さんに頼むと、メールで送ってくれた。やった!Visaが取れた。これで一つ解決。
 宿に戻り、スマホからフロントのパソコンに移送して(別のお姉さんにやってもらった。)プリントアウトした。Visaはペラな紙一枚で、発行日は9日だった。メールは、適当に送り忘れたんだろう。
 後はトランク。実は、奥の手を試していた。バンコクには、この国に住み着いている中学からの友人がいる。彼に頼めば、タイ語で交渉をしてもらえる。苦労して昔の交信記録を掘り出し、連絡はついたのだが、あいにく彼は、体調不良で寝込んでいた。仕方がない。
 よし、こうなったら日本大使館に行ってみるか。今のままでは、ラチが開かない。トランクが上海から動かないのなら、ミャンマー行きは中止して、バンコクから上海に戻るしかない。とはいえ、土日を挟んで観光もしたよ。








 ワット・プラケーオや中華街に行った。タイは、外国人観光客で溢れていた。特に欧米系の人が多い。空港には日本人もいた。中華街は、昔のようにごった返していたが、物価が驚くほど高い。飯屋は日本の倍はする。まあ、店の選択に間違った。タイ人が食べる屋台風の店にすればよかった。
 ホテルから最寄りの駅まで2-3kmある。バイクの後ろにまたがって乗る。最初は怖いが、安いし気持ちがよい。バイクタクシーに乗って、ショッピングモールやローカルマーケットに行き、ゴムゾーリや着替えを買った。気がかりがあるので十分は楽しめない。
 糖尿病の薬は切れた。インシュリン注射は、厄介なので最初から手荷物には入れなかった。血糖値を計るのも入れていない。タイの薬屋で、ポピュラーな一種類だけ入手した。値段は安い。
 さて、日本大使館。結局、力にはなってくれなかった。タイ国内のトラブルならねー。でも部屋と電話を貸してくれた。この電話で、タイの空港、中国東方航空のクレーム担当、そこで聞いた上海空港のバッゲージ担当に電話をした。2-3時間かけて、思いつく所に片っ端からかけまくった。上海空港の担当者の女性は、思いがけなく英語が達者で、こう言った。うーん、その番号では記載がありませんね。
 そ、そうなの。もしかして。スワンナプーム空港へまた行った。これで何度目だろう。またまたinformation で待たされたが、今回は対応が違った。2Fのinformationに行け。そこに職員が来る。何で?と聞いても、分からないとの回答。2Fのinformationは、飛行機から降りてまだ外に出ていない人がいる所だ。警備員に事情を話し、中に入れてもらった。必ずここから出ろという指示だ。そこで、またまた待たされた。いーよ、いーよ。バス3時間待ちとか、お遍路で慣れてる。
 やっと、作業着を着たおじさんが現れた。ついてこい、とグルグル引き回され、ドアを開けると貨物の集積所じゃないか。これは、これは、もしかして。事務所の前にトランクが山積みされている。荷札を調べたおじさん、「これは君のかい?」あー、あった。俺のトランク!見ると鍵がかかっている。
 これ、いつ到着しました?いつ?おじさんは、知らない。何度も聞くと、どこかに行ってしまった。タイのバッゲージクレームの人には、何度も電話して、何かあったら電話してね。変化があったら、電話してね。または、メールで教えてね。繰り返し念を押したのに。
 さっそく中を確認すると、お金は無事で、見たとこ何の変化もない。ところが、小さな色紙が入っていた。中国語で何やら書いてある。そーか、開けたんだな。開けて電池を取り出したんだ。鍵を開ける職人を手配するのに、時間がかかったのか。やっぱり、上海空港で鍵を渡しておくべきだったか。待て、待てしか言わないで、事情を説明してくれたなら。

 これで悪夢は終わった。ネットでバンコク⇔ヤンゴンを最短で予約し(別会社)、翌日にはバンコクを発った。さて最初の旅行会社は、トランクのトラブルについて、何もしてくれなかった。バンコク⇔ヤンゴン便については、往路でキャンセルしたから、復路も自動的にキャンセルされた。荷物の超過分だけのキャンセルはできない。恐れ入りますが、まことに恐縮ですが、オメーには何もしてあげないよ。駄目。出来ない。何もしないし、する気もない。
 しかし、復路は後に発券された。これには頭にきた。これなら、片道のチケットで良かったではないか。復路のチケットを2枚持って、どうする。クレームをしつこくメールした。返事の度に、上の奴に代わる。そしてついに彼らは返金に応じた。そりゃー、そうだろ。復路もキャンセルされたと言われたから、往復で買ったんだ。

 ところで、中国東方航空はいくら、100%自分に非があっても謝らない航空会社として、その筋で有名だそうだ。さもありなん。


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四国遍路 ー 遍路ってこんなの?続続続

2023年11月23日 10時58分18秒 | 旅日記
四国遍路 ー 遍路ってこんなの?続続続

また容量が一杯になった。30,000字以下にしろと言う。

・5番・地蔵寺には、2つの著名なものがある。寺の裏にある五百羅漢(拝観料200円)と、樹齢800年、たらちね銀杏(イチョウ)と呼ばれる大樹だ。木の下一面に、ブルーシートが敷かれている。近づくとあの独特の腐敗臭というか、糞尿臭が満ちている。
 何しろ、見る間にボトボトと落下音がして、雨のように実が落ちてくる。寺の人は、竹ぼうきで実をかき集め銀杏(ギンナン)の山をいくつも作る。800年経ってこの生命力。
 イチョウは、雌雄があって葉の形も独特だ。ジュラ紀から続いているという。ただ、古代にはいろいろな種類があったが、生き残ったのはほぼ一種類だそうだ。ヨーロッパでは絶滅した。日本のイチョウは、1,200年前ごろに中国から渡ってきたものらしい。ちょうど弘法大師のころじゃないか。特に好んで寺の境内に植えられたのだろう。
 でも、ごめん。自分の手帳では、この銀杏の雨の木は、7番から11番の間と書いてある。5番だったのかは、自信がないな。他の寺でも、銀杏の木、ブルーシート、あの匂い。きれいに実だけにして袋に詰め、100円で売っているお寺さんもあった。旅の途中なのに、思わず買っちゃった。

ps. 霊園に勤めている友人の話しでは、銀杏(ギンナン)の実の重さで、枝が折れるそうだ。通行人に危ないので、道路に張り出している枝を切り落とすとのこと。凄いな、イチョウ。


これ、イチョウ?

・江戸時代の遍路は、今とは違う景色を見ていた。ビルや車や、舗装道路のことではない。まずはコスモス。この花はメキシコ原産で、1969年に逸出確認とあるから、割と最近だ。こんな綺麗な外来種なら、大歓迎です。
 あと、セイタカアワダチソウ。この黄色い花の群生は、河川敷、土手、荒れ地、原野、休耕地、路傍とどこでも見られる。よく似たブタクサが、花粉症の元凶として嫌われる。1900年導入。観賞用として輸入されたんだ。原産地は北アメリカで、養蜂家に大事にされる。ただこの花の蜂蜜は、独特の味がして、二級品の扱いだそうだ。
 セイタカアワダチソウと生息域がダブり、生存競争をしているのがススキとヨシだ。江戸時代の遍路は、果てしないススキが原を歩いた。自分としては、ススキを応援するが、所変われば。北アメリカでは、養蜂業の敵である外来種のススキが、嫌われて駆除される。たしかにススキの形と色は寂しい。幽霊草と言えるかもしれないね。
 セイタカアワダチソウは、ドイツでも第二次世界大戦後、アメリカ軍が持ち込んで、ライン川一帯で大繁殖したそうだ。




・前にも書いたけど、初めのころに知り合った城さんとは、その後もLINEで文通をして楽しかった。宿情報を送ると、彼女がそこに泊まり、感想を教えてくれたりね。城さんは11/15に結願した。頑張ったね。全部歩きなんてスゴい。通しの遍路の成功率は、1/3くらいだという。区切りの遍路の方々に何人も会ったが、目的がはっきりしているので、迷いがなく無理をいとわない。
短期集中。通し遍路の一か月、一か月半は長い。どうしたって、中だるみがあるもんだ。
 城さんの話しでは、11/13ごろの雲辺寺では、猛吹雪で横殴りの雪が降ったそうだ。88番でも雪が降った。城さんの知人が、泣きながら写真を送ってくれたのを、転送してくれた。自分はもう半月、一か月後に旅を始めても良かったかな、思っていたが、この写真を見て震えた。10月末に旅を終えて良かった。
 もし、もしもだ。また遍路旅をするなら春。春爛漫。桜を追って歩き、GWの前に旅を終える。これは城さんの受け売りだが、自分もそう思う。春の旅はよい。四国の春の旅はね。

・曼荼羅寺。いい名前じゃないか。この寺の門前近くのバス停で、若い女性の遍路さんと知り合った。香川県はスゴイ。観音寺市のバスは、どこでも、どこまで行っても100円だ。隣の善通寺市のバスは、何とただだった。彼女は、スマホでバス情報などを、実にこまめに調べていた。彼女に連れられて、バスを乗り継ぎ街に出た。
 彼女はその日、ネットにも本にも出ていない、女性専用の安宿に泊まるそうだ。そういう女性用の遍路サイトがあるそうだ。岡山の人だが、四国の大学を出たので、遍路は以前から気になっていたらしい。あっ、言い忘れたけど、彼女は逆打ちなんだ。つまり、1→88番ではなく、88→1番と廻る人。名前は聞かなかった。ではもう会わないね。バイバイ。
 ところが、翌朝駅で再会した。間違えて反対側のホームにいた自分に、正しい方を教えてくれた。ありがとう。君のことは、多分5年は忘れない。

・靴は悩ましい。一か月、毎日平均15~20km歩く。そのほとんどが、舗装された、車が隣を走る路。でも時には山道。時々は、登山のような急斜面。山道では、足が靴の中で固定された登山靴がよいのは当然。でもそんな日は、数日しかない。90%の平地、アスファルトの道を、重くてかさ張る登山靴で歩くのはゆううつだ。リュックに登山靴など、考えるだけで疲れる。非現実的だ。
 自分も、登山用品店やスポーツ店を見て回り、軽くてかさ張らない登山靴を探した。でも登山靴かランニングシューズになってしまう。どっちも兼ねるのは見当たらない。えい、そんなら運動靴にしよ。980円の歩きやすいのにした。
 サイズは、普段より0.5大きいのにした。これは、1cm大きいのにした方が良かったかも。26.5なら、27でなく27.5の方がよいかも。まあ、自分で履いて歩いて確認してね。
 新品に近いのを履き、中敷きを一度交換して使ったが、何故か靴下に草がつく。中敷きを突き破って小さな穴が開いていた。


 底はツルツル。雨が降ったらスッテンコロリン状態だ。

・後悔はしていないが、もし次の遍路があるなら、全部歩きにする。バスで急なくねくねした登り道を行き、駐車場に到着する。戻りのバスは、30分後です。次のバスはありません。駆け足でお参りするのは味気ない。
 鉄道で駅から駅に。駅から寺に。また次の駅から寺に。一日7寺廻った日があった。駅からは、近かったり遠かったりする。これじゃあ、まるでスタンプラリーだ。つまらない。
 ほとんど無かったが、バスの車窓から歩き遍路を見つけたら、無意識に頭を低くする。やっぱ、後ろめたいのかな。前にも書いたが、一見無駄なような街歩き、延々と続くアスファルトの国道。これを歩くのは無駄なようで無駄ではない。巡礼の王道だ。やっとたどり着いた目的地を、より一層感慨深いものにする。
 旅を通して、弘法大師空海を身近に感じることはなかった。そんなに好きなお坊さんではない。山道で、南無大師金剛遍照と唱えることはなく、xxちゃんスクスク息災と唱えた。生まれたばかりの孫の名です。

・最近、ミャンマーの学校の責任者の先生と、昔の教え子に会った。最近のヤンゴン事情を聞けた。1万人いた日本人駐在員とその家族は帰国し、今は500人しか残っていない。でも何人かの日本人は、ミャンマーに残り、また日本から支援を続けている。こういう苦難の時に、人間の真価が問われる。
 自分は、来年早々に下見に行く。場合によっては、日本語教師を再開しようと思う。Part 2 はあるかな?旅は終わり、次の旅は?今は準備の時だ。

 今まで載せなかった写真をランダムにupするね。ダブっているかも。





















こうでなくちゃ














































































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四国遍路 ー 遍路ってこんなの?続続

2023年11月22日 20時56分07秒 | 旅日記
四国遍路 ー 遍路ってこんなの?続続

〇 お寺参拝
 遍路のブログらしく、ここらでお寺を見てみよう。80ある真言宗のお寺は、密教のお寺らしく朱色を使ったりして、異国風、中国的な雰囲気がある。当時の隋・唐は、憧れの文明国だったものね。
 ミャンマーのパゴタも金色に輝き、シュエタゴン・パゴタなどは、電飾ギラギラで原色が氾濫している。でも仏像は全てブッダ、つまり釈迦国の王子であるゴータマ・シッダールタか、その弟子たちとブッダだ。見たければ、このブログのミャンマー編を見て下さい。ついでに言うと、ブッダは死後の世界について、一切言及していない。基本的に輪廻転生なのだ。いまでもタイ・ミャンマー・カンボジア・ラオスではそうだ。
 密教が何なのか、よく分からないがバラモン教の神々が取り入れられているようだ。千手観音だの孔雀明王だの、そのバリエーションは美術としては素敵だが、もともと世捨て人集団のようだった原初仏教を逸脱している。まあ、日本の仏教は官が国策として取り入れたのが経緯だからな。

 さて、山門にたどり着く。ここまでが大変な寺が多い。門には左右の仁王像。その裏には何故か大わらじ。清めの水場があって、鐘楼がある。奥には五重塔がある寺もある。階段を登って本堂、脇に建つ大師堂。この二か所でお祈りをする。ロウソクをあげ、線香を灯し般若心経。納札と賽銭。最後に納経。結構時間がかかるんだ。見てみようか。どの写真がどこの寺か、半分は自分でも分からなくなっている。













門の中に鐘がある。これはここだけ。
天井画。最後の審判?
地獄画





平地にある寺は助かる。






























岩屋寺は、文字どうり屋根が岩。




38番・金剛峯寺は美しい。




これは道端で出くわした。

〇 遍路準備
 別に自分は、皆さんに遍路をお勧めしていない。親指の爪が剥がれるほど、しんどいからね。でもいくらかかるのか、知りたいよね。これが、ちゃんと支出を控えておかなかったんだ。ごめん。でも引き出した金額から推定すると、28万円くらいじゃないかな。30万円弱です。

・行きは深夜バス。9,800円くらい。帰りは新幹線。宿代は、素泊まり3,000円~5,000円で、2食付き7,000~8,000円といったところ。それが約30日で、概略15万円。バス・鉄道費、食費、全部で4-5万円。

・納経費が、300円 x 89 = 26,700 + 200円で、26,900円。高野山が88 + 1。
+200円は、12番・焼山寺が500円だったので。来年の3月か4月から、納経が全て500円になるらしい。よかった、値上げの前で。

・遍路装束は、編み笠・杖・白衣(半袖にした)・納経帳・納札を買った。全部で8,330円かかった。数珠・ロウソク・線香は持参した。白衣のズボンと輪袈裟は省略した。輪袈裟は、トイレで外さなければならない。面倒な上に大袈裟なので、止めにした。必要なら後から買える。
 朝が早く、遍路用品店が閉まっていたので、一番・霊山寺の直営の店で買った。店のおばさんは、納経帳でなく掛け軸をしきりに勧めたが、帳面/本タイプにした。これは正解。掛け軸や白衣にしたら500円と高い上に、墨が乾くまでドライヤーを使ったりして待たなければならない。掛け軸は、仏画が描かれていて格好良いが、2-3万円はする。


この納経帳には、一寺ごとに絵が描かれている。
編み笠、白衣、共に旅したショルダーバック。
 編み笠にはサイズがあるので、被って選ぶ。オリジナルのひもは、ちゃちいので、自分のように用意していくと良い。梵字が正面。ビニールカバーは外しておく。雨の日以外は、風通しよくする。
 納札は100枚入りだったので、余った。線香入れを買った。ロウソクは、小さいものにした。あと、般若心経と数珠。
 各お寺で、セットでくれる。

・旅の準備・資料
事前に調べたノート。廃線、廃業、善根宿の全滅で、予定どうりにはいかない



 このパンフは、ちょっと役立った。近くの駅からのバス便などが、書かれている。でも寺から寺ではなく、それぞれの寺が独立して書いてある。最後の方は、面倒になったのか、駅からタクシーでxx分ばかりになった。
 これも役立ったが、善根宿や一泊千円の好意宿などは全滅。でも寺での作法とかが参考になった。
 食べ物の他に、こんなものを貰った。
 これは、途中で会った人に教わった。胸ポケットに入れておくと、取り出しやすい。ビニールに入れておかないと、直ぐに汗で濡れてしまう。
 彼はコピーした地図を入れていたが、区切りの遍路だからそれでよい。通しでは、コピーの分量が多すぎる。
 役に立った2冊の本。黄色い本は持参した。
 本の中身。歩きのルートを書いてある。ちょっと外れた所はカバーしていないので、知りたいのにアーア、駅が切れてる。となることがある。
 この本は重いし、絵は楽しいが歩くのには不完全。置いていった。ただ、お寺の情報と寺から寺のバス便情報は、ノートに書き写した。
 岡田君は、自分の親しい友人でした。でもこれは結局一日しか、リュックに掛けなかった。車の方はズーズーしいし、巡礼は何かを主張する旅ではない気がしたのね。 

・旅のほとんどは、カートにリュックを括り付けて、ガラガラと引いていった。カートは、他の人のブログなどを読むと、100kmもしないうちに車輪が壊れると書いてあった。でも不思議と持ちこたえた。結局、81番・白峰寺の手前で手放し、後は担いでいった。どこに置いてきたかって?忘れた。

 カートは、もう少し取ってが高ければよかった。タオルを巻きつけると廻ってしまい、うまくない。鉄道は半分が無人駅だったので、荷物はショルダーバックだけにして駅に置いたり、路傍に置いたりした。寺の山門では必ず置いて
登った。売店や飯屋で預かってもらったこともある。先にその日の終着駅の宿に、朝先行して預ける。見晴らしの良い三叉路に置く。公園に置く。山道で、登りに差し掛かったので、農家の納屋の裏に置く。
 不安に思ったことはない。万が一無くなったら、それはそれで仕様がない。でもある寺は、登りに一時間以上かかるきつい山道で、戻って来たら別の道だった。二つの参道があったんだ。もう一つの参道に行き、かなり登って荷物を回収した。別の山寺でも、違う下り道を行ってしまった。その時は、バス停に荷物を置いていたので、グーグルマップに助けてもらった。

・お寺でお祈りをする時に、ロウソク、線香、般若心経が必要になる。あと、納札と賽銭。本堂と大師堂の二か所だ。ウェストポーチがあればな、と思った。カートを引くので、手荷物はショルダーバックに入れた。畳めるナップザックは、一日でひもが切れた。フクロウのバックは、ミャンマーで買ったものだが、2人の女性が素敵ね、と褒めてくれた。まあ、ちょうどよい大きさだった。最後に近づくと納経帳を盗む奴がいる、と聞いていたので、杖と違い、これは手放さないようにした。

・高知までは、お接待はほとんどなかった。愛媛、香川では、みかんはくれるは、イチジクはくれるは、ワッフルはくれるは、アメはくれるは。駅のコンビニで朝食を買っていると、遍路さん使ってくださいと500円もらった。他にも、飯屋で明らかに大盛りにしてくれたり、優しい人にたくさん会った。南無大師遍照金剛。ありがとうございました。ミカンは、無人販売所で買うわ、接待でもらうわ、道で拾うわ。だから外国人遍路に会うと、話しかけてミカンをあげた。でも愛媛以降は、外国人はいたが、観光客で団体ばかり。

・スマホのグーグルマップも万能ではない。何人もの人に道を聞いた。分かれ道や、出だしの所で間違えると、そうとう時間をロスするからね。1日30人として、千人弱の人たちを話したことになる。親切なのは、年配の女性とおばあちゃんだ。どこから来たの?へー横浜から。歩いているの。偉いね。話し込むこともしばしば。あと、他の遍路さん、宿の人、飯屋の人、外国人。ほとんど引きこもり状態で、仕事以外は人と会わない生活が一変した。この3年、英語を使うことなど全くなかった。急に脳が活性化し、対人交流が劇的に増えたせいか、最初の数日と最後の数日は、なかなか寝付けなかった。

・体重は3.5kgは減少し、血糖値は劇的に改善した。朝は5時起きで、宿に着くと洗濯、風呂、飯で早く寝た。毎日が楽しくて、疲れが累積することは無かった。疲れは、四国の優しくて美しい自然が癒してくれる。

・荷物が多すぎることが直ぐに分かり、2日目に郵便局で自炊道具や余分なものを送り返した。ただで泊めてくれる善根宿が全滅していることが分かり、20番・鶴林寺に行く前に寝袋と下に敷くシート、蚊取り線香と虫よけ、2つあるものなどを送り返した。10gでも軽くしたい。ここの山道では、カートを畳んでリュックに入れた。山道は、12番ほど険しくはないが長かった。でも凄い景色だ。仁淀川の青い流れは、息をのむほど美しい。
 善根宿はなくとも、屋根付きのベンチや小屋はある。中にはシャレた建物もあった。計画的にやれば、野宿で宿代を節約することは出来る。外国人の歩き遍路の若者で、野宿をする連中は多い。簡易テントを持参している人もいる。

・自分は、初日は善根宿に泊まったが、ここはただ鍵を開けてあるプレハブだった。トイレはクモの巣だらけで、同宿者の青年が何度電話をしても、管理者とは連絡がつかなかった。つまり、たまたまほったらかしにしてあったのだ。その後は、電話が通じないか、通じても止めていた。

・お寺には泊まらなかったが、82番・根香寺近くの禅宗の喝破道場に泊まった。質素で静かな食事。朝の座禅。清潔な部屋と、明るくて広々とした風呂。座禅は、目を半眼、少し開ける。目を閉じれば瞑想だ。自分は、瞑想をしたが、瞑想力が落ちている。ビジョンがクリアーにならない。意味が分からない人は、前に書いたミャンマーのメディテーション・センターの話を読んで欲しい。
 75番・善通寺は大きなお寺で、東院と西院に分かれている。西院にある御影堂の地下には、約100メートルの通路をめぐる「戒壇めぐり」がある。 500円かかるのだが、真っ暗な中を壁に手をつけて歩くんだ。これはやった方がよい。暗闇に入ると、前方とおぼしき闇に中に、広い部屋や階段のビジョンが現れた。面白い。

・車を停めて、道を教えてくれた人。道を聞いたら、乗せてくれた軽のおじさん。ありがとうございました。あれで、2時間半の徒歩が省略できました。アメやチョコをくれた、パン屋のおかみさん。荷物を預かってくれた雑貨屋のおばちゃん、杖やパンフをくれ、翌日に登り口まで送ってくれた親父さん。本当にありがとう。お世話になりました。他にもたくさんのご接待や好意を受けました。忘れません。ありがとう。

・道中で、シャレたパン屋さんがあった。中に入ると、可愛らしい店員さん。その場で食べるのと、翌朝・翌昼用に購入した。だけど、一日経ったシャレたパンはボソボソで、朝も昼も気分はボソボソ。

・山寺の下りで、お遍路さんに声をかけて追い抜いた。私は、ひざが悪いんです。どうぞお先に。麓で休んでいると、その遍路さん、杖とスキーストックのようなのと、両手を使って歩く。真っ白いひげで、これほど決まった遍路姿も珍しい。かっけーな、仙人みたい。でも話をすると、昨日紹介してもらって泊まったホテルが、素泊まりで8千円もして高い、とかどうも俗っぽい。写真を撮らせてもらおうと思ったが、止めた。見た目は仙人、中身は俗人。話さなければ良かった。

・納札には、住所と名前と日付を書く。年齢を書く欄があるのもあるようだが、自分のにはなかった。日付はx月吉日でよい。住所は、区までで良い。裏は空欄だが、願い事を書いても良いそうで、途中から生まれたばかりの初孫の成長と健康を祈願し、xxちゃんスクスク、と書いた。一日で5寺を廻ると10枚必要だ。せっせと書き足さなければならない。
 納札は、1~4回が白、5~6回が緑、7~24回が赤、25~49が銀、50~99が金で、100回以上が錦札なんだそうだ。ギンギラギンの札を、もったいぶって配っていた車遍路の爺さまがいたが、あれはちょっと見苦しい。回数は、自己申告だからな、というつぶやきが聞こえた。

・居酒屋でラーメン、焼き肉屋でクッパ、飲み屋でビールも頼まずに、おにぎりセットと魚のマリネを頼んだ。近くにコンビニも他の飯屋もなかったんだ。夕食を7-800円に抑えるためだ。
 焼き肉屋では、後で店長が出てきて、わっお遍路さんだ!おい、と若い店員に、お遍路さんじゃないか。そう言われてもネー。俺は、絶滅危惧種か。子供のころに見たギンヤンマか、ゲンゴローのように言わないで。徳島県に行けば、まだまだいるよ。お遍路さん、どうぞとミカン2ケくれた。リュックの中に10個くらい入っていたが、南無大師遍照金剛。あなたに良いことがありますように。
 飲み屋では、まだ宵の口でカウンターに客が一人。おばさんが店のママに、盛大にグチをこぼしていた。ごめんね、気勢を削いじゃって。名前の知らない小魚(釣り好きの自分でも知らない)のマリネは、思わず唸るほど美味かった。他にも美味しそうな品書きがいっぱい。ごめんね、貧乏な遍路で。
 ちょっと待って、お遍路さん。ママは裏に引っ込むと、イチジクを2個持ってきてくれた。南無大師遍照金剛。あなたに幸せなことがありますように。これを言うと、みんな笑顔になる。
 でもコンビニでおばさんから、どうぞと500円を頂いた時は、驚いでとっさに決めゼリフが出てこなかった。おばさんは、逃げるように奥に行ってしまった。そちらに向かって、ありがとうございましたと頭を下げるのが精一杯。何だかレジのお姉さんも一緒に頭を下げていた。

・そうそう、そういえば夜空が綺麗だったな。冴えたオリオン座を、海辺で街中で何度も見た。山の中は静かで、シーンとしている所が何度かあった。あの静寂は、得難いものだ。鳥は、ちょっと開けて明るくなったところで鳴く。
 9月末~10月の初めは、最後のツクツクホーシが鳴いていた。秋の虫の鳴き声は、それほど大きくはなかった。帰宅して、家のそばでもそうだ。今年の猛暑で、虫たちの元気がないのかもしれない。

・道路標識に文句を言いたい。xx寺まで6.2km、徒歩1時間って何!登山マラソンじゃあるまいし、100%の登り道を6.2km、1時間で行けるかよ。行けるならお前、行ってみろよ。
 ある寺へ向かって歩いた。前半はずっと下りの山道だった。2時間以上続く下りだ。そんなに急な道ではないから、足指は痛くない。これが反対の登りだったらと思うとゾっとする。
 やっと平地の線路に出た。グーグルマップで調べると、経路17分とある。あっ楽勝!ところが、30分歩いてまた見ると、あと16分。徒歩でなく、車の設定になっていた。徒歩で検索し直すと、1時間19分になった。

・良い宿は、割合としては低い。どーでもよい宿、ちょっと不衛生な宿、おかみが不愛想で、朝挨拶をしても出てこない、飯がこんなの。こっちの方が多いんだ。ある宿では、大きな部屋をアコーディオンカーテンで仕切った部屋に通された。隣の声もT、Vの音も丸聞こえ。隣は二人連れで、年配の男が携帯で話しだした。その男、よく笑う。イッヒッヒー。イッヒッヒ。尻上がりの吸い込むような笑い声。よくイッヒなどと発音するよな。まるで、自分は悪党です。近づかない。近寄らないようにと、主張しているようなものじゃん。
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四国遍路 ー 遍路ってこんなの?続

2023年11月16日 23時30分30秒 | 旅日記
四国遍路 ー 遍路ってこんなの?続

*容量が一杯だって。新しくするね。

★ 旅のエピソード 2
 城さんは、可愛いお遍路さんだ。娘さんの遍路は珍しい。おばちゃんなら結構いる。吉野川に掛かる長い橋を、荷物をカートに載せてガラガラ引いていたら、彼女が追い付いて声を掛けてくれた。その日は結局、彼女が泊まると言っていたゲストハウスにした。
 12番の難所を、一部一緒に登った。その後2日、同じ宿だった。遍路に宿の選択肢は大してない。自分はバス・電車を使うから、その先は先行して会っていない。城さんは、all歩きなんだ。でもある宿で、自分の名前を宿帳に見た、とのことでLINEを送ってくれ、その後やり取りがある。城さんはまだ遍路の中にいる。彼女が旅していると、自分もまだ旅しているような気になる。
 ゲストハウスでは、歩き遍路がたくさんいて、ロビーで夜楽しい歓談のひと時を持った。城さんは、2日前に会社を辞めたばかりで、ちょっと気持ちが揺れていたが、その場にいた5人が全員無職なのを知り、なあんだ、全員無職!と力を抜いた。
 城さんは本当に優しい子で、山の上のゲストハウスで、到着が遅くなった見ず知らずの外国人(チェコ人)を、ここまでかと心配していた。彼女は土地の人
から、頻繁に声をかけられる。そりゃそうだ。自分でもそうする。娘さん、休んでお茶でも。あんたじゃない。ジジイ遍路は呼んでない。
 彼女とイスラエルのアリ君が、山道で呼び止められ、爺さまにぬるいお茶としけった煎餅をご馳走になったそうだ。急いでいるのに、結構迷惑な話しだが、心優しい城さんは断るのが苦手だ。
 爺さんは、家族に全員先立たれ大きな家に一人ボッチと愚痴りだし、記念にたくさんある食器をどれか持って行ってくれまいか。人に使ってもらえばうれしい。これこそ迷惑。荷物は100gでも減らしたい。断る城さん。しつこく懇願する爺さん。結局アリは、一番小さな徳利とぐい飲み。城さんは、けっこうな重さの器を2つ。
 困った、困ったという城さんに、自分は入れ知恵をした。道端にお地蔵さんがあるだろ。あの前に置いてきちゃいな。でも心優しい城さんは、そんなわけにはいかないわ。お爺さんの気持ちを裏切ることになる。でも困った。誰か貰ってくれないかな。

★ 旅のエピソード 3
  外国人の遍路は、別に仏教徒ではないから、お祈りはしない。あまり遍路っぽい恰好もしていない。若い娘は、山岳救助隊みたいなのがいる。男は例外なくひげを生やしている。彼らと話すのは面白い。ミカンをあげると喜んでくれる。おいしいそうだ。
 12番・焼山寺過ぎた所のゲストハウスで、夕食にデンマーク人がいた。120kgの巨漢だ。彼は、どこからここへ来たのか、明日の朝に12番に行くという。12番は登るのも大変だが、ここまでの下りもきつい。あれで駄目押し。親指の爪が剥がれた。
 明日はたいへん(Hard work)だね。そう言ったら、こう返ってきた。何の、毎日スーツを着てネクタイを締め会社に行く。今日も明日も行くのがHardなんで、これはわくわくする。楽しくてしょうがないよ。

★ 旅のエピソード 4
 春さんは、まだ十代かと思われるボーイッシュな娘さん。自転車で遍路に来た。どうやって自転車を持ってきたの?お父さんに車で送ってもらって、フェリーで来ました。見たところ電動ではなさそうで、12番のくねくね道を担いで押して登るのは、相当大変だろうな。下りは一気に行けるけど。
 また、何で遍路に?誰だって聞きたくなるよね。うーん、美容院に行ったのね。そこのママが話の中で、あんた、お遍路に行きなさいよ。次の日、大して親しくもないおじさんから、君は遍路に行った方が良い。
 たぶん、言ったほうは何も考えていなかったんだろうな。言われた春さんは、そうかな?2人から続けて言われるんだから、行ったほうが良いのかな。でも何?お遍路って。それでアルバイトを辞め、自転車担いで来ちゃうんだ。凄いな、この子は。

★ 旅のエピソード 5
 民宿・樹園が大当たりだったのは、食事だけではないんだ。ここには犬がいる。割と大柄なおとなしい犬だ。食堂の脇、玄関の前にゴザのような丸い敷物
が置いてあり、そこが彼女の定位置だ。
 この犬は、ワンともスーとも言わないが、目としぐさで促す。あなた、そこに立っているなら、私を撫ででちょうだい。おばさん、この犬、お年寄りでしょ。もう16歳(or 17歳)で、耳が聞こえないの。でも賢い犬よ。徳島新聞に載ったこともあるの。海岸から捨ててあるペットボトルや空き缶を拾ってきていたのよ。
 もともとは近所のお年寄りのご夫婦の飼い犬だったんだけど、夫婦が相次いで脳溢血で倒れてしまった。保健所で始末すると聞いて、うちでもらったの。
翌早朝、自分が出発するのでドアを開けたら、彼女が敷物からゆっくり立ち上がり、ゆっくりスタスタと先に出てゆく。そして玄関先にちょこんと座る。いいのかな、外に出して。xx、またお見送りかい。何と行ってらっしゃいをしてくれるんだ。ジーンときたね。

・旅のエピソードは、まだまだこれから。でも文章ばかりじゃ、疲れるよね。

〇 四国の鉄道
 バスはバス。異国のバスのように、乗客を眺めて楽しい、といったことは、ここではない。電車や路面電車は楽しい。ワンマン列車は、最初は戸惑った


この渡し舟はただ。








〇 路傍の石仏
 遍路路や寺の参道には、お地蔵さんや石仏が並んでいる。お遍路の歴史を感じさせてくれる。よく見ると、味のあるものだ。お寺の中の像も一緒に、ご鑑賞あれ。




































★ 旅のエピソード 6
 やっぱゲストハウスが良い。前日泊まったビジネス旅館の夕食は、お通夜か自閉症セミナーのようだった。向かい合って、目を合わさないようにして食う飯は最悪。ゲストハウスは、ただベットとシャワーと洗濯機を提供するだけで、朝は勝手に行ってらっしゃい。でも人との触れ合いがある。
 76番・金倉寺近くのゲストハウス安宿ミカサスカサも面白かった。良い宿は、予約の時に客のことを知ろうとする。何か嫌いな食べ物はありますか?
とか、うちは何もありませんよ。ベットを提供するだけです。とか。電話番号も知ろうとしない宿は、客によほど関心がないんだろう。
 ミカサスカサはJR土讃線の駅前で、翌朝電車を待つ間にホームから降りて、宿の灰皿に行ったほどだ。ここの女性オーナーの話しが面白かった。コロナで数年、開店休業状態。毎日駅を見ても、降りてくる乗客すらいない。といって、自分の宿から患者を出すわけには、けっしていけない。
 政府の補助金は、料理屋や旅館ほどは出ない。そうだろうな。行政がゲストハウスに優しいわけがない。でもそのなけなしの補助と貯金で過ごしているうちに、働くのがいやになっちゃった。分かる。分かる、その気持ち。
 そんな話しをしていると、電話が入り、急にペルー人の夫婦が車でやってきた。まだ若いご主人は、日本語が達者だ。奥さんは話せない。彼らは、仕事で来たそうだ。何の仕事か、翌朝聞いたがよく分からなかった。疲れていたんだろう。シャワーを浴びると、すぐ寝るそうだ。
 では、奥さんはこちらのベットを。いいえ、一緒に寝ます。ヒエー、仲のよろしいこと。夜中に帰ってきた青年の、地割れのようなイビキを夢うつつに聞きながら、ぐっすり寝た。翌朝、ペルー旦那が注射を打っている。インシュリンです。あー、僕もそうだよ。奥さんにミカンをあげて、アスタ・ルエゴ。



★ 旅のエピソード 7
  先入観や思い込み。嫌だね。そういう物に囚われている人間は。ところが自分がそれをやっていた。難所、遍路転がし Part 2 へ向かう前日に泊まった宿の親父さんは、なかなか味のあるお爺さんでした。
 遍路杖をバスの中に置き忘れた話しをしたら、ちょっとついてこい。手製の自然木の杖が何本も立てかけてある。自分で選びたかったが、これをやると先がちょっと曲がった一本をくれた。申し分なく硬くて、そこそこ軽い。この杖は、最後まで遍路旅を共にした。でも四国を離れる前日に、駅の傍に置いてきた。ロードオブリングの魔法使い、ガンダルフが持つような杖で、大阪の街を歩き、新幹線に乗るのはどうもな。
 その宿に、台湾人の年配の夫婦がやってきた。支払いの時に、二人で1万円と親父が言ったら、奥さんはちょっと変な顔をして、一瞬ためらった。ははーん、あれだなと自分は思った。実は、ネットで調べた情報では、素泊まりが4,500円だったのに、宿では5,000円と言われたんだ。えっと思った。
 でも杖をもらい、役に立つパンフももらった。これ、持ち出し禁止って書いてあるんですけど。いいの、いいの、持ってき。洗濯・乾燥はサービスで、翌朝6時に山(寺)の登山口まで、車で送ってくれる。これで徒歩1時間は助かる。
 車の中で、豚コレラの話しなどをし、聞いてみた。ホームページには、素泊まり4,500円ってなっています。これは直したほうが良いのでは?だな。でも直し方が分からねえ。昨日の台湾人もそう思った(4,500円)のでは?ああ、あれは違う。あの奥さんは、12,000円出したんだ。

 駅で特急電車を待っていると、前日のゲストハウスで話しをし、自分の下段のベットにいたスイス人のおばさんがやってきた。電車一緒ですね。あと30分です。ところが、彼女は1時間後の各停に乗るという。何故?
 本を開いて教えてくれた。次の一駅、すごい高低差(峠)があるんだ。彼女は基本歩きだが、この一駅だけ乗って、その峠をカットするわけだ。これなんか、聞かなきゃ理由が分からないだろ。

★ 旅のエピソード 8
 杖を置き忘れる。初日は寺の納経所の杖置きに忘れ、2km戻って取り返した。手を洗う。鐘をつく。ローソク、線香、般若心経。納経所と杖を手放すことが多いんだ。納経所と本堂が250m離れた寺。階段が見上げる寺。くそ!もうこのまま手放すか。と思いつつ、取りに戻った。
 ところが最後の寺、88番に行くバスの中にまた置き忘れた。あっちょうどよいかも。もう最後だもんね。ところが、迎えに来たバスが同じバスで、再会した。あんまり嬉しくない。
 納経を忘れたことがある。前のページをめくっていたら、アチャー、一枚抜けているじゃあありませんか。忙しい行程の日だったから、行くのを抜かしたかな、それとも納経を忘れたかな。電車で半日かけて戻った。後戻りは嫌じゃ。


これがガンダルフの杖


★ 旅のエピソード 9
 エピソード7で出てきた春さんの話しを、夕食後にしたら、調理場で聞いていた女将さん、綺麗な女性ですよ、がそうそう惹かれるってことあるわね、と話し出した。あれはある夏の日、雨の夜----。おいおい、怖い話しは嫌だよと思った。
 でも怪談ではなかったのよ。その日は客がなく、さあお風呂に入って寝る準備というタイミングで電話が鳴ったそうだ。若い女性の声だが、外国人で日本語がたどたどしい。私は東京にいるんですが、友達があなたの宿の近くにいて困っています。どうか泊めてやってくれませんか!
 xx時だし、外は土砂降り。断ろうとしたが、電話は必死になって頼んでくる。うん、分かった。では見てくるね。傘をさし、手にもう一本持って電話で言っていたコンビニに行くと、軒先に女の子がしゃがみこんでスマホを見ている。脇には大きなリュック。
 声をかけ、宿に彼女を連れて帰ると、濡れて震えている女の子をお風呂に入れ、あり合わせの食事を用意した。その子はマリアと名乗った。日本語は出来ない。お風呂から出たマリアを見るとビックリ。腕に真っ黒な入れ墨が。
 スマホの翻訳サイトで会話した。マリアはチリ人。大好きなおばあちゃんが亡くなり、その思い出を抱いて日本に来ました。日系なのかな?おばあちゃんは、ユリの花が大好きで、娘、マリアのお母さんをユリ(スペイン語)と名付けた。私もユリの花、大好き。この入れ墨はユリなの。

 ふーん、あんた、この宿の名前を知ってる?ここは、りり庵だよ。ユリの英語名は、lily。私のxx(叔母?)が百合子っていうんだ。
 一瞬、ポカーンっとしたマリアは、故国のユリの名を持つお母さんとFacebookで、大興奮で話し始めた。お母さん、あたし今どこにいると思う!ユリの宿だよ!ユリの花の女の人に助けてもらった!まあまあ、娘を助けていただき、ありがとうございます。
 もともとお金のないマリアは、寝袋を持ち、ただで泊まれる所を調べて行ったのだが、先客がいて追い払われ、行き場を失ったんだ。
 翌朝、すっかり元気になったマリアは、快晴のなかリュックを背負い、大きなマグカップにコーヒーをなみなみと入れ、反対の手をブンブン振って満面の笑みでアディオス!おいおい、そのコーヒー、持って歩くんかい。こぼれるだろ。こぼれたら、手が熱いでしょ。早く飲めよ、マリア。あっ、そんなに手を振るな。

〇 四国八十八ヶ所
 仏教のお寺が88あるわけだ。宗派はどこ?弘法大師・空海の真言宗が80。残りは8だね。空海のライバル、天台宗が3。禅宗の曹洞宗が1、臨済宗が2。内1寺は、長宗我部元親が再建した。あと、一遍上人の時宗が1、単立(包括宗教団体に属さない)が1で88だ。

 開基(物事のもとを開くこと。開山)は?弘法大師 42、行基(ぎょうぎ) 29、役行者(えんのぎょうじゃ) 4、他は様々で、十一面観音を山で拾った狩人兄弟とか、長者、上人。天皇の勅願(天武と天智)、聖徳太子、藤原不比等、鑑真和上など。凄いメンバーだこと。
 弘法大師は、774~835年。だから生誕1,250年記をやっているんだね。行基(ぎょうぎ)は、668~749年。このお坊さんは、明治以前は大層な人気者だった。もともと在野の人で、土木工事の監督、各地の行基伝説、後に朝廷に重用され、東大寺・大仏殿の建立に携わるなど、空海の先駆者のような人物だ。
 役行者(小角=おづぬ)は、634~701年と言われているが、実在の人が疑わしい。仏教僧というより、孔雀の呪術を使う行者、仙人、修験道の開祖というべきだ。伊豆の島に流された時、海上をすたすた歩いて赴き、夜になると空を飛んで富士山に上がって修行に励んだという。行きも飛んで行けば良いのに。
 ちなみに、幕末に現れた金光教と天理教は、修験道の世界と濃厚に接触している。脱線ついでに、聖徳太子が、574~622で、仏教伝来が、552年?または538年だ。

 本尊は、伝、弘法大師が49、行基 19、智証上人 3、聖徳太子 1、役行者 1、恵心僧都 1、聖徳太子 1、運慶 1、伝なし 14。あれ、一つ多いな。まあ、こんなのはどうでもよいや。仏像製作者じゃあるまいし、そんなの作るほどひまな人たちじゃあない。運慶は本職だけどね。国宝も重要文化財も、本堂の奥にあるのか、ほとんど見られない。

 長宗我部元親は、一代の英雄だ。活躍の場がほぼ四国に限られるため、さほど有名 ではないが、彼の行った土佐統一、四国平定は一人の武将が行った事業としては、規模は小さくとも信長を上回る。彼は一領具足という、半農半兵の兵士を活用した。彼らは、農作業をしている時も槍と鎧を、田畑の傍らに置いていた。予備がなく、一領しかない具足(武器・鎧)だ。農作業で身体壮健、集団行動に慣れている。
 四万十川の戦いに勝ち、土佐統一を果たした元親は、伊予、阿波、讃岐に侵攻する。 信長に敗れ、落ち目の三好一族はそれでも、根拠地の淡路島から阿波、讃岐方面に勢力を誇っていた。元親の侵攻は、当初は三好の抵抗が激しく、思うように攻略が進まなかった。しかし天正5年(1577年)に三好長治が一揆で戦死すると、一気に加速する。
 この長宗我部元親の四国統一戦で、現遍路寺は大変な目にあった。高知で 1、愛媛(伊予)では 13(内4は、直接の長宗我部戦役ではない)、香川(讃岐)では 7(内2は、直接の長宗我部戦役ではない)、徳島(阿波)では 12(内1は、直接の長宗我部戦役ではない)の寺が、兵火に焼け落ちた。66番・雲辺寺は標高千m、西側のロープウェイの駅のある山麓は香川県だが、頂上の雲辺寺は徳島県。ロープウェイの標高差は650mだ。ここを攻め落とした長宗我部兵は、まるで山岳部隊だな。レンジャーだ。
 歩いた自分はよく分かる。山の上の寺は、守るに易く攻めるに難い。上からは、石やら材木やらを落とす。弓でも鉄砲でも狙い撃ちだ。一領具足の長宗我部兵は、歯をむき出して猿のように山道を攻め上ったのだろう。夜討ち、奇襲に、寝返り調略も駆使しただろう。
 山の上の拠点に、敵を残したまま前進するのは危険だ。隙を見て山から降りて兵站を狙われる。こまめに潰し、焼き払う必要があったんだね。これで、その後数百年廃寺となり、再建したのが曹洞宗とかになるわけだ。寺がひとつづつ復興して、江戸時代の遍路ブームにつながるわけだが、明治になって、遍路はまた断絶する。明治初年の神仏分離令による、廃仏毀釈だ。この運動による廃寺、荒廃は凄まじいものだった。
 近年の失火も多い。江戸時代にも2-3あるが、8番・熊谷寺は昭和2年の火災、17番・井戸寺は昭和43年。40番・観自在寺は昭和34年の火災で本堂消失。44番・大宝寺は明治7年。55番・南光坊は、昭和20年の今治空襲。58番・仙遊寺は昭和22年の山火事による類焼。どこだか、参拝者(遍路?) による火の不始末が原因。ドキっとさせられる。
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四国遍路 ー 遍路ってこんなの?

2023年11月14日 01時25分39秒 | 旅日記
四国遍路 ー 遍路ってこんなの?

 9月の終わり、猛暑の残る中、夜行バスで横浜から徳島に行った。

遍路の旅は誤算の連続。

 あっその前に、俺は歩き遍路ではない。残念ながら。電車、バス、市電を使う、言ってみれば準歩き遍路だ。これで、岩波新書になる資格を失った。岩波編集部に面倒をかけることもないなら、ハジケちゃえ。

 自分の遍路旅は、ちょうど一か月かかったが、オール歩きならあと3週間は必要だった。またオール歩きでも、ロープウェイやケーブルカーを使うか使わないかによって違ってくる。歩くのが大変で、急斜面な所にあるのをわざわざ使わずに登ろうというのは阿呆だ。マゾだ。だけどもその覚悟には敬服するよ。本当に。一気に高低差650mは、66番・雲辺寺。下は残暑で上は紅葉が始まっていた。85番の八栗寺も、ケーブルカーを使わなかったら相当きつい。

 四国は、ほとんど初めてだったが、その山野の美しさには圧倒された。どこを歩いても山が遠くに近くに見え、その山系は重なり合い、木々に覆われていた。南を歩けば太平洋、北を歩けば瀬戸内海。歩き始めは、曼殊沙華。後にはコスモス。柿とミカンの鈴なり、ボンタン、栗。ススキとセイタカアワダチソウの群生。まあ、見てよ。
















 誤算は、悪い方ばかりではない。

・コロナが明けて遍路は復活し、多くの遍路が歩いているのかと思った。
確かに徳島では、そこそこの遍路さんがいた。高知にもまだいた。でも愛媛、香川と進んでゆくと、ほとんどいなくなった。お寺を独占状態だったのも、遍路道を歩いて数時間の間、誰にも会わないことが度々だった。しかも、歩き遍路の60%は外国人、主としてヨーロッパ人でした。

・6番・安楽寺には宿坊がある。自分も、初日に善根宿に泊まらなかったら、ここにした。なにしろ、ここのお風呂は温泉だからね。他にも2-3、宿坊があるらしき寺はあったが、12番・焼山寺、24番・室戸岬の最御崎寺、38番・足摺岬の金剛福寺と宿泊は止めていた。最新版の『四国八十八ヶ所詳細地図帖』によると、宿坊のある寺は21ヶ所となっているが、実際は壊滅状態だ。
 コロナで、3年間お客が来なかったからね。他にも、遍路路の旅館、ゲストハウスの3軒に一つ、4軒に一つは廃業していた。本やネットの情報がup dateされていないのだ。経営者の高齢化も原因の一つだ。

・バス路線は、もっと悲惨だ。バス?去年、廃線になったよ。バス?昔はあったんだけどね。あっても一日2便とかじゃあ、しゃあない。バスが駄目なら鉄道。これがまた一筋縄ではいかない。一時間に一本づつ出てる。ヤッターと思いきや、ほとんどの電車は2つ先の駅まで。目的地に行くのは、一日3-4便。次は?2時間半後かよ。
 テレビのローカルニュースで見たのだが、どこからか道後温泉に行くバスが一日15便から3便になるそうだ。ずいぶんと急な減便だが、深刻な運転手不足が原因だそうだ。補助金とかでは解決しない。運転手がいなけりゃ、バスは動かない。

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・野生動物は、ほとんど見なかった。バッタやトンボ、蝶はいたさ。トカゲは良く見たが、蛇はミミズの親分くらいのしか見なかった。一度、あぜ道を横切る、多分イタチを見たが、何せ0.5秒の早業だから確かではない。熊は、四国では剣山にいるとかいないとか。
 猪はたくさんいるそうだが、最近ネズミが媒介する豚コレラで、めっきり減ったと、猟をする宿の親父が嘆いていた。
 四国の街は、側溝にきれいな水が流れている所が多い。田舎道でもそうだ。ここには小さな魚がいるし、近づくと水に飛び込む蛙がいる。何故か、カマキリが道に出てくる。産卵の季節なんだろうか。車にペシャっとかも多い。










・実は出発の前に、Pasmoを失くした。以前京都・奈良を旅行した時、Suikaが使えなかった。Suikaじゃ駄目だとメルカリでPasmoを入手した。今、駅でPasmoが買えないのよ。半導体の不足によるらしい。これの郵送が遅かったので、出発を2日遅らせた。
 バスや鉄道、全部現金じゃあ大変だもんね。全部現金になった。1万5千円入金したPasmoは、四国では一度も使えなかった。財布と小銭入れは、コインでパンパンになった。88ヶ所のお寺で、賽銭2回と納経料が300円かかる。
 しからば、四国では電子カードは無いんか?使っている人を発見し、運転手さんに聞いてみた。そのカードは、四国全部で使えるんですか?いや、高知だけなんだよねって、駄目じゃん。

・旅の出だしでスマホが壊れた。画面が真っ黒で立ち上がらない。落としたりぶつけた記憶はない。2日目の鴨島でスマホショップを見つけ、シムカードの出し入れで直してもらった。その後も二回調子が悪くなった。
 自分で修理しようと、シムカードを出したらはまらなくなった。観光局のおじさんと話し、数駅前のauの店を目指して逆戻りした。
 焼山寺の登山中と翌日の渓谷の所では、スマホは直っていたが、焦点を合わすジーっという音をシャッター音と間違え写真を撮りそこなった。だから最初の3日間は、何も写していない。焼山寺への登り道、見晴らしのよい所を撮り損ねた。
 また一度は、電話と写真しか出来なくなった。K's電気で見てもらうと、Wifiがoffになっていた。そして最後の数日、動作が超スローになったが、これは容量が0.00になっていたことが、後で分かった。
 電話が出来ないと、宿の予約が出来ない。公衆電話など、駅とコンビニくらいしかない。そのコンビニがなかなか無いのだ。一度スマホが使えず、駅の公衆電話に入ったら、何とコインは使えません。テレフォンカードをお使い下さいって、どこでカードが買えるの?その時は、途中一度話しをした、区切り遍路の人にスマホを貸していただいた。予約はしていたが、駅までの出迎えを宿に連絡する必要があったのだ。

・遍路路の表示だが、徳島県は結構あった。高知以降は少なくなり、あっても消えかかっていたりする。またよほど寺の近くまで行かないと無かったりする。地元の人に聞いても、若い人は知らないことが多い。10分圏内にあるはずの寺を知らないことに驚く。よほど関心が無いんだろう。
 あと『四国の道』。立派な表示物だが、ただ四国の道。あった。あそこに看板があると近づく。四国の道。蹴っ飛ばしたろか!あれ、後で右はxx寺xxkm、左はxxとか付け加える積りなんだろうか。
 四国にある道路なら、四国の道だろうよ。意味がない。腹立つ。
 グーグルのMapには助けてもらった。特に街中に散在している寺には有効だ。だが、長距離で後xkm、1時間25分とか出て、その方向に1時間以上進み、スマホを見ると、後1時間35分となっていて、逆上することもあった。




・外国人は本当に多かった。大半はヨーロッパ人と台湾人でした。アメリカ人は、初日にバージニア出身の42歳のおっちゃんだけ。彼は、リュックと服のポケットに水のペットボトルを何本も突っ込み、早くもバテていた。イギリス人もいないなあ、と思っていたら、いた。もっとも彼は、スコッチ、スコットランド人と名乗ったのだが。スコッチウィスキーには初めて会った、と言ったら、じゃあ君のコレクションが増えたね。シャレた答えが返ってきた。
 フランス人が多い。これはベトナムやラオスと一緒だ。70歳、白いひげのおじいさんは2度目の遍路で、泊まるのは民宿だそうだ。日本語が達者な、お人形のように綺麗なフランス娘。自己主張の強い、嫌われフランスおばさん。
 他にデンマーク人(TVで、遍路のドキュメンタリーをやったらしい)、スイス、オーストリア、スペイン、ドイツ、チェコ、etc。イスラエルのアリ青年とは、その後山の中で再会した。彼は、他の多くの外国人と違って、懸命に日本語を覚えようとしていた。いいかい。アリは日本語では蟻だぜ。えー、antですか!24歳のアリは、6年兵隊をやっていたそうだ。映画みたいなことは無いよ。でも一度撃ち合ったことがあります。
 屋根のある簡易休憩所で、寝袋から出たばかりのアリと30分も話したのが、ハマスによるガザ侵攻の前日だった。予備役の彼は、速攻帰国したのではないかな。元気でいてくれよ、アリ君。

・12番の登山は、死ぬかというほどきつかった。ここは、遍路で最初の遍路転がし。バスで行こうと思っていたが、廃線になっていた。前日泊のゲストハウスと、12番を過ぎた所のゲストハウスが提携して、荷物を運んでくれたので助かった。この登山には、2つの中継地点がある。長戸庵と柳水庵だ。長戸庵には、お堂があるだけだが、柳水庵には水場と休憩所がある。立派な一軒家の休憩所だ。原則、宿泊は禁止と書いてある。でもここで一夜を過ごしたら、頂上までは一息だな。
 でもそのあと一息が曲者だった。柳水庵を出てしばらく行くと、道は何故か下りになった。えっ下り?それも半端じゃあない。岩の急斜面を下る。下る。まだ下る。980円の運動靴は、靴の中で足が固定されていないから、指先に負担がもろにかかって痛い。下りなので息は切れないが、指先、特に親指の痛みは一歩ごとにジンジンとくる。
 痛い。痛い。まだか。まだ下るんか。やっと開けた所に出た。おっ到着か?家があって、畑がある。人もいるし、ここにお寺が?違った。そこから最後の登りは、頭が白くなるほどで、下った分を全部取り戻してお釣りがあった。
 自分は、当日登った20人ほどの中で、ビリに近かった。俺の後ろにいた10人ほどは、最初の長戸庵までで諦め、引き返したようだ。年配の台湾人のご夫婦は頑張って、自分より早く完登した。
 そして着いた焼山寺。何と100人からの、汗もかいていない連中がワラワラいるじゃん。え~、ズルじゃん。車で来た連中でした。

・焼山寺の遍路転がしを制覇して数日、左足の親指が痛い。見ると、心なしか黒ずんでいる。押さえると、爪の間からドロっとピンクの液体が出た。膿に血が混じったような。テープを貼り、様子を見ることにした。幸い、遍路路の8割は平たんな道で、山に差し掛かっても、舗装されている所が多いので、痛くはない。
 その後も小指に小さなマメが出来た程度で、ダメージは意外に少なかった。学生の時に、コンクリートの上で空手の練習をしていたし、ミャンマーでは、靴を履いたことがない。足の裏には自信があるのさ。
 ところが、帰宅して10日経つ昨日、左足の親指の爪が浮いているのを見つけた。ヤバいかも、これは。テープで固定し、気付かなかったことにした。

ps. 医者に行った。化膿止めの薬を3日分ほど飲み、後は放っておいてよい、とのこと。いずれ浮いている親指の爪は、剥がれ落ちるらしい。その下に、カニの脱皮のように新しい爪が出てくるそうだ。問題ない。ぶつけたりしなければ、痛くないものね。結局、剥がれ落ちた。けど、新しい爪は、まだフニャなので、落ちた爪をカバーに残してテーピングしている。

〇 さて、ここらで一息入れようか。旅の誤算編は置いといて、遍路/巡礼について。巡礼といえば、昔のエルサレム巡礼。今は世界遺産になったスペイン、サンチャゴ・コンポステーラの巡礼。マッカ(メッカ)巡礼とチベットの霊峰カイラス山巡礼。カイラスは、仏教徒、ヒンズー教徒、ボン教徒、ジャイナ教徒にとっての聖なる山 だ。
 中世の巡礼は命がけ。エルサレムを目指すキリスト教徒と、メッカを目指す回教徒は、盗賊・海賊の格好の獲物だった。回教徒の巡礼船を襲うのは、ロードス島の聖ヨハネ騎士団の快速ガレー船だ。
 今回出会った外国人の2人に1人はサンチャゴ巡礼に行っている。目的地の聖地サンチャゴ・デ・コンポステーラを目指す900kmの旅だ。途中にピレネー山脈が立ちはだかる。コースは、7-8通りあり、約20kmごとに安い宿泊所があるそうだ。
 スペインの大半が回教徒の支配下にあった中世とは違い、現代の巡礼は、案外快適らしい。ちなみに、オスマン・トルコもその前も、イスラムの人たちはキリスト教徒の巡礼を黙認していた。エルサレムには、聖ヨハネ騎士団の医療スタッフによる病院があり、巡礼者の治療にあたっていた。
 日本人でサンチャゴ巡礼に行く人は少ないが、クリスチャンの多い韓国人は目立つそうだ。日数に限りがあるのだろう。若い韓国人の中には、一日で40km、倍の行程を行く猛者もいるらしい。
 上にあげた3つの巡礼は、目的地が一つだ。普通はそうだ。ゴールに近づくにつれ、興奮が高まるだろうな。88ヶ所の目的地がある、巡廻式の巡礼は珍しい。四国遍路は、いつ世界遺産になるんだろう。早くしないと、日本人の遍路は、団体旅行以外はいなくなってしまう。

〇 私見だが、巡礼の達成感、その後の人生に及ぼす影響、ご利益(そんなものが、あるのかどうか)に於いて、all 歩きの遍路を100とする。自分のような公共交通を使う、準歩き遍路は50~55。自転車は、電動無しで70。電動付きで55。バイクは30。車は5。
 何しろ、車は楽すぎるし、人との触れ合いもゼロ。宿に泊まれば別だが、車に寝て節約するメリットを捨てることになる。4-50分かけ、急な山道を登ってたどり着くと、頂上に自動車3分と書いてある。
 車遍路の人たちの中に、上下白に輪袈裟、編み笠といった完ぺきな装束で、杖の鈴をシャナリ、シャナリとついて駐車場から出てくる人がいる。こっちは、ここまで5時間かけてたどり着き、ヨレヨレの汗だくだ。これで納経所の人に、本当に歩いてきたの?車じゃない?と疑われたら腹がたつ。大ていの寺で駐車料金を回収しているのだ。
 電動バイクは、バッテリーがいつ切れるかが日々の葛藤らしい。バイクも、やっとたどり着いた農協のスタンドが、日曜休業とかで、ガビーンとなったりするそうだ。自転車やバイクの遍路は、土地の人からよく話しかけられている。だから、点数はそこそこなんだ。
 車で遍路、500回。実際にそんな人がいた。納札がギンギラギンだ。でも自分の中では、歩き遍路5回の人の方が、断然上だ。

ps. これは、自分がこの旅を、巡礼として考えているからだ。修行と考えず、88ヶ所のお寺で礼拝、供養、祈願をするのが目的の人もいるだろう。足が悪くて、長く歩けない人もいるだろう。途中経過を考えなければ、車の遍路は効率がよい。

〇 遍路の日々
・雨の日が、一か月の遍路で3日あった。一日は朝だけの土砂降り。一日は、午後から強い雨に降られた。そして一日は、終日シトシト降る雨。その日は道に迷い、雨の中をあっちこっちと歩き通した割に、実に効率の悪い日になった。編み笠は、ビニールカバーを付けるとしっかり機能する。
 ポンチョは駄目だ。全く役に立たなかったが、ビニールカバーをつけたリュックは、水が中まで浸透して、何もかもが濡れた。悪いことに、ビニール袋に入れてなかった洗濯物は全滅だ。ノートも般若心経も何もかも。その日、寒くて震えながらたどり着いた民宿で、風呂に飛び込むと15分は浸かっていた。
 その時自分は、荷物を買い物カートで転がしていた。ポンチョの中に入れていたら、もう少しよかったかもしれないな。でもかさ張ってビショビショになるポンチョは捨てた。バス停で、年寄りっぽいが頑丈で大きな傘を拾い、クモの巣を払って使うことにした。この方がポンチョより、ずっと良い。靴と足首が濡れるが、それはポンチョも一緒だ。
 その後トイレで折り畳み傘を拾い、ジジババ傘をゲストハウスに置いてきた。でももう雨は降らなかった。

・靴もだが、靴下は消耗する。薄くなり、穴があく。五指靴下を買いたくても店がない。あっても、宿に着いて洗濯をしていると店は閉まっている。終盤、やっと3足組みを買い、だましだまし、薄いのと2枚重ねで履いていた穴あきを捨てた時にはスッキリした。
 結局、風呂には毎日入った。初日の善根宿では、2km先の銭湯に行った。洗濯は、洗濯機は2日に一度か、3日に二度。後は手洗いをした。どの宿にも洗濯機はあるが、乾燥機はあったり無かったり。料金は、かかったりサービスだったりする。洗剤は持って行った方がよい。100円とかかかる所もあるからね。夜干しでもハンカチと靴下以外は、案外乾くものだ。だから着替えは、ほとんど要らない。もし次に行く時は、自分は作務衣にする。
 ある宿で、エアコンの真下に金網で洗濯物を置く工夫がしてあった。これなら数時間でカラカラだ。

・ここらで、遍路路を見てみようか。
 遍路の七割は、国道・県道と市街地の道路だが、中には遍路路もある。また寺に近づくと長い階段や参道、山道になるが、その道は様々だ。着くまでが相当大変な寺は、いくつもある。大変ベスト3、ベスト5を教えることは出来るが、止めておく。自分で体験するが良い。もっとも、どれほどきつくても車でならチャッチャと行ける。







































〇 毎日歩いた。4日目の午後、何だか歩くのが楽しくなってきた。
 足の親指の爪で皮膚科に行き、こうなった経緯を話したら、先生(女医)がこう言った。ああ、歩くのが好きな人なのね。その時、黙って否定しなかったが、それは違います。自分は、歩くのもましてや走るのも大嫌いな人です。少々遠回りでも、階段を避けてEVやエスカレーターに乗ります。
 遍路では、街中でも田舎道でも、歩いていれば刻々と景色が変わる。河川敷や田んぼのあぜ道、ミカン畑が連なる山の路を歩くのは楽しい。秋の空は晴れ渡り、イワシ雲が空高く浮かんでいる。そよ風が吹いて心地よい。
 時には犬に吠えられるが、一歩一歩進んで、次のカーブの向こうへ進むのは、確かな歩みだ。雨の日に傘を斜めに差すと、視界が足元に集中する。思考はあちらこちらに飛び、普段は思い出さないような記憶がフっと出てくる。これは、この状態は歩き瞑想、Walking Meditation だな。

 こう思った。人は死ぬと、こんな風に旅に出るのかな。晴れた空、深い青空に真っ白い雲が浮かぶ。そよ風の吹く遍路路。緩やかな登り道。遠くに緑の山が重なり、道端にはコスモスの花が咲く。小鳥が鳴いている。
 さあ、今日も一人で歩こう。あの曲がり角の先、さらにその先に。急ぐことはない。ゆっくり歩こう。死が、そんな旅路なら悪くない。また新しい旅に出るだけだ。

 自分のように、電車・バスを使うと、2日がかりの長い道や延々と続く車道、街中や住宅街といった所を飛ばすことが出来る。一見つまらなくて退屈でうんざりする道をオミットでき、宿代を節約出来るならいいじゃん。
 でもね、その無駄なような歩きが巡礼なんだ、修行なんだと、俺は思う。やはり遍路の王道はオール歩き。ロープウェイくらいは使っても良いと思うけどね。

☆ 旅のエピソード

 高知の室戸岬にある最御崎寺までは、前の寺から歩いて2泊3日といったところ。ずっと海岸線で、天気が良けりゃ太平洋を日の出から日没まで見て歩く。商店もコンビニも無い。だいたいここを歩くのは遍路だけだ。自販機も数十キロ無かったりする。でも民宿はある。夏の海水浴、釣り客と遍路向けだろう。 
 名著、『四国遍路を歩く』の中で、佐藤孝子さんが、一番印象深いのはこの道、と書かれている。自分は、バスの乗り継ぎがよくて、3-4時間で通ってしまった。バスの窓から見た限りでは、歩いている人はいなかった。
 ある宿の主人(ミカン農家)は、遍路に2回行っているが、この道で台風並みの豪雨と強風にあい、全く逃げ場のない所を、軽トラックが止まってくれて助かったそうだ。このままでは、お前は死ぬから拾ったと言われたそうだ。地図を見ても、道の山側には見事に何も書かれていない。緑と等高線のみ。
 さてその long road の一部を自分も歩いた。バスは万能ではなく、途中までしか行かない。その日は、トレーラーハウスを貸し切り(¥3,000)で泊まったが、なかなかに快適だった。でも歩いている途中に、店は一軒も無かった。饅頭の製造所があったので、一箱6ケ入り300円を買ったら、出来損ないといってもうひと箱サービスしてくれた。
 結局その日の晩飯は、一口饅頭12ケ。翌朝食べるものは何もなく、タバコも切れた。


*エピソード1
 翌朝、 国道56号線を室戸岬目指して、荷物をガラガラと引き、歩き始めた。他に歩いている人などいない。車も大して通らない。タバコが切れていたので、ホテルの看板を見つけて近づいたら、何年も前だろう。廃業していた。
 ずっと先、道の反対側に赤いものが見えた。もしかして、ひょっとするとあれは、コカ・コーラの赤!ヤッタ、自動販売機!おい、飲み物より飯、orタバコだろ。何にしろ、何かが手に入るのはうれしい。
 ところが近づくと、確かに自販機だが、その後ろの建物の屋根にボコっと穴が開いてるじゃん。ここは、廃墟のゲストハウスか?でも自販機は動いた。冷たいコーヒーを飲み、座り込んでコーラも買った。
 気が付くと、自販機の横に大きな水槽がある。藻で曇っているが、メダカのような小魚がいて、ブクブクと空気が送られている。建物、廃墟の横には、たくさんの植木鉢が置かれている。道の前も後ろも、他の建物は何もない。
 しばらくボーとしていたら、いつの間に、どこから?おばさん、メガネで小太りの、普通のおばさんがいて、水差し片手に立っている。目が合って、お互いかすかな会釈をした。でも話しかけるキッカケがない。おばさんは、植木に水をやりに行ってしまった。唐突に現れ、行ってしまったおばさんは、この廃墟の住人?それとも山の方に家があるのか?あるようには見えないけど。
 
☆ 愛媛ミカン
 遍路の一か月で、ミカン箱一箱分ほどのミカンを食べた。四国のミカンは、甘くて美味い。スーパーで買ってはいけない。路傍の無人販売なら、100円で多い時には10個ほど入っている。10月の初めは、青いのが多かったが、だんだん黄色くて甘みが増した。
 すごく小さいのを、ジュースにしているスタンドが寺の門前にあった。ベビーミカンとか赤ちゃんミカンとか呼んでいた。そのまま食べても美味しい。小さいけど、甘いでしょう。自分は、これより小さいのをミャンマーでよく食べていた。
 無人販売は路傍だけでなく、お寺やウドン屋でもよく見かけた。愛媛から香川にかけては、ミカン畑の横を歩くことが多かった。何枚も写真を撮ったはずだが、不思議なことに一枚も残っていない。柿の木もたわわに実をつけていた。アケビを拾って食べたが、これは大して美味くはなかった。山道で、立派な栗を拾ったが、これはお寺に置いてきた。栗は生では食えない。ミカンは、よく飯屋や宿でもらった。ミカン農家は、雨が降らないのを心配していたよ。
 路の両側に並ぶミカン畑。手を伸ばせば、取れちゃうよ。土の上にも落ちている。道路にまで転がったのはOKにして、拾って食った。よい水分補給だ。一度、大きな青いのを拾った。まだ早いかな、と思ったが、これが口の中を柑橘類のジュースで満たした。ドヒャー、旨い!それからは、青いのを買うことにした。




☆ 四国の景気
 豊かな自然と対比して、町は寂しい。大きな街でも商店街は、シャッターが閉まっている店が多い。スーパーの廃墟は迫力があった。ここは地図に載っていたから、当てにしていたのだが、もう10年ほど前に閉じたそうだ。夜街に出ても飯屋がないので、居酒屋でラーメンを食ったり、おにぎりを頼んだりした。もちろん、高知とか活気のある街もあった。









☆ 四国のうどん
 四国で食べた、旨いもんベスト3はこうだ。順位は問わない。まずは、JR牟岐線きき駅近くの民宿、樹園さん。ここは遍路路からは外れている。宿の宿泊客も、工事で来ている作業員さんだけだった。
 22番・平等寺近くにある宿3軒が満杯で、仕方なく泊まったのだが、これが大正解だった。夕食は、鯛の刺身に小鯛の塩焼き。魚と野菜の小鍋、茶碗蒸しに伊勢海老半身が入ったお味噌汁。その他諸々と、これが何とハモの天ぷら。天ぷらは野菜やキス?もあったが、絶品だったな。ハモの天ぷら。
 36番・青龍寺近くの、りり庵さん。この宿は、基本素泊まりなので、自分はラッキーだった。逆打ち(反対廻り)のベテランさん2人と一緒に食べた夕食は、目にも鮮やか。大きな絵皿に、ぐい飲みのような器がたくさん並んでいて、それぞれに楽しいおかずが盛り付けてあるじゃあ、ありませんか。
 どれから食べよう。食べちゃうのが勿体ないな。この宿は、朝食がまたビックリ仕掛けなのだが、言わない。自分で体験するが良い。
 徳島県で道に迷った。また、物言わぬ『四国の道』に出くわし、逆上していると、車が停まって、どうしました?この人は、近くのビジネスホテルの経営者の息子だった。¥5,500はちと高いが、その日の宿を決めていなかったので、ここに泊まることにした。
 ホテルの隣にレストランがあり、フロントの人がここで給仕をしている。同じ経営なのだ。天ぷら・うどん定食、¥1,260 は、自分の基準では高いが、これが正解でした。20cmを超えるほどの海老、カニの爪が2本づつ、イカが1本、しし唐やイモなどの野菜の天ぷら。カニの脚だよ。こりゃ、絶品。
 これらベスト3は、食べるのに夢中で写真を撮り損ねた。映像と味の記憶は、自分の頭の中さ。
 うどんは、あちこちで食べた。10時ちょっと前に店に入ると、開店は10時です。外でお待ち下さい。って客、いないじゃん。ところが、10時3分前に車がワラワラと駐車場に入ってきて、あっと言う間に行列が出来た。家族連れやら、おっちゃん、お兄さん。
 昼過ぎにフラっと入った、うどん屋で食べた、冷やしうどん、300円が一番美味かったかな。氷水の中に、うどんがブっこんである。これは写真がある。





生ハムうどん
これは、あんまし
これは豚肉丼。美味かった。
これは、ラーメンとチキンの定食。美味い。
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