万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

新興宗教団体の教祖は現代の‘戦争恍師’?

2022年11月14日 13時24分01秒 | 社会
古代にあって、‘戦争恍惚師’なる職業があったことを知る人は殆どいないかもしれません。戦争恍惚師(Kriegsekstatiker, warrior ecstatics)とは、マックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』において記述が見られ、戦場にあって兵士達を恍惚状態に導く役割を担っています。今や死語となり、既にこの世から消えた職業と見なされがちですが、もしかしますと、現代にあっても、姿は変えてもこの種の役割を担う人々が存在しているのかもしれません。

ウェーバーに依れば、同職業は、古代ユダヤ人に限ったものではなかったそうです。古代ギリシャ神話のテューデウスやアルスター物語群の英雄クー・フリーンなどにも、戦争恍惚師、つまり、カリスマ的軍事指導者として描かれています。古代イスラエルでは、職業集団としての凡そ「ネビイーム(職業的予言者ナービー団)」がこれに当たるそうですが、古代エジプトやメソポタミアにも類似した集団があり、古今東西において、普遍的な存在であったようなのです。

それでは、何故、戦争には恍惚師を要したのでしょうか。この問いの答えは、すこぶる単純であるかもしれません。それは、自他の命、並びに、身体に関する感覚の忘却あるいは麻痺です。

 まずもって‘正気の状態では他者の命を奪うことは難しい’とは言うまでもありません。理性や慈悲の心があれば、たとえ憎き敵であっても、人を殺める行為には躊躇するものです。1%から3%とされるサイコパスの人口比を考慮しますと、大多数の人々は、できる限り戦場での命での奪い合いを避けたいはずです。殺人を忌避する心が人の本性として備わっているとすれば、戦場にあっては、この禁忌を解除、あるいは、意識させない必要があるのです。

 また、兵士には、敵兵ではなく自らが戦死したり、負傷するリスクもあります。生きて帰ることができないかもしれないのですから、その恐怖は計り知れません。戦場を前にして足がすくむ兵士も少なくないはずであり、たとえ平常心を保つためのセルフコントロールの訓練を受けたとしても、命の危険に晒されるのですから、恐怖心に打ち勝つことは容易ではありません(第一次・第二次世界大戦の際にも、精神を病んだ兵士が多数あった・・・)。

このため兵士達に恐怖心を捨てさせ、我を忘れて戦いに没頭させることも、戦場では必要とされたと考えられるのです。今日に至るまで、内戦を含め、人類は戦争を繰り返してきましたので、戦場での兵士達の心理状態を戦いに適したものに変える必要があったことは想像に難くありません。戦争恍惚師のお仕事とは、まさに、この兵士達を恍惚状態へと導くメンタル操作であったのでしょう。ウェーバーは、スカンジナヴィアの‘猪武者’について、「このエクスタシスによってかれらは、狂犬病的血の渇望に酔いつつ、敵の真只中に躍り込み、なかば意識を失った状態で、手当たり次第のものを虐殺する」と描写しています。すなわち、敵兵の殺戮も自らの死をも恐れず、無我夢中で闘う心理状態こそ、戦争に勝利をおさめるためには必要とされたのです。戦場では、一瞬の良心の揺らぎも許されなかったのでしょう。ジハードをもって破竹の勢いで周辺諸国を侵略し、イスラム帝国を構築したイスラム教が、飲酒を禁じる一方で麻薬を容認するのも、麻薬には人々の精神を麻痺させると共に、痛みを感じなくする作用があるからなのかもしれません(負傷しても無感覚・・・)。

古代に散見される戦争恍惚師という心理操作を担当する特別な職務、あるいは、「ネビイーム」のような職業集団は、現代という時代において一先ずは姿を消しています。戦争法や人道法の整備が進んだことに加え、正確さを要するハイテク兵器類を扱う兵士達には、むしろ冷静さや平常心の維持が求められています。しかしながら、今日の内外の様子を観察しますと、形を変えた戦争恍惚師の姿が見え隠れしているように思えます。

もちろん、第二次世界大戦期にあって国民を巧みな演説を以て狂気の世界に陥れたアドルフ・ヒトラーは、現代の戦争恍惚師の一人であったかもしれません。しかしながら、戦闘的メンタリティーへの鼓舞という戦争恍惚師の原型ではなくとも、人々の理性や良心を狂わせ、道徳や倫理を解除してしまう人や集団が存在しています。例えば、カリスマを装う政治家のみならず、新興宗教団体の教祖などは、その変形型であるのかもしれません。

世界平和統一家庭連合(元統一教会)や創価学会といった新興宗教団体は、その動員力が問題視されているように、信者のメンタリティーを巧みに操作することで、反社会的な行為に対する倫理観や道徳心を失わせています。教祖や教団のためならば、自らの命、あるいは、財産を捨てても惜しくはないという信者も少なくないのでしょう。これらの教団には常々集団ストーカーの噂も絶えませんが、‘恍惚状態’にある信者の多くが堂々と犯罪まがいの行為を集団で行ないかねない危うさがあるのです(所謂“さくら”としての動員への参加自体が他の国民を騙す行為に・・・)。

今日の宗教に対する一般的な理解は、神は絶対善であるとするものです。しかしながら、宗教によっては、とりわけ戦争において、‘神’とは勝利を祈願する対象であり、軍神である場合も少なくありません(キリスト教徒でさえ神のご加護や自軍の勝利を祈る・・・)。また、非道徳的な行為に誘う邪教や悪を崇める悪魔崇拝も実際に存在しています。しかも、今日では、戦場ではなく平時の一般の社会に、そして、敵ではないはずの一般国民を‘敵’と見なして、姿を変えた‘戦争恍惚師’達が、信者の心を惑わしているように見えるのです。このような現状に鑑みますと、人類は、今日、改めて戦争恍惚師の問題と向き合うべきではないかと思うのです。

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